第三十一章 彼は微笑んで亡くなりました
厳蘊梁神父様はイエズス会士でした。 ほとんどの人々が、彼がまさしく聖アロイジオ・ゴンザガに似て、非常に穏やかで親切であると考えました。彼は中国やフランスの文学の才能があり、両方の言語で多くの美しい詩と随筆を書きました。彼を知っていた人々は、彼を「有名な詩人及び作家」と呼びました。
子供の頃から、厳神父様は非常に弱視で心臓に疾患がありました。しかし、誰が労働改造所で彼を心配するでしょうか? 泥棒と強盗が私たちの中にいました。厳神父の周囲の囚人の大部分は、この両目がほとんど見えない聖職者に付け込みました。彼らは、厳神父の衣服を盗んでそれを着てしまえば、神父様がそのことを全く認識出来ないことを確信していました。
神父様は他の人の振る舞いが悪いと決して報告しない「外国の僧」(共産主義者が私たちの聖職者に与えた用語)でした。その結果、彼らは神父様の衣服、下着、ジャケット、靴、さらに歯ブラシさえ盗み、何度も彼は替えの衣服を持っていませんでした。例えば、ある冬の朝、起き上がった時、神父様は彼の枕が平らになったのを感じました。神父は枕カバーに衣服を詰める習慣でしたが、だれかが彼の外套を盗みました。既に酷い状況下で、どうしたら対処出来るでしょうか? 神父はどうしたら外套なしで暖かく自分を保つことが出来ますか? 彼が持っていたもの全部を着ても、彼はまだ寒さで震えていました。看守は、彼が家族に冬着を頼む手紙を書くのを許し、小包が届くまで一カ月以上かかりました。これらの労働改造所では、誰も他人に何かを貸し与えることができませんでした。皮肉にも、共産主義者は、囚人がお互いを助ける友情を育むことを恐れました。
いくらか後、共産党の幹部は、食事を分配する部屋から少し遠くにあった離れの小屋に神父様を入れました。明るく晴れた日にその部屋に到着するのに、約10分かかりましたが、彼の雨靴が盗まれていたので、雨の日には、彼は泥だらけの道を自分のボロボロの靴で歩かなければなりませんでした。私たちにとって、彼が泥だらけの地面と汚れた水を通り、どうやって何とか歩くけるようにしたかを想像するのは難しいことです。
ある嵐の日、私たちの聖なる神父様は、片手に破れた傘ともう片方の手にマグカップを持ち、大雨は彼の厚い眼鏡を曇らせてしまい、彼はほとんど何も見ることができませんでした。 強風で裏返しになって吹き飛ばされた破れた傘は、役には立ちませんでした。どうしようもなく、彼は、泥にはまって前にも後ろにも進むことができない両足の間から、マグカップと米が落ちるのを見ました。彼はただ、泥の中にはまったボロボロの靴を残して、よろよろと小屋に歩いていきました。彼はずぶ濡れでした。そして、食事は食べるにはあまりにも汚れていました。彼はものすごく空腹で寒かったのですが、何もそのような聖なる聖職者をイライラするよう追いたてることは出来なかったようでした。神父は、後に'微笑みながらこの話を私にしました。「私は雨の日には、より賢くなりました」 私は1日に一度食事を取りに行っただけです。私たちの主イエズス様は、私たちが生きるためにパンだけ当てにしないことを私たちに教えたのを覚えてください。私は小屋にホスチアと葡萄酒を持っており、自分以外に誰もいないので、毎日御ミサを行うことが出来ます。私たちの主イエズス様の御体が、私を養って下さいます。これは、身体と霊魂の両方のための最高の糧です」
私が厳神父を最後に見たのは、1984年でした。彼は心から私に言いました。「あなたが人生の終わりまで私たちの聖母に献身し、いつも私たちのマリア様の良い娘であると私は望んでいます。彼女は確実に、臨終の時にあなたに会うでしょう。その時、あなたは死を微笑んで迎えるでしょう」この司祭は、私にして欲しかったことを彼自身が既にしました。 多くの信者が知っていたように、厳神父様は上海の近くの小さな村でこの世を去り、微笑みながら亡くなりました。ある信者は自分の棺を彼に提供しました。幸いにも、厳神父は死の数日後、火葬されずに小高い丘に埋葬されました。神父の身体が火葬にされなかったのを知っている共産主義政府は、ただ彼の亡骸を捜し求めるためにその村に行きました。(中国では、死後に亡骸は全て火葬にしなければならないという法律でした。) しかし、そこの人々は場所を明らかにすることを望んでいませんでしたので、共産主義者は厳神父様の墓を見付けませんでした。神父様は一生涯の間、実に聖なる司祭でした。厳神父様、私たちがあなたの模範に倣う勇気を持てますように祈って下さい!
