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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母の汚れ無き御心に教皇様がロシアを奉献するため:現在96393環のロザリオが集まりました

2010年01月15日 | ロザリオの十字軍
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 ロザリオの十字軍の報告をご紹介いたします。

 2009年12月までの分で、2010年1月14日現在の報告の総計はついに96393環です。寛大なご理解とすばらしいご協力に心から感謝いたします!4つの修道会のシスターの方々、修道者の方々、ありがとうございます!

 2010年3月25日まで、70日となりました。今回は、4つの修道会の方々が寛大なロザリオを捧げてくださるお陰で、私たちの目標の12万環までは、あと23607環となりました。(毎日337環です! ホッと安堵しております。)

 めざせ!12万環、聖母マリア様の12の星となりますように! さらに、お知り合いの方々にご協力をお願いしてください。よろしくお願いいたします。

 さて、あるご夫婦からはロザリオの総数、319環の報告を頂きました。
 1月3日には、ベルナルドさんは17環とお祖母さんが13環を唱えたと報告して下さったにもかかわらず、数を(7環と17環と)間違えて計上してしまいました。そこで今回、6環を付け加えさせて頂きます。

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
ロシアの奉献のロザリオのご報告をさせていただきます。
12月23日~1月4日12時現在(日本時間)

10環捧げました。(少しペースダウンしてしまったので反省しています)
天主様の祝福が豊かにありますように!

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
ロシアの奉献のロザリオのご報告をさせていただきます。
1月5日~1月12日18時現在(日本時間)
10環捧げました。

小野田神父様のブログで南無アッバミサの存在を知り、驚きを禁じえませんでした。
合法な異端というものがありえるのでしょうか。
天主様の祝福が豊かにありますように!

【お返事】
 いつもたくさんのロザリオをありがとうございます。
 私たちは洗礼を受けるときに、カトリック教会に一つのことしか求めませんでした。「あなたは教会に何を求めますか?」「信仰を!」
 カトリック教会の法律は、この信仰を守るためにあります。法律を守ったがために信仰を失った、異端説に陥ったというばかげたことがあってはなりません。  遵法とは、また従順とは、信仰のためにあるのです。従順のために信仰があるのではありません。
 合法な異端? 丸い三角のようなものです。


【報告】
トマス小野田神父様

先週月曜日から本日(1月10日)まで、ロザリオ7環です。
長い休暇は明日で終わりです。

【報告】
アヴェ・マリア!

トマス小野田神父様
新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
ルフェーブル大司教様の伝記を日本語に訳して作って下さり、
英語やフランス語の読めない私にとって大変有難く嬉しく思います。本当に有難うございます。特に国際神学校創立の頃が大変興味深く読ませていただきました。
それではロザリオをご報告いたします。
12月まで93環です。色々な事情があって少なくなってしまいましたがよろしくお
願い致します。1/24日お待ちしております。

【報告】
トマス小野田圭志神父様

十主の平安
アヴェ・マリア
聖なるロザリオの十字軍のの御報告の追加です♪

マリア    30環
ステファニ  10環

以上です、どうぞ宜しくお願い致します
お友達二人とも『お祈りの習慣が着いたよ』と言って下さいました
とても嬉しかったですし、良かった!です

「マニラのeそよ風」412号、有難うございました!
御公現の祝日は3つの奇跡をお祝いするのですね 、典礼における「永遠の今日」!「永遠の今日」! 洗礼を受けた私達が、水から出来た葡萄酒を味わって喜んでいる神秘!喜び!
御公現の晩歌と讃課有難うございました
三人の博士方の贈り物は、キリストと教会との神秘的婚姻を祝う「婚姻の引き出物」!
主の洗礼 天の花婿は教会と結ばれた!
何故なら、キリストはヨルダン川で教会の罪を洗ったからだ!
そうなのですね!初めて知りました!

私達は天主の似姿に似せて創られましたが・・・天主と私たちとが信仰と愛の火による一致と結合!
たくさんたくさん黙想致します!

トマス小野田神父様お祈りお願い致します!

共産主義社会は恐ろしいですね、今、日本は中国共産党に狙われていますから。
かなり重かったです。

マルクス等の共産主義者は、自分も、単なる歯車の1つにしか過ぎない、と思いながら、色々の本を書いたのでしょうかねぇ、生まれて来た事がちっとも、嬉しくなかったでしょうねぇ、正しく悪魔に魅入られた人々ですねぇ。

とても奇麗な聖絵も、たくさん有難うございました!m(__)m
お祈りお願い致します!!

【報告】
Ave Maria!
クリスマスと新年のお祝いを申し上げます。
ロザリオ、23環です。よろしくお願いします。

【報告】
小野田 神父様

明けまして、おめでとうございます。
今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

昨年は色々家族中でお世話になりまして本当にありがとうございました。
とてもうれしく感謝の言葉も出ないくらいです。

今年も去年と比べて、更に厳しい年となりそうで今より更に心を引き締めていく覚悟の元、神父様達に一生懸命付いて行くつもりです。
2009年 12月分のロザリオを送ります。宜しくお願い致します。

家族の総合計1402環

【報告】
神父様お久しぶりです。あけましておめでとうございます。報告が遅くなってしまって申し訳ございません。
母と私、2人合わせて 312 本 お捧げ致します。

先月よりもだいぶ自分の本数が増えました。天主様に感謝です。もう3月まで残り少ない期間となったのですが時間を大切に、1日1日を大切に過ごしお祈りをたくさんしてロザリオも自分の出来る限りたくさんしようと思います。イエズス様、マリア様、ヨゼフ様、私たちを憐れみ給え!

【報告】
主の平和。小野田神父様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

ロザリオの報告いたします。
フランシスコ   31環
テレジア    261環
神様からの祝福とお恵みが、小野田神父様と聖ピオ十世会の皆様の上にありますように。
祈っています。

【報告】
アヴェ・マリア

トマス小野田神父様
こんにちは神父様。12月のロザリオは93環です。

【報告】
アヴェ・マリア!

大変遅くなりましたが今年も昨年同様、宜しくお願い申し上げます・

ファティマの件ですがロシアを教皇聖下様が聖母の汚れなき御心に聖別する意向でのロザリオの環数を申し上げます。

聖母マリア会(仮名)から15000環。
聖ヨゼフ修道院(仮名)から20000環。
聖マテオ会(仮名)から10000環。
聖マルコ会(仮名)から5000環。
他、神父様やカトリックの兄弟姉妹(私も含めて)から8625環。

正直、聖ピオ10世司祭兄弟会の為じゃありませんからね!! ファティマの意向の為。との意見も有りました。

【お返事】
 大変ありがとうございます。もちろん!聖母の汚れなき御心の凱旋のためです!私たちの母への愛のためです。感謝します。

【お便り】
アヴェ・マリア

 トマス小野田神父様
 
 マニラのeそよ風に掲載された共産主義への道のりとその実体についての記事は本当に勉強になりました。

あれは統一教会の勝共連合でも書けない領域です。神聖な香りがします。とても嬉しかったです。

+ + +


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【関連記事】ファチマとロザリオの十字軍

聖ピオ十世会 (SSPX) 創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.3.1.気高い信仰の業

2010年01月15日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅲ. エコン


気高い信仰の業

 ルフェーブル大司教は自分にとって大事な計画を始めようとしていた。司祭職を目指して神学生たちが勉強を始める前に霊性学の一年間を設けるという計画だった。事実フリブールよりもずっと前に天主の御摂理と聖母は、ヴァレ地方の片隅にある天主の恩寵を受けたこの小さな土地を彼のために用意していたのである。この地方のなかで最も聖職者を忌み嫌うサクソン(Saxon)とリッド(Riddes)という二つの村の正に中間に、カトリック司祭職復興のために天主がお望みになった業はその根を下ろしたのである。

