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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

王たるキリスト_イエズス・キリストが王である2つの理由_その王国はどこで完成されたのか知っていますか?

2020年10月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年10月25日は王たるキリストの祝日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年10月25日、王たるキリストの祝日です。一緒にキリストが王であるということを黙想しましょう。

【王たるキリスト】

天主は愛である。天主は私たちに祝福と幸福をあたえることを欲しています。私たちはただそれを受ける準備をするだけでよいのです。どうやって準備をしたら良いのでしょうか?天主を信頼し、天主に忠実に従うことです。天主に信頼する、何故なら天主の富と祝福は与え尽くすことも汲み尽くすこともないからです。天主に従う、何故なら天主を拒むとは、天主の与える祝福を拒むということだからです。

私たちを愛して人となった天主イエズス・キリストは、私たちの最高の王です。ピオ十一世教皇はその回勅『クアス・プリマス』で、イエズス・キリストが王である理由を二つ挙げています。

一つは、イエズス・キリストが天主だからです。天主と人間の本性が位格において結合した神秘(ヒポスタシスにおける結合)によって、イエズス・キリストには天主のペルソナ(位格)一つのみがあり、イエズス・キリストは同時に完全な天主であり同時に完全な人間だからです。ですから天主として、全ての被造物・全宇宙を、絶対最高の主権をもって支配し統治しているからです。

もう一つの理由は、イエズス・キリストが贖い主として、天主の御血で私たち罪人である人間を贖ったからです。人間の救い主として私たちの最大最高の恩人であるからです。イエズス・キリストは私たちを救うために人間になってこの地上に来られました。

「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(Act 4:12) これは聖ペトロの言葉です。永遠の真理です。カトリック教会の教える真理を一言でいう真理です。

カトリック教会はこの永遠の救いを霊魂に与えるために建てられました。イエズス・キリストの福音が、その与える聖寵が、その愛が、その教えが、霊魂たちに与えられるために。イエズス・キリストは、真の天主、私たちの贖い主として、したがって私たちの上に主権を持つ王として、私たちから信じられ、礼拝され、希望され、愛される権利を持っています。

イエズス・キリストは、霊魂たちを愛する王として、霊魂の幸せのために、霊魂を統治する権利を持っています。霊魂に永遠の幸福を与えるために、人間となった天主のことを、この歴史的事実を、だれも知らないでいることはできません。私たちが救われるためには、真の救い主の教えと恵みを、つまりその統治を受け入れなければなりません。

私たち個人のみならず、家庭も、社会もイエズス・キリストを王として認めなければなりません。イエズス・キリストこそが、全宇宙を支配する法を定め、愛の掟そのものである立法者です。それと同時にイエズス・キリストこそが私たちを愛し、私たちを生かしめ存在させている方であり、また最後の審判者です。この世のすべての統治者と指導者らや国々をも裁く方です。

イエズス・キリストの立てた御国である教会の外に救いはありません。何故ならイエズス・キリストの外に救いはあり得ないからです。私たちの主イエズス・キリストにおいてのみ、永遠の救いの価値があるからです。イエズス・キリストを通らなければ、だれも天国に入ることはできません。天国には、イエズス・キリストの神秘体しかないからです。イエズス・キリストこそが天国であるからです。何故ならイエズス・キリストは天主だからです。

イエズス・キリストの御国とは、今日の「王たるキリストの序誦」にあるとおり、すなわち「真理と生命との王国、聖性と聖寵との王国、正義と愛と平和との王国」です。

【ミサ聖祭】

唯一の贖い主かつ救い主であるイエズス・キリストは、その王国を十字架の祭壇の上で完成させました。永遠の司祭として、同時に、汚れなき且つ平和をもたらすいけにえとして自分自身を捧げつつ、唯一天主御父のみこころに適う犠牲を奉献しました。

私たちは、全カトリック教会と共に、イエズス・キリストを王として認めます。特に、聖伝のミサ聖祭においてイエズス・キリストが私たちの王であることを、知性と意志と体の態度で示します。

