Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ローマは新しいミサに誤りがあったことを承認した

2007年03月12日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


ローマは新しいミサに誤りがあったことを承認した。


 金田さんが疑問点等を呈示してくれている。いま少し説明し証明したい。


 願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!

 


【引用】
●「文章を追って理解できるVereの主張は、要するにミサは同一で実体変化が生じており、変ったのは(偶有的部分である)典礼のみであるということだ。ミサの性格・位置づけの変更は(メタレベルに属すことだから)また別の問題である。対面・会食などの要素は初期教会にもあったようである。」


【コメント】
■ Vere の言わんとすることは分かる。「実体変化が起こっている、変わっていることは遇有的部分で些細な部分にすぎない。だからミサは同一である」ということだろう。


 だから、私は全実体変化が起こったとしても、その他の部分が変わってしまうとそれが何であるかという意味が変わってしまう(つまり本質が変わってしまう)ことがあることを指摘した。


 ミサが何かという定義の部分で、新しいミサではカトリックの定義を大きく離れていることを指摘した。

 


【引用】
●「Vereが最も言いたいのは、どのような時代のものであれ「カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない」という一点であろう。」


【コメント】
■もしも、この命題が正しいのなら、では、何故、ラッツィンガー枢機卿はこう言っているのか?


「パウロ六世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」(ラッツィンガー枢機卿とフィリップ・マクサンスとの対話 ロム・ヌヴォ誌)


「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ)


「今までなされてきた合理的平準化や、漠然とした論点など、カトリック典礼を村の寄り合い並に引き下げ、くだらないレベルに低下させようとする司牧的幼稚症に対して、もっと果断に反対しなければならない。既に実行されている改革も、特に定式書に関してはこの観点から見直しがなされるべきである。(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』159ページ)


「時として身震いするほど陳腐で平凡な趣向によってつくられた、愚鈍で退屈な公会議後のある種の典礼・・・」(。『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ)

 

■ もしも Vere が言わんとしていることが、新しいミサは、「カトリック教会が承認した不敬を誘引しえない」ものだから「全て正しい」「間違いがない」、ということであれば、次のローマの公文書はどう考えるつもりなのか。


 多くの方は既にご存じであろう。昨年10月17日付(プロトコール・ナンバー467/05/L)で、典礼及び秘跡聖省によって歴史的公文書が出された。このブログでも取り上げたことがある。(「この翻訳の訂正は、万民が必ず救われるという誤りに対する防御の壁になるだろう」) また三上教授もそのウェッブ・サイトで取り上げておられる。「あなたたちのためそしてすべての人のため」はゴミ箱行きとなる

 この公文書で、ローマは公式に新しいミサの中には重大な欠陥と誤りがあったことを認めたのだ。


 ローマはこの公文書で、新しいミサが導入される以前から、既に1967年にICELによって最初に間違って訳された時から既に40年にわたってほぼ世界中でなされてきた誤りの翻訳を修正するようにと求めたのだ。


 つまり「教皇パウロ6世の改正された典礼は、教皇様によって承認され全世界で行われた典礼だった、従って、新しいミサには誤りがない、全て正しい(に決まっている)」という議論はもはや成り立たないことがローマによって証明されたのだ。新しいミサの正統性に疑問を挟むことはゆるされることである、とローマが認めたのである。


 これは聖伝の信仰を守ろうとする人々が常に指摘してきた問題で、ミサのなかでの御血の聖変化の言葉の翻訳についてである。ラテン語では、pro multis (多くの人々のために)となっているところを、そのまま訳す代わりに、単なる訳し間違いではなく、「全ての人々のために」と故意に訳を変え、それがローマによって承認され、ほぼ全世界でそのように訳されてミサが執り行われてきたことである。英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、イタリア語、韓国語、タガログ語、セブアノ語、ヒリガヤノン語、などなどでそうだ。例外はポルトガル語、ポーランド語、日本語訳だけだ。


 この文書は単にアリンゼ枢機卿がサインをしたというものだけではない。教義聖省と教皇様になされた各国司教評議会のレポートとを参照して作られ、ローマの決定をアリンゼ枢機卿が書いたものだ。極めて公式な性格を持っている。この公文書はまず「全ての人々のため」という解釈の入った翻訳はローマ典礼様式においては革新的なものであることを認めている(§1と§3b)。次にすぐにその有効性について語る。これ自体で、有効性が疑われるほどの間違った翻訳だったという証拠ではないか?少なくとも新しいミサにおいて導入された変更・革新が、ミサの有効性それ自体に疑問を挟むことができる疑わしい要素を持っているということを示している。オッタヴィアーニ枢機卿が既にパウロ六世に報告した言葉を思い起こさせる。


「新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉が有効であり得るとすれば、それは司式司祭の意向のおかげである。この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや[新しいミサ典書の]言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」

【この言葉は、オッタヴィアーニ枢機卿の主観的な独断ではなく、カトリック神学を新しいミサ典書という個別の例に適応させたものだ。オッタヴィアーニ枢機卿は、無効だといっているのではなく、「聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」という有効性の疑問を挟んでいる。】


 翻訳が間違っており、実体的な意味の違いが生じているのだから、聖変化の無効性を可能性を疑うことはますます許されるだろう。


 実体的な意味の違いとは、文法上の格変化を間違えたとか、女性形を男性形に間違えたとかということのみならず、内容を変えてしまうことだ。有効な洗礼のためには「聖父と聖子と聖霊との聖名によって」洗礼を授けなければならないが、これをたとえば「イエズスの聖名によって」洗礼を授けたとしたら、無効となる。


 聖伝のミサのミサ典書には De defectibus in celebratione (ミサ執行における欠陥について)という規定があり、それにはもしも聖別の言葉が変えられて同じことを意味しない時、聖変化は起こらないとある。つまりその聖変化は無効となる(V - de defectibus formae)。この De defectibus の規定によれば、そのような間違った聖変化の言葉は、無効であると考えられなければならない。


 しかしこの有効無効の問題について、別のやり方で考える神学者たちもいる。アリンゼ枢機卿の文書もその一つだ。つまり「多くの人々のために」が「全ての人々のために」と変えられたことによって意味が変わったが、その変わった意味でもカトリック的に解釈しうるという議論だ。


 つまり、私たちの主イエズス・キリストは全ての人々のために充分な御血を流され、十字架とミサ聖祭とは唯一のいけにえである。しかし流された御血は、多くの人々のためにしか実りを結ばない。だからキリストの贖いの「充分さ」ということと「効果・実り」ということとを区別して理解する、そうすればこの訳の違いも実体には関わらないことになる、という解釈である。(しかしこれが本当に近代主義に染まった司祭たちが、ミサで聖変化の時に「全ての人々のために」という言葉で理解している意味なのだろうか?)


 更に、アリンゼ枢機卿は、次の理由で、このように翻訳で意味を変えてしまうことは禁じられている(illicit)であると述べている。

(A)聖書のギシリア語の原文(聖マテオ26:28と聖マルコ14:24)は、正しく「多くの人々のため」となっているからだ。何故、新しいミサでは別の翻訳がされうるのだろうか?

(B)ローマ典礼様式においては、常に「多くの人々のため」であって「全ての人々のため」という形式を使ったことがないからだ。

(C)東方典礼の様々なアナフォラでも、ギリシア語であれ、シリア語であれ、アラマイ語であれ、スラヴ語であれ、全て「多くの人々のため」となっているからだ。

(D)「多くの人々のため」こそが正しい忠実な訳であり、「全ての人々のため」はむしろ公教要理に固有の説明であるからだ。

(E)「多くの人々のため」という表現は、救いは全ての人々に機械的に、人間からの意志や参与なしに与えられるものではないこと、そうではなく「多くの人々」の一人と数えられることができるように、賜物としての信仰を受け入れ超自然の生命を生き、この神秘に参与するということを表明している。


 この最後の点について、トリエント公会議の公教要理も何故「多くの人々のため」でなければならないのかを説明している。

(つづく)



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聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制

2007年03月12日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制


 19世紀および20世紀において喧伝されてきた宗教的自由の教条は宗教的事柄における自立、行動の自由およびとりわけ一切の人間的権力からの拘束からの自由を要求します。

 聖書の歴史は、かかる主張を裏打ちしているでしょうか。それとも反対に、この主張の根拠を打ち崩すものでしょうか。宗教的事柄における強制に関して、聖書からどのような教えを引き出すことができるでしょうか。


1-旧訳聖書における宗教的事柄においての強制

 天主は、ご自分の民が忠実に真の宗教を保ち、かつ偽りの神々に対する礼拝行為を避けるよう、厳しく強いられました。このため、第二法の書第13章におけるごとく、天主は基本的な法を発布されました。すなわち、同章において天主はイスラエルの民に次のものを拒絶するよう命じています。すなわち、

――偽りの預言者(1-5節)
――他の宗教(6-12節)
――偶像崇拝に陥った都市(12-18節)

 17章2-7節においては、この戒律が再度確認され、さらに、これを破る者たちに対してきわめて厳格な罰、すなわち剣および火による死刑が定められています。


 これら全ての戒律は、イスラエルの民の歴史全体にわたって正しい判事、善き王、預言者たちにより忠実に適用されました。

――ヨシュア記 23章6-8節および24章14-15節
――判事の書 6章25-26節
――列王記上 18章40節
――列王記下 10章18-31節
――年代記下 15章13節;17章6節;19章3節;23章16-17節;30章14節;34章33節
――ネヘミア書9章37節;13章16節-18節
――マカベ書上2章24節-25節;9章73節
――ダニエル書21節 等々


2.新約聖書における宗教的事柄における強制

 ユダヤの民が神権政治の絆から解かれたとき、「心の柔和で謙そんな」(マタイ11章29節)「救い主なる我らの天主[イエズス・キリスト]のいつくしみと人間への愛があらわれました」。(ティトへの手紙11章29節)

 しかしながら、主イエズスは往々にして力強い態度で振る舞われます。主は、例えばラザロの復活のような奇跡を行なわれ、ユダヤ人たちが自らの罪の弁明をできないようになさいました。(ヨハネ15章24節参照)主は「他人の前に天国を閉ざし、自分も入らず、入ろうとする人が入るのもゆるさない」律法学士やファリサイ人をきわめて厳しく譴責されました。すなわち、不実なブドウ園の農夫のたとえ話をとおして、またエルサレムのために涙を流し、その滅亡を予言することをとおして(ルカ19章44節)、ユダヤの民が、少なくとも将来の現世的な災禍の怖れ、憂慮のために、不信仰の過ちに陥るのを阻まれようとされました。その上、神殿からむちで商売人を追い払い、結果的に公共の秩序を乱すことまでなさいました。(ヨハネ2章15節)最後に、主イエズスは、福音の宣教者の言葉を信じるのを拒む者らに永遠の罰を前もって宣告なさいました。(マルコ16章16節)

