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秋田巡礼-霊的講話【1】-2019年5月1日サマーズ神父様「霊的生活の重要性と必要性、完徳を目指さす義務、霊的生活に関するよくある誤解」

2019年05月20日 | お説教・霊的講話
2019年5月1日 秋田巡礼 サマース神父様霊的講話【1】
「霊的生活の重要性と必要性、完徳を目指さす義務、霊的生活に関するよくある誤解」
同時通訳:小野田圭志神父



【小野田神父】
秋田の巡礼者の皆さん、では今から講話を始めますけれども、サマース神父様が午前中の話を2回、そして最後に私が話をします。

【サマース神父様】
皆さん、この美しい秋田の巡礼に来て下さいましてありがとうございます。感謝します。

そこで私は、霊魂の生活、つまり「霊的生活」について話をする事が有益であると思います。

なぜかというと、今この現代では、物質的な、あるいは物体的な肉体的な事だけを追求する世の中に生きているからです。皆さんの国でも、汚い物や、あるいはバイ菌・細菌などについて、本当に非常に心配されています。私たちは手では、手を洗ったりあるいは殺菌消毒をしたりしますけれども、しかし同時に内側では、腐敗や罪にまみれた生活をしています。

では一体霊的な生活とは、肉体的ではなく霊的な生活とは、男性も女性も、あるいは子供たちにとっても、どのようなものか?という事を皆さん研究しましょう。もちろん私たちに与えられた時間によってですけれども、できるだけ多くの、深く、私たちの肉体ではなく、霊的な生活を正しくして、そしてそれを成長させる為にどのようにしたら良いか、という事を考察しましょう。

そして私たちの霊的な生活が強められて、そして養われて、成長していくならば、この地上でどのようなものも、私たちを恐れさせたり、心配させたりする事はなくなります。

なぜかというと、私たちが申し上げている「霊的生活」とは、実は天主様へのその命自身、生命自身に参与する事だからです。天主様が私たちの内にお住まいになり、生活され、そして私たちも天主の中に生活する、生きる、という事だからです。

もしも私たちの中に天主の命が生きているならば、そしてそれを分かち合っているならば、一体この地上で誰が私たちに心配や、恐れなどを与える事ができるでしょうか。私たちの内に天主様が功徳を積ませて下さり、そして報いを下さり、成聖の恩寵のみならず助力の恩寵を以て、私たちを瞬間、瞬間に助けて下さる、という運動があります。この天主の命を分かち合って、それに参与するという事が、天主様の三位一体の命に与る事です。

マリア様の霊的生活こそ、成聖の聖寵の命であって、生活であって、それへの参与の生活でした。私たちの主が生活された通りに、それと同じ命をマリア様も、御霊魂の中に生きていました。

そしてマリア様がイエズス様の御母であったと同じく、イエズス様はマリア様が私たちの母となるという事を御望みであります、それを意図されています。

そこで今回は、
まず第1に、「聖三位一体の神秘について、命について」

第2に、「マリア様の霊的な命について、生活について」

最後に第3に、「諸聖人の通功について、諸聖人との霊的な交わりについて」話します。
天国にいる聖人たちとの命の交わりと共に、煉獄にいる霊魂たちと私たちの関係についても話します。そしてこの地上における全て、霊的生活において成聖の恩寵を保っている人たちとの一致も話します。この地上に生きている、成聖の恩寵にいるすべてのカトリック信者と皆さんは、夫婦が一緒にいるよりも更に緊密な関係を持っています。

この真理は、カトリックの教える事実・真理は、私たちの生活を本当に慰めに満たして、そして強めてくれます。これを知る事は天主からの特別の御恵みであります。なぜかというと、この地上での生活というのは難しいものであって、戦いであるからです。なぜかというと、私たちは地獄の勢力に対して戦わなければなりません。そして地獄の同盟者、つまりこの世の精神に対して戦い、また私たち自身にある三重の肉欲、目の欲、生活の傲りなどに対して戦わなければならないからです。私たちの周囲を見ると、私たちはもう落胆しかねてしまう、その誘惑もあります。