聖伝のミサによって、イエズス・キリストに、私たちの王としてふさわしい礼拝と賛美と感謝を捧げたいと望みます。イエズス・キリストの現存にふさわしい礼拝をささげます。私たちのカトリック信仰を心の底からの愛を表明する、聖伝のミサを捧げ続けることを望みます。私たちは、御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストを跪いて、天主として、王として、崇敬し敬います。

私たちはイエズス・キリストが愛をもって私たちを統治することを望みます。イエズス・キリストは私たちのすべてだからです。何故なら、イエズス・キリストこそが真の天主だからです。Regnavit a ligno Deus. 天主は十字架の木から統治するからです。

聖パウロが言う通り、天主御父は「キリストによって、キリストにおいて、すべてのものを和睦させ、御子キリストの十字架の御血によって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようと望み給うた」からです。本当の和睦と平和は、キリストの十字架の御血だけによるからです。

聖伝のミサは、私たちの主が持つその絶対的首位権を、祈りと態度で明白に表明しています。しかし、新しいミサでは、残念ながら、人間が中心になっています。

何故なら、十字架の犠牲の再現であるよりは、新しいミサの総則の定義によれば、「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」(7)であり、「主の晩餐を食する」(10) ことだからです。そこで、新しいミサは、もはや人から天主に向う垂直的な礼拝というよりは、それに代わって人と人との間での水平的な礼拝を制定しているからです。

【カトリック司祭の務め】

王であるイエズス・キリストは、ご自分の十字架によって勝ち取った天国の救いを与えるためにカトリック教会を創立しました。従って、イエズス・キリストの福音、イエズス・キリストの御国、イエズス・キリストによる霊魂の救いを説教するのは、カトリック司祭たちの務めです。

天国のみならず、この地上での幸せをさえも、イエズス・キリストがなければ得ることはできません。何故なら、イエズス・キリストこそ、この世界の創造主であり、愛の天主だからです。私たちの主の恩寵なしには何もできないからです。イエズス・キリストこそが全ての恵みの源だからです。

カトリック司祭は、救霊を望む人々全てに本当のことを伝えなければなりません。イエズス・キリストだけが救いの唯一の手段です。十字架につけられたイエズス・キリストを司祭たちは語らなければなりません。もしも聖伝のミサが、教会の聖伝の教えが、迫害されているとしたら、まさにこの真理のためです。

カトリック司祭は、イエズス・キリストの立てた宗教が超自然の真の宗教だと教え続けなければなりません。過去の歴代の教皇様たちの不可謬の教えをそのまま信じて繰り返し、カトリック教会が教えてきたことをそのまま変えずに教えなければなりません。使徒継承の教えを捨ててはなりません。カトリック教会の聖伝と断絶してはなりません。教会の聖伝や歴代教皇の教えと断絶することこそ、離教的です。教会を破壊することです。

カトリック司祭は、聖伝を礎(いしずえ)として教会を建てなければなりません。真の天主イエズス・キリストの上に、十字架の上に、聖伝のミサ聖祭の上に、教会を建てなければなりません。

王たるキリストの祝日の聖務日課では次のような賛歌を歌います。

(讃課)

キリストは誉れ高き御旗を

凱旋して大きく広げ給う、

民々よ、跪いて来たれ、

王の王に喝采せよ。

 

彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、

暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。

[十字架の]木に高く挙げられて、

全てを愛によって引き寄せた。

 

三重(みえ)に幸いなる国よ、

そこにキリストが合法的に命令し、

天からこの世へ命じられた

法の順守を実行する社会!