  1967年の秋、ピエール・エピネ(Pierre Epiney)神父 はリッド村の司牧を司教から任されたばかりだった。実は彼の前には、既に4人の司祭がこの村での司牧任務を断っていた。エピネ神父は先ずこの村教区の訪問から始めた。彼はエコンに来て玄関の呼び鈴を鳴らすが誰も応答しなかった。人気のない中庭に入ると、左側に物置、右側に犬小屋があった。すると大きな神学校の中庭に群れを成す神学生たちの姿がたちまち彼の脳裏に(映像となって)よぎったのだ。即座にこの無益な映像を追い払うと、自分が再びその人気のない中庭にいるのに気づいた。この場所を未だに管理しているカノン・ロゼラン(Chanoine Roserens)神父が上方から降りてきてエピネ神父に挨拶をした:「ここはもう終わりですよ。何の利用価値もありません。」 それは本当だろうか? ヴァレ州では、多くの男性が、王たるキリストの協力教区(CPCR:Co-operateur Paroissial du Christ Roi)のバリエール(Barrielle)神父とその同僚たちが指導する聖イグナチオの霊躁に与ることにより“活性化されて”いたのに。この霊操の参加者の中に、弁護士のロジェ・ロヴェ(Roger Lovey) 氏とその友人でグラシアン・ロシス(Gratien Rausis) 氏、さらに聖母の騎士会のメンバーであるアルフォンス・ペドゥローニ(Alphonse Pedroni) 氏がいた。

 全ては1968年の聖木曜日に始まる。日頃御ミサに与っていたヴァレ州出身の若きアルフォンス・ペドゥローニはカフェでの会話中に、エコンの家と土地は聖ベルナルド参事会(グラン・サン・ベルナール参事会 Chanoines du Grand Saint-Bernard) によって売却されることになっているという事を耳にした。彼はその日ある仕事の件で自分に会いに来ていたグラシアン・ロシスに心のうちを明かした。

「また一つカトリック教会の場所が消えていくのを見るのは辛いですね。実は他に幾つか大金を持った買い手がいて、その内の一つは共産主義者のグループで、なんとあの聖堂を爆破したがっているんですよ!」

 アルフォンソはそれに応じて言った:「もしこれが単にお金で解決できる問題ならば、私たちは何とかしなければいけません。」

 彼らはエコンを良く知る人々であった。聖ベルナルド参事会が、1302年にシャティヨン(Chatillon)の貴族ピエール・ドゥ・ラ・トゥール(Pierre de la Tour)卿からエコナ(Econnaz)の領地を買い取り、その6世紀後の1892年に当会は農業学校を開設した。1895年、彼らは聖堂を建立し、畑の聖母(Notre-Dame des champs)に献堂する。さらに1922年、農業学校はシオン近郊のシャトーヌフ(Chateauneuf)へ移転。当修道会は青果物生産の為、エコンの土地を利用し続け、さらに救助犬として有名なあのセント・バーナード犬の訓練施設に場所を提供した。1940年代の末から10年間は、結晶片岩の床と凝灰岩の壁を持つ19世紀に建てられた頑強な造りのこの家が、参事会員のルネ・ベルト(Chanoine René Berthod)の指導の下で神学を学ぶ年少の同参事会学生のために住居を提供した。真冬でさえも彼らは屋根裏部屋を寝室として使っていたのである。後に神学を学ぶ学生たちはエコンを出てマルティニ(Martigny)へ移動し、エコンには、一人の老参事会員と僅か2、3名の修道士たちを残して管理を任せた。参事会学生たちが出て行った家屋の屋根は造り直されるのだが、この修復に支払うための十分な資金を持ち合わせていなかった。よってこの家は売りに出されたのである。

 グラシアン・ロシスはその日に電話を掛けた。聖ベルナルド参事会員は彼に答えて言った:「買値を付けてください。」そこでアルフォンス・ペドゥローニは考えた:「これは私たちだけでは無理だ。」彼は自分の兄弟マルセルに提案した。一方でロスィスは、ロジェ・ロヴェ氏とギ・ジュヌ(Guy Genoud) 氏に提案した。4月18日、ロジェ・ロヴェは当参事会主席司祭に手紙を書いて伝えた。

「エコンが辿った過去の歴史を考えると、これは私たちにとって些細な事ではないのです。エコンは私たちにとって意味、いえ、綿密な調査もなしに捨てられるのを見ることは私たちにとって受け入れられない宗教的な召命さえあります。 」

 1968年5月31日、天地の元后聖マリアの祝日に、聖ベルナルド参事会員ロスィスとその友人5人によって購買契約が交わされたのである。聖ベルナルドの主席司祭、モンシニョール・アンジュラン・ロヴェ(Msgr. Angeline Lovey)神父は「あなた方の願いを聞き入れる気は御座いません」と言っていたことがある。

 どうやって支払うというのか? 銀行からお金を借りればよい。だが銀行の支配人は顧客の情報を要求する。
「ですが、担保はおありですか?」
「いいえ」ぺドローニが応じる。
「担保となるものは何もありません。ですから御行が貸付金を無償で下さる必要があります。これはカトリック的な事業のためなのですから、御行はただ我々に必要なお金の全額を貸すしかありません!」

 驚嘆した銀行支配人は、とうとう必要総額に当たる貸付金を無償で提供したのである。

 しかしどうやって彼らはこの貸付金を返済していたのか? そのために彼らは自分たちの家屋の周囲に農地を開拓するしかなかった。それ故、この紳士たちはそろって農場経営者になったのである。子牛を調達する事から始めたのだが、その家畜がまた虚弱でよく風邪をひく始末であった。弁護士のロヴェはある日、法廷へ向かう一時間前だというのに、一頭の病気を患った乳牛の世話により履いていたズボンを糞まみれにしてしまった。それから次に、彼らは大きな鶏小屋を建て、ある時期、スイスのフランス語圏の地方では最高の(鶏卵の)収穫量を誇った。彼らの無私の熱意と(天主の御摂理への)信仰は、同時に兼ね備えていた大いなる現実主義と融合することでこのような実を結んだのである。最終的に、彼らは葡萄の木を植えた。さらに、神学生たちの間で何代にも渡って伝説となっているエコン農場の労働者、クロード・テラニ(Claude Telani)氏の情熱により、彼らが植えた葡萄や、他に杏子の収穫が管理されるようになった。

 その土地には聖ベルナルドの家と畑の聖母聖堂から成る参事会の家屋が残っていた。後者の聖堂は、最後に残っていた参事会員がここを去って以来ずっと空であったが、彼らが購入したまさに初日に、エピネ神父も加わり信仰に満ちたサルヴェ・レジナが唱歌された。畑の聖母聖堂は今や、聖なるミサの絶えざる犠牲を待つだけだった。つまりこの聖堂は司祭たちをそして -天主のみぞ知る!- 司祭志願者たちさえも呼び出していたのである。 


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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聖ピオ十世会 創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.2.6.試練と研磨を受けた神学校創立

2010年01月14日 | ルフェーブル大司教の伝記
試練と研磨を受けた神学校創立

 実りを見て判断するというルフェーブル大司教の賢明の態度、カトリック教会の教義によって武装した実践的なレジスタンスの基礎の上に成り立つこの大司教の態度に不服を唱える神学生たちもいた。そのような神学生たちの中には新しいミサ通常文を拒絶するという影響を及ぼして者もいれば、逆にそれを受け入れる方向に影響を及ぼしていた者もいた。これらの動きは、大司教が長くて頻繁な不在をしなければ、何も存在しなかっただろう。幸いに、大司教の不在時には2名の模範的修道者が来て大司教の代理となり御ミサを捧げ、霊的講話を行っていた。その修道士たちとは、シャボイユの(Chabeuil)司祭会の神父でグロレ(Grolley)の修道院に居住するオギュストゥ・リヴィエール(Auguste Rivière)神父と、ゲラール・デ・ロリエ神父だった。

 しかし、12月の間ずっと不在であり、その年の終わりごろ大司教はディジョン(Dijon)で病に倒れてしまった。ラ・クロワ・ヴァルメール(La Croix-Valmer)の聖霊修道会の寮での休息のための滞在は彼にとって十分とはいえなかった。案の定、彼はフリブールにおいて入院することになり、自分がひどく病んでいる事を自覚したので、修道会の誰にも気づかれないように終油の秘蹟をビュサール(Bussard) 神父に依頼した。ところが大司教に対し彼はこう言って安心させた。
「それは今日のためではありません、大司教様!」

