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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

5月8日は1429年5月8日に起こった聖ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの大勝利の記念日です。聖ジャンヌ・ダルク、われらのために祈り給え。

2022年05月10日 | お説教・霊的講話

2022年5月8日 大阪での説教 聖ジャンヌ・ダルクについて

レネー神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

今日は、1429年5月8日に起こった、聖ジャンヌ・ダルクによるオルレアンの大勝利の記念日です。そこで、この偉大で特別な聖女についてもっと知っていただくことが、皆さんの霊的な利益になると私は考えました。

彼女の生涯は実に例外的な出来事で彩られているため、彼女を模範にして、女性が軍の将軍になるべきだとか、男性の服を着るべきだとか、天からの声を受けることを期待するべきだなどと結論付けてはなりません。彼女の聖性は、このような特別な事情にあるのではなく、むしろ非常に深くて重要な聖徳にあるのです。

彼女の生涯については、非常に信頼できる偏りのない資料、つまり彼女の仇敵によって行われた裁判の資料そのものがたくさんあります。そのため逆に、この資料は、彼女に有利な偏りをもっていると非難されることはあり得ません。しかし、その資料は、彼女の聖性についての最も驚くべき証言を私たちに提供しています。

(1)ルーアンから彼女の生まれた村ドンレミに一人の調査員が派遣され、彼女の若いころのことについて尋ねました。調査員は戻ってくると、自分自身の娘にもジャンヌと同じように純潔、信心、聖徳、善良という評判があればよかったのに、と言いました。

(2)彼女が王太子(=前の王の息子、王位継承者で、戴冠前)に会うためにシノンに到着したとき、教会の神学者たちによってテストされ、彼女がカテキズムを非常によく知っていて、信心を実践していることが分かりました。彼女は、間違えやすい質問をされましたが、非常にうまく答えました。有名な答えにこういうものがあります。「天主がフランスを救いたいのなら、兵士は必要ない!」。彼女はこう答えました。

「兵士は戦い、天主は勝利を与え給う」

さて、これはほとんど教育を受けていない人間にとって、神学的に驚くほど健全なものです。二次的な原因(である兵士)は、その義務を果たさなければならず、至高にして第一の原因である天主が、最後の勝利をお与えになるのです。

このことは、オルレアンの特別な勝利にも、私たちの日々の聖化にも、悪魔との戦いや誘惑との戦いにも当てはまります。「兵士は戦い、天主は勝利を与え給う」。私たちは戦い、最後の勝利のために天主の御助けに頼らなければなりません。天主の御助けは、私たちが全力で戦うことをやめさせるのではなく、まさに戦って勝つ力を私たちに与えるのです。

プロテスタントはこのことを理解していません。彼らは、人間の功徳の価値を否定しています。彼らは、私たちの救いは天主の御業であり、私たちが行うことは重要ではないという点を主張します。それは間違いです。「兵士は戦い、天主は勝利を与え給う」。私たちは、肉、この世、悪魔と戦う必要があり、天主は忠実に戦った者に勝利を与えてくださるのです。

(3)彼女の旗には、王として座しておられるイエズスと、「イエズス・マリア」という言葉がありました。これは私たちの信仰の中心、私たちの生活の中心であり、私たちは、王たるキリストの御旗に従わなければなりません。フランス王は、聖ジャンヌによって、「キリストの副官」と呼ばれました。これは、フランス(そして全世界)の真の王のことです。

(4)戦いの前に、彼女はイングランド軍の将軍に、オルレアンの包囲を離れてイングランドに戻るよう命令する2通の手紙を口述し、彼らがそうすれば危害を加えないと約束します(これは正義による義務でした!)。彼らは彼女を笑い、あざけり、皆さんが想像できるように非常に悪しき名前で彼女を呼びさえします。これら手紙の中で、彼女は敵に危害を加えることを望まず、(正義を尊重しつつ)和平を申し出ていることが分かります。彼らがそれを拒否したときだけ、彼女は攻撃するのです。