 使徒聖ペトロは、宗教に関わる事柄についてのアナニアとサフィラの嘘を見抜いた際、彼らを厳しく叱責し、そしてこの2人は天主から突然の死という罰を被りました。このため、「このことを知った人々は、みな非常な恐れを感じた」(使徒行録5章11節)ほどです。第2の書簡において、聖ペトロは「民の中にいる偽預言者たち」を「水のない井戸、烈風に追われる雲、闇の暗さがそのために残されている者ら」(2章17節)、またさらには「自分の吐いたものを喰らう犬」、「洗った後にまた泥の中に転がる豚」と呼んで強く非難しています。


 使徒聖パウロは、地方総督セルジオ・パウロを信仰から遠ざけたとして魔術師かつ偽預言者のエリマを激しく咎(とが)めています。パウロの叱責を受けた後、エリマは失明し、「しばらくは陽の光を見ることができない」(使徒行録13章8-11節)ようになりました。コリント人への第2の手紙においては、パウロ自身、彼の言葉にしたがって歩まない者に対して「より厳しい態度で振る舞う」権能をもっていると述べています。ガラツィア人への手紙では、当地の信徒に、ユダヤ派の信者たちのことにふれて「あなたたちを乱す者は、自らすすんで不具になればよい!」(5章12節)と述べています。


 使徒聖ヨハネは、ある偽教師たちを指して、あざむく者、反キリストと呼び、彼らに対してとるべき態度について次の訓戒を与えています。「もしこの教えをもたずにあなたたちのところに来る者があれば、その人を家に迎え入れず、挨拶もするな。その人に挨拶する者は、その悪い業にくみするからである。」(ヨハネの第2の手紙 10-11節)


 使徒聖ユダは偽教師たちに対して激しい非難の言葉を発しています。「彼らは(中略)風に運ばれる水なき雲、実を結ばず、再び枯れて根から抜きとられた晩秋の木々であり、自らの恥の泡を打ち返す海の荒波、永遠の暗い闇に備えられているさまよう星である」と。(12-13節)

 最後に、黙示録においては、ペルガモの「天使」(ここでは司教のこと)に対して次の宣告がなされています。「私は、あることについてあなたを咎める。あなたのうちには、バラアムの教えにしたがう者がある。バラアムはイスラエルの子孫に、偶像に捧げた肉を食べさせ、また淫行をさせるために、[イスラエル人の]前にどんな罠を張ればよいかをバラクに教えた。同様に、あなたのもとにも、ニコライ派の教えにしたがう人々がいる。悔い改めよ!」(2章20-23節)


旧訳聖書から導き出される結論

 旧訳聖書において救いの歴史全体を通して天主がこれに介入された仕方から、また天主の霊感を受けた聖書の著者らの記述の筆致から、教理に関する次の諸点が引き出されます。

1-天主はイスラエルの民の司法的秩序において、偶像に対する礼拝行為および偽預言者の説教を一度として容認されなかった。

2-それどころか反対に、天主はきわめて苛烈な外的強制によって偽りの神々の礼拝が抑圧されるようお命じになりました。

3-天主のみ旨にしたがって、このように為した諸々の王ならびに預言者は、聖書の著者から惜しみない称賛を受けています。しかるに、これと反対の仕方で行動した王ならびに預言者は非難されています。



新約聖書から導き出される結論

1-たしかに、主イエズス・キリストならびに使徒たちのふるまい方は、天主が旧約の法の下にあったイスラエルの民に対して取られたそれと比べると、はるかに柔和で温順です。

2-しかし、キリストおよび使徒たちがしばしば強制を用いたことも、同様に確かなことです。まず第一に精神的強制、すなわち公の非難ならびに見せしめとなる現世的懲罰の予告が挙げられます。(それに忘れてはならないのは、主が、ご自分の述べ伝えられる福音に従うことを拒む者たちを、永遠の罰をもって脅されていることです。)そして次に物理的強制、すなわち教会およびキリスト教社会からの排斥、ないしはこれよりもさらに過酷な刑罰が偽善者ならびに偽預言者、異端者、背教者および離教者に対して用いられています。

3-とりわけ、主は偽りの教師らが自由に行動することをお許しになりません。このようなわけで、主は黙示録において、ティアティラの司教を、[偽預言者]イエザベルが「教え、惑わす」のを放任しているとして厳しく咎めておられます  。



総合的結論

1-まず第一に、宗教的事柄における強制は聖書史上、一貫して見受けられる事実です。

2-次に、神学的に確実な結論として、人間の自然本性はたとえそれがどのような性質のものであれ、宗教的事柄における強制に本質的に対立するものではない、ということを確認しておかなければなりません。

3-さらに、「カトリックの教理」に含まれる事柄として、次の事実が挙げられます。

――旧訳聖書においては、強制を加える[拘束を課す]権威は天主自身の直接的権利であり(いわゆる「神政政治」)、諸々の人的権威は単なる執行者に過ぎません。旧約の法においては、主として物理的強制-これは往々にして暴力的性格を帯びたものでした-が用いられました。(神学大全第2巻第1部第99問6項参照)

――愛の法である新約においては、説得(同上第1巻第5問2項)ならびに永遠の懲罰の脅威による精神的強制が優先されていますが、暴力的性格を伴ったものも含め、一切の物理的強制が廃止されたわけではありません。さらに、天主にして人であるキリストの昇天後、宗教的事柄における、強制を加える権威は使徒たちの権威ですが、この権威はたしかに超自然的なものであるとは言え、人間的な権威です。

4-最後に、およそいかなる人間的権威からの一切の強制の免除というテーゼは、当命題中の「およそいかなる人間的権威」という言い回しが一般的に過ぎるということ自体のゆえに、新約に見られる聖書の教義に明らかに反しています。



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【質問】教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか?・・・

2007年03月12日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?」の記事で、カトリック信者の信仰が危機にあるのは結果で、その原因は、聖職者達の信仰の喪失の危機であることが触れられていますが、教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのでしょうか? 教皇様なのでしょうか? それとも第二バチカン公会議なのでしょうか?


【答え】
 セペール枢機卿(Cardinal Seper)は「教会の危機は司教たちの危機である」と言いました(in Georg May, Gefahren, die der Kirche drohen, St Andrae-Woerden, Mediatrix, 1990, p.27)。


 現代の教会の危機には、その能動因として司教様たち(そして究極の責任を問われるものとして教皇様)、その切っ掛けと原理を与えたもの(形相因)として第二バチカン公会議があります。


【司教たちの危機】
 カトリック教会にいる4000名の司教様たちの中には、確かに正統カトリックたろうとしてカトリック信仰のために働こうとしておられる方々が何人かおられます。しかし、大部分の司教様たちにおいては、カトリック信仰を擁護する代わりに、信仰の真理を公に否定する司祭や神学者たちに自由にさせています。中にはそのような司祭たちを激励したり、支援したりし、或いは司教様自身で、カトリック信仰とカトリック道徳とは相容れない立場を取っています。


● たとえばフランスでは、以前のパリの大司教であったリュスティジェ枢機卿(Cardinal Lustiger)は、ユダヤ教徒たちはキリスト教に改宗する必要はないと公に教えています。


● ストラスブールの大司教であるドレ大司教(元パリ・カトリック神学院の神学部長)は、イエズス・キリストを拒否したユダヤ教徒たちを不信仰者(infideles)とか盲目者(aveugles)であると考えることはできない、回心する必要があるのは彼らではなく、むしろ「新しいイスラエル人」という名前を横取りしたカトリックのほうだ、と主張しています。(Mgr Joseph DORE, message addresse a la loge juive "Rene Hirschler" (de l'ordre des B'nai B'rith) et publie dans le bulletin diocesain l'Eglise en Alsace, juillet-aout 2003, p. 1-3.)


 しかし聖パウロは「かれらは不信によって切られ、あなたは信仰によって立っている。」と言い、ユダヤ人の「にぶい心、見えない目、聞こえない耳」、「かれらの目はくらんで見えなくなれ」(ローマ11章)、「今日も、モイゼの書を読むとき、かれらの心におおいが垂れている」(コリント後書3章)と言い、この状態では「天主によろこばれず、人類の敵となり」、「ここにおいて、かれらの上に天主の怒りは、極みに及んだ」(テサロニケ前書2章)とまで言います。

 聖ペトロは、聖霊降臨の日に「イスラエルのすべての人は、あなたたちが十字架にかけたそのイエズスを、天主が主とし、キリストとされたことを、しかと知らねばなりません。・・・くいあらためなさい、おのおの、罪のゆるしを受けるために、イエズス・キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。」と宣言しました。


● 2001年には、フランスの司教教義委員会(la commission doctrinale des Eveques de France) は、「天主の啓示に深く忠実」であるとして、バイヤール版の聖書(la Bible des editions Bayard)勧めました。しかし、この版の聖書は聖福音に書かれている事実の歴史性を否定しているものです。曰く「初代のキリスト者たちは、歴史のイエズスよりも信仰のキリストにもっと関心を抱いていた」と。


● 2003年、リモージュの司教であるデュフール司教(Mgr Dufour)は、ミサの時に説教台からこう説教しました。「私たちは天主が存在するのかよく知らない。私たちはそのことを科学的確実性で知るのではなく、信仰において知るだけだ。」


 しかし聖パウロは、天主の存在は信仰なくしても理性だけで確実に知りうると教えています。第一バチカン公会議もこう宣言しています。
「3026(1806)(1) 創造者であり,われわれの主である唯一の真の天主を人間理性の自然的な光によって被造物の中から確実に認識することができないと言う者は排斥される(*3000参照)。」

● 1996年、ベルリンでの講話会の際に、ドイツの司教協議会委員長であるカール・レーマン司教(現在は枢機卿)は、ルターのことを「共通博士」(der gemeinsame Lehrer)と呼びました。しかしこれは通常聖トマス・アクィナスに対してなされる呼び方です。


● 2006年に出版された「フランス司教黒書」(Le livre noir des eveques de France, par Remi Fontaine)というがあります。

 その中で、著者のルミ・フォンテーヌは「フランスの迫り来ている嘆かわしい背教とその現行の無能性」を示しています。この「黒書」からの幾つか例を拾ってみると、

 フランスの司教たちは「フリーメーソンが語るように」、フランスの国家が無宗教であり政教分離しているために戦っています。しかし哲学者ルネ・ジラール(Rene Girard)は、1905年に成立したフランスの政教分離の法律について、「その他これと同類のいかなる法律よりも、キリスト教にとって悪しきものである」と表現しています。


● この「黒書」はフランスで1975年に堕胎の法律が成立したのは、フランスの司教たちが沈黙を守り反対の声を上げなかったからであることを示しています。堕胎賛成をしていたイスラエル・ニザンは「事実上、カトリック教会はこのことについて賛成していたことを多くの人々は知らない」また「カトリック教会は根本的にこの法律に反対しなかった」告白しています。当時、この法律に反対していたカトリックのルジョン教授(Professeur Lejeune)は、パリの補佐司教から「天主の御前で私はあなたに言う。あなたは悪しき信者だ。」と罵られました。サンスの大司教は、堕胎をする人々の回心を願って抗議のためにロザリオの祈りを唱えているカトリック信者たちに向かって「手段の腐敗させている」と非難しました。