 1月30日にようやく診察結果が知らされると、患者である大司教は自分の霊的子らと共に安堵で胸をなでおろした。診察結果によれば、感じていた苦痛はアフリカにいた時、ストロンギルス(strongyles)という円虫の一種が彼の腎臓に寄生することにより発症した下痢に起因していたという。彼は更なる余生を送る事になったのだが常に発作的咳に苦しめられていた。彼は幾分か長く滞在することに成功したシェール(Sierre)で迅速かつ徹底的な治療を受けた。しかし疲れは依然として残っており、1970年2月17日には、法律家のワリエ先生にこう書いている:「御摂理が過去2ヵ月半の間この病魔によって私を試みました。天主の業(の遂行)に苦しみが不可欠だったからであるのは確実です。」

 神学生たちの共同体は6月までクレ(Cler)神父によって指導されていた。この方はラ・フレシュ(La Fleche)にある軍当局者の学校勤務の元従軍司祭(チャプレン)だった。彼は霊的事柄に関しては非常に優れていたが他人の意見に流されやすい人だった。彼の見解によると、神学生たちは“自分が必ず本物で純潔であるかのように見せ”てはならなく、大学に行く時は周囲の人から「聖ピオ十世、あれはセクトだ!’と再び言われないように」スータンは脱いで衣装タンスに置いておいてもいいと言った。

 神学生の全てが敏感に反応したわけではなく、或る者はミサにおける新しい朗読のやり方に見るような “典礼の刷新に散りばめられた新たな宝石 ” を好まなかった。ありがたいことに、ルフェーブル大司教の復帰は万事と原理を元通りにする。彼は弟子たちに対してただ“愛徳と真理の発言の間にバランスを保つように ”とだけ勧告した。

 しかしながら、誰しもが申し分なくこのバランスを保ったわけではない。一方で極端な者立場を取るもあれば、他方ではこれに対して闘いに挑むには気弱な者もいたのである。当初からいた9名の神学生の内、4月15日までに残っていたのはたった5名だけだった。

 4月30日にフリブールから帰ると、ルフェーブル大司教は学生が少なくなっていることに気づかれた。つい最近まで病気により試練を受けた彼は、今度は数々の疑念に襲われた:このようなあまり堅固でない一群と一緒に、信頼できる協力者もなくやっていくことにどんな益があるのか? しかしながら、シテ・カトリックと聖母の騎士会のおかげで7名の堅実な新入学生が入学希望を告げてきた。何時もお馴染みの単純さで、彼は去ることなく残った5名の神学生たち に自ら抱く心配を告げた。

「これで神学生は12名になるでしょう。人数として多くはありません。しかし私はすこし心配です。皆さんが持っている将来に向けての提案を書いて私にください。将来神学生たちが直面するかもしれないあらゆる危険とともに、もしも新しい神学生たちを受け入れるなら私が取らなければならない責任を前に私が感じている不安を皆さんに隠す気はありません。卒業後、彼らは司教区に属するのか? あるいは司祭の団体に属させるのか? 私は、天主の聖なる摂理に全信頼を傾けるだけです。」

 大司教はこの時、ジャン・イーヴ・コッタール(Jean-Yves Cottard)神学生 によってせがまれていた。彼はローマのフランス人神学校に住んでいたが、フリブールに来ることを希望したのである。大司教は答えて言った:「いいえ、待ってください。事はあまり上手くいっていませんから。私たちはこれから何をしたらいいのか分かりません。出来るだけそこに留まってください。 」

 1970年5月19日 、その後、フリブールへの戻ったある日、ルフェーブル大司教はシオンのアダム司教を密かに訪ねる。彼はこの友人司教が自分の神学校をシオンからフリブールに移転する決意を固めたと聞いていたからである 。どうして神学校の管理を私たちに依頼してくれないのか?しかしネストール・アダムは用心深さからこの依頼を断った。そこで大司教は彼にもう一度お願いする。ルフェーブル大司教の意のままに使えるようにとある信徒たちが整えてくれたヴァレ州にある一軒の家に、フリブールの大学に通学を始める前に一年間勉強をする若者たちを受け入れる許可を大司教に与える事を。

 アダム司教は進取の気性に富んだ友人の第二の依頼をあえて拒否することはせず、そのプラチェット(賛成) を表明した。予備学習の一年間なら、それはかまわない。しかし全修学課程を含む完全な神学校であるなら、ヴァレ州ではうまくいかないだろう。何故なら、既に司教区の神学校のみならず、その他にも聖ベルナルド参事会員(Chanoines du Saint- Bernard)の神学校、さらにカプチン会士の神学校もあるからだ。シオンの司教が(賛成を表明しながらも)何か気乗りしないのを感じ取った大司教は、帰りの道すがら再び疑念に襲われてしまった。

 大司教は御ミサも捧げないまま早朝フリブールを発ち、夕暮れには戻って来ていた。ポール・オラニエは大司教の祭服を用意し今度のアダム司教とのやりとりの成果とこの小さなグループに開かれている将来などについて尋ねた。
オラニエ神父はこう語っている。

「その時、初めて私は大司教様が落胆の涙を流しているのを見ました。私は、状況がどれだけ深刻なのかを悟りながらも、天主の恩寵により、志気を堅固にしていました。私は謹んでルフェーブル大司教に私の楽観主義を伝えました。“大司教様、私たちは今ここでやめるつもりはありません。続けなければなりません!” 疑いの様子を見せていた大司教様でしたが、最後には感銘を受けたと思います。 」

 しばらくの間、大司教はフリブールの神学生たちをサレジアーヌム(Salesianum)へ送ることについて話した。そこでは、神学を学ぶ学生たちがフィリップ神父の指導の下で共同生活を送り、聖ヨハネの兄弟会という将来の修道会(Congrégation des Frères de Saint-Jean)を創立するために準備していた。この時、このような計画は実現不可能だと言い出したのがベルナール・ティシエ・ド・マルレだった。「告白しますが」彼は言った「大司教様が継続されることに私は何の疑いも挟みませんでした。」

 大司教はあっさりと言った:「私にとってみれば、神学生たちの反応こそが私に現れた天主の御摂理であると思います。」

 フリブールの委員会の忠実な支援は、間違いなく大司教の堅忍を手伝った。ファイ教授はやって来て、神学生たちにフリーメーソンについての講演をしてくれた。州地方裁判所判事のアルベール・ヴォランタン(Albert Volanthen)氏もこの事業を支援してくれた一人であった。色々あったがフィリップ神父は友好的な立場に留まり大司教を勇気付けてくれた。さらに彼は霊的講話をするために寮(Foyer)にまで来てくれた。幾度か神学生たちはオートゥリーヴ(Hautrive)のシトー会修道院でなされた短期黙想会に与った。

 この神学校を訪問した聖職者は他にもいる。 ブリュッセルからはエドゥモン・ウェリ(Edmond Wéry)神父、さらにかつて即興で聖歌隊の指揮を買って出たモリロ(Morilleau)司教自身、ピエール・カイヨン(Pierre Caillon)神父、さらにノエル・バルバラ(Noël Barbara)神父である。信徒たちもまた見学にやって来た。ヴェール・ドマン誌(Vers demain)のジェラール・メルシエ氏、ジャン・ウセ(Jean Ousset)氏、ミシェル・ド・パンファンタニョ(Michel de Penfentenyo)氏、ショレ医師(Dr. Schorer)、エリック・ド・サヴンタン医師(Dr Eric de Saventhem)夫妻などである。

また、大司教は1970年学年度に向けて、フリブールに残っている4名の神学生たちのために独立した家を見つけようと再び取り掛かった。ヴィニェタ通り(Route de la Vignettaz)にある家が間もなく競売に出され、6月26日、大司教が司教座聖堂で祈る間、建築家のアントニーニ氏は彼のためにといってこの家を買い取ってくれた 。しかしながら大司教は、その年にやって来る新入学生たちのためにもう一軒の家を既に見つけていたのである。まさにその家こそがエコンであった!


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次

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天主の御母聖マリアのために

2010年01月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、特別に嬉しいことが2つありました。

 一つは、ベルナデッタさんからロザリオの十字軍の報告の中で、日本のいくつかの修道院のシスターがたも天主の御母聖マリアの汚れなき御心の凱旋のため、教皇様がロシアを聖母マリアの汚れなき御心に聖別するために捧げてくださったこと!!!です。聖ピオ十世会のためではなく、聖母マリア様のために!もちろん!