 

不敬な戦争は火を噴かず、

平和は条約を固め、

心の一致も微笑み、

市民秩序は安全に立ち留まる。

 

忠誠は、婚姻を守り、

若者は、貞潔を尊び、

家庭生活の諸徳により、

慎み深い家族は花咲く。

 

望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、

いとも甘美なる王よ、

燦然たる平和を楽しむことにより、

[御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。

 

イエズスよ、御身に栄光あれ、

御身は世の王笏を統括し給う、

聖父と聖霊と共に、

代々に至るまで、アメン。

 

(晩課)

千代の八千代の君主なる御身を

キリストよ、諸国の王なる御身を

御身を精神と心の唯一の

判定者と私たちは告白する。

 

邪悪な群れは叫ぶ

「俺たちはキリストの支配を望まない」と

私たちは御身を全て人々の最高の王と

拍手喝采して宣言する。

 

おお、キリストよ、平和を与える君よ、

逆らう人々の心を平定し、

御身の愛によって道を外れた人々を

一つの群れと集め給え。

 

それのために、流血の木に

御身は掛けられ両の腕(かいな)を開き

剣にて開かれた

火に燃える聖心を見せ給う。

 

それのために、御身は祭壇に隠れ給う、

ブドウ酒と食事の姿で。

子供たちに救いを注ぎながら

胸を突き刺されて。

 

諸国民の指導者(政府)たちは

公けの名誉を捧げつつ、

学者たちも、裁判官らも、御身を崇敬し

法律も芸術も、それを表明せんことを。

 

奉献された王たちの御旗らが

そこで輝き出んことを。

柔和な支配に祖国を

全ての家庭を奉献せよ。

 

イエズスよ、御身に栄光あれ、

御身はこの世の支配を司り給う、

御父と、聖霊とにも、栄光が

代々、とこしえに。アメン

邪悪な群れは「俺たちはキリストの支配を望まない」と叫ぶかもしれません。しかし私たちは、天主の御恵みと御助けにより、カトリック教会と歴代の教皇様たちと共に、イエズス・キリストを全て人々の最高の王と拍手喝采して宣言しましょう。御国の来たらんことを!御国が天にあるごとく地にも来たらんことを!と心から祈りましょう。

【遷善の決心】

ロザリオの聖母に祈りましょう。私たちを愛し、私たちを本当に幸福にすることを欲している王であるイエズス・キリストに、私たちが従いますように。イエズス・キリストの愛の掟に従いますように。王なるイエズス・キリストの福音を生きることができますように。王たるキリストの御旗のもとに、善のために罪に対してたたかうことができますように。そして、ついには永遠の王であるキリストと天国で、キリストとともに、とこしえに喜びを得ることができますように。

イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」とお答えになった」。


聖ピオ十世会 日本 SSPX Japan カトリック教会の聖伝のミサ Traditional Latin Mass in Tokyo and Osaka

2020年10月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

王たるキリストの祝日おめでとうございます!

東京で三回、大阪で一回のミサを捧げることが出来て天主に感謝いたします!

東京では82名が、大阪では28名がミサに参加されました。日本では110名でした。

願わくは、カトリック教会が教え続けてきたそのままの教えを、信仰と道徳に関する教えを、伝えられたまま、何も変えずに、教皇様、司教様方、司祭たちが教え続けますように!

ところでアメリカの大統領選挙が近づいています。この選挙の為にノベナの祈りが始まったと聞きました。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

今日東京のミサに来られた方は、子供達も入れて合計82人でした。

09:00のミサ
男: 16人(内、子供0人)
女: 16人(内、子供0人)
計: 32人(内、子供0人)

11:00のミサ
男: 16人(内、子供3人)
女: 14人(内、子供4人)
計: 30人(内、子供7人)

12:30のミサ
男: 11人(内、子供0人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 26人(内、子供1人)

3回のミサの合計(ダブルカウントの6人を除く)
男: 42人(内、子供3人)
女: 40人(内、子供5人)
計: 82人(内、子供8人)







2020年10月25日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for October 25, 2020

2020年10月25日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年10月25日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 金曜日と土曜日のミサは例外的に事情により大阪ではありません。御了承ください。

 10月25日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 10月26日(月) 06:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

10月25日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of October 25th, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo


Mass schedule in OSAKA:

Exceptionally, there will be no Mass on Friday and Saturday. I am very sorry for any inconveniences you may have because of this absence. However, we will offer Mass on Sunday and Monday as usual! Courage!

Sun, October 25: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, October 26: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.