(5)5月8日の土曜日にオルレアンで勝利した後、彼女はフランス軍が9日の主日に攻撃することを禁じ、もしイングランド軍が攻撃してきてもフランス軍が勝利することを約束します。彼女は、城壁の下に野外用の祭壇を建てさせ、兵士たちのためにミサを行わせ、全員が主日を聖とするようにしました。このように、彼女は主日の義務を尊重したのです。

(6)イングランド軍がオルレアンの包囲から撤退すると、その後、彼女は小さな勝利を重ねながら彼らを追いかけ、ロワール川沿いのいくつかの都市を解放し、6月18日のパテイでの最後の大きな戦いに至りますが、これは――天主の御摂理の助けにより――まさにイングランドの将軍たちを捕虜にし、彼女にとって大きな勝利となるのです。

(7)その後、彼女は王太子をランスというところに導き、そこで王太子は戴冠します。ランスの司教座は、496年のクリスマスにクローヴィスに洗礼を授けた聖レミの司教座でした。このクローヴィスの洗礼は「フランスの洗礼」と呼ばれています。フランスは最初のカトリック国家となりました(それ以前にも、洗礼を受けた部族の長たちのような小さな「王たち」はいましが、クローヴィスとは異なり、彼らの王国は長くは続きませんでした)。聖レミ自身が使ったと言われている油をもってランスで洗礼を受けなければ、正統なフランス王にはなれないのです。ですから、イングランドの候補者は正統なフランス王ではなかったのです。このことは、「天主から出ない権力(=権威)はない」(ローマ13章1節)ことを示しています。

どの王でも、王自身がこのことを認めれば、専制君主になることを防ぐことができるでしょう。王は、より高い権威、すなわち天主ご自身に、管理人の責任について説明しなければならないのです。王自身は天主に対して義務を負っているのです。「それゆえ、チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」(マルコ12章17節)。しかし、王自身は天主に誉れと栄光を捧げ、天主の法に奉仕し、従わなければなりません。もし王の法が天主の法に合わないなら、「私たちは人間よりも天主に従わねばなりません」(使徒行録5章29節)。ですから、「ペトロとヨハネは、(最高法院に)『天主をおいてあなたたちに従うことが天主の御前に正しいかどうかは,あなたたちが判断しなさい。私たちとしては、見たこと聞いたことを黙っているわけにはいきません』と答えた」(使徒行録4章19-20節)。ですから、世俗の法は天主の法に反するなら拘束力を失います。つまり、世俗の法は、良心を拘束できないのです。これは、妊娠中絶や安楽死を支持する法律など、多くの現代の法律にも当てはまります。

(8)王の戴冠を得た後、彼女はフランスに対する使命を達成しました。フランスをイングランド王の支配から解放するために彼女が始めた推進力は、彼女の死後数年のうちに彼らを完全に追放することにつながったのです。しかし、彼女は今、自分の人生の証しによって、死ぬまで忍耐することによって、その使命を封印しなければならなかったのです。

彼女はコンピエーニュで逮捕されました。イングランド軍に捕まりやすいように彼女一人を残して扉を閉めてしまった、その街の有力な市民の裏切りの後のことです。その後、彼女はルーアンの牢屋に入れられましたが、そこはイングランド人の手になる世俗の牢屋である一方で、彼女はルーアンの司教によって裁かれました。なぜなら、イングランド人が、彼女を魔女として死刑にすることを望んだからです。

(9)彼女は男性の服を着ていたことで告発されました。彼女はこう答えました。「私の事案は、教会の事案ですから、教会の牢屋に入れてください」。教会には男女別の牢屋があり、女性用の牢屋は女性によって管理されていたため、囚人にとってはずっと安全だったのです。しかし、イングランド人は拒否しました。ですから、彼女が何よりも望んでいたのは、貞潔を守ることであり、そのことが、彼女の例外的な事情を考慮して、彼女が男性の服を着ていた理由であることは明らかでした。