● バルバラン枢機卿(Cardinal Barbarin)は、堕胎法律を推進していたフェミニスト議員、シモーヌ・ヴェーユ(これは有名なフランスの女性哲学者とは別人)とリヨンで親しく会っていました。


● サンチエ司教はカトリックの道徳のせいで「男性と女性とが彼らの個人的・社会的生活において教会の強制によって苦しんだ」ことを謝っています。


● ポワチエでは、ルエ司教がコンドームを賞賛して「唯一の病気を防ぐ手段」として必要であると言い、堕胎の法律に反対している国民戦線(Front National)の党員の子供には洗礼を授けることを拒否しました。ルエ司教曰く「国民戦線のイデオロギーはナチと関係があると私は断言する。」


● 1998年、フランス司教協議会委員長であるダヴィド司教は国民戦線の党について「キリスト教の価値と多くの点で」反すると言います。2002年にはジプソン司教は司教の権威を使って「私は、ル・ペンとその党(=国民戦線)に反対することに投票します」と宣言しています。


● レユニオンでは、オブリ司教は、フランスの国民的一致のために、キリスト教的祝日を廃止することを説教しました。


● アミアンでは、ノワイェ司教はル・モンド紙に、司祭独身制について「教会の規律を緩和すべきだ」という望みを掲載させています。


● サン・ドゥニではド・ベランジェ司教は、パリ郊外の暴動事件について「民主主義に対する脅威」であるけれども、「民衆に関して経験がある効果的な組織である」共産党が幸いにもある、と安心しています。だから共産党という「むしろ良い」存在は、「危険な現象」である国民戦線の存在を打ち消すと言います。


● カトリック教会は教会法(1398条)で、堕胎をする母親、医者、手伝う看護婦、堕胎を励ます・勧める・同意する・協力する全ての人々、たとえば父親・友人などを自動破門にしています。司教たちは、堕胎をゆるす立法に賛成する議員やそれに賛成の投票をする者たちは皆、破門であることを宣言しなければなりませんでした。しかし司教たちは沈黙を守ることによって堕胎の罪に協力したのでした。(つまりほとんどのフランス司教たちは、自動破門に相当する罪を犯していたのでした!)


● オンタリオ(カナダ)の司教とボストン(アメリカのマサチューセッツ州)の司教は、自分の教区の司祭たちの半数は全実体変化を信じていないと認めています。しかしそれに対して何もしていません。
Archbishop Marcel Lefebvre: A Living Saintを参照のこと)


● オコーナー枢機卿は、多くのアメリカの司教たちが「教皇様を憎んでいる」と言っている。ガニョン枢機卿は「ほとんどのアメリカの司教たちは宣言されていない離教状態にいる(Most American bishops are in material schism.)」と認めました。
Archbishop Marcel Lefebvre: A Living Saintを参照のこと)


 歳月が経つにつれて、状況は良くなるどころか、ますます悪化の一方で止まるところを知りません。


(つづく)


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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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第二バチカン公会議のローマ VS 永遠のローマ

2007年03月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 金田さんが「ローマ VS SSPX(聖ピオ十世会)」というおもしろい記事を書いておられる。

 いままでレッテル張りの陰口や讒言のみで、頭を使った議論はタブー(?)だったような聖ピオ十世会についての疑問を、こうして金田さんがそのタブーを破って発言してくれていることに感謝する。このようなことは、真理を求める読者のためには、非常に有益な情報となるに違いないと思う。


 今回は、金田さんのしている「弁証」にコメントしたい。何故なら、まさに今の教会を襲う危機の核心とカトリック教会の不可崩壊性について触れていると思われるからである。聖ピオ十世会について関心をもって疑問をぶつけて来てくれる金田さんに感謝する。