【再掲】教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマス Quas Primas」- キリストの御国におけるキリストの平和 -

2020年10月25日 | カトリックとは
教皇ピオ十一世の回勅「クアス・プリマス Quas Primas



一、問題の提起

 教皇になってすぐに(Quas primas post initum Pontificatum)、私は全教会の司教に最初の回勅を送り、人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘しました。

 人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がったのです。そして、個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。

 私達が追求しなければならないのは、「キリストの御国におけるキリストの平和」です。私もこの点に関して、及ぶ限り力を尽くすことを約束しました。世界にキリストの平和を回復し、確立する最上の手段は、主に支配を委ねるよう努力することであると私は思っています。

 それでも人々のうちに、キリストおよび唯一の救いの道である教会に対する関心が芽生え、或いは盛んになってきたことは、よりよい時代への明るい希望を私の心の内に起こしました。これは救い主の支配を踏みにじり、その王国から追放されていた人々が、再び服従の義務につく準備をし、急いで帰ってくる印です。

 聖年を通じて行われた数々の忘れがたい出来事は、教会の創立者であり王である主に、輝かしい栄光を誉れをもたらしました。

 布教展覧会が催され、人々は教会が花婿の王国を地の果てまで拡大するため、不断の努力を傾けているのを目撃し、非常な感動を覚えたのです。そして宣教師たちの不屈の努力と犠牲によって、多くの国々がカトリックになったのを眺めると共に、まだ主の救いと慈しみの統治に服していないところがあることも知りました。

 また、聖年の間に、司教や司祭の引率でローマに来た人々は、ただ一つの目的、すなわち、聖ペトロ、聖パウロ両使徒の墓と私の前で、キリストへの忠誠を誓うために来たのです。そして私が六人の証聖者、および童貞女を、その英雄的な徳を立証して聖人の位に上げたとき、キリストの王国の上に光が注がれたと感じました。聖ペトロ大聖堂における荘厳な列聖宣言の後、感謝の祈りを唱える信者の群が「キリストよ、御身は栄光の王なり!Tu Rex gloriae, Christe!」と叫んだとき、私の心は言いようもない喜びと慰めに満たされました。天主を離れた人々や国々が妬みと不和にあおられ、滅びと死に向かって急ぐときも、天主の教会は聖なる男女の家系を絶えずキリストのために、生み育てています。この地上の御国で忠誠と従順を示す人々を、天国の永遠の幸福にキリストは招きます。

 それに、この祝いの年は、ニケア公会議から数えて千六百年目にあたりましたので私は記念の催しを行うように命じ、私自身バチカンの大聖堂でこれを行いました。それは特別に喜ばしいことです。というのは、ニケア公会議は信ずべきカトリック教義の一つとして、御一人子が御父と一体であることを、公言し、決定した上、使徒信経に、「その国は終わることなし cuius regni non erit finis」という言葉を付け加え、キリストの王としての権威を確認したからです。

 この聖年は、キリストの王国を称える数々の機会を提供してくれました。ですから、多くの枢機卿、司教、信者がた個々の、或いは連名の願いをいれて、私達の主、イエズス・キリストの王たる尊厳を祝う特別の祝日を典礼に加えて、この聖年を完結するのは、教皇権に相応しいことだと思います。

 尊敬する司教、司祭の皆様、このキリストの王位こそ私の大きな喜びであり、これについて少しお話ししたいと思います。

 私がキリストの王位について語ることを全て信者にわかりやすい方法で説明して下さい。そうすれば、私の宣言しようとする祝祭日が毎年祝われ、現在も将来も豊かな実りをもたらすことになるに相違ありません。

二、教義の解説、王たるキリストの支配権

1 キリストの王位の2つの意味

 キリストは、全てのつくられたものに優る、最高の地位を占めておられますから、比喩的な意味で「王」として称えられるのは、かなり以前からの習慣です。

 この意味で、キリストは「王として人々の知性を支配する」と言われます。これは、その知性の鋭さや知識の広さのためばかりではなく、キリストが真理そのものであり、すべとの人間がその真理をくみ、心から受け入れねばならないからなのです。