(10)彼女のとても有名な答えの一つに、こんなものがあります。彼女はこう聞かれました。「あなたは成聖の恩寵の状態にありますか」。さて、これは非常に難しい質問です。なぜなら、聖トマス・アクィナスは、成聖の恩寵は超自然的な現実であり、天主の特別な啓示がない限り(聖パウロやファチマの子どもたちなど)、誰も肯定的な答えの確証を持つことができない、と述べているからです。さて、彼女はこう答えています。

もし私がそうでないなら、天主が私をそうしてくださいますように。
もし私がそうなら、天主が私をそのまま保ってくださいますように。
もし私が、自分がそう(成聖の恩寵の状態)でないと知ったら、私は世界で最も悲しい人間になってしまうでしょう。
もし私がそうでなかったら、私は声を持てないだろうと思います。

最初の2行(もし私がそうでないなら、天主が私をそうしてくださいますように。もし私がそうなら、天主が私をそのまま保ってくださいますように。)は、彼女が成聖の恩寵の状態にあると望んでいることを表しています。この2行は質問の罠を避けています。

しかし、次に3行目(もし私が、自分がそう(成聖の恩寵の状態)でないと知ったら、私は世界で最も悲しい人間になってしまうでしょう)は、天主との友情(成聖の恩寵の状態)が彼女の最大の望みであり、何としてもそれを失いたくないということを示しています。

そして最後の1行は、彼女が自分の成聖の恩寵の状態を確信することができるようにするために、天主が彼女にお与えになったしるしを示しています(もし私がそうでなかったら、私は声を持てないだろうと思います)。(彼女が聞いている)その声で示されている聖人たちとの友情は、天主との友情のしるしなのです。

彼女の答えは、黙想の良い題材になるかもしれません。

もし私がそうでないなら、天主が私をそうしてくださいますように。
もし私がそうなら、天主が私をそのまま保ってくださいますように。
もし私が、自分がそう(成聖の恩寵の状態)でないことを知ったら、私は世界で最も悲しい人間になってしまうでしょう。

もう一つの有名な答えはこうです。彼女は教会に不従順だとして非難されました(彼女の裁きを監督した邪悪な司教コーションに抵抗したためです)。彼女は、声の導きに従って私たちの主イエズス・キリストに従順であることが、裁判官を満足させるはずだと主張しました。彼らは、これ以上何を求めることができたのでしょうか? そして彼女はこう言いました。

「私にとって教会とキリストは一つです」

裁判官たちの中には、このような答えや似たような答えを聞いたとき、私たちの主イエズス・キリストの次の言葉が耳に残っていた者もいました。「人々があなたたちを会堂や上司や権威者の前に引いて行くとき、あなたたちはどういうふうに弁明しようか、何を言おうかと心配することはない。そのときに言うべきことを教えてくださるのは聖霊である」(ルカ12章11-12節)。ですから、この裁判官たちは、聖人の死刑宣告に巻き込まれないように、夜までに町を出て行ったのです。

そして、1431年5月30日、彼女は火あぶりの刑に処されました。この最も残忍で不当な処刑の後、処刑に立ち会ったイングランド人の中にも、こう言った者たちがいました。「われわれはこの戦争に負けた。聖人を火あぶりにしたのだから」と。彼女は1456年に名誉を回復し、最終的に1920年に教皇ベネディクト十五世によって列聖されました。

聖ジャンヌ・ダルクに祈りましょう。私たちが、その信心、その勇気、その忍耐、その知恵に倣うことができますように。聖ジャンヌ・ダルク、われらのために祈り給え。童貞と殉教者の元后である聖母、われらのために祈り給え。

アーメン。

Photo Credit


「ロレトの連祷」と呼ばれている童貞聖マリアの連祷の連祷の起源について、「崇むべき器」という称号について

2022年05月10日 | お説教・霊的講話

童貞聖マリアの連祷についての説教

ドモルネ神父様 2022年5月8日

はじめに 

5月は、童貞聖マリアに捧げられる月です。それはなぜでしょうか? 5月は、他のどの月よりも、聖母の祝日が多いからです。5月には、「ロレトの連祷」と呼ばれている童貞聖マリアの連祷を毎日祈ることが、聖ピオ十世会の習慣です。