 願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!


~~~~~~


 金田さんの議論をここでまとめておく。


 ある事柄についてローマと聖ピオ十世会に見解の相違がある場合、両方とも正しいという単純なケースを除けば、

(1)ローマが真、聖ピオ十世会が偽
(2)ローマが偽、聖ピオ十世会が真
(3)両方とも偽


の三パターンしかない。


 問題は(2)のケースがあるとすれば、実際にはそれは、


Ⅰ. 聖ピオ十世会は自らを「真のカトリック」と称し、過去のカトリック(=ローマ)の教えを継承保持していると言う。
 ところが、(2)によれば、ローマは偽である。
 従って、ローマ(=カトリック)が偽なら聖ピオ十世会も偽である。


Ⅱ. 聖ピオ十世会は、教皇(=ローマ)の不可謬性を主張している。
 従って、ローマは不可謬であり、40年間も偽であり続けることができないはずだ。
 もし40年間も偽であり続けるなら、教会教導権の権威が実際にはフィクションであることになる。
 従ってもし40年間も偽であり続けるなら、そもそもカトリックが偽であることになる。
 従って、正統カトリックを主張する聖ピオ十世会は、偽である。


のどちらかをしか意味しない。

従って、(2)聖ピオ十世会が真のケースは有り得ない。たとえあっても聖ピオ十世会は偽だ。


従って、(1)(2)(3)の何れのケースにおいても聖ピオ十世会は偽である。



+ + + + +


【コメント】


 (A)まず、「ある事柄について」ローマと聖ピオ十世会に見解の相違がある場合、とあるが、どのような事柄なのかを具体的にするべきである。何故なら、カトリック教会は「信仰と道徳に関する真理について」誤り得ないが、たとえば、政治に関することについては、誤りうるからだ。


(B)次に、聖ピオ十世会は自ら新しい教えを発明しているわけではない。過去の公会議や教皇様たちの不可謬の教え、或いは、たとえ不可謬の荘厳な聖座宣言を伴わなかったとしても、歴代の教皇様たちの常変わらない教えを繰り返しているだけだ。


 従って、もしも聖ピオ十世会の主張が偽なら、過去の教会が偽であるということである。


(C)以前このブログの「リトル・ペブルについて」のところで、侍者2さんがコメントをして下さったが、
私たちは、「カトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマ」と、「第2バチカン公会議とそれに由来して公会議後の全ての改革において明らかに現れた公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマ」との区別を付ける必要がある。


 何故なら、同じことが同じ意味において同じ観点から同時に真であり偽であることは有り得ないからだ。


 つまり、

(2)ローマが偽、聖ピオ十世会が真
という場合、「第二バチカン公会議のローマ」が偽であり、「永遠のローマ」は真であるということを意味するからだ。


何故なら、

Ⅰ. 聖ピオ十世会は、永遠のローマに自らを一致させ、過去のカトリック(=永遠のローマ)の教えを継承保持していると言う。
 (2)によれば、「第二バチカン公会議のローマ」は偽である。
 従って、永遠のローマと一致する聖ピオ十世会が真であるということと、第二バチカン公会議のローマが偽であるということとは矛盾しない。


また、

Ⅱ. 聖ピオ十世会は、教皇(=永遠のローマ)の不可謬性を主張している。
 しかし「ローマがどんなことに関しても不可謬であり40年間も偽であり続けることができない」ということは、カトリック教会の信仰箇条ではない。
 過去の教皇様たちの荘厳な不可謬の宣言が、永遠の光として輝いているにもかかわらず、それを無視して行動する教皇や司教たちが出現しないということは、信仰箇条ではない。
 たとえば、聖ロベルト・ベラルミノは、その『教皇論』の中で「異端的な教皇」「離教的教皇」という可能性さえ論じている。
 たとえ、40年間以上も、個人的な偽った考えを説いて廻る教皇たちが登場しうるとしても、「教会教導権の権威が実際にはフィクションであった」ということにはならない。
 ただし、聖アタナジオの時代にそうだったように、カトリック教会の大部分が異端という壊疽に犯されてしまったとしても、必ず少数の一部は健康な部分として正統な信仰を保つだろう。何故なら、私たちの主イエズス・キリストは、地獄の門も打ち勝つことはない、と言ったからだ。


 従って、たとえ大多数の司教たちがそして最高権威者が、近代主義に犯されてしまったとしても、正統カトリックを主張するカトリック教会の一部である聖ピオ十世会は残っていることは、カトリック教会が正に天主からのものであるということを証明している。


(D)この「ローマ」の区別ができないのは、保守派だけではなく(Peter Vere もその一人のように思われる)、聖座空位主義者もそうだ。


 その論理を突き詰めればこう言うことだ。


【保守派の論理】
大前提:信仰によれば、ローマ教皇は誤り得ない。
小前提:しかし現実には、ローマ教皇は誤ったことをしているように思える(たとえば、新しいミサ、エキュメニズム運動など)。
結論:ローマ教皇は誤り得ないので、ローマ教皇がしていること(たとえば、新しいミサ、エキュメニズム運動など)は全て正しい。


【聖座空位主義者の論理】
大前提:信仰によれば、ローマ教皇は誤り得ない。
小前提:しかし現実には、ローマ教皇は誤ったことをしているように思える(たとえば、新しいミサ、エキュメニズム運動など)。
結論:ローマ教皇は誤り得ないので、ローマ教皇は教皇ではない。


 どこが問題なのか? 大前提が間違っている。「大前提:信仰によれば、ローマ教皇は誤り得ない。」これの言わんとしていることは、「どのような時でもどんなことでもローマ教皇は誤り得ない」だ。しかし、教導権の不可謬性には条件が満たされなければならない。「どのような時でもどんなことでもローマ教皇は誤り得ない」は私たちのカトリック信仰ではない。


 因みに、 Peter Vere について言えば、トリエント公会議の決議文を無制限に拡大解釈している。


 Peter Vere 【今】=【保守派流論理】
大前提:(信仰)「トリエント公会議は、カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない、という。」
小前提:(現実)「教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だった」
結論:「従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえない。従って、新しいミサは、本質的に悪ではない。」


 Peter Vere 【昔】=【聖座空位主義者流論理】
前提:(信仰)「トリエント公会議は、カトリック教会がミサの挙行のために使用するものとした、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引するというならば、その者は呪われよ、という。」
小前提:(現実)「新しいミサは、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引する。」
結論:「従って、新しいミサは呪われている(本質的に悪である)。」


(つづく)


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【質問】現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?

2007年03月05日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


【質問】
 現在、カトリック教会は危機に襲われているのでしょうか?


【答え】
 はい。第二バチカン公会議後、人々は教会に新しい聖霊降臨と春が訪れると期待していましたが、実際にはその反対のことが起こりました。教皇パウロ六世は1969年に教会が「自己破壊」をしていると言いました。


 『歴史に輝く教会』(南山大学)1969年発行によれば、すでに「公会議後の諸問題」(pp.535-579)という題の論考は、教会における危機、エキュメニズムの危機、司祭職の危機、権威の危機、信仰の危機について語っています。


 数万の司祭が司祭職をうち捨て、多くの修道者、修道女たちが世俗の世界に戻りました。ヨーロッパと北アメリカでは召命が激減し神学校や修道院が続々と閉鎖されました。多くの小教区では司祭が不在で修道会は以前経営していた学校、病院、その他の施設を放棄してます。


【司祭】
 統計によると、1962年から1972年の10年の間に、21,320名の司祭たちが司祭職を放棄して信徒の身分に戻りました。ただし、これはローマに還俗の許可を求めて許可が下りた人々の数であって、「蒸発」してしまった司祭たちの数は含まれていません。1967年から1974年の間に3万から4万名の司祭が召命をうち捨ててしまいました。この悲劇はプロテスタント主義の出現によって失われた召命とは比較にならないほど大きいものです。


【修道者の召命】
 女子修道会に関して、ラッツィンガー枢機卿がこう言っています。
「六〇年代の初め頃、ケベックはまだ六〇〇万人の人口に対して、世界でも最も修道女の数の多い地方であった。ところが1961年から81年にかけて、脱退、死亡、入会志願者減少などで修道女の数は、46933人から26294人に減った。なんと44パーセントの減りようで、とどまるところを知らぬありさまであった。同じ時期に、入会志願者の数は98.5パーセントも激減した。そのうえ、残りの1.5パーセントの大部分は若い女性ではなく、"熟年証明者" であることが確かめられた。従って、このデータだけでレポートを作成した社会学者たちは次のような辛辣で客観的な結論に合意した。「今後短い期間に(すくなくとも人間的観点からはまったくありえない傾向の逆転でもないかぎり)私たちの知っている女子修道生活は、カナダではただ記憶としてしか残らないだろう。」(信仰について pp132-133)


【神学生】
 フランスでは1950年代、毎年約1000名ほどの司祭が叙階されていました。1990年代では毎年100名程度しかありません。
 ドイツでは1986年には、神学生と修道志願者の総計がそれでも727名ありました。しかし、1996年には232名しかありませんでした。


【平信徒】
 1958年、35パーセントのフランス人たちが毎主日にミサ聖祭に与っていました。2004年にはわずか5パーセントにすぎなくなりました。
 1950年、90パーセント以上のフランス人が子供に洗礼を授けていました。2004年には60パーセント以下が子供に洗礼を授けるのみです。


【成人受洗者】
 フランスでは毎年平均12500名がカトリックに改宗して洗礼を受けます。同時に、毎年30000名がイスラム教徒になっています。
 1970年から1993年のあいだに190万人のドイツ人がカトリック教会から公式に背教しました。その理由は彼らにとってカトリック教会が意味をなさないから、重要ではないから、でした。この調子では、カトリック教会はもうすぐドイツにおいてごく少数のマイノリティーに成り下がることでしょう。
 これらは全世界で起こっていることのうちで、目立っていることにすぎません。たとえば、ラテンアメリカでは、急速にプロテスタント化しつつありその速度は16世紀のドイツで起こったものよりもはるかにしのぐものです。1900年、ブラジルでは3パーセントだけがプロテスタントでした。2004年には16パーセントになり、毎年加速してます。リオデジャネイロでは、毎週(!)平均5つのペンテコステ派の教会が立てられています。「対話のための教皇庁委員会議長」のフランク・ロデ神父は1993年に、ラテンアメリカでは毎年カトリック教会は60万の信徒たちを失っている、と報告しています。別の統計によれば、ラテンアメリカでは毎日(!)8000名がセクトに改宗しています(Present, 22 mai 1993)。


【信仰の危機】
 カトリック信仰は、特にヨーロッパにおいて消滅しつつあります。天主の存在、イエズス・キリストの天主性、天国、煉獄、地獄などを信じる人々はますますいなくなっています。自分のことをカトリック信徒だと言い、頻繁に教会に通う人々でさえも、基本的なカトリック信仰を否定する人がますます増加しています。


【道徳の危機】
 信仰の危機に伴って、道徳の危機があります。残念ながら、多くのカトリック信者たちは「この世の子ら」、信仰を持たない人々と同じような生活を送っています。忠実、純潔、正義、犠牲心などはカトリック信者においてもますます蔑ろにされつつあります。
 ドイツでは、3組に1組が結婚の5から10年後に「離婚」をし、その後「再婚」しようとするカトリック信者がますます増加しています。1984年の統計によると、カトリックの強いドイツのチロル地方では、84パーセントが避妊に関する教会の教えを拒否すると答えています(Herderkorrespondesz, Marz 1984)。18歳から30歳の回答によると、避妊に関する教会の教えに全く同意すると答えたのはゼロに等しく、1.8パーセントしかありませんでした。
 フランスでは2003年の統計によると、カトリック信者の4人に1人が「罪というのはたいして意味をなさない」と答えています。

 

【聖職者の危機】
 召命の激減という危機の他に、聖職者の多くは信仰を失ってしまっています。


 カトリック信者の信仰が危機にあるのは結果です。その原因は、聖職者達の信仰の喪失の危機です。司祭は自分が信仰を失うだけではありません。他の人たちの信仰を失わせます。たとえば、司祭たちが主日のミサで信仰に反するようなことを説教することによって。公教要理を教えないことによって。信仰の真理に疑問を挟む、相対化させる、あからさまに否定することによって。

 


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アシジは「ニュー・エイジの始まり」(ヨハネ・パウロ二世)

2007年03月05日 | 質問に答えて

アヴェ・マリア!


アシジは「ニュー・エイジの始まり」(ヨハネ・パウロ二世)


【質問】
ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズムでは、
ヨハネ・パウロ二世教皇様が、アシジの諸宗教の祈祷集会を開いて、「第二バチカン公会議を正しく理解する挿絵(イラストレーション)である」と言ったとありますが、いつそう言われたのでしょうか?


【答え】
 1986年12月22日、枢機卿とローマ聖省のメンバーたちにヨハネ・パウロ二世が述べた訓話です。ヨハネ・パウロ二世の言葉によれば、

「アシジの出来事は、第二バチカン公会議によって勧められまた始められた諸宗教とのエキュメニカルな努力と対話が前提とし意味していることの、目に見えるイラストレーション、出来事による解釈、皆に理解できるカテケージスとして考えられる」

L’evento di Assisi puo cosi essere considerato come un’illustrazione visibile, una lezione dei fatti, una catechesi a tutti intelligibile, di cio che presuppone e significa l’impegno ecumenico e l’impegno per il dialogo interreligioso raccomandato e promosso dal concilio Vaticano II.

と言っています。


 1986年10月22日の一般謁見の訓話によれば、ヨハネ・パウロ二世教皇は
「この事実(アシジの出来事)を第二バチカン公会議とその教えの光の元で見て解釈されることを望む」

Vorrei che questo fatto... fosse visto e interpretato da tutti i figli della Chiesa alla luce del Concilio Vaticano II e dei suoi insegnamenti. )
と言っています。


 そして第二バチカン公会議によって始められ、アシジの「神秘的な山」(L'Osservatore Romano, October 27, 1986, p.2)にたどり着き、アシジの出来事は「ニュー・エイジの始まり」(L'Osservatore Romano, December 1, 1986, p.2, in "Pope John Paul II's Theological Journey to the Prayer Meeting of Religions in Assisi" by Fr Doermann)であると言っています。

 

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聖ピオ十世会に対してなされる非難に対する回答

2007年03月05日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 聖ピオ十世会に対してなされる非難に対する回答


 最近「金田一輝のWaby-Saby」というブログで、金田さんが Peter Vere という人の記事を紹介している。まず金田さんが、私たち聖ピオ十世会に関心を抱いて下さって感謝したい。まだ受洗されおられないそうであるが、いろいろとお調べになっておられるようで、私はその努力に敬意を払いたいと思う。天主様の祝福が豊かにありますように!


 ただ、残念であるが、金田さんは Peter Vere という人の記事をただそのまま鵜呑みにしておられるだけなので、大きく誤解されているようだ。 Peter Vere さんは聖ピオ十世会の聖伝のミサに与っていた方のようだが、だからといって聖ピオ十世会の立場を完全に理解していたとはどうも思えない。


 日本の兄弟姉妹の皆様のためにも事実をお知らせする必要があると思うので、ここで幾つか指摘したい。願わくは、聖霊来り給え、信者の心に充ち給え。主の愛熱の火をわれらに燃えしめ給え。原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉るわれらのために祈り給え。聖ヨゼフ、我らのために祈り給え! 聖ピオ十世、我らのために祈り給え! 守護の天使、保護の聖人、我らを導き給え!

 

新ミサ:本質的に悪?において、

● Peter Vere は言う、「聖ピオ十世会によってなされる共通した立論は、パウロ6世によって改正された典礼は「本質的に悪である」・・・というものだ。」


■ まず言葉が正確ではない。ルフェーブル大司教や聖ピオ十世会は「本質的に悪 intrinsically evil」という言い方はしなかった。あるべきもの・あって当然然るべきものが無い・欠けているとき、それは「悪いもの」であると言う意味で「悪いミサ」とは言っている。「本質的な悪」とは意味が違う。


 あるべきもの・あって当然然るべきものが無い・欠けているとき、それは「悪いもの」であると言う。例えば医者は患者の健康を保ち・回復させ・治療するための医学知識と医者としての良心を当然持たなければならない。有るべき医学知識を欠く医者あるいは医師としての良心を欠く医者は「悪い医者」だ。当然機能するべき操作ができないコンピューターは「不良品」だ。人間の当然果たすべき倫理道徳の道から外れることを喜んでする人は「悪人」である。だからといって、悪い医者、不良品のコンピューター、悪人が、本質的悪であるとは言えない。Peter Vere にはこの違いが分からないようだ。


5.確かに、ルフェーブル大司教は誤解を避けるために新しいミサに対して「本質的な悪」という言い方をしませんでした。しかし「悪」ということの定義が「当然あって然るべきものが欠如しているもの・こと」であるので、新しいミサは、当然あって然るべきものが欠如しているので、その限りにおいて、それ自体で「悪いミサ」であると言わなければなりません。カトリック神学はこう教えています。Bonum est integra causa, malum ex quocumque defectu. つまり、善が成り立つためには全てが揃っていなければならず、必要なものが一つでも欠けている場合には、それが何であろうと悪いものとなる、ということです。

以下は、新しいミサは悪いミサ からの引用。


「新しいミサを「第2バチカン公会議後の公式典礼」と呼ぶことは出来る。しかし、言葉のまったき意味では「カトリックのミサ」であるとは言い難い。新しいミサには、カトリック的な要素が見せかけであること、プロテスタントに迎合しようとする傾向があまりにも明白なので、私たちのカトリック信仰を失わせる危険なものとしている。


 ミサ聖祭は、本来なら、私たちのカトリック信仰を十全に表明し、養い、強めなければならない。そうあって当然のものであるにもかかわらず、新しいミサはその当然あるべきものが無いミサ。その反対に、私たちのカトリック信仰を脅かす危険のあるミサ。

 「悪」ということの定義は、「当然あって然るべきものが欠如しているもの・こと」。

 さて、新しいミサには、当然あって然るべきものが欠如しているので、その限りにおいて、それ自体で「悪いミサ」であると言わなければならない。

 カトリック神学はこう教える。Bonum est integra causa, malum ex quocumque defectu. つまり、善が成り立つためには全てが揃っていなければならず、必要なものが一つでも欠けている場合には、それが何であろうと悪いものとなる。従って、私たちは新しいミサを「悪いミサ」と言わなければならない。



● Peter Vere は言う、「「偶有性」は第二バチカン以前の典礼とパウロ6世の改正された典礼とで違いがあるが、本質(essence)は同一のままである」


■  Peter Vere には「本質」ということが何か分かっていない。「黒ミサ」と言われているものがある。これは、天主を冒涜する目的で捧げられる冒涜行為だ。背教した元司祭がそれを執行し、冒涜のために本当に御聖体を聖変化させる。しかし、たとえ「有効な聖変化」が行われていても、「ミサ聖祭」と「黒ミサ」とは本質が違う


 新しいミサのミサ典書には新しいミサの定義がなされている。定義とは本質(何であるか)を示すものだ。


(神学用語について、あまり詳しくない方のために一言付け加えると、「人間」というのを「実体 substance 」、日本人とか、身長170センチ、体重65キロ、色白、などというのを「遇有 accident」「付帯性」などという。ものをそのものとしてあらしめ規定するものを本質 essence という。)


 トリエント公会議ではミサ聖祭は「それによって十字架上で一度血を流して遂行されるべきであるかのいけにえが再現され、且つその記憶が世の終りまで永続し、またその救いの力が私たちによって毎日犯される諸々の罪の赦しに適応されるいけにえ」が本質であると宣言された。


 パウロ六世の新しいミサでは、「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、『わたしの名において、2、3人が集まるところには、その中にわたしもいる』(マテオ18:20)というキリストの約束は、特に教会がそれぞれの地域で集まるときに実現される。」と言われている。


 つまり、「いけにえ」(聖伝のミサ) => 「集会」(新しいミサ) と本質が変わっている。



● Peter Vere は言う、「イエス・キリストの体、血、魂と神性は聖餐へと実体変化している。」(原文:the Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ transubstantiated into the Eucharist. )


■ これは神学的に間違っている表現だ。パンとブドウ酒がイエズス・キリストの御体と御血に全実体変化する The bread and the wine transsubstantiate into the real Body and the Blood of Our Lord Jesus Christ. が、the Body, Blood, Soul and Divinity of Jesus Christ transubstantiated into the Eucharist. という言い方は意味をなさない


「パンとブドウ酒の形色(=外見)だけを残し、パンの全実体が御体に、ブドウ酒の全実体が御血に変わるかの素晴らしい特異な変化(この変化をカトリック教会は全実体変化という全く適切な表現で呼ぶ)」これが、トリエント公会議の表現だ。(DzS1652(Dz884)あるいは DzS1642 参照)



●  Peter Vere は言う、「司祭が第二バチカン以前に使用された典礼によって挙行しようが、教皇パウロ6世によって改正された典礼書によって挙行しようが、ミサの中心にあるこの神秘は生じる。実際、どちらの典礼書も同じローマミサ様式において使用されている。」


■ 検邪聖省の長官代理オッタヴィアーニ枢機卿は、パウロ六世教皇への報告書の中でこう言っている。


「新しい式次第に載せられている限りにおいて、聖別の言葉が有効であり得るとすれば、それは司式司祭の意向のおかげである。この聖別の言葉は無効でもあり得る。なぜなら、もはや[新しいミサ典書の]言葉自体の効力によって(ex vi verborum)は、有効性を失っているからである。もっと正確に言いかえると、聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。


「実際、どちらの典礼書も同じローマミサ様式において使用されている。」という発言は意味不明。



■ Peter Vere は言う、「私が聖ピオ十世会と結びついていた時、改正ミサが本質的に悪であるという主張を擁護しようとして私はトリエント公会議のミサの犠牲についての第七カノンを引用していた。」


● ここを見ると Peter Vere は聖ピオ十世会の論じるところを繰り返していたのではなく、自ら神学者となって聖ピオ十世会が述べていない論拠に従って、聖ピオ十世会よりも効果的に(?)「新しいミサが本質的に悪である」と主張しようとしていたようだ。




■ Peter Vere は言う、「本質的に悪であるものは本性からして不敬を誘引するものであるが、一方トリエント公会議はカトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえないと宣言しているからである。しかしちょっと待て。教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だったのか? もちろんそうだ。それだから、トリエント公会議で教義的に定義された教会の伝統に従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえないということを結論するしかできない。必要があれば、なんらそれは本質的悪ではありえない、と付け加えてもいい。」


● 彼の論理は、つまりこうだ。


【昔】
「トリエント公会議は、カトリック教会がミサの挙行のために使用するものとした、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引するというならば、その者は呪われよ、という。」
「新しいミサは、礼式、祭服、外面的な印が不敬を誘引する。」
「従って、新しいミサは呪われている(本質的に悪である)。」


【今】
「トリエント公会議は、カトリック教会が承認した典礼式は不敬を誘引しえない、という。」
「教皇パウロ6世の改正された典礼は教会によって承認された典礼だった」
「従って、パウロ6世の改正された典礼は不敬を誘引しえない」
「従って、新しいミサは、本質的に悪ではない。」

 

 私たちはこう答えよう。

(1) パウロ6世教皇は、新しいミサに関して1969年11月19日に「典礼様式とそれに関する典礼法規はそれ自体で教義上の定義ではない」と言ってる。


(2)教皇パウロ六世は教会法的に新しいミサを全教会に強制しなかった。教皇は新しいミサを許可したに過ぎない。
新しいミサについての教会法上の観点からの考察


(3)さらに新しいミサの発布は普通のやり方ではなかった。国務省の枢機卿、また礼拝聖省長官の枢機卿を何ら考慮することなく、検邪聖省を通過せずに、それを飛び越して、教皇パウロ六世はブニニ神父の言うがままに文書に目を通さずに署名した。