 キリストはまた「王として人々の意志をも司っておられる」のです。それは、キリストが、御自分のうちに聖なる天主の意志と人間としての完全に正しい意志を合わせて持っておられるため、ばかりでなく、キリストが霊能を持って、私達の自由意志をもっと高い行いに向かわせ動かしているからです。

 キリストが私達の心の王であると言われるのは、「一切の知識を越える愛」(エフェゾ3:19)そのものであり、主の慈悲と温良が、全ての人を引きつけているからです。まことに、イエズス・キリストほど強く広く愛された人間は今まで存在しなかっただけでなく、これからも存在しないでしょう。

 しかし、もし一層深く考えるなら、王の称号と権能は、比喩だけではなく、本来の意味で、人としてのキリストに属することを認めなければなりません。というのは、御父から「権力と栄光と御国」(ダニエル7:13ー14)を与えられているということは、人たるキリストについてだけしか言い得ないからです。つまり、<天主の御言葉>として見れば、御父と一体であり、既に万物を御父と共有し、全被造物の上に最高絶対の主権を有しておられるからです。

2 聖書からの証明

 キリストが王であることは聖書の至る所に現れています。彼こそヤコブから出た統治者であり(民数4:19)、聖なる山シオンを統べる王として御父に任命され、全ての国民を遺産として与えられ、地の果てまでもその領土とされた御者(詩編2)です。また婚宴の賛歌は将来のイスラエルの王を最上の富と権力をもつ王と称え「おお天主よ、御身の王座はとこしえに続き、御身の王国の杖は正義の杖なり」(詩編44:7)と歌っています。これと似た句は他にも沢山見いだせます。

 もっとはっきりキリストの君臨が示されている句を見ましょう。主の王国は境が無く、正義と平和によって栄えると詠まれています。「彼の世、正義が栄え、深い平和があるだろう、彼は海から海まで、川から地の果てまで治めるだろう」(詩編71:7ー8)。

 預言者の証言もこれに劣らず沢山あります。まず、よく知られているイザヤの預言を挙げましょう。「一人のみどりごが我々のために生まれた。一人の男の子が我々に与えられた。その肩に王の印があり、その名は霊妙、顧問、大能の天主、とこしえの父、平和の君と唱えられる。彼の治めるところは広大、限りなき平和のうちに、ダヴィドの座を、その国を、法を正義を持って今もいつまでも固め強められる」(イザヤ9:6ー7)。他の預言者たちもイザヤと同様なことを言っています。エレミアはダヴィドの家から出る「正しい枝」が「王となって世を治め、栄え、公平と正義を世に行う」(エレミア23:5)と預言し、ダニエルもまた、天上に天主がお築きになる王国を告げています。「これはいつまでも滅びることなく、・・・立って永遠に至る」(ダニエル2:44)と。また少し後の章では、次のように言っています。「私はまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が雲に乗ってきて、日の老いた者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを給い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、無くなることが無く、その国は滅びることがない」(ダニエル7:13ー14)。ザカリアは慈しみの王が「ロバに乗る、すなわちロバの子である子馬に乗る」と言い、エルザレムに入るにあたって、群衆が彼に向かって「正しい者、救い主」と叫ぶだろうと預言しています(ザカリア9:9)。後に福音史家によって、これが全うされたことが認められました。

 旧約聖書の中で見いだしたキリストの王位についての教えは、新約聖書のうちに一層はっきり教えられ、認められています。

 例えばお告げの史実に簡単に触れると、大天使はマリアに向かって子を産むことを告げて、その子は「主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は無窮のもの」(ルカ1:32ー33)と言っています。

 なおキリストも御自ら王としての権能について話しています。すなわち、義人と悪人の永遠の報いと罰について群衆に行った最後の説教の時、また、ローマ総督の公の質問にお答えになった時、また御復活の後使徒たちに全ての国民に教え、それに洗礼を授ける使命をお与えになったときなどです。このような機会にキリストは自分が王であると言われ(マテオ25:31ー40)、その称号をはっきりと示し(ヨハネ18:37)、天においても地においても、一切の権能が自分に与えられていることを荘厳に宣言されました(マテオ28:18)。