 この現代の無関心の時代に、笛吹けども踊らずの時代に! 私たちのする努力をただせせら笑うことが、カトリックであるかのように言い触らされていること時代に! 感謝、感謝、感謝!です。

 もう一つの嬉しいことは、今日、一人の司祭と一人の助祭が私たちの聖ピオ十世会の修道院に来て、聖伝のミサ聖祭を勉強したことです。今日は、私がこの二人に午後をまるまる使って聖伝のミサ聖祭の最初からカノンのところまでを教えました。

 聖伝のミサ聖祭は、カトリック教会の皆のものです。聖ピオ十世会だけのものではありません。

 声の二種類の大きさ、頭のお辞儀の三種類の仕方、視線の対象、手の動き、典礼法規、祭壇に接吻の仕方などなど、カトリック教会の定めた典礼法規通りに、何も変更しないで、ミサ聖祭を捧げるように。

 これは、責任ある職務です。忙しい一日でした。

 さて、忙しいと言えば、来週の月曜から、マニラでは、聖ピオ十世会の司祭の会合があります。私は、共産革命に至るまでの革命の歴史について発表せよ、と言われています。(それまでに準備の時間がちゃんとあるかな?)

 とりとめもないことを書いてしまいました。

 天主の御母聖マリアの汚れなき御心の凱旋のために、カトリック教会の栄光のために、多くの霊魂の救いのために、
 聖伝のミサ聖祭を捧げる司祭が世界中で増えますように!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会 創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.2.5.一つの難問:新しいミサに与るべきか

2010年01月13日 | ルフェーブル大司教の伝記
一つの難問:新しいミサに与るべきか

 新しいミサに反対していたルフェーブル大司教は、それが自分の神学校で執行されるのを認めなかった。1969年の待降節第一主日の前日、新しいミサ通常文 によるミサがフリブールの司教区で実施されると、大司教はただこう述べただけだった:「私たちは古いミサを捧げます。」

 誰もが賛成した。それにもかかわらずラフォン(Lafond)神父は新しいミサを容認したので、これは聖母の騎士会を間もなく分裂させ、さらにピエール・ピケ(Pierre Piqué)やベルナール・ぺラブフ(Bernard Pellabeuf)を動揺させていた。ローマによれば、1971年の終わりにようやく新しいミサの執行が義務となるのであり、少なくともそれまでは聖伝のミサも捧げる事が出来たのだ、ラフォン修道司祭が早まった従順をの立場を取ったことを大司教は嘆いた。

 長上である司教に対して外見上、不従順と見られるような行動を信徒たちが見て、「信徒たちに躓きを与えるのではないかという恐れから、新しいミサ通常文を拒否しない」ようにしかじかの司祭に賢明は暗示するかもしれない 。しかしながらそういう司祭は、「依然として使用の許されている(現在第一奉献文として知られている)ローマ・ミサ典文を守り、やはり許されている旧形式のそれが指示する通り、低音で聖変化の言葉をとなえる」べきである 。ルフェーブル大司教が不在の主日は、よく神学生たちは皆一緒に一人の老修道司祭がラテン語で新しいミサを捧げているラ・メグロージュ(La Maigrauge)の聖ベルナルド女子修道院に行き、それに与っていた。大司教は霊魂たちを手荒くあしらう人ではなく、むしろ木がその実をもってより的確に判断されるように、先ずはその実をより詳細に観察しようと考え、そのための時間を惜しまなかった。さらに彼は司教職にある同僚からの意見を自ら進んで聞き、友人たちの中から統一見解を見出したかった。

 彼の友人カストロ・マイヤー司教は自分の下にいる司祭たちに関して大変痛みを伴う良心からくる難問があることに気づいた。

「私たち司教は黙っていてもいいのだろうか? 私たち霊魂の牧者は、非常に多くの霊魂たちがこれほど危険に瀕しているというのに、静かに黙り込んでは何も言わず、司祭たちには彼らが望むままに自分の良心に従うようにさせておいて、どちら付かずの中道(via media)に従うことなど出来るのでしょうか? そしてもし私たちが、考えている事をオープンに一つ残らず言うとしたら、どんな結末になるのでしょうか? 多くの信徒たちを混乱のなかに置き去りにして、最も弱い霊魂たちにつまずきを残したまま、免職されるでしょう 。」

 このカンポスの(デ・カストロ・マイヤー)司教も、1970年1月には自分を悩ましていた疑いの数々を既に解明していた。彼はあの批判的小研究 を全て翻訳し、カンポスの司祭たちに配布したのだ。

「人々がいつの間にか異端に滑り落ちてしまうような状況を維持するより、むしろスキャンダルになった方がましだと私は考えます。この問題に関する熟慮を終えて、私自身確信しているのは、私たちには新しいミサに与ることなど出来ないということ、しかも、ただこのミサに立ち会うだけであっても、重大な理由がなければいけないということです。例えこのミサ自体は異端的でないとしても、結果として異端に至らせてしまう典礼様式を広める事に協力するなど私たちには出来ません。これが私の友人たちに差し上げている規則です。」

 当時、ルフェーブル大司教の(新しいミサに関する)見解はそれほど絶対的なものではなかった。彼は、新しいミサは異端的ではないが、オッタヴィアーニ枢機卿が言われたように、重大な危険の数々を表現しており、従って、時が経つにつれて “ミサの犠牲たる事ではなく‐晩餐というプロテスタント的思想が知らず知らずのうちにカトリック信徒たちに喜んで受け入れられてしまう” と考えたのである。だからこそ子供たちは聖なるミサについての基本的な概念を教えてもらわなければならないのである。しかしながら、“新しいこれらのミサの多くが無効だ、ということは行き過ぎである。” 信徒たちはローマ通常文 によるミサに与るためにもう少し遠くへ行くのを躊躇うべきではない。しかし、“もし選択の自由がなく、新しいミサ通常文 によってミサを捧げる司祭が信心深く尊敬に値するなら、彼らはミサに行くのを止めるべきではない。 ”


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フィリピンの司教様と

2010年01月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 以前は、聖ピオ十世会にあからさまな敵意を見せていた、あるフィリピンの司教様と一緒に、先週の木曜日に、私たち聖ピオ十世会の司祭たちは食事をしました。現役の教区長である司教様とは、司教として働いた色々な司教区の話しから今年のフィリピンの大統領選挙まで様々な話題を話しました。

 午後はまるまる司教様と私たち聖ピオ十世会の司祭たちがおしゃべりをすることになったのですが、その一部をご紹介します。

 司教様「スンモールムが出るまで、聖伝のミサ聖祭が廃止されていないことについて誤解があった、教皇様が聖ピオ十世会に好意を見せているのだから私たちもそれに倣うべきだ、聖ピオ十世会はカトリックなのだから。」

 「司教様、私たちは汚れている不浄なものとして、取り扱いを受けています。聖ピオ十世会を、け落とし、おとしめ、低めて、陰で批判し表立って批判するのが、教皇様に忠実だと人は思っています。」

 司教様「教皇様のメッセージが伝えるのに時間がかかる。聖ピオ十世会はカトリックだ、教皇様はそのことを知らせた。」

 「実際に私たちは本当のカトリックのことを発言しています。しかし、聖ピオ十世会には近づいてはならないものであるかのように、聖ピオ十世会をおとしめることがカトリックであるかのように、人は考えています。」

 司教様「そうであってはおかしい。聖ピオ十世会はカトリックなのだから。教皇様はそう言った。」

 「司教様、スンモールムが出た今でこそ、聖伝のミサ聖祭が廃止されていないと当然のこととして人は主張しています。少し前までは反対のことを言っていた人もそうです。もし、聖ピオ十世会がなかったなら、スンモールムなど存在していなかったでしょう。しかし、同時に聖ピオ十世会をおとしめることは当然のこととしてやりつづけています。そうして、できるだけ、聖伝のミサ聖祭から人々を遠ざけています。」

 司教様「私は教皇様の手紙をよく読んだ。聖ピオ十世会はカトリックだ。」

 「司教様、教皇様は世界中の司教たちの反発を恐れて、行動を控えています。スンモールムもそうでした。破門の無効宣言もそうでした。司教様、是非、司教様も聖伝のミサ聖祭を捧げて、教皇様を支えてください。司教様が聖伝のミサ聖祭を捧げるのを見て、教皇様も勇気づけられるでしょう。」