「近代主義の教会の中への潜入」を参照のこと


(4)トリエント公会議は、
第5章 盛式ミサ聖祭について
DS 1746(943)人間性は外的なことがらの助けなしに、天主について黙想することを困難に感じる。そのため、聖なる教会はミサの儀式の一部を低い声で(第9条)、一部を高い声でとなえるように規定した。さらに教会は種々の儀式に関する規定をもうけた。たとえば、使徒たちの規律および伝承から受継いだ聖なる祝福、ローソク、香、祭服、その他のものを利用してきた。これらのものはすべて、いけにえの偉大さを示し、宗教と信心の目に見える物を通じて、このいけにえに隠れて内在することがらの観想に信者の心を向けるためである。

また、それを受けて、
「DS 1757(954)7条。カトリック教会がミサ聖祭の時に使う儀式、祭服、外的なしるしは、信心の助けになるどころか、不敬の念を超させるものである、と言う者は排斥される(DzS1746参照)。 」
と言っているが、


 だからといって、教会の敵が、教会の全聖伝に反して教皇の署名をどうにかして奪い取って「教皇」の御旗の元に、プロテスタントと共に作る「新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」(オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)ミサ典書を押しつけるようなことは起こらない、とは宣言していない。


(つづく)

 

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ルフェーブル大司教様の1988年の司教聖別と『破門問題』周辺

2007年03月03日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 ルフェーブル大司教様の1988年の司教聖別と『破門問題』周辺


 ルフェーブル大司教様の1988年の司教聖別やヨハネ・パウロ二世教皇様の『エクレジア・デイ』に関して、どう考えたら良いのでしょうか? 


 最近、「護教の盾」のヨゼフ・ジェンマさんが、ヨハネ・パウロ二世教皇様の『エクレジア・デイ』を日本語に訳して下さったようです。


 これを日本語に訳されて「聖ピオ十世会の人達に悪いかなぁ」と思うご必要はありません。何故なら、この文書が出たことは現実であり、私たちは現実を直視しなければならず、「そうあればいいのに」という夢の中で生きるのはまさに近代主義のやり方だからです。


 ローマと聖ピオ十世会関係の公文書は、レネー神父様の編集しアンジェルス・プレスが本で出版しています。Archbishop Lefevre and the Vatican


 また同じ本の内容は、聖ピオ十世会アジア管区のホームページでオン・ラインでアップされつつあります。


 エクレジア・デイについて、私は一部をここそこらで、訳したことがあります。しかし私はこれを敢えて全文を日本語に訳しませんでした。何故なら、せっかく訳しても聖ピオ十世会の訳は、バイアスがかかっているから信頼できない、とか言われるのがオチだと思ったからです。ですから日本の中央協議会などが公式の訳を出してくれるのを待っていましたし、またそれ以外の仕事も多かったからです。


 さて、この文章に対して、どう考えればよいのでしょうか? 私たちは『エクレジア・デイ』を読んであることを前提に、以前からそれに対して回答をしてきました。しかし、日本のカトリック信徒の方々が全てが全て、教会の歴史や教会法について勉強されたわけではありませんし、変な思い込みがあるでしょう。ですから、私たちが言ってきたことがあまりよく伝えられていないように思われます。


 そこでこの『エクレジア・デイ』が日本語に訳されたことをよい機会に、もう一度、ここでそれを考察してみましょう。


 ところで、この文書に注目する前に、旧約、新約の実例を思いついたまま幾つか取り上げてみたいと思います。



(1)旧約時代のマカベオ兄弟と「安息日」


 紀元前4世紀、有名なマケドニア人のアレクサンドロは諸国を征服し大帝国を築き上げ、パレスチナも彼の手に落ちました。その後、アンティオコ・エピファネ(アンティオコ四世)は、エジプトに攻め入り勝利を収め、イスラエルとエルサレムを攻め襲いました。「王は全国に書面を送り、みな各々の国の習慣を捨て、一つの民にならねばならぬと告げた」のでした。145年、王は荒らす厭わしいものを祭壇に立て、見つけ出す限りの律法の本を引き裂いて焼き、割礼を禁じ、棄教せよと命じたのでした。この迫害の中、イスラエル人の多くは王の方につきました。しかし、マタティアは「律法を守る熱意に燃え、契約を行おうとする者は私に従え」と呼びかけて山に逃れたのです。マタティアの言葉に従って、正義と公正を求める多くの人々は荒れ地に逃げました。


 王の兵隊は彼らを追い、安息日に闘いを交えようとしました。しかし一部の人々は安息日だったので、応戦せず、身を守ることもせず、安息日を犯すよりも死のうといって死んでいきました。その数は1000名ほどでした。


 しかし、マタティアとその友は、私たちがあの兄弟達にならって安息日だからといって異国人と戦うことをしなければ、たちまち私たちは地の表から滅ぼされてしまう。安息日に戦いを仕掛けるものがあれば、安息日であろうと私たちは彼らと戦おう、と決心したのでした。マタティアの死後は、マタティアの息子でマカベオと呼ばれていたユダがあとを嗣ぎましたが、ごく少数にすぎませんでした。アンティオコは、これらの抵抗をにじりつぶすために、4万の歩兵と7千の騎兵を送り、その他多くの軍勢もそれに加わりました。しかしマカベオ兄弟達はそれらと戦い、イスラエルの宗教を守り抜いたのです。


 カトリック教会はマカベオ兄弟を聖人として祝っています。1962年のミサ典書において全世界で祝われる唯一の旧約の聖人です。


■ 天主の十戒の第一戒を守るために、第三戒の安息日は犠牲になった。信仰を守ると言うことは何にもましてなされなければならないこと。



(2)ファリザイ人たちと私たちの主イエズス・キリスト


 ファリザイ人たちはイエズス・キリストが天主であることを信じるのを拒びました。私たちの主イエズス・キリストにおいて、モーゼに代表される全律法とイザヤに代表される全預言が成就してました。またイエズス・キリストは、多くの奇蹟に代表される善行をなしていました。しかし、ファリザイ人たちにはそれが見えませんでした。何故でしょうか? 彼らには「安息日を守る」という律法の字面しか見えなかったからです。


 イエズス・キリストは命の必要なら、善のためなら安息日を「無視」して善をなしました。


 安息日に、イエズスは麦畑をお通りになると、弟子たちは空腹だったので、麦の穂をつんで食べはじめ、ファリザイ人がこれを見て、「あなたのお弟子は、安息日にしてはいけないことをしています」といったことがあります。


 彼らはイエズス・キリストを訴えようとしてこう尋ねました。「安息日に病気を治してもいいのですか?」と。


 イエズスはかれらにむかって「あなたたちの中に、一匹の羊をもっている人がいて、羊が安息日に穴におちたら、ひき上げないでおくだろうか?人間は羊よりもはるかにすぐれたものである。だから、安息日に善を行なうのはよいことだ」とおおせられ、そしてその人にむかって「手をのばせ」とおおせられ、その人が手をのばすと、その人の手は治って、もう一方の手と同じようになりました。


 だから私たちの主イエズス・キリストは、ファリザイ人たちについて大変厳しい言葉でこう言われました。


「のろわれてあれ、偽善者の律法学士ファリザイ人よ。あなたたちは、他人の前に天国をとざし、自分もはいらず、はいろうとする人がはいるのもゆるさない!」


「のろわれてあれ、偽善者の律法学士ファリザイ人よ。あなたたちは、はっか、ういきょう、いのんどの十分の一をおさめながら、律法の中でいちばん重大な正義と慈悲と忠実とを無視している!さきのをも無視することなく、あとのをこそ、おこなわねばならない。めくらの案内人よ、あなたたちは、小蝿をこし出して、らくだをのみこんでいる!」


■ ファリザイ人たちは「法!法!法!」と叫んでいた。そして律法の字面にこだわるあまり、法の目的とその意味しているところ(イエズス・キリストへの信仰)が理解できなかった。だから彼らは、律法の目的と安息日の主を、律法を壊す者・安息日を破る者として断罪した。

 


(3) 旧約の大司祭の権威と使徒達の本当の従順


 イエズス・キリストの御復活後、ユダヤ人のかしらたち、長老たち、律法学士たちは、イェルザレムに集まり、大司祭アンナも、カヤファも、ヨナタンも、アレキサンドロも大司祭の一族みな集まった。互いに相談して「その噂が、これ以上人々のなかにひろまらないように、今後、その名によって誰にも話すなと、おどして禁じよう」といった。


 そして使徒達をよんで、一切イエズスの名によって話したり教えたりするなと禁じた。しかしペトロとヨハネとは「天主をおいて、あなたたちに従うことが、天主のみ前にただしいことかどうかは、あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません」と答えた。


■ 長上の権威は天主の代理であり、天主への信仰と天主への従順のためにある。もしも正当な権威であっても、天主への真の信仰や真の従順に背くことになるなら(たとえば「ウソをつけ」「イエズス・キリストだけが真の宗教を作ったと真理を言ってはいけない」)、それに従うことは、本当の従順ではなくなる。

 

(4)聖ペトロと聖パウロとはアンティオキアで


 聖ペトロがアンティオキアに来たとき、聖パウロは面と向かっでかれに反対した。かれに非難するところがあったからである。というのは、かれはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからである。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどであった。しかし聖パウロは、かれらが福音の真理にしたがって正しく歩んでいないのを見て、皆の前で聖ペトロにいった。「あなたはユダヤ人であるのに、ユダヤ人のようにせず、異邦人のように生活している。それなら、どうして異邦人にユダヤ人のようにせよと強いるのか」。(ガラチア書 第二章)


■ 一司教にすぎなかった聖パウロは、初代教皇聖ペトロの偽りの態度を見て、皆の前で聖ペトロを公然と非難した。何故なら、Melius permittitur nasci scandalum quam Veritas relinquatur.真理を裏切るより躓きが生じるのを許した方が良い(大聖グレゴリオ)からだ。「この非難の機会はささいなことではなく、適宜であり有用であった。福音の真理からそれる危険があったからである。やり方もふさわしかった。なぜなら、この過失がすべての人々の信仰を惑わす危険があった限りにおいて、公であり、明白であったからである。」(聖トマス・アクィナス)

 

(5)教皇リベリウスと聖アタナジオ


 357年、教皇リベリウスは半アリウス主義(半分アリウス異端説に染まった説)の信教にサインし、ニケア公会議の擁護者であった聖アタナジオを破門しました。360年、コンスタンチノポール教会会議はカトリック、アリウス異端者、半アリウス異端者の全てがサインすることができる信教を採用し、聖イェロニモは「全世界はうめき自分がアリウス異端説に染まってしまったのを知り驚いた」と言っている程でした。


 聖アタナジオとサモサタの聖エウゼビオとは自分の司教区以外でも(もちろん、教皇様の許しなく!)正統信仰の司教たちを聖別しました。有名な神学者ドン・アドリアン・グレアはこう書いています。「4世紀に、サモサタの聖エウゼビオはアリウス異端者たちによって壊滅状態に陥った東方の司教区を旅行し廻って、彼らの上に特に裁治権があったわけではなかったが、彼らのために正統な牧者(司教)たちを聖別した。これらは極めて異常な行動であったが、状況がそうさせたのであった。」(Adrien Grea, l'Eglise et sa Constitution Divine, p. 236)


 もちろん、リベリウスの聖アタナジオに対する破門は有効だと見なされるべきではありません。何故なら、カトリック教会は、教皇リベリウスから歴代の教皇として初めて「聖人」の称号を取り除き、聖アタナジオには「聖人」の称号を送っているからです。


■ 信仰を守ることは何よりも重要。




(5)教皇オノリオ一世(ホノリウス一世)(625-638)とそのキリスト単意説


 教皇オノリオ(Honorius)一世は、キリスト単意説の異端をコンスタンチノポールの総大司教セルジオへの二通の書簡で述べ、第三コンスタンチノポール公会議(第六公会議)によって教皇オノリオ一世は異端者であると排斥され、これを教皇レオ二世は承認しています。


デンツィンガー・シューンメッツァー552番
 彼らを追放すると共に同時に、天主の聖なるカトリック教会から、オノリオも同時に私たちは排斥することを決議した。彼は古きローマの教皇であったが、彼がセルジオ宛てて書いた書き物を通して彼が全てにおいて彼の説に従ったことそして不敬虔な教えを承認したと私たちは見いだしたからである。


552 Cum iis vero simul proiici a sancta Dei catholica Ecclesia simulque anathematizari praevidimus et Honorium, qui fuerat papa antiquae Romae, eo quod invenimus per scripta, quae ab eo facta sunt ad Sergium, quia in omnibus eius mentem secutus est et impia dogmata confirmavit.

 


■ 教皇はその在位中は誰からも裁かれ得ないが、後継者の教皇或いは公会議によって裁かれうる。

 

(6)東欧の共産主義の迫害下で