 特に最後の言葉は、彼の権能の偉大さと王国の無窮の広さを物語るものです。ですから、聖ヨハネが「地上の王の君」(黙示録1:5)を見て、「その上衣と股とに<王の王、主の主>という名が書かれていた」(黙示録19:16)と言ったのも不思議ではありません。御父が「万物の世継ぎにお定めになった」(ヘブレオ1:2)のは、このキリストなのです。キリストはこの世の終わりに、全ての敵を父なる天主の御足の下に置かれるまで(1コリント15:25) 統治しなければなりません。[oportet autem ipsum regnare, donec, in exitio orbis terrarum, ponat omnes inimicos sub pedibus Dei et Patris.]

 <すべての国に広がるべき、地上のキリストの国>であるカトリック教会が、毎年種々の典礼を使って、その創立者を、王、主、或いは諸国の王として一つの心をもって称えてきましたが、これも上述の聖書の教えから見れば当然でしょう。

 昔から詩篇を詠うとき儀式の中でキリストの王位を表す様々な称号を使ってきた教会は、今なお公式の祈りや、ミサ聖祭を捧げるとき、毎日これを用いています。この王たるキリストを絶え間なく賛美する点では東方典礼も私達の典礼と完全に一致しています。やはりこの場合においても「祈りの法は信仰の法」を示すのです。

3 キリストの王権の根拠

 主のこの尊厳と権能が何に基づくかと言うことをアレキサンドリアのチリロは次のようにはっきり示しています。すなわち「キリストが全被造物の上に主権を有しておられるのは強奪によって獲得したり、譲り受けたものではありません。御自らの本性と存在とによって、御自分のものなのです」(ルカ聖福音書注解)と。キリストの主権は位格的結合に基礎をおいています。従って天使や人間はキリストをただ天主として礼拝するのみでなく、人としてのその支配にも服しなければなりません。人たるキリストはその位格的結合によって全被造物の上に権力を獲得されているからです。

 しかし、私達に一層大きな喜びと慰めを与える考えがあります。キリストが生まれながらの権利だけでなく、救い主として獲得された権利によっても私達を支配すると言うことです。救い主にどれほどの恩を被っているかを忘れたものは次の言葉を思い出していただきたいものです。「あなたたちが・・・贖われたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、傷もなくしみもない子羊のようなキリストの貴い御血による」(ペトロ前1:18ー19)。

 私達はもはや自分自身のものではありません。なぜなら、キリストが私達を「高値で」(1コリント6:20)買われたからです。そして私達のからだも「キリストの肢体」(1コリント6:15)なのです。

4 キリストの王権の本性

 ここでキリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。贖い主の普遍的支配権については既に引用した聖書の箇所がはっきり証明しております。

 またイエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。福音書は主が法を既にお立てになったということを伝えていると言うよりもその法を定めたイエズスの姿を私達に示しています。その掟を守る人々はイエズスに対して自分たちの愛を示し、様々の形でその愛のうちに留まると言われています(ヨハネ14:15ー15:10)。

 また(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。

 それから、(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。

 しかしこの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。先に挙げた福音書の引用がこのことを十分に証明していますが、キリストは自らの行いによってそれを確証されました。当時はユデア人だけでなく使徒たちでさえ、メシアはイスラエルの自由を回復しその王国を再建するだろうと言う誤った期待を持っていました。イエズスはその様な空しい意見や希望を排斥されたのです。群衆が歓呼して取り囲み、イエズスを王にしようとした時も主はその栄誉を振り切って身を隠し群がる人々から逃げれられました。