ところで、私たちの受ける慰めというのは、この真理を知る事によって、天主の命を分かち合って、そして天主が全てにおいてコントロールをしている、全て天主の御手の下にある、という事を知る事ができるからです。もしも天主の御摂理に、そして御計画に信頼するならば、私たちは最後の勝利を収める、凱旋をする、という信頼があります、慰めがあります。そうする事によって私たちは、霊的な生活を健康に、そしてますます成長させて、そして養われて送る事ができて、そうすると毎日の生活が喜びに満たされたものになります。

ちょうどこの事を言うと、ロヨラの聖イグナチオが求めたある1つの質問に答える事ができると思います。多くの困難と難しい問題が立ち上がった時、イエズス会の創立者聖イグナチオはこういう質問を受けました、「もしも、イエズス会の敵がイエズス会を廃止させたらどうしますか?」すると答えて、「それは大きな悲劇だけれども、私はもしもそのような事が起こったら、御聖体の前に行って、数分お祈りします。そうすれば、もう心の平和を受ける事ができるだろう。」

なぜかというと、聖イグナチオは、「霊的な生活というのは、私たちが何を選ぶか、どのような成功を収めるか、どのような事をするか、という事ではなくて、天主との一致にある」という事を知っていたからです。「そして天主との一致は、天主様によって色々な道が与えられる。そしてその天主に従う事である」と知っていたからです。

もちろん自由意志、自由決定能力という選択もありますけれども、この私たちが選ぶ、「自由に決定する、選択する」のは、「全てを、私たちにとって全て最高の事をよく知っておられる天主様の御旨を選ぶ」という事です。

それはちょうど、マリア様が受けた美しい驚きと似ています。まずそれは、大天使聖ガブリエルがマリア様に、「天主様は、あなたが天主の御母となる事を御望みだ」と告げた時に起こりました。マリア様が大天使聖ガブリエルからの御告げを受けた時に、少し当惑してしまいました。なぜかというと、天主様が自分に、この「天主の母となるという事を、どう思いますか?同意されますか?」という風に、アドバイスを求めてきたかのように思われるからです。

そこでマリア様は美しく答えました、「私は主の婢女です。もちろん、天主様の御望みの事だけを、御望みのままにします。」


今申し上げたのが導入で、これから入る主題についてのこの原理について申し上げました。


まずこの主題について話す時に、よく正しく理解する事ができる為に、それに反対するような間違った考え方についてまず見ると、それがどこが間違っているかを知る事によって、正しい理解が求められます。

まず、カトリック信者の方々が普通に持っている間違いというのは、「霊的生活というのは、偉大な霊魂たちだけのものであって、修道院に閉ざされた奥深い霊魂たちだけの特別なものであって、私たちには関係ない」という考えです。「キリスト教の完徳というのは、修道服を着た1%のみのエリートだけのものである」と考えています。

そしてこのよくある間違いは、「カトリック生活というのは、天主の十戒を守る、そして主日にミサに与って、そして大罪を犯さないようにそのギリギリの所までには行かないで、それだけをやっていれば良いのだ」という間違いです。

しかし、私たちはまず知らなければならないのは、「キリスト教的な完徳を目指すというのは、全てのキリスト教信者のためのもの、全ての信徒が完徳を目指さなければならない」という事です。

私たちの過去にも、どのような時代においても、どのような階級の人々でも、男性も、女性も、大人も、子供も、どのような身分の人も、聖人がいました。聖人になっています。どのような状況にあっても、何百万という多くの聖人たちが、どの時代にも居たという事は、聖徳というのは完徳というのは、一部の人の為だけのものであるというのは間違いである、という事が分かります。