 司教様「私の司祭たちが聖伝のミサ聖祭を捧げたいなら、自由だ。私は司祭たちの自由に任せる。聖伝を習いたい司祭がいるなら聖ピオ十世会に教えてもらうが良い。聖ピオ十世会はカトリックだから。」

 云々、云々。

 聖伝のミサ聖祭は、一度も廃止されたこともないし、禁止されたこともなかったはずです。カトリック教会が、過去愛してきた遺産を何故、禁じることができるのでしょうか!?カトリック教会の聖なる遺産を廃止し、禁止することこそ、離教的です。教会から離別することです。

 しかし、現実は、2010年1月現在、例えば日本で、聖伝のミサ聖祭は廃止され、禁止されています。さあ、大きく目を開けてください。現実を見てください。目を覚ましてください。こうあるべきだは、もうたくさんです。現実に、聖伝は廃止されてしまっています。廃止されなければ、「合法」のお墨付きが得られないのです。カトリック教会が愛し続けてきたことを愛しやり続けることは「違法」のレッテルを貼られることです。これが現実です。全てが許され、聖伝だけが厳しく禁止されてきたのです。今でも、事実上そうです。

 カトリック教会は、エキュメニカル教会になろうとしています。現実を直視してください。まだ完成してはいないかもしれません。しかし、何もしなければ、今後ますますエキュメニカル化は進むことでしょう。

 今から40年前には、今のようなカトリック教会を想像だに出来ないほどでした。それほどカトリック教会は変わっています。そして、第二バチカン公会議の原理に従って、まだまだ、ますます変わって行くでしょう。もし、私たちが何もしなければカトリック教会はそのまま変わり続けることでしょう。カトリック教会の代わりにエキュメニカル教会に変身するまで変わり続けるでしょう。

 この司教様も、聖ピオ十世会というカトリックであることを守ろうとする要素を受け入れたと、エキュメニカル化教会の敵として潰されてしまうのでしょうか?ベネディクト十六世も、エキュメニカル化教会を作ることに協力しなければ、リベラル派勢力によって、つぶされてしまうのでしょうか!?

 教皇様は、どこに、カトリック信仰維持のための本当の見方を、本当のカトリックを見いだすのでしょうか!? リベラル派勢力の中でしょうか!?それとも、聖伝の中でしょうか!?

主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、我らを憐れみ給え!

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@携帯にて

聖ピオ十世会 創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.2.4.典礼生活

2010年01月12日 | ルフェーブル大司教の伝記
典礼生活

 大学を往復することにより、ドン・ボスコ寮の共同体はそれほど本格的な典礼生活を送る事が出来なかった。朝と晩にある共同の祈りは、サレジオ会の生徒たちの祈祷書から借用されていた。翌年になってようやく、幸いにもこれらの祈りに代わって第一時課と終課が唱えられるようになる。聖務日課の崇高な典礼的祈りを何故使っていけないのか? ルフェーブル大司教は賛歌(Laudes)よりはむしろ第一時課(prime)を選んだ:「第一時課の祈りは最も単純で人間のあらゆる仕事を前に最高の準備である。今やどれほどの人がそれを唱えているだろうか? 殉教録は、殉教者と聖人たちの模範を私たちに提供してくれるのである。 」

 もちろんこれらの祈りには、共同での沈黙に満ちた朝の黙想や、夕方のロザリオが -ロザリオは、マリアの(地上における御生涯の)観想、そして後援者たちのための祈りである -、さらに機会あるごとに行われる聖体降福式などが加えられた。
 なぜなら「祈りは司祭に、永続性と勇気を与えるのである。 」

 朝の共同体の御ミサは、神学生たちの日常活動の中心かつ根源である。聖ピオ五世のミサ典書が、1965年の典礼改革により削除された階段祈祷ユディカ・メ(Judica me)や、同じく削除された最後の福音は無しに、ラテン語で唱えられた。さらに言えば、司祭は使徒信経(クレド)まで、祭壇ではなく、司祭席にて立っていた。

「それは ‘洗礼志願者のミサ’ であるが、その後に来るのが、本当の意味で司祭にのみ確保されたミサである。」(1969年10月29日)

 2つの朗読が書簡(祭壇に向かって右)側と福音(祭壇に向かって左)側の二つの聖所朗読台(ambo)から朗読された。会衆を向いて行われる司祭の力強い聖書朗読は、“私たちの信仰を増すことを意図している。”

「み子を信じる者には永遠の命があり(ヨハネ第3章36節)、信じようとしない者は命を知らない。」(1969年11月21日)

 これにひきかえ、奉献文(Offertorium)とミサ典文(Canon)は、司祭だけが、信徒に聞こえない低音で唱えた。そうしなければ、“長い目で見たとき、信徒は司祭に固有の刻印の意味や、(司祭が唱える)これらの祈りの意味を失ってしまう危険がある。”(1969年11月26日)からである。

 しかしながら、ルフェーブル大司教は、自分がこの(聖ピオ五世のミサ典書による)旧ミサを唱えて新しいミサに抵抗している他の司祭たち全てとの歩調を乱している事を知り、 “洗礼志願者のミサ”と “信徒のミサ” といわれる固有の意味でのいけにえの部との明確に区別することを1974年に放棄した。それ以降、-長い間、整備された納屋でしかなかった-エコンの主聖堂では、祭壇で完全な御ミサが捧げられた。同じく、荘厳な式典とグレゴリオ聖歌は、数々の司祭叙階式の司教荘厳ミサや、さらにあらゆる種類の歌ミサやグレゴリオ聖歌の晩課、ロザリオの月(10月)や聖母の月(5月)などに光彩を与えていた。エコンは、この典礼に息づいている敬虔をそこに集まる神学生たちに染み通らせ、教会典礼の暦年のリズムに従って、彼らのゆりかごを揺するように育てていたのである。


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聖ピオ十世会 創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.2.3.共同生活と司祭養成

2010年01月11日 | ルフェーブル大司教の伝記
共同生活と司祭養成

 1969年10月13日、マルリー通り106番地に、ほとんどが普通の服に身を包んだ「新入生」らが到着する。ピエール・ピケとポール・オラニエ(二人ともサンタ・キアラ出身)以外に、スイス人のM. ドワヨン(M. Doyon)、アルゼンチン人のE. エラーソ(E.Eraso)、そしてフランス人のJ. アンティエ(J. Antier)、R. フィヨン(R. Fillion)、G. モンティ(G. Monti)、B. ペラブフ(B. Pellabeuf)、そしてB. ティシエ・ドゥ・マルレ(B. Tissier de Mallerais)がいた。ルフェーブル大司教が、彼らを歓迎された。既にそこに来ていたポール・オラニエはこんなことを考えた。

「私はがっかりして心配になった。なぜなら第一学年に集まった9名の生徒達は、自分には信頼できるような人たちではなかったように思えたからである。それは私が夢見ていた理想からひどくかけ離れていた。理想像とは、熱き霊の息吹を注がれて帆をふくらませて、一体となって浮き沈みもなく進む、若き聖伝カトリックのレヴィ族たちだけが集う苗床だった。」

 この(若者の)群れの弱さは、間もなく身に着ける服装をめぐって露呈されることになる。10月17日のスータンの簡素な祝別後、キリストの聖なる喪服を着衣するやいなや、彼らの中の数人は大学の廊下や教室でのスータン着用に対し赤面した。

 それにもかかわらず、大司教は、この弱く、様々な人間の集団に対して、司祭と宣教師に関する自分の非常に深い親密な信仰を分かち合うことに心血を注いだのである。

 三日目に彼はカストロ・マイヤー司教宛の手紙を書いた。「私は真の司祭職を、真の司祭たちを再建したい。それは、私たちが生きているこの狂った時代にあって、わたしにとっての慰めとなるだろう。」

 10月16日から20日まで、テオドシオス神父が黙想会指導に来た。これは司祭志願者を世俗の精神から浄めることを目的としていた。まもなく、この共同体の質素な会議室で、大司教は神学生たちに、“規則集”を、つまり彼がこれまでの数週間に書きだしてきた神学校の規範の変わり得ない核心を説明し始めた。

