アヴェ・マリア!
ローマは新しいミサに誤りがあったことを承認した。
金田さんが疑問点等を呈示してくれている。いま少し説明し証明したい。
願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!
【引用】
●「文章を追って理解できるVereの主張は、要するにミサは同一で実体変化が生じており、変ったのは(偶有的部分である)典礼のみであるということだ。ミサの性格・位置づけの変更は(メタレベルに属すことだから)また別の問題である。対面・会食などの要素は初期教会にもあったようである。」
【コメント】
■ Vere の言わんとすることは分かる。「実体変化が起こっている、変わっていることは遇有的部分で些細な部分にすぎない。だからミサは同一である」ということだろう。
だから、私は全実体変化が起こったとしても、その他の部分が変わってしまうとそれが何であるかという意味が変わってしまう(つまり本質が変わってしまう)ことがあることを指摘した。
ミサが何かという定義の部分で、新しいミサではカトリックの定義を大きく離れていることを指摘した。
【引用】
●「Vereが最も言いたいのは、どのような時代のものであれ「カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない」という一点であろう。」
【コメント】
■もしも、この命題が正しいのなら、では、何故、ラッツィンガー枢機卿はこう言っているのか?
「パウロ六世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」(ラッツィンガー枢機卿とフィリップ・マクサンスとの対話 ロム・ヌヴォ誌)
「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ)
「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』159ページ)
「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ)
■ もしも Vere が言わんとしていることが、新しいミサは、「カトリック教会が承認した不敬を誘引しえない」ものだから「全て正しい」「間違いがない」、ということであれば、次のローマの公文書はどう考えるつもりなのか。
多くの方は既にご存じであろう。昨年10月17日付(プロトコール・ナンバー467/05/L)で、典礼及び秘跡聖省によって歴史的公文書が出された。このブログでも取り上げたことがある。(「この翻訳の訂正は、万民が必ず救われるという誤りに対する防御の壁になるだろう」) また三上教授もそのウェッブ・サイトで取り上げておられる。「あなたたちのためそしてすべての人のため」はゴミ箱行きとなる」
この公文書で、ローマは公式に新しいミサの中には重大な欠陥と誤りがあったことを認めたのだ。
ローマはこの公文書で、新しいミサが導入される以前から、既に1967年にICELによって最初に間違って訳された時から既に40年にわたってほぼ世界中でなされてきた誤りの翻訳を修正するようにと求めたのだ。
つまり「教皇パウロ6世の改正された典礼は、教皇様によって承認され全世界で行われた典礼だった、従って、新しいミサには誤りがない、全て正しい(に決まっている)」という議論はもはや成り立たないことがローマによって証明されたのだ。新しいミサの正統性に疑問を挟むことはゆるされることである、とローマが認めたのである。
これは聖伝の信仰を守ろうとする人々が常に指摘してきた問題で、ミサのなかでの御血の聖変化の言葉の翻訳についてである。ラテン語では、pro multis (多くの人々のために)となっているところを、そのまま訳す代わりに、単なる訳し間違いではなく、「全ての人々のために」と故意に訳を変え、それがローマによって承認され、ほぼ全世界でそのように訳されてミサが執り行われてきたことである。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、韓国語、タガログ語、セブアノ語、ヒリガヤノン語、などなどでそうだ。例外はポルトガル語、ポーランド語、日本語訳だけだ。
この文書は単にアリンゼ枢機卿がサインをしたというものだけではない。教義聖省と教皇様になされた各国司教評議会のレポートとを参照して作られ、ローマの決定をアリンゼ枢機卿が書いたものだ。極めて公式な性格を持っている。この公文書はまず「全ての人々のため」という解釈の入った翻訳はローマ典礼様式においては革新的なものであることを認めている(§1と§3b)。次にすぐにその有効性について語る。これ自体で、有効性が疑われるほどの間違った翻訳だったという証拠ではないか?少なくとも新しいミサにおいて導入された変更・革新が、ミサの有効性それ自体に疑問を挟むことができる疑わしい要素を持っているということを示している。オッタヴィアーニ枢機卿が既にパウロ六世に報告した言葉を思い起こさせる。
「新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉が有効であり得るとすれば、それは司式司祭の意向のおかげである。この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや[新しいミサ典書の]言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」
【この言葉は、オッタヴィアーニ枢機卿の主観的な独断ではなく、カトリック神学を新しいミサ典書という個別の例に適応させたものだ。オッタヴィアーニ枢機卿は、無効だといっているのではなく、「聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」という有効性の疑問を挟んでいる。】
翻訳が間違っており、実体的な意味の違いが生じているのだから、聖変化の無効性を可能性を疑うことはますます許されるだろう。
実体的な意味の違いとは、文法上の格変化を間違えたとか、女性形を男性形に間違えたとかということのみならず、内容を変えてしまうことだ。有効な洗礼のためには「聖父と聖子と聖霊との聖名によって」洗礼を授けなければならないが、これをたとえば「イエズスの聖名によって」洗礼を授けたとしたら、無効となる。
聖伝のミサのミサ典書には De defectibus in celebratione (ミサ執行における欠陥について)という規定があり、それにはもしも聖別の言葉が変えられて同じことを意味しない時、聖変化は起こらないとある。つまりその聖変化は無効となる(V - de defectibus formae)。この De defectibus の規定によれば、そのような間違った聖変化の言葉は、無効であると考えられなければならない。
しかしこの有効無効の問題について、別のやり方で考える神学者たちもいる。アリンゼ枢機卿の文書もその一つだ。つまり「多くの人々のために」が「全ての人々のために」と変えられたことによって意味が変わったが、その変わった意味でもカトリック的に解釈しうるという議論だ。
つまり、私たちの主イエズス・キリストは全ての人々のために充分な御血を流され、十字架とミサ聖祭とは唯一のいけにえである。しかし流された御血は、多くの人々のためにしか実りを結ばない。だからキリストの贖いの「充分さ」ということと「効果・実り」ということとを区別して理解する、そうすればこの訳の違いも実体には関わらないことになる、という解釈である。(しかしこれが本当に近代主義に染まった司祭たちが、ミサで聖変化の時に「全ての人々のために」という言葉で理解している意味なのだろうか?)
更に、アリンゼ枢機卿は、次の理由で、このように翻訳で意味を変えてしまうことは禁じられている(illicit)であると述べている。
(A)聖書のギシリア語の原文(聖マテオ26:28と聖マルコ14:24)は、正しく「多くの人々のため」となっているからだ。何故、新しいミサでは別の翻訳がされうるのだろうか?
(B)ローマ典礼様式においては、常に「多くの人々のため」であって「全ての人々のため」という形式を使ったことがないからだ。
(C)東方典礼の様々なアナフォラでも、ギリシア語であれ、シリア語であれ、アラマイ語であれ、スラヴ語であれ、全て「多くの人々のため」となっているからだ。
(D)「多くの人々のため」こそが正しい忠実な訳であり、「全ての人々のため」はむしろ公教要理に固有の説明であるからだ。
(E)「多くの人々のため」という表現は、救いは全ての人々に機械的に、人間からの意志や参与なしに与えられるものではないこと、そうではなく「多くの人々」の一人と数えられることができるように、賜物としての信仰を受け入れ超自然の生命を生き、この神秘に参与するということを表明している。
この最後の点について、トリエント公会議の公教要理も何故「多くの人々のため」でなければならないのかを説明している。
(つづく)
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