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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厳蘊梁神父様はイエズス会士でした。 ほとんどの人々が、彼がまさしく聖アロイジオ・ゴンザガに似て、非常に穏やかで親切であると考えました。彼は中国やフランスの文学の才能があり、両方の言語で多くの美しい詩と随筆を書きました。彼を知っていた人々は、彼を「有名な詩人及び作家」と呼びました。
子供の頃から、厳神父様は非常に弱視で心臓に疾患がありました。しかし、誰が労働改造所で彼を心配するでしょうか? 泥棒と強盗が私たちの中にいました。厳神父の周囲の囚人の大部分は、この両目がほとんど見えない聖職者に付け込みました。彼らは、厳神父の衣服を盗んでそれを着てしまえば、神父様がそのことを全く認識出来ないことを確信していました。
神父様は他の人の振る舞いが悪いと決して報告しない「外国の僧」(共産主義者が私たちの聖職者に与えた用語)でした。その結果、彼らは神父様の衣服、下着、ジャケット、靴、さらに歯ブラシさえ盗み、何度も彼は替えの衣服を持っていませんでした。例えば、ある冬の朝、起き上がった時、神父様は彼の枕が平らになったのを感じました。神父は枕カバーに衣服を詰める習慣でしたが、だれかが彼の外套を盗みました。既に酷い状況下で、どうしたら対処出来るでしょうか? 神父はどうしたら外套なしで暖かく自分を保つことが出来ますか? 彼が持っていたもの全部を着ても、彼はまだ寒さで震えていました。看守は、彼が家族に冬着を頼む手紙を書くのを許し、小包が届くまで一カ月以上かかりました。これらの労働改造所では、誰も他人に何かを貸し与えることができませんでした。皮肉にも、共産主義者は、囚人がお互いを助ける友情を育むことを恐れました。
いくらか後、共産党の幹部は、食事を分配する部屋から少し遠くにあった離れの小屋に神父様を入れました。明るく晴れた日にその部屋に到着するのに、約10分かかりましたが、彼の雨靴が盗まれていたので、雨の日には、彼は泥だらけの道を自分のボロボロの靴で歩かなければなりませんでした。私たちにとって、彼が泥だらけの地面と汚れた水を通り、どうやって何とか歩くけるようにしたかを想像するのは難しいことです。
ある嵐の日、私たちの聖なる神父様は、片手に破れた傘ともう片方の手にマグカップを持ち、大雨は彼の厚い眼鏡を曇らせてしまい、彼はほとんど何も見ることができませんでした。 強風で裏返しになって吹き飛ばされた破れた傘は、役には立ちませんでした。どうしようもなく、彼は、泥にはまって前にも後ろにも進むことができない両足の間から、マグカップと米が落ちるのを見ました。彼はただ、泥の中にはまったボロボロの靴を残して、よろよろと小屋に歩いていきました。彼はずぶ濡れでした。そして、食事は食べるにはあまりにも汚れていました。彼はものすごく空腹で寒かったのですが、何もそのような聖なる聖職者をイライラするよう追いたてることは出来なかったようでした。神父は、後に'微笑みながらこの話を私にしました。「私は雨の日には、より賢くなりました」 私は1日に一度食事を取りに行っただけです。私たちの主イエズス様は、私たちが生きるためにパンだけ当てにしないことを私たちに教えたのを覚えてください。私は小屋にホスチアと葡萄酒を持っており、自分以外に誰もいないので、毎日御ミサを行うことが出来ます。私たちの主イエズス様の御体が、私を養って下さいます。これは、身体と霊魂の両方のための最高の糧です」
私が厳神父を最後に見たのは、1984年でした。彼は心から私に言いました。「あなたが人生の終わりまで私たちの聖母に献身し、いつも私たちのマリア様の良い娘であると私は望んでいます。彼女は確実に、臨終の時にあなたに会うでしょう。その時、あなたは死を微笑んで迎えるでしょう」この司祭は、私にして欲しかったことを彼自身が既にしました。 多くの信者が知っていたように、厳神父様は上海の近くの小さな村でこの世を去り、微笑みながら亡くなりました。ある信者は自分の棺を彼に提供しました。幸いにも、厳神父は死の数日後、火葬されずに小高い丘に埋葬されました。神父の身体が火葬にされなかったのを知っている共産主義政府は、ただ彼の亡骸を捜し求めるためにその村に行きました。(中国では、死後に亡骸は全て火葬にしなければならないという法律でした。) しかし、そこの人々は場所を明らかにすることを望んでいませんでしたので、共産主義者は厳神父様の墓を見付けませんでした。神父様は一生涯の間、実に聖なる司祭でした。厳神父様、私たちがあなたの模範に倣う勇気を持てますように祈って下さい!
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『楽は苦に在り』ローズ胡美玉 著 目次
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