 それは教会法や、司祭の養成に関する公会議の教令の一節 、さらに、僅かにローマのフランス人神学校の規範から霊感されたものであった。この後者(フランス人神学校規範)は、フロック神父の精神の実りであるが、マルセル・ルフェーブルによる規則集の足元には及ばないものだった、とこれは言わなければならない。

 この中では、規律に関しては殆ど言及されない。ましてや生徒あるいはその他の人々の「義務」についてはましてない、校長の職務の規定するものは一行たりともなく、規律担当責任者、または学習担当責任者についても全くない。この神学校規範は申し分なく困惑させるものだった。ただ生徒たちが教えられている精神、聖徳、さらに神学生が始める司祭生活のみが記述されていた。

 全ての言葉に重要性が満ちた14項を合わせて、創立者は次のようにまとめている。

「カトリック教会がそれにおいて司祭を養成しようとする精神については、司祭職の意味を、つまり、カトリック教会が永久に続けるように責務を受けた私たちの主イエズス・キリストの永遠の司祭職への参与ということをカトリック教会よりも勝って知るものはない」と。

 ただひたすらに司祭的であり、純粋なトマス主義でもあるこの規則集は、“私たちの聖主イエズス・キリスト” と “キリストの玄義”、さらに “キリストの贖いの業に対する信仰と知識” の上に、基礎を置いた。つまり「すべての事柄を、常に私たちの聖主イエズス・キリストにおいて復帰させる ‘recapitulare omnia in Christo’ - すべてを頭であるキリストにおいて復興させる ように励みながら、聖トマス・アクィナス」、とりわけ「照らし出された信仰と、深遠な敬虔と、効果的で熱烈な説教との最も確かな糧」である神学大全「の手引きの下で」、「哲学、神学、聖書や教会史、教会法が神学生たちに教える自然と超自然の現実を、黙想しながらの勉強を通して、増大する」信仰に基礎を置いている。(規範4-6)。

 その次に、先ず天主への愛徳が来る:「天主に対する愛は、神学生たちの孝愛(piété)において、つまり、宗教(religion)の徳の実践において現され、養われるであろう。司祭とは、犠牲を捧げるという、宗教の徳の主要な行為を行うために天主から選ばれたものであるが故に、天主の修道者であり、宗教の徳がこの司祭の中心的な徳である。」(規範6)

 これらの数行に、聖パウロのへブライ人への書簡、聖トマス、さらにジャン・ジャック・オリエ(Jean-Jacque Olier)らによって伝えられた全聖伝が要約されている。ここから「御聖体のイエズスと共に自らを天主に捧げたい、主の償いの苦しみに与りたい、主が聖父に捧げた賛美と感謝に一致したいという願望」がわき起こり、またそこから「彼らの使徒職の精髄」となるだろう絶え間ない「祈りの生活」が生まれるのである。(規範8) 

 愛徳は、共同生活の中においてもまた実践される。「共同生活とは、長上の父としての権威に結びついている、敬意と愛情のこもった絆で結ばれた兄弟的なものである。」(規範9-10)ここから喜びに満ちた忠実な従順と、過度な慣れ慣れしさのない神学生間の相互の愛、さらに共通善に対する完全な配慮(心配り)が生まれるのである。(規範10)すべてこれは、目下の礼儀正しい態度は、権威の相応しい行使にかかっているという考えに基づいている。

 「神学生たちをして、永遠の司祭、私たちの主イエズス・キリストの似姿に変容させる司祭職を受ける結果」を通して、さらに彼らの霊魂に刻まれる司祭的刻印を通して、司祭志願者たちは「その心は、 “世俗” から切り離され」、従って「この世の所有物から離脱しさらに肉の欲望から遥か遠く離れて」いなければならなず、彼らは節制の徳とそれに従属する諸徳を獲得しなければならない。つまり、貞潔、清貧、自己放棄、慎み(「彼らの信仰と聖職者の身分に属すること」を証明するスータンの着用)、苦行、そして「私たちの聖主との一致における苦難の寛大な受諾」などである。(規範11-13)

 最終箇条(規範14)は、「燃え立ち、熱心な司祭たちと接しながら、司祭館や修道院での 」休暇の間、神学生たちが司牧的職務を習い始めることについて言及している。

 驚くほど簡素である計5ページの中に、司祭的霊性を説くこの宝玉は、カトリック教会の神学的良識、注入された上智と知識の超自然的息吹、さらに、完徳の極致である、信仰と愛徳から湧き出でる、最も謙遜な諸徳の体験などを兼ね備えている。

 日ごろの霊的講話の中で、大司教はこの教義を、まったく飾ることなく伝えたのである! ルフェーブル大司教の初期の事業を目撃し、携わった著者は告白しなければならないと思う。著者は、聖堂や食堂で、レクリエーション、あるいは皿洗いの間に、親しく接していたこの方のいつもの飾り気のなさの影で、創立者のかくも豊かでかくも深い霊魂を発見するのがほとんど出来ずにいたことを。


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南無アッバミサ

2010年01月10日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 南無アッバミサについていくつかコメントをいただきました。びっくりした、信じられない、云々。

 私たちの主イエズス・キリストのお言葉を思い出します。
「まだ分からないのか。」(マテオ16:9)

 東京パワーのミサを見て、日本の将来が明るいと言ったのは司教でした。

 天主の御母聖マリアの終生童貞性を疑問視する、あるいは否定する司祭を野放しにしているのは司教です。

 プロテスタントと共同司式をしたのは司教です(阿倍野の55周年)。プロテスタント宣教150周年おめでとうと言ったのは司教です。日本聖公会がカトリックとパラレルに活動して150周年おめでとうと言ったのは司教です。つまり、これら全ては、司教の認可があります。つまり、「合法」なのです。

 南無アッバミサは、第二バチカン公会議の精神に従って、エキュメニカルで、創造的で、新しく、何故、司教が禁じるようなものなのでしょうか!?南無アッバミサは、合法です。違法ではありません。

 ヨハネ・パウロ二世がやりつづけてきたことを真似しただけです。何故、違法なのでしょうか!?

 第二バチカン公会議の教会の「合法」と「違法」の意味は何なのか、その本当の意味が、私たちによく理解されますように!!

主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 16.2.2.準備段階

2010年01月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
準備段階

「司祭養成のための聖ピオ十世協会(Association Saint-Pius X pour la formation sacerdotale)」がグリュイェール通り37番地にあるジャン・フランソワ・ブライヤール宅で、7月2日に発足された。同会の5名の委員会メンバー達はフリブール市民で、委員長はブライヤール氏であり、副委員長はモンシニョール・ジョン・ラスト(Msgr. John Rast)だった。この好意的な高位聖職者は、自分が司牧するノートル・ダム(Notre Dame)教会の儀式に神学生たちを時折り招待し、さらに神学校一年生たちの聴罪師を勤めた。

 ルフェーブル大司教は語っている。
「私が長いあいだ探し回った後、7月16日、1969年から1970年の学年用にマルリー通り(Route de Marly) 106番地のドン・ボスコ寮(Foyer Don Bosco)にある12部屋を確保した。御摂理により、明らかに守護の天使たちに導かれた後援者達が、必要な経済的援助をしてくださった。なぜなら多くの神学生たちは寮宿泊料を支払う事が出来なかったからである。たった一つ私に不足していたことは、私と一緒に働いてくれる人で、これは私にとって必要不可欠と思えた。」

 ルフェーブル大司教は、ジョージ・デルボス(Georges Delbos)神父に依頼する考えがあった。しかしアンリ・C神父が承諾してくれた。しかしながら最終的には、彼はひどく躊躇し始めたので、大司教はこう書いている。

「私は彼にフリブールに来ないようにお願いした。というのも私はこの神学校創設が、優柔不断な人ではなく、固い信念を持った人によって進められる事を熱望しているからである!」

 こうして、御摂理は、他の誰でもなく、ルフェーブル大司教こそ、自ら創設している神学校の校長に就任することの聖旨であることを明らかにされた。彼は余すところなくこの業に励むだろう。


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【参考情報】「南無アッバミサ」 【参考資料】2010年は東京教区の司祭の安息年

2010年01月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 最近「南無アッバミサ」というものがあることを知りました。東京のふたば学園のニコラバレ聖堂で行っているそうです。


