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新しいミサについての権威者のコメント

2006年07月01日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア! 私たちの主イエズス・キリストのいと尊き御血の祝日にて


新しいミサについての権威者のコメント


【教皇パウロ六世は、新しいミサを公布するに際してこう語る】
「その典礼は・・・・それ自体として教理的決定ではない・・・。」
(1969年11月19日パウロ六世)


(解説:新しいミサを必ずしも信じる必要はない。新しいミサは不完全でありうるし、失敗でもあり得る。)



【検邪聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは、1969年9月25日、新しいミサについてパウロ六世に次のように語る】



「新しいミサの式次第はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」


「聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。新しい式次第における改革を見、さらには、「永遠の価値をもつもの全てが、何らかの形であれ新しい式次第にたとえ残っていたとしても、単に隅の方に追いやられている、という事実」を見る時、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変えても、或いは無視しても、あたかも、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることが出来るのではないかという考えを、(残念なことにこのような考えは既に多くの所で支配的になってしまっているのですが)すっかり確信に変えてしまうことでしょう。」



【オッタヴィアーニ枢機卿及びバッチ枢機卿は、パウロ六世に提出した新しい「ミサ司式」の批判的研究にてこう言う】


「近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」


(解説:新しいミサは、その曖昧さと寛容さで、ミサの無効な執行の危険を助長している。そのために我々を天主の怒りにさらしてしまう。)


【新しいミサの共同作成者、Msgr. A. ブニーニは新しいミサが聖伝と断絶していると語る】


 変更は単に些細なものであるに留まらず、実に「根本的な刷新 ・・・ 完全な変更 ・・・ 新しい創造物 ・・・に関わる。」



【新しいミサはプロテスタント牧師が一緒に作った】


 新しいミサを作成するにあたって、六人のプロテスタント牧師(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)が協働した。



【1969年4月6日の新しいミサ典礼書の総則第7項、ミサの定義はこう言う】


「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち"主の記念"を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった天主の民の集会である」


(解説:この定義から新しいミサは、プロテスタントのミサの定義に従って作成されたことが分かる。「万一、誰かがミサ聖祭は賛美と感謝のためのものであるとか、十字架上の祭祀の単純な記念に過ぎない・・・、と言うものがあったとすると、彼は排斥される」 [トリエント公会議] )



【ベネディクト十六世教皇はこう語る】


「第二バチカン公会議の典礼改革の各段階は、真のアジョルナメントであったかどうか、むしろそれは典礼の凡俗化でなかったかどうか、どこまで司牧的に賢明であったか、もしやその逆で、軽はずみではなかったか、じっくりと見ていきたい・・・。」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』158ページ)


「ラッツィンガーによれば、まさに典礼の分野において ----- 専門家たちの研究にしろ、実際的適応にしろ ----- 『第二バチカン公会議の真正の憲章が言っていることと、それが理解され適用されるやり方との間の差異の最も著しい一例が確かめられる。』」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』161ページ)


「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされるもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した。」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)


 「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それは典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」(『典礼の精神』)




【聖伝のミサについては聖ピオ5世教皇はこう言う】


「高位聖職者、管理職者、教会参事会員、及び他の全ての如何なる呼称で呼ばれる、在俗又は如何なる修道会員の司祭は、余によって命ぜられたものより他のやり方でミサ聖祭を捧げる事が無いように。又、何によってであろうとも(彼等が)このミサ典礼書を変更すべく強いられ、強制される事無く、又この手紙が決していつの時代でも変更されることの無く、却って〔この手紙が〕常に堅固、且つその適応範囲において有効であるように、同じく余は規定し宣言する。・・・ 故に、絶対に誰一人として、余のこの許可、規定、命令、勅令、決定、認可、許可、宣言、意志、政令及び禁止のページに背反し、或いはそれに大胆にも背く事のないように。もしも、誰かがそれを企てようと敢えてするとしたら、全能の天主〔の憤慨〕及び使徒聖ペトロとパウロの憤激をかうと言う事を覚えよ。」(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)