この連祷の起源についてお話ししようと思います。そして、「崇(あが)むべき器」という称号についても、お話しします。

1.ロレトの連祷の起源

連祷とは、私たちの主イエズス、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、あるいは諸聖人に対する、一連の祈願です。これらの祈願は、彼らの栄光と力を宣言する称号の列挙からなっています。これらの称号は、聖書、神学、典礼、そして人々の信心からとられたものです。ですから、これらの称号の意味を黙想することは、自分自身を霊的に養う良い方法なのです。

私たちは、童貞聖マリアの連祷を、「ロレトの連祷」と呼んでいます。この連祷を誰が作ったのかは、分かりません。しかし、イタリアのロレトという場所で、人々がこの連祷を祈り始め、そこから世界中に広まっていったということは、歴史から分かっています。

ロレトは、童貞聖マリアの家が現在ある場所として有名です。この家は、以前はナザレトにあって、受胎告知と天主の御子のご托身が起こったところです。この家が、なぜ今イタリアにあるのでしょうか? 聖霊降臨の後、ナザレトにあったこの家は、カトリックの聖地となりました。(皇帝コンスタンティヌスの)皇太后聖ヘレナがその上に教会を建て、そこは何世紀にもわたって巡礼の目的地となりました。しかし、イスラム教徒がパレスチナを占領し、キリスト教徒を迫害しました。キリスト教徒の保護のために十字軍が組織されましたが、時とともに、最後にはイスラムのトルコ軍が優勢になります。十字軍が、アッコにあった聖ヨハネ騎士団の最後の砦を追われる数日前の1291年5月9日から10日の間の夜、天使たちが、童貞聖マリアの家を、パレスチナからダルマチアと呼ばれる地方に運びました。その家は3年半の間、そこに留まりました。そして1294年12月10日、天使たちはこの家を再びイタリアのアンコーナ地方の、ラウレタという名前の敬虔な婦人の所有する土地に移しました。その後、人々はこの家を、「ラウレタの家」と呼ぶようになりました。さらに10カ月後、この家は天使たちによって、再び現在の場所に移されました。教会が建てられ、その周りに「ロレト」という名前の新しい町が生まれました。

この3回の移送の話は、非現実的でおとぎ話のように聞こえるかもしれません。しかし、当時のローマ教皇クレメンス七世は、これについて綿密な調査を行いました。もちろん、カトリック信者の間で偽りの話が広まることを、教皇は避けたかったのです。すべては真実でした。そして聖母さえ、ロレトで数多くの奇跡を起こすことによって、その真実性を裏付けられたのです。

私たちの霊的な糧として、ここで、この連祷の中の一つの祈願について、考えてみましょう。私たちは聖母を「崇むべき器」と呼びますが、その理由を見てみましょう。

2.崇むべき器

崇めるとは、誰かが優れていることを公に認めることです。器とは、私たちが満たし、それから注ぎ出す容器のことです。器の価値は、その中身の価値に由来します。崇むべき器とは、貴重なものを入れるために作られた器を意味します。崇むべからざる器とは、汚れたものを入れるために作られた器を意味します。

聖母を「崇むべき器」と呼ぶのは、聖母がこの世で最も崇められるべき存在、すなわち、人となられた天主である、私たちの主イエズスを受胎し、その胎内に宿されたからです。御子の尊厳が、聖母自身の偉大さの土台です。天主の御母としてふさわしいお方となるために、聖母はすべての聖人や天使をしのぐほどのあらゆる超自然的な賜物で飾られたのです。教会は「集会書」にある次の言葉を、マリアに関するのものとしています。「私には、道と真理と知識と聖なる希望のすべての恩寵がある」(集会書24章18節)。ですから、「崇むべき器」という称号を通して、私たちは、天主の御母としての聖母の素晴らしさを宣言しているのです。聖母は、キリストの神性で満たされた「器」なのです。

