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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年04月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


一、 使徒的事業にたずさわる人は、内的生活をいとなむために何をすべきか。――かれらに与える若干の意見

 左に列挙する諸事項は、われわれの“確信”から、生まれ出るものである。
 すなわち――
 使徒が、どんなに奮発して、事業に精励したところで、イエズス・キリストのお働きが、それに加わらない限り、絶対に事業は成功しない。イエズス・キリストのお働きが、加味される程度にしか、使徒の事業は実を結ばない。
 イエズス・キリストこそは、使徒的事業の遂行において、主要な、圧倒的な役割を演じられる。われわれは、かれの道具にすぎない。

 使徒は、事業の遂行にあたり、イエズス・キリストから与えられた手段にのみ、信頼しなければならぬ。そうでない事業を、イエズス・キリストは、祝福することがおできにならない。
 自然的活動のみによって、いとなまれる事業を、イエズス・キリストは、祝福することがおできにならない。
 その遂行にあたって、自愛心が、天主の愛よりも幅をきかす事業を、イエズス・キリストは、祝福することがおできにならない。

 天主が、これこれの事業をせよ、とお命じになるとき、これを拒絶する人――かれは、わざわいである。
 天主のみ旨を確認しないで、いきなり事業に飛びつく人――かれは、わざわいである。
 事業の遂行にあたって、ひとり天主にのみ、絶対的に依存しないで、自分勝手にやろうとする人――かれは、わざわいである。
 事業の遂行にあたって、内的生活を、おのれのうちに保全し確保するために、もしくは不幸にも失った場合には、これを回復するために、なにかの手段を講じない人――かれは、わざわいである。
 事業の遂行にあたって、活動的生活が、内的生活を圧迫し、損傷しないように、双方をうまく調和させるすべを心得ていない人――かれは、わざわいである。

Convictions :
Le zèle n'est efficace qu'autant que l'action de Jésus-Christ vient s'y adjoindre.
Jésus-Christ est l'agent principal, nous ne sommes que ses instruments.

Jésus-Christ ne bénit point les œuvres où l'homme n'a confiance qu'en ses moyens.
Jésus-Christ ne bénit point les œuvres entretenues uniquement par l'activité naturelle.
Jésus-Christ ne bénit point les œuvres où l'amour propre travaille à la place de l'amour divin.1

Malheur à qui se refuse aux œuvres auxquelles Dieu l'appelle.
Malheur à qui s'ingère dans les œuvres sans s'assurer de la volonté de Dieu.
Malheur à qui, dans les œuvres, veut gouverner sans dépendre véritablement de Dieu.
Malheur à qui, dans l'exercice des œuvres ne prend pas les* moyens de conserver ou de recouvrer la vie intérieure.
Malheur à qui ne sait pas ordonner la vie intérieure et la vie active, de telle sorte que celle-ci ne nuise pas à l'autre.


 使徒的事業を遂行するにあたっての若干の原理

 第一の原理――ただ自然的活動だけによって、事業に、身も心も、スッカリうち込んでしまい、夢中にならないこと。
 いつも、天主に相談する。それは、自分が万事において、恩寵のインスピレーションのもとに行動している、自分が万事を、天主のみ旨のあきらかな表示にしたがって行動している、とのあかしを、心に得ることができるためである。

 第二の原理――自分の霊魂を、内的生活の本質的修業と共存しえない状態におくほど激しい、過度の仕事に、あまり長くたずさわっているのは、良識を欠くことである。かえって自分に、害をまねくことである。かような場合は、たとえそれが、最も神聖な事業であったとしても、とりわけ司祭、修道者にとっては、まさしく聖主の次のお言葉を、実行すべき時である。その事業が、たとえ、「あなたの目〔のように大切なものであったにせよ、もしそれ〕があなたを、つまずかせるなら、それを抜き出して捨てなさい」(マテオ5・29)

 第三の原理――内的生活をいとなむため、時間の使い方にかんして、正確な“時間表”をつくること。賢明で、内的で、経験に富んだ司祭の意見にしたがって、それを作製する。用事ができたり、活動的事業の用務がつみかさなったりして、その実行を不可能にするかにみえるときがあっても、おのれをきびしくコントロールし、定められた時間表はキチンと守る。

 第四の原理――自分の利益のため、また、他人の利益のために、なによりもまず、内的生活をつちかうこと。活動的生活のために、身が忙しくなればなるほど、それだけいっそう深く、内的生活をいとなむ必要がある。それゆえ、霊魂が、内的生活に渇けば渇くほど、また、この渇きを空しい希望の一つとして終わらせないために、それを実現する手段をとればとるほど、霊魂はいっそう巧みに、計りごとをめぐらして、霊魂に麻酔をかけ、これを迷わせようと懸命に働くものだ。