 フランスのアンシーと言うところの司教区に非常に高齢の司祭がおります。彼はモーリス・ドゥ・ネッシ神父 (Reverend Pere Maurice de Nessy) と言います。ドゥ・ネッシ神父は東欧職国の事情に詳しく、強制収容所に送り込まれた司教たちの義務はローマと連絡せずに司祭や司教たちを叙階する事である、と言っています。例えば Dachau では Piguet 司教によって秘密の叙階式がありましたし、アルバニアでもそのようなことがありました。


 ドゥ・ネッシ神父
「ルーマニアでは私は東方典礼のカトリック司教である Gorcea 司教と話をすることが出来ました。彼は Hossiu 首都大司教枢機卿によって或る強制収容所で秘密のうちに司教に聖別された司教です。Gorcea 司教と Hossiu 首都大司教枢機卿は共に同時に解放されましたが、自由になったその同じ日に二人とも亡くなってしまいました。ソビエト連邦では Herbigni 司教が Sloskans 司教、 Frison 司教、Nevu 司教、Malecki 司教の4人を聖別しました。Herbigni 司教が処刑されると Malecki 司教は Maultonis 司教と Amudru 司教とを聖別しました。」

 「ウクライナでも秘密の司祭叙階や司教聖別があったことを知っています。例えば Ronya 司教は強制収容所で行方不明となり Alexander Shira 司教を聖別しました。また Vassil Welichkovshi 司教も聖別され13年間投獄生活を送りその後追放され、1973年にカナダで亡くなっています。また Pavlo Vassilik 司教と Ivan Simidi 司教も秘密裏に聖別され、両司教は23名の司祭、12名の修道者また74名の平信徒と共に署名請願をし、ゴルバチョフに教会の公式認可を求めて森の奥から出てきました。これらの4名の司教たちは、ローマと連絡を一切持たずに逃亡中の或いは投獄中の司教たちから強制収容所或いは「山の中」で司教に聖別されたものたちです。もちろんこれには理由がありました。何故なら東方典礼のカトリック教会は生き残るために司祭が必要であり特に司教がどうしても必要だったからです。…」


■ 共産主義者たちの迫害の元で、カトリック教会の生き残りのために、多くのカトリック司教たちは教皇様の許し無しに司教聖別をしたが「破門」になったわけではない。


 

 すこし前置きが長くなりすぎてしまいました。この続きはまた後ほど書きます。

 


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幼児のテレビ視聴と自閉症との関係

2007年03月02日 | 本・新聞・ウェッブ・サイトを読んで

アヴェ・マリア!


幼児のテレビ視聴と自閉症との関係



 アメリカのニューヨーク州にあるコーネル大学とインディアナ大学は幼児のテレビ視聴と自閉症との関係を調査した。


 それによると子供のテレビ視聴時間と天候のデータを比較した。30年前には、およそ2500名に一人の子供が自閉症だった。しかし今日ではその2倍以上になっており、166名に一人の割合で自閉症が発生することもある。同時にテレビの視聴も劇的に急増している。


 カリフォルニア、オレゴン、ワシントン州などの雨や雪の多い地域では子供がテレビを見る機会が多くなる。そのような地域の子供達には自閉症が多い。またケーブル・テレビの加入率の高いところでも自閉症が多い。


 自閉症の40%の子供達は、テレビ視聴時間が極めて長いとのことである。3歳以下の子供で2時間以上テレビの前で時間を過ごす子供達のIQは、その他の子供達と比べると低かった。


 これとは別のニュージーランドでの研究によると、5歳から11歳までのあいだにテレビを見ていた子供達は、ほとんど大学の教育課程を終えることができていないとのことだ。(Caheirs Saint Raphael, N. 85 decembre 2006, p.110)


 子供達に幸せな人生を送ることができるように手伝うために、お父さんもお母さんも良い模範を見せて、テレビを家庭からなくしてしまうのが良いだろう。

 参考資料
http://www.news.cornell.edu/pressoffice1/Oct06/tv_autism.shtml


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信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?

2007年03月02日 | カトリックとは

アヴェ・マリア!

信教の自由は人間人格の基本的権利なのでしょうか
歴代の教皇様は何と言っているでしょうか?



 全体主義の驚異に直面して、また同時に諸々の誤った「人権」に根差したリベラリズムから距離を置くために、ピオ11世、ピオ12世、ならびにヨハネ23世教皇は人間の人格(ペルソナ)のに属する主要な自然的権利、すなわち「基本的権利」(上記参照)を宣言しました。これらの権利の中には、「天主を信奉する権利 (liberte du culte de Dieu) が含まれています。かかる権利の正確な意味は何でしょうか。あらゆる宗教の信奉者ことごとくに与えられる信教の自由に対する「権利」は、この基本的権利の延長線上にあるものなのでしょうか。今述べた宗教的自由に関する無差別主義的「権利」は、教会の教義の「等質的発展」から生じたものと言うことができるでしょうか。


1.真の天主を信奉する自由に対する基本的権利について相次いで出された声明

「しかるに [良心ならびに礼拝行為の自由 (liberte de conscience et de culte) ] ということを、人間は国家において、自らの義務の意識にもとづき、他者からの妨げを受けることなしに天主の意志に従い、その掟を遵守する権利と言う意味に解することもできます。かかる自由、真の自由かつ天主の子らにふさわしいものであるこの自由は、一切の暴力ならびに抑圧を超越するものであり教会が常に望み求め、大切にしてきたものです。」
レオ13世回勅『リベルタス』Actus II p.203 / PIN 215)


「人格としての人間は、天主から[直接に]受けるところの諸々の権利を有し、これらは共同体との関係において、それらを否定ないしは抹殺する、あるいはないがしろにする一切の侵害行為から免れて[守られて]いなければなりません。」
ピオ11世 回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』Actus XVI p.38)


「人間人格の基本的諸権利に対する尊敬と、その実践的適用を促進すること、すなわち身体的ならびに知的、道徳的生命を維持し発展させる権利、とりわけ宗教的養成および教育を受ける権利、私的および公的に天主を尊び礼拝する権利(この中には宗教組織による慈善事業も含まれます)」
ピオ12世 1942年12月24日付のラジオ・メッセージ Documents 1942 p.341)


「人権の中には、自らの良心の正しい基準にしたがって天主を崇敬し、私的ならびに公的に宗教を表明する権利が含まれます。」
ヨハネ23世 回勅『パーチェム・イン・テリス』Documentations Catholiques 1398, 21 avril 1963, col.515-6)


 この最後に引用した回勅において「人権」という表現が用いられていることは、まことに残念です。この言葉は、それが使われ始めた当初以来、天主を「称え、敬い、仕える」-これこそ「基本的自然権」と呼ばれるものなのですが-ためにつくられた被造物として人間が持つ権利をではなく、諸々の権利の絶対的な保持者[としての人間]の権利を意味するものだからです。

 

2-人間人格が持つ、真の天主を信じ礼拝する自由を有する権利


 A)この権利は
――自然的権利ですが、市民的権利としても認められなければならない権利であり、
――積極的権利(天主を一定の礼拝行為によって敬う権利)であると同時に消極的権利(妨げられることなしに)でもあり、
――主観的権利(「天主から受けるところの権利」)であると同時に客観的権利(天主に対する礼拝行為ならびに宗教的慈善事業、宗教的教育に対する権利)でもあります。


 B)「天主の意志に従う」、ならびに「信仰者」、「自らの信仰を表明する」、「天主に対する礼拝行為」、「天主を崇敬する」および「[自らの]宗教を表明する」と言った表現は、
――明示的には、天主がそれをとおして御自らが崇敬されることをお望みになるところの自然的または組織立った[既成の] (positive) 宗教を意味し、
――暗示的には、唯一の真の組織立った宗教(したがって他の全ての宗教は排除されます[考慮から外されます])、すなわちカトリック教会の宗教を意味します。

 実際、「客観的権利」(すなわち問題となっている権利の具体的対象)ということが問題になるやいなや、それは何らか真であり、かつ道徳的に善いものでなければなりません。そして、これこそ先述の2人の教皇が教えているところのことなのです。
「権利とは道徳的な権能であり、自然がそれを真理と偽りとに、また正義と不正義とに無差別に与えたと考えるのは馬鹿げたことです。」
レオ13世回勅『リベルタス』Actus II p.197 / PIN 207)


「真理および道徳の法にそぐわないことは、客観的に言えば、存在、宣伝、活動に対するいかなる権利も持っていません。」
ピオ12世教書『チ・リエーシェ』Documents 1953 p.616 / PIN 3041)



 C) しかしながら、ここでレオ13世とヨハネ23世は、人格が持つ「自らの義務の意識に従って」、もしくは「自らの良心の正しい規範に従って」天主を敬う権利について語っておられます。これは宗教的事柄において、自らの過失によらず誤っている、正しい良心  に客観的権利を認めることにならないでしょうか。

 これに対しては、否、決してそうではない、と答えねばなりません。
――当人の過失によらぬ誤謬は罪の免責の理由となりますが、当の誤謬を表明する者およびこれに基づいて行動する者に、いかなる客観的権利も付与しません。
――レオ13世の文書は、この全体を通読すれば、主観主義的解釈を受けつけないものであることは明らかです。ヨハネ23世の文書について言えば、せいぜい主観主義的傾向の疑いをいささかもよおさせる、といった程度にとどまります。
――したがって、以上2つの引用文については、制限を加えた狭い意味で解釈しなければいけません。すなわち、「良心は、賢慮の徳によって正されるかぎりにおいて真の宗教を認識する」と言うことはできますが、しかし、いかなる場合においても主観的な意味、つまり「当人の良心がそれと把握するかぎりでの(真の)宗教」という意味にこれを解することはできません。


結論: 客観的権利の意味で言えば、「天主を信じ礼拝する自由に対する基本的権利」は真の宗教にのみ当てはまり、他の一切の宗教は、かかる権利の対象外となります。教会の教導権が、このカトリック教義ならびに諸教皇の口をとおして幾度となくなされてきた同教義の宣言から、あたかも等質的な発展をとおして、あらゆる宗教の信奉者に無差別に適用される宗教的自由の客観的権利を導き出すことができると主張するのは、誤謬であり、不条理、欺瞞、かつ異端説です。なぜなら、かかる謬見は教会が矛盾を犯し得るとするからです。また、当の見解は不敬虔の極みでもあります。なぜなら、もしこれが正しい意見であるとすると、教会が明白な断絶を前にして、臆面もなく私たちに「安心しなさい。教義の継続性は確保されています。」と言ってだましていることになってしまうからです。



3-諸教皇が宗教的事柄における基本的権利の要求においてとった現実的な態度

 ピオ11世とピオ12世が、ある時にはこれこれのことを言い、またある時には別のことを言った-すなわちある時には明確な区別を欠いた「天主に対する信仰・礼拝行為に対する」権利を、また別の時には、はっきりと指名してカトリック信仰を表明する権利を唱えた-として2枚舌の汚名を着せることはできません。

 実際これは、宗教的事柄における基本的権利についての同一の教義を、主観的権利、および客観的権利という2つの側面の下に表明しているに過ぎないからです。

 この2つの権利の関係を浮き彫りにする2種の状況を考えてみることにしましょう。そしてその後、第3のケースを吟味することとします。


 A) まず第一に、全ての宗教を見境なく攻撃し、迫害する政治体制(特に共産主義の体制)が存在します。この種の体制は、あらゆる宗教に対して自由に活動する一切の客観的権利を否定するにとどまらず、天主を信じ、礼拝する権利の根幹自体、すなわち主観的権利に攻撃を加えます。この場合、教会は「抽象的な意味での」天主に対する信仰・礼拝の基本的権利、すなわち天主への信仰・礼拝に対する主観的権利を主張[確認][提唱]するとともに、暗示的に真の天主に対する真の宗教に客観的権利を確認します。そして、これが先に引用した一連の文書の背景なのです。


 B)次に、政権を握る体制がカトリック教会、その聖職者、その諸団体、およびその成員を迫害するキリスト教国家ないしはカトリック教国家があります。(例えばファシスト体制のイタリア、および殊に国家主義的社会主義体制の[ナチス・]ドイツ)この場合、教会はためらわずに「具体的な状況に即して」「信仰者」、すなわちカトリック教徒の自然的レベル、またさらには超自然的レベルにおける客観的権利を要求します。

――自然的なレベルにおいて
「信仰者は自らの信仰-抽象的に言うと、これは「神的啓示に対する信仰」を意味しますが、しかし同時に、この文脈においては、またそれと限らずとも、より正確に言えば「カトリック信仰」を意味します-を表明し、かつかかる信仰が求めるとおりの仕方でこれを生きる、何者も奪うことのできない権利を持っています。この信仰の保持と実践とを阻害する、あるいは困難にする法律は自然権に矛盾・対立するものです。」
ピオ11世回勅『ミット・ブレネンダー・ゾルゲ』Actus XVI p.38)


――超自然的レベルにおいて