第2の間違いは、「完徳というのは、あるいは聖徳というのは、どれだけお祈りの数を増やすか、どのようなたくさんのお祈りの種類をするか、という事にかかっている」という間違いです。「霊的生活というのは、その度合いは、お祈りのその量にかかっている」と考える人です。あるいは「霊的生活というのは、断食をする事にある、あるいは苦業をする事にある、それだけだ」と考える人です。あるいは「お祈りをした時に、どのようなこの感情を受けるかという、その感情の度合いこそが、その霊的生活である」と誤解する人もいます。

ところで過去偉大な聖人であればあるほど、お祈りをするのに難しかったり、それをするのが苦痛であったり、という事がありました。

あるいはある人は、「霊的生活というのは、使徒職をする事であって、多くの人に色んな話をしたり、多くの人に活動をする事にある、それだけだ」と誤解する事です。

ところで、どこが間違っているかというと、もちろんそれらの事は素晴らしい事ですけれども、お祈り、多くのお祈り、あるいは苦業、あるいは愛徳の業、あるいは使徒職などは素晴らしい業ですけれども、しかしそれは「手段」であって、究極の目的に到達する為の「道具」に過ぎないという事です。

例えば、これはある国での例ですけれども、ある人は、「神父様、ある御出現で、『このお祈りをしなさい』と言ったのですけれども、もしもこのお祈りをしないのならば、それはとても悪いものです。神父様はしていないので、このお祈りを唱えるようにして下さい。」別の言葉で言い換えますと、その人の言いたかった事は、このお祈りはとても自分にとって気に入ってるので、それをするのはとても良いのであって、それをしなければならないけれども、それをしないと駄目だ、霊的な効果が無くなってしまう、という誤解です。

そこで私が答えたのは、「もちろん、このお祈りもとても良いお祈りですけれども、しかし他にもマリア様の御出現で良いお祈りがあるので、それを全部唱えたらどうですか?」例えばマリア様はエクアドルのキトという所に現れて、とても美しいお祈りを教えて下さったのですけれども、しかし他のそれの事を知らない人が、そのお祈りを唱えなかったからといって、完徳に到達する事ができない、という事はありません、お祈りは手段でしかありません。

私たちの霊魂が求めている「完徳」というのは、一体何なのでしょうか?
私たちは、「完徳」というのは、「完成された」という事で、「霊的な完成」を求めています。

「完成された」というのはどういう事でしょうか?
「完成された」というのは、その「人」が、あるいはその「物」が、「その為に創られた、その究極のゴールに到達した、目的に、終点に到達した」という事です。

桜は、この芽を出したばっかりでは、まだ完成されていません。その桜が満開で綺麗に咲いた時に、あるいはもしもそれが木の実をもたらすものでしたら、そのさくらんぼの実が実って、人間が食べるようになったら、その熟された時に、「完成された」と言います。

完成された、徳に「完徳に到達する」という事は、私たちがその創られた創造の目的に、創られた私たちの目的に到達する事です。私たちは天主によって、天主と共に完璧な幸せに、至福に至る為に創造されました、創られました。ですから私たちが天主に近付けば近付いて、そして天主に一致すれば一致するほど、完徳に近付くという事です。

完徳というのはつまり、究極の目的に到達すればするほど近付くので、この世においては見出す事ができません。ですからこの世ではその幸せが欠如しています。

「では、この地上で見出す事ができる完徳の、完成の本質というのは何なのでしょうか?」と、聖トマス・アクィナスは自問しています。聖トマス・アクィナスによれば、「本質的に完成されたという事は、天主の愛にあって、そして天主の為に隣人を愛する事である」と言います。

しかし、この「天主を愛する」という事は難しい事であって、私たちにとって犠牲を要求するものであります。ですから霊的生活について、これをよく知らなければなりません。私たちは霊的生活を求めなければなりません。

では、私たちが霊的生活を送り、完徳を求めるという義務は持っているのでしょうか?