 そして最後にローマ総督の前で自分の王国がこの世のものでないとはっきり宣言されました。

 その国に入るには生活を改めて準備し信仰と洗礼によらなければならないと福音書は言っています。その洗礼は外的な儀式ではあっても内的な再生をしるしもたらすのです。つまりキリストとその王国はただサタンと暗闇の力にだけ対立しています。そしてこの王国の国民は、富と地上の事物からの離脱、心の柔和、正義に対する飢え渇きを持つだけでなく、自分を捨て十字架を担って行かなくてはならないのです。

 キリストは御自分の御血で教会を贖い取られ、また人類の罪のために自分自身をいけにえとして捧げられ、常に捧げ続ける司祭なのです。ですから主の王職は贖い主と司祭の性格を帯びるのではないでしょうか。

 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。

 というのはキリストは御父から被造物に対する絶対の権利を与えられ全ての者を意のままにすることがお出来になるからです。それにもかかわらずこの世で生活された間は、主はこの支配権を行使されませんでした。そしてこの世の事物を所有したり管理したりすることをあえて望まず、それを所有者に当時も今も委ねておられるのです。「天上の王国を与えるものは、地上の王国を奪おうとされない Non eripit mortalia, qui regna dat caelestia」(御公現の賛歌より)。

 こうして贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。

 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。

 従ってキリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。

 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。

 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。

 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。

「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。

5 その王国から生じる効果

 人間が公私両生活において、一度キリストの王権を認めるならば、信じがたいほどに社会は真実の自由、秩序と静穏、調和などの恩恵で満たされるのです。例えば主の主権は元首や為政者の人間的権威に宗教的な意味を与え、市民の服従の義務を高めるに違いありません。

 使徒聖パウロは妻は夫のうちにキリストを敬い、奴隷は主人のうちにキリストを崇めるよう命じましたが、人間として崇めるのではなく、ただキリストの代理者であるから服従するようにと忠告しました。「あなたたちは高く買われたのである。人間の奴隷にはなるな」(1コリント7:23)。なぜなら、キリストによって贖われた人が人間に服属するということは道理に適っていないからです。

 もし正しく選出された元首や為政者が支配権は自分のものではなく天主である王の命令によってその代理者としてこれを行っているに過ぎないのだという確信に満たされるなら、これらの人たちは必ずその権威を敬虔に賢明に行使するに違いありません。また法律を作成しそれを実施するうえにも共同善と国民の人間的尊厳を忘れることはないでしょう。そうすれば反逆の原因もなくなり静穏な秩序が確立され、社会が繁栄するでしょう。その場合には、国民が元首や為政者のうちに天主であり人であるキリストの姿と権威とを見るようになるのですから、元首や為政者が同じ人間であり、たとえ不適任で非難すべき点があるのが分かっても、それだけの理由で服従を拒むようなことはなくなります。

 更に一致と平和については一般に次のことが言えるでしょう。王国が広がり人類全体に及ぶようになれば人類も一致の絆を一層自覚するようになるに違いないでしょう。この自覚があれば、数々の闘争は予防され、全くその跡を絶ってしまうか、少なくともその過激さはなくなるでしょう。

 ですから、もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ十三世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。

「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

三、王たるキリストの祝日の設定

 全ての人々の上にこれらの祝福が豊かに実り、また、キリスト教的社会のうちにそれがいつまでも続くためには、救い主の王としての尊厳が出来るだけ広く認められなければなりません。

 このためには王であるキリストの特別な祝日を設けるのが一番良いでしょう。なぜなら、人々の心に信仰を起こさせ、内的な生活の喜びを感じさせるようにするには、教会のどんな公文書よりも信仰の奥義を毎年くり返して祝うほうが効果があるからです。そういう公文書が、信者の中でも比較的学識のある少数の人にしか理解されないのに反して、祝日はすべての信者を励まし教えます。書き教えるのはただ一度だけでしょうが、祝日は毎年、いいえ永久に語り続けるのです。文書は主に知性に働きかけるのみですが、祝日は知性と心、つまり人間全体によい影響を与えるのです。人は肉体と霊魂から成り立っています。従って目に見える盛大な祝日によって感動させられ、内的刺激を与えられるのです。そして様々の美しい儀式を通して天主の御教えを一層豊かにくみ入れ、自分のものとし、霊的生活の完成に役立てるようになるでしょう。