しかしまた、この「崇むべき器」という称号によって、私たちは、すべての恩寵の仲介者としてのマリアの尊厳をも、宣言しているのです。実際、イエズスが聖母マリアを通して地上に来られたように、イエズスはマリアを通して、ご自分を霊魂たちにお与えになります。聖母は、私たちの主イエズスがその恩寵で満たし、そこから霊魂にその恩寵を注ぎ込まれる器のようなものです。この現実は、聖母の聖エリサベトへの訪問に示されているのが分かります。私たちの主イエズスを宿されたマリアは、聖エリザベトを訪ね、その家族に恩寵をもたらされました。聖エリザベトは聖霊に満たされ、ご托身の神秘の特別な啓示を受け、洗者ヨハネはその母の胎内で原罪から清められ、聖ザカリアは預言の賜物を与えられました。聖母は、キリストとその恩寵を、すべての人に与え続けておられます。だからこそ、教会は、「集会書」の次の言葉を、聖母のものとするのです。「私を慕う者はみな、私のもとに来て、私の実を食べよ」(集会書24章19節)。

聖母は、天主の御母であり、恩寵に満ち、またあらゆる恩寵の仲介者ですから、もっとも高く崇められるにふさわしいお方です。聖母を辱めようとする者たちに災いあれ。天主はそのような人たちを、最も厳しく罰せられるでしょう。

フランス革命時の1793年のある日、カトリックの宗教に対する憎悪に満ちた一団が、ある教会に入り、悪魔的な熱意をもって、教会内の像やその他神聖なものを、すべて破壊しようとしました。祭壇の上には、被昇天の聖母の美しい像があり、その足元では、天使がラッパを吹いていました。この犯罪者たちは、梯子を持ってきて、そのうちの一人が斧を持って梯子に登り、この像を壊して引きずり下ろそうとしました。梯子の一番上で、男は片手で天使のラッパを支えとして持ち、もう片方の手で斧を振り回しました。すると突然、天使のラッパが壊れ、男はバランスを崩し、下の祭壇の上に落ち、背骨を折りました。この男は、3日後、恐ろしい苦しみと絶望のうちに、死にました。その像は、今もその教会のその場所にあります。天主の御母を辱めようとする者は、皆同じです。彼らは聖母の偉大さを何一つ奪うことなく、自分自身こそが砕かれるのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちは、毎日の真摯で愛に満ちた信心によって、崇むべき器である聖母をいつも崇敬しましょう。特にこの5月の間、ロレトの連祷を祈ることによって。

Photo Credit

 

The Illustrated Litany of Loreto

The following article is taken from the University of Dayton

The Marian Room

 

 


【親が育てられない子どもを匿名でも預かる慈恵病院(熊本市西区)の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」】告白~僕は「ゆりかご」に預けられた【テレメンタリー2022】

2022年05月10日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

親が育てられない子どもを匿名でも預かる慈恵病院(熊本市西区)の「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」が5月10日、開設から15年を迎えたそうです。赤ちゃんの命を守る〝最後のとりで〟として、2020年度までに159人の子どもが預けられました。預けられた155人のうち、身元が判明しているのは124人(80%)だそうです。

告白~僕は「ゆりかご」に預けられた【テレメンタリー2022】【KAB 熊本朝日放送】

赤ちゃんポストに座っていた男の子、18歳になり「宮津航一として、その後を伝えたい」…2007年5月[あれから]<22>

 赤ちゃんポストに入っていた瞬間のことは、よく覚えていない。ただ、「扉のようなもの」の映像が、ぼんやりと頭に残っているだけだ。2007年5月、熊本市の慈恵病院に「こうのとりのゆりかご」と呼ばれる赤ちゃんポストが開設された。〈ぼく〉はそこに預けられた。「ゆりかごがあって、自分は救われた。当事者だからこそ、『ゆりかごから先の人生も大事だよ』と伝えたい」

【参考文献】

こうのとりのゆりかご - 熊本市 | 産婦人科 無痛分娩 小児科 慈恵病院

【よく分かる】こうのとりのゆりかご 開設15年の歩み|熊本日日新聞社

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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