川で泳ぐ事を考えて下さい。もしもちょっとこう流れに抵抗するように泳ごうと努力しない限り、流されてしまいます。ところでこの川というのは、私たちの持っている原罪の結果の霊魂にある弱さの事を表します。私たちはともすると簡単な方に、悪に流されがちです。私たちは洗礼の水を受けて浄められましたが、原罪を持っているので、川の流れがあるので、もしも何もしないでじっとしていれば、悪の方へと流されてしまいます。

そればかりか、イエズス様は私たちに実定的に命令をされました、私たちにこう仰いました、「天の聖父が完全であるように、あなたたちも完全でありなさい。」

そしてこの完徳を求める、完全であるという事を求めるには、犠牲の心や、あるいは放棄の心が必要です。イエズス様はこんな事も仰います、「もしも私に従って、そして自分の父や、母や、妻や、子供や、自分自身さえも憎まないならば、私の弟子にはふさわしくない」とさえ仰いました。もちろんイエズス様は私たちの家族の一員をですね、憎悪する憎むという事を教えているのではなくて、イエズス様の仰りたい事は、「もしも天主の御旨に反するならば、そのようなものであっても家族の一員であっても、それを放棄しなければならない」という事です。

イエズス様は私たちに、全て同じレベルの聖徳に達するようにとは求めていません。色々な段階があります。3歳の子供が洗礼を受けて間もなく病気で亡くなってしまった、もちろん聖なる霊魂で天国にいますが、それは洗者聖ヨハネの到達した聖徳と全く同じではありません。

イエズス様は、「狭い門から入るように努めよ」と、私たちに努力するように求めました。全ての人が同じ聖徳ではありません。私たちは常に霊的生活を進歩させるように努力する務めがあります。

聖パウロは肉体的な完成と比較します。私たちは、肉体的に完成された人々に対して賞賛の声をあげます。スポーツとか、あるいは競技とかで格闘とかで、優勝したらものすごい大金が栄誉が与えられます。聖パウロは少し象徴したような言い方で、「このような格闘をする人たちは、きっと訓練して、自制して、激しい練習をして、そしてその栄冠を勝ち取ろうとするけれども、その栄冠というのはこのたかがちょっとした飾りで、一体何の価値もないようなものの為にこれほどの努力をしている。」しかし私たちの目指している完徳というのは、この肉体的なその栄誉よりも更にものすごい価値のあるものであるので、私たちはより多くの努力をしなければなりません。

ところで、私たちの霊的な生活は、辛い事や悲しい事だけではありません。それどころか多くの良いものが待っています。

まず第1に、霊魂は不死であって、決して死ぬ事がなくて、そして永遠のものであるからです。私たちの霊魂を救う為に、イエズス様は天主は人となって、苦しみを受けて、そして死の苦しみさえも受けたのです。なぜかというと、私たちの霊魂がそれほどの価値があるからです。

第2の理由は、副次的なものですけれども、この私たちが霊的生活をする為に、その動機付けをするのは、霊魂の価値のみならず、この地上における最高の、この地上で受ける事のできる最高の幸せを、霊的生活が私たちに与えてくれるからです。天主との一致の喜び、幸せ、霊魂の清さの幸せ、喜び、あるいはその霊的生活の平和、というのは、この地上の誰も、どのようなものでさえも、私たちから奪い取る事ができないものです。

そして隣人の為に、最も価値のある長く永続する善をもたらす為に、私たちがまずその永続する善を持っている事ができるからです。私たちが苦しむ人や罪に陥っている人、あるいは弱い人々にする事のできる最高の善は、「天主様にますます近付ける」という事です。もちろんこう貧しい人を助けるとか、こう人類愛の為に医療活動をする等という事は、それ自体は悪い事ではありません。しかしその私たちの隣人に永遠の命を与える、永遠の癒しを与えるという事ほどの善はありません。そしてこれこそ、人類の求めている問題の最高の解決です。

では10分休憩を取ります。

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