パオロ・パスクァルッチ氏の第二バチカン公会議の分析:第二バチカン公会議と教会の聖伝との断絶を示す26のポイント(21~24)
第二バチカン公会議と教会の聖伝の「断絶のポイント」について―概要
21.互いに関係している三つの「断絶のポイント」がある。①フェミニズムへの開放(現代世界憲章29、52、60条)と、②公の性教育への開放(キリスト教的教育に関する宣言「グラヴィッシムム・エドゥカティオーニス」Gravissimum educationis、GE1)。公の性教育は、先任の教皇たち(ピオ十一世とピオ十二世)によって正当にも断罪されている。なぜなら、不道徳で堕落的なものだからである。性教育は親や教師の慎重かつ個人的な判断に委ねられるべきものだからである。③「生活と愛の交わり」を結婚の第一の目的に高め、子どもの出産と教育という目的は、この「交わり」の「究極的な冠」(fastigium)であって、婚姻が存在する独占的な目的ではない(現代世界憲章48条)ものとして現れること。
22.キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言「ノストラ・エターテ」(Nostra Aetate)の中で、キリスト教以外の宗教に帰属する、複数の異常で誤解を招くような記述がある。この文書は、これらの宗教は「すべての人を照らす真理の光線を示すこともまれではない」(ノストラ・エターテ2条3項)と宣言さえしており、また、信じられないことに、カトリック信者に
「かれらのもとに見いだされる精神的【霊的】、道徳的富および社会的、文化的価値を認め、保存し、さらに促進する」(同第2条第3項)ように勧告している!
この宣言(および教会憲章16条「唯一の慈悲深い神を、われわれとともに礼拝する(nobiscum Deum adorant unicum et misericordem)」は、ムハンマド(マホメット)が宣言した啓示を真正なものと認め、コーランの黙示録的な「キリスト論」と「マリア論」を容認しているようにさえ見える(ノストラ・エターテ3条1項)。
ユダヤ教徒に対しては、キリストがすでにキリスト信者とユダヤ教徒を和解させたと信じているように見えるが、ユダヤ教が改宗せずにキリストに敵対し、偽りの現世的なメシア到来の希望を持ち続けているという事実は無視されているだけである。この和解とされるものは、"置き換えの神学"を不確かなものにしている(キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言4条)。置き換えの神学は、私たちが知っているように、唯一の真の啓示された宗教としてキリスト教が、ユダヤ教の代わりに置き換わったという根本的で明白な置き換えを内容としている。
23.この宣言は、ヒンズー教を評価してこう言う。その信者は「汲み尽くすことができないほどの豊かな神話と、哲学上の鋭敏な努力をもって神の神秘を探求し、表現する。また、かれらは、あるいは種々の様式の修行生活、あるいは深い瞑想、あるいは愛と信頼をもって神のもとに逃避することによって、われわれの存在の苦悩からの解放を求めている。」(同2条1項)。
この描写は、まったく誤解を招くものである。なぜなら、カトリック信者に、ヒンズー教の神話や哲学を有効なものとして受け入れさせ、あたかもヒンズー教が効果的に「神の神秘を観想する」ことができるかのように、またヒンズー教の禁欲主義や神秘主義がキリスト教の禁欲主義と同様のものを達成できるかのように思わせるからである。
しかし、ヴェーダの時代(紀元前16~10世紀)以降のインドの霊性を特徴づけている神話と思索の混合は、一元論的であり同時に汎神論的な"神と世界"という概念において、その本性を表していることを私たちは知っている。実際、非人格的で宇宙的な力として神を考え、無からの(ex nihilo)創造という概念を無視し、その結果、感覚的な現実と超自然的な現実、物質的な現実と霊的な現実、全体と個別のものを区別しなかった。その結果、個々に存在するすべてのものは、不明瞭で宇宙的な一つのものに溶解し、そこから、すべてのものが生まれ、そこへ、すべてのものが永遠に戻ってくるのであるが、その一方で、個々に存在するすべてのものは、それ自体がまったく見かけだけのものでしかないことになる。この考え方は、公会議によれば「深遠」ではあるが、個々の霊魂という概念(これは対照的に、古代ギリシャ人にはすでに知られていた)や、私たちが自由意志と呼ぶものが欠如するのは避けられない。
全体像は、輪廻転生という全く受け入れられない概念で完成する。輪廻転生は、教義憲章の草案「信仰の遺産を純粋に守るべきこと」(De deposito fidei pure custodiendo)で明確に非難されている、全く受け入れられない概念である。この草案は、公会議の準備段階で起草され、3年間続いた印象的で極めて正確な準備作業のその他の草稿とともに、公会議の冒頭で革新主義者(Novatores)、すなわち進歩的な枢機卿たちや司教たちによって(教皇ヨハネ二十三世の同意を得て)反故にされ難破させられたものである。
実際、いわゆるヒンズー教の「修行」(ascesis)は、一種のエピクロス主義(快楽主義)のようなものであり、洗練された自己中心的な探求、つまりあらゆる欲望 -- それが良きものであれ -- に対する、また全ての責任に対する、上位の霊的な無関心(indifference)を探求することである。この無関心は、輪廻転生という誤った信仰が教えているように、すべての苦しみは前世の過ちを償うとすることで正当化されている。
24.仏教はヒンズー教を部分的に純化した自律的な変異型であるが、この仏教について、宣言では次のように言う。
「その種々の宗派に従って、この流転の世が根本的に無常であることが認められ、人が忠実と信頼の心をもって、あるいは完全な解脱の状態に至る道、あるいは自力または他力によって最高の悟りに到達する道が教えられる。」(ノストラ・エターテ2条2項)
これは、アンリ・ド・リュバック(正統神学ではないことで有名なイエズス会司祭)が誤って伝えた仏教のイメージであり、疑うことのないカトリック信者に受け入れられるように再考し、装飾したものである。実際、仏教徒が、いわば、真の意味での「無の形而上学」を「流転の世が根本的に無常であること」に対抗するものとして持っていることを、そこでは語っていない。
彼らの「無の形而上学」によると、世界と私たち自身の「自己」は、見かけ上の存在にすぎない(また、私たちキリスト信者にとってそうであるような、単に"非必然的で過ぎ行くものであると同時に真に現実の存在"だけではない)。仏教徒にとって、すべてのものは、同時に、「成るであり、成らないである」。人生はどこもかしこも悲しみに染みわたった連続的な変化であり、悲しみは、すべてが空しいものであることと納得して克服すべきであり、自分がすべきことはあらゆる欲望を取り除くように自分に納得させることである。これは、知的なイニシエーション、つまりグノーシス(知識)によってなされる。
タントラ仏教(密教)では、このようなグノーシスは、いわゆる「性的魔術」を使って解放するとされる宣言をすることで、倫理や良識の限界を超えている。仏教のイニシエーションは、すべてのものに完全に無関心である涅槃(「滅」または「消滅」)に至ることを目的としている。これは、絶対的な滅という究極の状態であり、そこではすべてが空しさそのものであり、絶対的な空虚の平和であり、私たちの「自己」が完全に消滅して宇宙全体に溶け込んでいる非存在(non-being)である。これこそが、第二バチカン公会議があえてカトリック信者に尊敬の念をもって注目するよう呼びかけた「完全な解放の状態」「最高の照らし」の正体である。