 第五の原理――使徒は、天主のみ旨により、時としては本当にあんまり忙しくて、そのために信心の務めがゆっくりできない、どうしてもできない場合があるものだ。こういう場合に、かれがほんとうに熱心をもちつづけているかどうか、を正確に示してくれるバロメーターが、ここにある。――もしかれが、ほんとうに内的生活を渇望しているかどうか。はたして善意のありったけをかたむけ尽くして、内的生活の本質的修業を実行する機会を、一つも残さずとらえているかどうか。

 解答が、ハイであるなら、安心してよろしい。特別の恩寵をたまわるはずだから、それにふかく信頼しなければならぬ。天主はこの特別の恩寵を、かれのために取っておかれるのだから、かれはこの恩寵のおかげで、内的生活に進歩するための十分なちからを、もっているわけである。

 第六の原理――活動にたずさわる人が、自分の霊魂を、いつも潜心の状態に保っている境地に達しないかぎり、また、天主の恩寵に絶対に依存して活動するようにならない限り、かれの内的生活はまだ不安定の状態にある、といわなければならない。
 潜心と、いま一つ、恩寵への絶対的依存こそは、どこまでも、かれの伴侶でなければならない。なくてはならぬこの潜心を修得するためには、なにもしゃちこばる必要はない。頭よりもむしろ心の目をもってする、霊魂の“ちょっと見”で十分である。
 霊魂のこのちょっと見――確実で、正確で、ものごとを深く洞察できるこのちょっと見によって、はたして自分は、イエズス・キリストの影響下にあるかどうか、を識別することができる。

  実行的意見

 (一)――前にもいったとおり、規則正しい生活と、ふだんに規則をもっておのれをコントロールしていこうとの、固い強い意志がないなら、また、とりわけ“起床時間”を、正確に励行しないなら、だれも内的生活をつづけてうくことはできない。

 (二)――内的生活の土台に、“朝の黙想”をおく。朝の黙想をもって、内的生活の絶対不可欠の要素と見なすこと。「どんなぎせいを払っても、自分は朝、半時間の黙想をするのだ、とかたく決心している人は、すでに道の半分を踏破している」とは、大聖テレジアの有名な言葉である。もし朝、黙想をしないなら、その日は、ほとんど強制的に、冷淡のうちに過ごさざるをえないようになる。

 (三)――“ミサ聖祭、聖体拝領、聖務日課、典礼の儀式”これらは、内的生活をはぐくむたぐいない源泉なのだから、大いなる信仰をもって、深い熱心をもって、そこから内的生活のかてを吸収しなければならない。

 (四)――黙想と典礼生活も、むろんそうだが、“特別糾明”や“一般糾明”も、帰するところは、“心の取り締まり”の習慣を身につけることにある。心の取り締まりの習慣が身についてこそはじめて、“あなたがたは警戒して祈りなさい”という、この二つの修業の一致が、りっぱに成就する。
 自分の内心の動静に注意のまなこをそそいでいる霊魂、至聖なる三位一体のみまえにいることを意識している霊魂――こういう霊魂は、あらゆる場合、わけても、かれが気を散らすとか、気力がよわるとか、そういう危険を感じた場合、すぐにイエズスのみもとへ馳せていく、超自然的本能を修得する。

 (五)――そのような理由から、霊魂は“精神的聖体拝領”や、“射禱”などによって、たえまなく祈る必要を、痛感するようになる。こういう短い祈りは、もし当人が望みさえすれば、ひじょうに忙しい仕事の最中でも、たやすくできる。また、生涯の刹那刹那が要求する、特別の必要に応じて、現在の事態や、危険や、困難や、疲労倦怠や、現実の裏切りや、その他種々の必要に応じて、それぞれちがった形をとることができるから、こういう種類の祈りは、いたって楽しい祈りでもある。

 (六)――“聖書”とりわけ“新約聖書”を、信心こめて勉強すること。これは、使徒的生活において、毎日やらねばならぬ修業である。毎日できないなら、せめて一週間に数回なりとも、ぜひ実行しなければならない。
 午後の信心読書は、敬けんな霊魂なら、絶対にオミットできない、日日の課業でなければならない。われわれの精神はいつも、超自然的真理や、信心を生みだす神学のドグマや、それからでる倫理的結論を、まざまざと眼前に見すえていなければならないのだ。これらは、あまりにたやすく、忘れられがちだからである。

 (七)――“心の取り締まり”は、毎週の告解の遠い準備ともなる。心の取り締まりのおかげで、毎週の告解は、まことの痛悔と、おかした過失についての真実の悲しみと、これからはますますまじめになろう、断然忠実になろうとの堅い決心を、確実にともなった、りっぱなものとなる。

 (八)――毎年の“黙想会”は、ひじょうに有益だが、これだけでは足りないのだ。毎月の黙想(まる一日、すくなくとも半日)をまじめにやって、ともすれば外面的に傾きやすい霊魂の、調和をとりもどさねばならぬ。これは、外的事業にたずさわっている人たちにとって、ほとんど必要欠くべからざるものである。


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