Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

四旬節に入ろうとする時「天主への愛に全てを基づかせるように」と教会は招いている。そうでなければ四旬節は全く意味がないものとなってしまうから。

2022年03月14日 | お説教・霊的講話

2022年2月27日(主日)五旬節の主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

来たる水曜日3月2日は、灰の水曜日で、公教会の掟によると、満21歳以上から59歳までの健康な大人、成人男女は大小斎を守る規定になっています。大斎というのは、一日に一回十分な食事を摂る、そして小斎というのは、14歳以上の全ての方が、肉を食べないという事です。教会の規定によれば、一年に二回大小斎の日があって、それは灰の水曜日と聖金曜日です。

それから教会の規定は、「公教会の六つの掟」と言われるものには、まだ他にもあります。「少なくとも一度、御復活祭の頃に聖体拝領する」という事です。もちろん一年の内、いつでも何度でも、御聖体拝領する事が勧められていますが、少なくとも一回は、御聖体拝領を復活祭の頃にする、という事です。それは「復活祭の頃」というのは、日本のカトリック教会の規定によれば、「四旬節の第一主日から三位一体の主日までの期間」の事を、復活祭の頃と規定されています。

また教会の掟には、「一年に一度、少なくとも一回は告解の秘跡を受ける」というものがあります。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日五旬節の主日です。教会は四旬節を直前に、四旬節の精神を私たちに伝えようとしています。ですからこの今日のミサでは、全てのその精神が凝縮されています。

福音ではイエズス様が御受難の予言をされました。私たちを愛する為に苦しみを受けて、そして三日目に復活する、と。まさにこの四旬節の要点です。

そして四旬節は、イエズス様と共に40日間の断食に入ります。これは旧約の時代にいくつかの前兆がありました。モーゼが十戒を受ける前に40日間断食をした、あるいはエリヤが40日間断食をした等。イエズス様ももちろん断食をしますけれども。そして40日間荒れ野で、イスラエルの民がマンナだけを食べて、そしてうずらの肉を食べて養われて、荒地を約束の地まで歩いた、という史実もあります。つまり40日間の私たちの四旬節は、これはイエズス・キリスト様の新約のマンナによってのみ養われる特別な期間である、という事です。

この四旬節を一番よく過ごす為の精神は何なのでしょうか?

聖パウロがその書間で言っています。とても美しい書簡です。どうぞこの書簡を黙想なさって下さい。
「たとえ私が天使と人間の言葉を話したとしても、全世界の言語を話したとしても、もしも天主への愛がなければ、天主への愛に基づいていなければ、それは単なるシンバル、カスタネット、トランペット、全く意味のない雑音に過ぎない。」

「もしも私が全ての預言を知り尽くして、旧約時代の預言を全て知って、そのいかに成就するかを知って、そしてすべての神秘を、天主の奥深い神秘を知り尽くして理解したとしても、そして全てのこの世における知識を持って、天体、天文学や、あるいは宇宙の遥か彼方の星々の動きやその秘密、あるいはこの地球の構造、経済、政治、歴史、その全てを知り尽くしたとしても、そしてこの世が一体何であるかを知り尽くしたとしても、そして更にこの山を、『ここからあっちに動け!』と動かすほどの深い信仰を持っていたとしても、もしもそれが天主への愛に基づいていないならば、天主への愛がないならば、全くそれは意味がない。何でもない。」

「もしも私が持てる財産を全て売り払って、貧しい人に施して、食べ物を与えて、そしてあるいは私の体を焼かれる為に殉教の炎に、あるいは鞭打ちに、どのような苦しみに遭うような事でも耐え忍んだとしても、世界の人々が『えぇっ!』と驚くような事をしたとしても、賞賛したとしても、天主への愛がなければ、全く利益するところがない。愛は忍耐強く、愛は善良である。」

まさに、私たちがこの四旬節に入ろうとする時に、この「イエズス・キリストへの愛、天主への愛に全てを基づかせるように」と、教会は私たちを招いています。もしもそうでなければ、私たちの四旬節は全く意味がないものとなってしまうからです。

では一体どうしたら、私たちもそのイエズス様の愛に基づかせる事ができるでしょうか?愛している、という事の為にはどんなしるしがあるでしょうか?もちろんこれは成聖の状態で、罪のない状態で、罪を赦された状態での事です。ではその状態でどのような事ができるでしょうか?

三つの事ができます。天主を愛しているというしるしが三つあります。一つは「祈り」です。もう一つは「犠牲」です。もう一つは「施し」です。

「祈り」は、なぜかというと、愛するイエズス・キリスト、愛する天主の事を、私たちが頻繁に思い出して、愛する方に愛の言葉を語りかけたい、と思うからです。また愛する方の事を思い出す事によって、私たちはそのイエズス様の事を私たちの頭の中に入れるのみならず、記憶の中に留めるのみならず、イエズス様にもっと近付いて、そしてイエズス様の元に行こうとするからです。それが祈りで、私たちの心を天に上げる事です。それがミサ聖祭で、本当に私たちは教会の前に来て、イエズス様の御前に来て、イエズス様を礼拝して、そしてイエズス様を私たちの心に、体に、受ける事です。祈りは私たちにとって、天主に対する愛の発露となります。

「犠牲」は何かというと、例えば断食や、あるいはその他の償いによって、私たちの心をこの地上の愛着から離して、天主へと向かわせる事です。昔の方々は40日間断食しましたけれども、私たちはどうもそれだけの力が無いようだ、と教会は判断しているようです。ですから最初と最後だけをやれば良い、と非常に優しい態度を示しておられます。私たちはですから少なくとも、罪を断食したり、あるいは私たちのできる事を断食する事に致しましょう。例えばあるいはインターネットを制限するとか、あるいは放棄するとか。あるいはテレビや漫画や映画はもう断食する。あるいはもちろん罪は断食しますけれども、その許されているものだとしても、イエズス様からの愛をちょっと妨害するようなものは、私たちは断食する。あるいは愛の表明として、忍耐をする。何か辛い事があっても、それを黙って忍耐する、聖パウロが言っている通り、「愛は忍耐強く、そして善良である。」“Caritas patiens est, benigna est.”

あるいは第三に挙げられるのは、「施し」です。旧約の時代から、断食したパンを、そのパンを貧しい人に与えるとか、あるいは私たちの持てる地上の良いものを施しの為に使う、などです。

こうする事によって私たちは、イエズス様に対する愛を表明する事ができます。この四旬節は愛の四旬節となりますように、特にお祈り致しましょう。マリア様にお祈り致しましょう。マリア様の御取り次ぎによって、この四旬節を愛の四旬節と変えて下さる事ができますように、マリア様の御取り次ぎによって、私たちの目が開かれますように、四旬節をうまく、聖なるものとして過ごす為に一体何をするか、よく見える事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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