【ルフェーブル大司教はこう言う】

 たとえ合法的な権威であっても、非難すべき悪しき行為を命ずることは出来ません。それが誰に対してであっても修道誓願を単なる約束に変えることを強制出来る人は存在しません。同じように、誰も私たちをしてプロテスタントや近代主義者に変わるようにすることはできません。・・・

 読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。「では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(教会当局公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の教会の権威に抵抗しろというのか?)」
 では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか? そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)これが真の従順の秘訣です。

(ルフェーブル大司教の公開書簡 その18)




「私たちには確信があります。まさに、この新しいミサの典礼様式が新しい信仰を表明していると言うことを。この新しい信仰は私たちの信仰ではないこと、カトリック信仰ではないことを。この新しいミサは、新しい信仰の、近代主義者の信仰のシンボル、表現、イメージです。・・・ 新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。

 徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。そして、このことは現代人の考え方に、近代主義者の考え方にぴったりなのです。全く一致しています。なぜなら、民主主義の理想が、現代人の考え方だからです。つまり、権力は会衆のうちに、権威は人間、民衆のうちにあり、天主にではない、と言うことです。これは非常にゆゆしきことです。・・・新しいミサは、この考え方を、底辺に権威があり、天主にではないと言うことをはっきりと表明しているのです。このミサは位階制度的なものではなく、民主的です。これは、非常に重大なことです。新しいミサは、新しいイデオロギーのまったき表明なのです。私たちのもっとも神聖な典礼様式によって、私たちをして現代人のイデオロギーのなかに入らせようとしているのです。そして、これが現在、教会を全て腐敗させてしまっています。なぜなら、ミサ聖祭において底辺に権力を認めるというこの考えによって、司祭職を崩壊しているからです。司祭職を崩壊しているのです。・・・

 この新しい典礼は、別のイデオロギーの作品だからです。別のイデオロギー、新しいイデオロギーの作品です。この世の考え方を身につけたら、皆を引きつけることが出来ると思ったのです。信じない人々の考え、現代人の考えを身につけたら、教会に人を、信じない人を、引きつけることが出来ると思ったのです。現代人の考えとは、リベラルで、複数の宗教を受け入れ、そして、イエズス・キリストの社会的王国を受け入れない考えです。・・・

 私たちはこの宗教を受け入れません。私たちはこの新しい宗教を受け入れません。私たちは永遠の宗教を信じるものです。私たちの宗教は、カトリックの宗教です。私たちの宗教は、現在人々の言うところの「普遍宗教」ではありません。こんなのはカトリック宗教ではありません。私たちの宗教は、このリベラルな近代主義の宗教ではありません。この新しい宗教には、それの礼拝様式、それの司祭、それの信仰、その公教要理、その聖書、エキュメニカルな聖書があります。・・・私たちはこれらのことを受け入れることが出来ないのです。私たちの信仰と矛盾するからです。・・・

 私たちは今、本当に劇的な状況にいます。私たちは、選ばなければなりません。敢えて言えば見かけ上の不従順か、あるいは私たちの信仰を捨てるかのどちらかです。ところで、教皇様は私たちに信仰を捨てるようにと命じることは出来ません。それは不可能です。ですから私たちは、信仰を捨てないことを選びます。なぜなら、そうすることによって私たちは間違うことがないからです。なぜなら、教会が2000年間教えてきたのです。教会がその間ずっと誤っていたと言うことはありえません。全くありえません。・・・

 教皇ピオ九世が教義憲章の中で、よく言ったように、教皇が聖霊を受けたのは新しい真理を作り出すためではなく、永遠の信仰において私たちを維持するためである、と。これが、第一バチカン公会議の時に教皇ピオ九世によってなされた、教皇様の定義です。

 だからこそ私たちは確信しているのです。この聖伝を維持しながら、私たちは、ペトロの後継者に対する私たちの愛と素直さと従順を表すのであると。」


(ルフェーブル大司教の説教 1976年6月29日)

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