「南無アッバミサ」 次第

主よあわれみ給え・・・・

         の代わりに



主よ、わたしたちの思いをお受け入れください。

――――――――――――

答唱句(書簡と福音の間)

みなでおとなえください。

 アッバ アッバ 南無アッバ

 イエスさまにつきそわれ、生きとし生けるものと手をつなぎ

 おみ風さまに包まれて

アッバ アッバ 南無アッバ

――――――――――――

聖なるかな 聖なるかな・・・・

            の代わりに

    ↓

 アッバ アッバ 南無アッバ

 アッバ アッバ 南無アッバ

―――――――――――――

 東京大司教の岡田大司教によれば、 2010年は東京教区の司祭の安息年にしたい、とのことです。安息年は、司祭の反省と休息、回心、祈り、学びの年だそうです。2009年12月26日 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて

―――――――――――――

主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、我らを憐れみ給え!
主よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 16.2.1.決断

2010年01月09日 | ルフェーブル大司教の伝記
II. フリブールでの創立


決断 
 オラニエ神父は、その決定的場面をこのように証言する。

「当時私は兵役に就いていた。休暇の許可を得てフリブールに来て、ローマ出身の同級生ピエール・ピケ(Pierre Piqué)を尋ねたのである。彼は、ルフェーブル大司教によりボゼ通りに送られて来ていた。到着してからルフェーブル大司教ご自身に会うと、私とこの友人を会合に招いてくださった。会合の場所は、グラン通り(Grand’rue)で、私たちの司会者,ベルナール・ファイ教授(Professor Bernard Faÿ)の書斎だった。そこはサリーヌ川(Sarine)を一望できる大邸宅の二階にある部屋であり、室内を見渡すと、聖ドミニコ会のマリ・ドミニク・フィリップ(Marie-Dominique Philippe、O.P.)神父、ドン・ベルナール・コル(Dom Bernard Kaul)神父、ドートリーヴ(d’Hauterive)神父や、さらには若き家族の父親であり、またフリブール州の教育局長であるジャン・フランソワ・ブライヤール氏(Jean-Francois Braillard)がいた。私たちにしてみれば、このような著名な方々が司祭職の崩壊について意見を交換していることは驚きでしかなかった。」

 ルフェーブル大司教は回想する。

「彼らは文字通り私の襟首をつかまえて言ったのです。「この神学生たちのために何かしてやらなければいけません!」 と。私の65歳という年齢や隠居という身分、あるいは万が一この先2,3年のうちに死んでしまったら継続など出来なくなる事業に着手することが愚かであるなどと言うことはできました。
 彼らはこう言ったのです。「今すぐ取り掛かりましょう。あなたのところに、さらに神学生がくるでしょう!」
「私たちは、何人も神学生を見つけることもできます。」とフィリップ(Fr. Marie-Dominique Philippe, O.P.)神父が付け加えました。「私にも2,3人心当たりがいます。今すぐにでも、私たちが未だに大学で持ちこたえている教授の方々を支援するために、最適な生徒たちがいなければなりません」と。
「わかりました」と私は言いました。「私が行って、シャリエール司教様に会いましょう。もし彼が承諾してくれたら、それが御摂理の印でしょうから」と。」

 オラニエ神父は追憶する。「その会合の後、ルフェーブル大司教の指輪に心をこめて口づけするマリ・ドミニク・フィリップ神父のことが未だに眼に浮かぶ。彼のこのしぐさにみなぎっていた感激は強烈に記憶に残っている。」

 二日後、大司教はフリブール教区の司教館を訪問した。1952年にセネガル(Senegal)で築かれた彼ら二人の友情は強められた。それは大司教がシャリエール司教を1952年、ファティック(Fatick)の教会祝別に暖かく招いた時にさかのぼる。今となって、この出来事全てには、大きな価値をもつ。ルフェーブル大司教は友人のシャリエール司教に対し、司教たちが特に南アメリカの司教たちが、この神学校に司祭志願者達を送ってくるだろうと説明された。事実、大司教は、アンドレ(Andre)神父によって神学校送られ、10月に入学する予定だったアルゼンチン志願者一名を抱えていたのである。

 大司教は言った。「シャリエール司教閣下は私を暖かく迎えてくださり、さらに私の計画に乗り気でした。この世界中から、主に南アメリカから集まる神学生を収容するいわゆる「共同生活院」を開設する事に彼は快く承諾してくださったのです。これは1969年6月6日、午後3時、フリブールの司教館にて起きたことです。こうして神学校が誕生したのです! 直ちに仕事に取り掛からなければなりませんでした。」


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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 16.1.4.岐路にさしかかって ― ダカールの夢

2010年01月08日 | ルフェーブル大司教の伝記
岐路にさしかかって ― ダカールの夢

 ルフェーブル大司教は人生を決定する岐路にさしかかった。彼は63歳で引退し、布教聖省の顧問としての報酬の払われる地位に満足し静かな生活で余生を送る事も出来たし、それは1972年に、まだ教皇パウロ六世が「穏やかな引退」と言って彼のために望んだ生活だった。

 しかしながら、司祭職養成のための制度の崩壊が進行する中、彼は自分自らがローマにおいて受けた貴重な遺産を伝えようという考えが彼の中に生まれ出てきていた。それはフロック(Floch)神父、ヴェグトリ(Voegtli)神父、フレ(Frey)神父,さらにル・ロエレ(Le Rohellec)神父らの手から受けた遺産であった。未だアフリカの大司教だった頃、ルフェーブル大司教はこの仕事への予感がしたのだが、それが何時実現されるのかわからなかった。その長い人生の終わりごろになってやっと、彼は霊的子供達に向かい、著書『霊的旅路』(Spiritual Journey 1989年12月8日出版)の中で、自らの行動を息吹いた将来についての展望を明らかにした。

「天主がある日、ダカールのカテドラルで、私をして垣間見せてくれた夢を実現することを、天主は私に許して下さった。
 その夢とは、司祭職の理想が日々ますます後退するのを目の当たりにして、それが持つすべての教義的純粋さと宣教師的愛徳において、我らの聖主イエズス・キリストのカトリック司祭職をそのまま伝える事である。それはちょうど聖主が使徒たちにそれを伝えたように、またローマ・カトリック教会が、20世紀中葉までいつも伝え続けてきたように。
 私にとってその時、カトリック教会とキリスト教世界を刷新させるためのたった一つの解決策だと思えるものを、どうやって実現させるべきだろうか?それは依然として夢だった。しかし、この夢において、単に真正の司祭職を伝えるだけではなく、カトリック教会によって認可された健全な教義(sana doctrina)を伝えるためだけでもなく、カトリック司祭職の深い不変の精神ならびに十字架上での聖主の犠牲が永遠に表現している私たちの主イエズス・キリストの偉大なる祈りに本質的に結ばれているキリスト教精神を伝える必要があるとすでに私には思えていたのです。
 司祭職が何であるかその真理は、完全にこの祈り【十字架のいけにえの祈り、つまりミサ聖祭】次第である。そういうわけで、キリスト教的かつ司祭的聖化に関するカトリック教義の基本的な原則にしたがって、司祭の本当の聖化の手段を示す望みに私はいつもとりつかれていた。」

 ヨーロッパに戻ってからというもの、一つの望みがいよいよ彼を締め付けていた。それはつまり、これらの原則にのっとって国際神学校を創設することである。1964年の聖週間中、彼はシャトーヌゥフ・ドゥ・ガロール(Chateauneuf de Galaure)から来た二人の従兄弟と一緒にマルト・ロバン(Marthe Robin)に会い、彼の頭を占めていることについて彼女に教えた。マルトは迷わず言った。
「大司教様、この神学校を創立しなければいけません。」
 大司教は「聖霊修道会総長としての私の身分がそれを妨げているのです」と反論した。
 マルトは繰り返した。
「あなたはこの神学校を創立しなければいけません。天主があなたを祝福されるでしょう。」
 この国際神学校というアイデアは、それから二年後にその形をとり始めた。ルフェーブル大司教はエール(Aire)とダクス(Dax)の司教区で土地を提供されたのである。彼は、サンタ・キアラにいた頃の友人であったロベール・べザック(Robert Bézac)司教との交渉に入った。1966年7月31日、この司教区にあるメリ(Maylis)大修道院を訪問した時、大司教は院長司祭であるドン・フルジェンス・マリー・ラグラース(Dom Fulgence Marie Lagrace)神父に自分の計画 -最終的には実現せずに終わるであろう- を打ち明けた。6ヶ月後、友人であるモリロ(Morilleau)司教が彼とその話題について話す。