「(前略)信徒らの霊魂および教会の神聖にして犯し得ない諸々の権利。すなわちこれは、信徒らの霊魂が持つ、教会の教導権ならびに教育的事業の下で最大の霊的善を確保する諸々の権利を意味します。実際、教会は天主によってかかる教導権および教育的事業の唯一の代理執行者として、天主なる贖い主の血に基礎を置く超自然的秩序[次元]の中に打ち立てられたものであり、神的な贖いに参与するために全ての人にとって必要かつ義務づけられるものです。[したがって、]ここで問題となっているのは、このように贖いの宝庫  を聖職者位階の使徒職活動と協力して、他の人々の霊魂に分かち与えるべく養成された者たちが有する権利です。[ここでピオ11世が念頭に置いているのは、当時イタリア国家体制の圧力の下に解散されたところであったカトリック・アクションです。]私が昨今、人々の良心の自由のための善い戦いを闘うことを嬉しくかつ誇りに思う、と述べたのは、信徒の霊魂が有するこの2重の権利を念頭に置いてのことです。したがって、私が意図したのは(ある者たちが、おそらくは不注意のために、私がかかる意味で述べたと解釈したように)良心の自由のための戦いではありません。かかる良心の自由というものは、曖昧な言い回しであり、きわめてしばしば良心の絶対的自立ということを意味するために用いられている言葉です。しかるにそれ[良心の絶対的自由]は、天主によって創られ、贖われた霊魂においては荒唐無稽で、全くそぐわないことです。」
ピオ11世 回勅『ノン・アッビアーモ・ビゾーニョ』Actus VII p.205-206)


 この引用文では、ピオ11世が言葉のあいまいさを取りのぞくため、いかに意を用いたかを見てとることができます。したがって、「天主を信じ礼拝する自由」と「天主に対する諸々の信教の自由」とを混同することはできません。同様に、第2ヴァチカン公会議前の教皇が1人として知らずにいた「信教の自由」という表現は、それ自体あいまいな言い回しであるために避けられています。いったい何の自由なのか、どの宗教のことを指しているのかがまったく不明確だからです。


 上で挙げたA)とB)の二つのケースは、主観的権利と客観的権利、抽象的権利と具体的権利という(この二つの区別は、必ずしも重複するとは限りません)欠かすことのできない区別を示す上で非常に有用でしたが、これに次の第3のケースを付け加えれば、あらゆる状況を網羅することになります。


 C) 実際、最後に残っているのは、異教の政治体制が特にカトリック教を攻撃、あるいは一切の改宗を目的とした活動を禁止している宣教国の場合があり、この例としては、インドが挙げられます。この場合には、教会は一種の方便として、自らおよびその宣教師たちのために「共通の権利」、すなわち当の国家が(不正にも)他の諸宗教に認めるところの客観的権利を要求します。しかし、注意しなければならないのは、この際に教会が用いる議論は、あくまで当の論争相手に会わせた方便と言う正確を持ったものであることです。したがって、教会が当の議論を用いるという事実から、よって教会が見境なく全ての宗教に活動の自由に対する客観的、自然的、かつ公的 (civil) 権利を認めるのだと言う結論を引き出すことは、およそ的外れで不敬に過ぎたことです。



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●聖ピオ十世会 永遠の司祭職(SSPX - Eternal Priesthood)
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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
http://fsspxjapan.fc2web.com/tridentini/tridentini_index.html


●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
http://fsspxjapan.fc2web.com/vat1/index.html


●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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●グレゴリオ聖歌に親しむ会
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アンジェルス・マガジンに掲載された、聖ピオ十世会関係の聖伝を守る修道院の紹介

2007年03月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア!


 愛する兄弟姉妹の皆様、


 アンジェルス・マガジンに掲載された、聖ピオ十世会関係の聖伝を守る修道院を幾つかご紹介します。
(最近では、バックナンバーだけでなく最新のアンジェルス・マガジンをオンラインで読むことができるようになりました!)


聖ピオ十世会の修道女会(Sisters Of The Society Of Saint Pius X)

聖ピオ十世会の修道女会その2(Sisters Of The Society Of Saint Pius X)

聖ピオ十世会の修道女会その3(Sisters Of The Society Of Saint Pius X)

聖ピオ十世会の修道女会その4(Sisters Of The Society Of Saint Pius X)


御変容の兄弟会( Fraternity of the Transfiguration)フランス


ファンジョのイエズスの聖名の教育ドミニコ修道女会(THE DOMINICAN TEACHING SISTERS OF THE HOLY NAME OF JESUS OF FRANJEAUX)フランス


高間の弟子会(DISCIPLES OF THE CENACLE)イタリア


アシジの聖フランシスコの小さき兄弟カプチン会(Capuchin Brothers Minor Of Saint Francis Of Assisi)フランス

アシジの聖フランシスコの小さき兄弟カプチン会その2(Capuchin Brothers Minor Of Saint Francis Of Assisi)フランス

カルメル女子修道会(CARMELITE NUNS)

絶えざる御助けの聖母の最も小さきフランシスコ会(THE FRANCISCAN MINIMS OF THE PERPETUAL HELP OF MARY)メキシコ



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●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
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●第2ヴァチカン公会議について
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何故カトリック教会にとって聖伝のミサがそれほど大切なのか?

2007年03月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言

アヴェ・マリア!


何故、聖伝のミサがそれほど大切なのか?


 1962年10月11日、カトリック教会は深い変化の過程に突入しました。何故なら、第二バチカン公会議(1962年~1965年)が神学的・司牧的な新しい指針を提示しようとし始めたからです。


 1969年、教皇パウロ六世は聖伝のミサの新しい司式のやり方を導入しました。この新しい典礼様式は、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものでした。


●ブニーニ司教は新しいミサが聖伝と断絶していると語り、変更は単に些細なものであるに留まらず、実に「根本的な刷新 ・・・ 完全な変更 ・・・ 新しい創造物 ・・・に関わる」と言っている。

 

 聖伝による典礼様式は、数千万、数億の霊魂を15世紀以上にわたり聖化してきましたが、それが突然、断罪され死体としてさらし者にされたのです。全カトリック教会は、引き裂かれました。それを契機にカトリック教会内には思いのまま勝手気ままな詐欺的な典礼革新が導入され、信徒たちはますます教会から離れるようになってしまいました。


 典礼革新導入の20年後には、元々カトリック信徒の大多数であり改革を積極的に取り入れたヨーロッパや、北米と南米などを中心に主日にミサに与る信徒の数は10分の1に激減、一万名以上の司祭たちが司祭職を辞め、大多数の神学校は新学生が集まらずに閉鎖されるようになってしまいました。

●教皇ヨハネ・パウロ二世は、『ヨーロッパにおける教会 ECCLESIA IN EUROPA』の中で、現在の教会の状況を「静かな背教」と呼んだ。

 第二バチカン公会議とパウロ六世の新しいミサとは、実際上「教会の春」などではありませんでした。たとえ一部の教会高位聖職者がそう言い張ったところで、事実は別のことを指し示しています。何故なら、たとえばフランスでは今後2015年までにほとんどの小教区では司祭が不在になるからです。スイスでは、司祭の不在現象は突如として加速的に増え、平信徒によって運営される平信徒の教会が2018年に到来することになると予想されています。


 日本では、2003年のカトリック司教協議会秘書室広報の発表によると、2003年6月1日現在、日本の全司祭1732人(そのうち91人が海外で宣教または勉学中)の平均年齢は60歳、60歳以上の司祭数は998人で全体の約57・6%です。ここ30年、高齢化は急速に進みました。司教協議会秘書室研究企画によると「今後15年のうちに司祭数は半分から3分の1になると予測される」とのことです。つまり、2018年には日本にはカトリック司祭が、530名ないし870名程度になるということです。(2005年の統計によると、司教たちを含めて日本の司祭は1542名でした。)


 この不安な現実を目前にして、世界中で聖伝のミサと聖伝の価値観に立ち戻るべきだという多くの声が上がっています。事実、ローマでも聖伝のミサをもっと多くより自由に捧げるようにすべきだという意図があるようです。


 しかし、ローマのこの意志に反して一部聖職者にはそれに対してためらいがあり、抵抗しています。

 


 ラッツィンガー枢機卿(現教皇ベネディクト十六世)は、その著書の中でこう言ったことがあります。
「典礼の領域における意識の形成のために、1970年まで実施されていた典礼形式を追放していることを中止することが重要である。現在、この典礼が有効であると介入する者、或いはこの典礼を実践している者は、あたかもライ病患者であるかのように取り扱われている。このような態度は、寛容も全て終わりとなる。そのような態度は教会の全歴史において前代未聞のかつてなかったことである。これにより人々は教会のありとあらゆる過去を軽蔑している。もしそうであるなら、人々は教会の現在にどうして信頼することができるであろうか?私の同僚の司教様たちの多くが何故この不寛容の法に従っているのか私にはよく分からない。そのような不寛容は、教会において必要な和解にたいして、たいした理由もなく対立している。」
天主とこの世』より。

(日本語は、Voici quel est notre Dieu, p.291 Voici quel est notre Dieu, p.291から訳出しました。)


 ラッツィンガー枢機卿
「パウロ六世のミサ典書は、司式者が典礼の中にあれこれの要素を自由に選択する或いは導入することができるということを規定しており、それ自体で誤った創造性への扉を大きく開けてしまっている。」

ラッツィンガー枢機卿とフィリップ・マクサンスとの対話 ロム・ヌヴォ誌(L'homme nouveau)



 


 




「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」
(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)



 


 


「典礼は、天才的監督や有能な俳優たちを必要とするショーや演劇ではない。典礼は "好感を覚える" 驚きや "共感" を呼んで生きるものではなく、荘厳な反復を生きる。典礼は今日性(アクチュアリティー)とその一時性を表現するのではなく、神聖なるものの秘義を表現しなければならない。」
(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』165ページ)



 

 教皇聖ピオ五世
「高位聖職者、管理職者、教会参事会員、及び他の全ての如何なる呼称で呼ばれる、在俗又は如何なる修道会員の司祭は、余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうとも(彼等が)このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。
1570年7月14日大勅令『クォ・プリームム』

 

 オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿が教皇パウロ六世へ
「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」
(1969年9月25日)

 

 ギヨーム・タバールという一般人が、フランスの司教たちが聖伝のミサ支持する人々に対して取っている態度を見て、ル・フィガロ紙に掲載した常識的なコメントを聞いて下さい。


「いろいろなキリスト教を信じる人々や様々な宗教を信じる人々と極めてオープンな対話をしている中で、ローマを離れたこれらのカトリックに対しては、極めて厳しい敵対的態度を取っているのを見るのには本当に驚く。また同時に聖伝のミサと新しいミサとの2つのミサ典書の共存について不安に思い、教会内部の典礼の一致を熱烈に擁護する人々が、「創造性」の名によってなされた自由放埒から生まれた典礼の極端な多様性については今に至るまで全く気にしていなかったということは全く逆説的でもある。」
Guillaume Tabard, Le Figaro, 2006年11月9日






 






これを書くには、La messe traditionnelle : obscurantisme moyenageux ou renouveau de l’Eglise ?を参考にしました。



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●第2ヴァチカン公会議について
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