「それからまた、あなたの “国際神学校” という大事業!これこそまさに事業の中の大事業でしょう。おそらくあなたの“メリの案”は摂理的ですね?」
 もし依頼したならば、ベルト(Berto)神父はこのような計画に加わり、ポンカレック(Poncalet)での司牧を「いつでも」辞める用意があると答えただろう。しかし、1968年12月17日、天主は彼を天上の住まいにお呼びになった。

 私たちが言及したローマで学ぶ神学生たち(と更に他の神学生ら)をルフェーブル大司教が、自分の後援者たちを通して支援している間、今まで神学生になったことのない8名か10名の志願者が彼のところに送られてきた。それは1967年と1968年の間に、大司教の元の同僚だったリュック・ルフェーブル(Luc Lefevbre)神父、ベルト(V. A. Berto)神父、そしてベルナール・ル・ルー(Bernard Le Roux)神父とカノンのポンスレ(Canon Poncelet)神父の協力によって送られた志願者だった。さらには、1968年の終わりごろ、テオドシオス神父が10人以上の神学生を取りたくないという考えを表した。なぜなら彼が受け入れを考えていた神学生は修道司祭養成が目的だったからである。

 それに加えて、1969年3月末のフリブールへの束の間の訪問中に、ルフェーブル大司教がビュサール(Bussard)神父から伝えられたことによれば、もう神学生にボゼ通りの家を提供したくないという事だった。

 大司教は言った。
「私には何事も揺るがす事の出来ない信念がありました。カトリック教会を救い、教会を継続させるために、誰かが司祭達を養成しなければならない。聖なる司祭達を、さらに真の司祭達を」と。

 この圧倒的な考えに支配された彼は、フリブールにある数件の家をさがした。この町にある大学は間違いなく魅力的だった。この家は、神学生たちを受け入れて彼らに本当の養成を授けることが出来るためである。

 教区長であるシャリエール司教は、相談を持ちかけられた後、この計画を承認しただけではなく、ルフェーブル大司教に対して、サレジアーヌム(Salesianum)という複数の司教区の神学校があることを指摘した。

 しかしながら、シャリエールは司祭職養成の未来を悲観視していた。ルフェーブル大司教はサレジアーヌムに行かれたが、幾つか気づいた事がある。

「ここでも、またもや、何もかもが不足していた。サレジアーヌムの校長は素直にそれを認め、マリア修道会の院長も同様にはっきりこう言った。“ここにはもはや会則などない” と。」 
http://salesianum.ch/wp/

 大司教は、その時ヴァレ州(Valais)に行って入手可能な家を視察し、それについて、当司教区の友人でもあるアダム(Adam)司教に手紙を書いた。アダムは賢く或いは単に賢明にこうアドバイスを与えた。

「あなたが心に描いておられるような神学校の開校は、もしフリブールでやればきっと他の場所より易しいでしょう。聖トマスを今でも尊敬している大学の傍にいることが、事を飛びぬけて容易にするのからです。」

 それは、彼の友人かつ相談相手であるフォンゴンボ(Fontgombault)のベネディクト会大修道院長、ドン・ジャン・ルワ(Dom Jean Roy)神父の意見でもあった。この神父はちょうどフリブールを訪問し、マリー・ドミニク・フィリップ(Fr.Marie Dominique Philippe)神父に会って、1969年5月5日に大司教宛で手紙を書いた。

「国際神学校は今年の10月にあの町に開校されるべきです。」

 しかし、依然としてルフェーブル大司教は納得したとはまだ認なかったのである。「私は失意を感じながら、フランス中を捜し求めていました。エリニェ(Erigné)にある聖ヴィンセンチオ・ア・パウロ会の修道者たちが2名の神学生を引き受けてくれたのですが、それは解決策ではありませんでした。私のやるべき事は、たった一つ、この手でフリブールに神学校を創立する事でした。」


聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次
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聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記 15.1.3.テオドシオス神父の共同体

2010年01月07日 | ルフェーブル大司教の伝記
テオドシオス神父の共同体

 ルフェーブル大司教によれば「まじめで本物を求める神学生たちに対する迫害」が間もなく始まった。雑誌、ヌヴェル・ドゥ・クレチアンテ(Nouvelles de Chretienté)は図書室に置かれなくなったのは、「公会議の典礼憲章を公然と批判する」ものとしてである。他の似たような雑誌も同じ運命をたどった。それから、

「私たちのうちの数人がトンスラ(剃髪式)と下級品級を求めたが、それは断られた。私はといえば、それが無益な要求であると理解した。それで益々ルフェーブル大司教に注目したのである」とポール・オラニエは語っている。

 苦悩の中でこの神学生たちはより必死に願うようになったのである。「大司教様、もしあなたが介入されなければ、司祭職への扉は私たちに閉じられています。」

 大司教は後になってこう言うだろう。「私にはこの苦悩の叫びが私をどこに先導するのか想像もしていなかった。大いなる苦しみと共に、私たちは他の場所、つまり他の大学を探さなければならない、と諦めるしかなかった。教えの内容が依然として正統の域にあった大学は二つ、ラテラン大学とフリブール(Fribourg)大学だった。従って、この二大学の近くに住居を見つけて、良い神学生たちが適切に司祭養成を受けられるようにしなければならなかったのでる。ラテラン神学校入学に伴う困難と直面し、私たちにはジェノヴァの大司教であったとても良きシリ(Siri)枢機卿の手に委ねられた共同体のことを考えなければならなかった」と。

 至聖童貞マリア兄弟会は、テオドシオス・スグルデリス(Théodossios Sgourdélis)神父によりアテネで創立された。彼は船舶所有者でありギリシャ人外交官かつギリシャ正教からの改宗者でもあり、シリ枢機卿により司祭叙階を受けた。この兄弟会はジェノヴァに設立され、修道女らの共同体と男子の小さな共同体とからなっていた。

 ド・キンヌール伯爵夫人の寛大な援助により、この共同体はローマに来て修道院を持つことが出来た。さらに1967年の学年度初め、クリスチャン・シャルロ(Christian Charlot)神学生に先導され、サンタ・キアラから8人からなる学生のグループを、その修道院に受け入れた。彼らはラテラン大学で受講し、その彼らをルフェーブル大司教は注意深く見守っていた。また同大司教の後援者達は、神学生たちのために、一軒のもっと大きな家を賃貸できるようにしてくれた。1968年8月15日ルフェーブル大司教はこの家を祝別しに来た。それにもかかわらず、ポール・オラニエは共同体のあまりにも禁域修道院のような雰囲気に魅力を感じずサンタ・キアラに残った。後にルフェーブル大司教は5、6人の堅実な神学生たちがテオドシオス神父で満足し、フリブールの創立の時にいなかったことを残念がるだろう。

「フリブール大学が提供する可能性を無視する事は賢明ではありませんでした。ですから私はリュ・デュ・ボゼ通り(Rue du Botzet)にある家【訳者注:聖霊修道会の修道院のこと】の地理的メリットを選び、神学生たちを何人かフリブール大学に送ったのです。ただし、この司祭志願者たちが聖霊修道会の小修道院に願うべく養成を見出すことが出来ないことは遺憾に思ってはいました。少なくとも彼らは平和にいることが出来たし、分解しつつあった神学生たちのいじめに会わずに済んだからです。これが、私が聖霊修道会総長職を辞任する1968年までの状況でした。

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私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日おめでとうございます。

2010年01月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 私たちの主イエズス・キリストの御公現の祝日おめでとうございます。

 日本語の聖ピオ十世会のウェブ・サイトが更新されました。

 また、今日、「マニラの eそよ風」の412号が発信されました。
 今回は、「マニラの eそよ風」410号の続きで、キリスト教文明社会がどのようにして革命によって影響を受けてきたか、共産主義革命は何を結果にもたらすかを考察することを提案しました。

 「マニラの eそよ風」は、今まで通りのYahoo!グループから発信されていますが、今日から、まぐまぐ!からも発信されるようになりました。よろしくお願いいたします。

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】