1 新しい祝日の制定は珍しくない

 時代の流れのうちに、このような祝祭日がキリストの民の必要に応じて次々と設定された来たことは歴史が教えています。例えば信者が一般的な危険にさらされ、これに対抗する力が必要となったとき、或いは忍び寄る異端の誤りを防ぐため、或いはまた、信仰の奥義や天主の恵みに対する尊敬を強めるために必要なときなどです。

 それで、キリスト教徒がひどく迫害された初代教会の時代に殉教者に対する信心が行われ始めたのです。聖アウグスチヌスは「殉教者を祝うことが殉教への励ましとなるためである」といっています。また後に証聖者、童貞女、更に、寡婦に対して典礼による祝祭が始められました。これも各人に必要な徳を信者が熱心に求めていく上に非常に大きな効果をもたらしました。しかしそれより一層豊かな実りを生じたのは聖母マリアの種々の祝日を設けたことです。その結果人々は天主の御母、身近な代願者に対する信心に大いに成長したばかりでなく、贖い主が十字架から与えた聖母を自分たちの母として、更に熱心に愛するようになったのです。聖母マリアや聖人達に対する公の正しい信心に由来する多くの祝福のうちでも特に著しいものは、教会が誤謬や異端からいつも完全に守られた来たことです。この点に関する天主の御摂理はただ感嘆するほかありません。天主は悪からでも常に善をお引き出しになります。天主は人々の信仰や敬虔さが弱められたり、カトリックの真理が誤った教えによって攻撃されるようなことさえ、たびたびお許しになりました。しかし常にその結果真理が新しい光を帯びて輝き、人々の信仰や信心は惰眠からさまされ、一段と強くなっていくのです。

 比較的近代になって教会暦に入れられた祝日も、同じような理由で起こり、同じような効果をもたらしています。御聖体の秘蹟に対する尊敬と信心が冷えてきたとき、御聖体の祝日が設けられました。これは荘厳な行列やそれに続く八日間の祈りによって、キリストを再び公に礼拝するように人々を促すためでした。またイエズスの聖心の祝日が設けられたのは、ヤンセニズムの暗さと陰鬱な厳格さに圧倒され、人々の心が冷たくなり、天主の愛と救いの希望を全く失ってしまったときでした。

2 世俗主義に反対してこれを設定する

 ですから全カトリック信者がキリストを王として崇敬することを私が定めたのも、現代的要求に応えるものであり、同時に社会を毒しつつある病害に対する特別な薬としたいからです。

 現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。

 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。

 そしてついに、キリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。

 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ、元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。

 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。

 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。

 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。

 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。

 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。

 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。

 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。

3 その設定の準備

 この祝日の設定のために、前世紀の末以来、幸いにも準備がよく整えられてきました。ご存じの通り、世界各地でこの信心を裏付けるたくさんの本が種々の国語で書かれ、またイエズスの聖心への家庭奉献によって、キリストの主権と支配が認められてきました。今やこの美しい習慣に従って無数の家庭が聖心に奉献されています。家庭だけではありません。都市も国家もこの奉献を実行に移してきました。いいえ、全人類も至聖なる聖心に奉献されたのです。この奉献は千九百年の聖年にあたりレオ13世教皇によって行われました。

 また最近頻繁に行われている聖体大会も、人間社会に対するキリストの王権が荘厳に認められる上に大いに寄与しました。聖体大会の際には、各教区、地方、国家さらに全世界の人々が、秘蹟のうちに隠れてましますキリストを、こぞって尊敬し礼拝するために集まります。教会で一緒に説教を聞いたり、顕示された御聖体を公に礼拝したり、荘厳な行列を行ったりして、天主から王として与えられたキリストを皆共に称えるのです。不敬虔な人々は主が自分のほうにおいでになったとき、受け入れるのを拒みました。しかしキリスト教徒は今、そのイエズスを教会の沈黙の隠れ家からお連れして、歓呼のうちに町を歩み、全ての王的権能を再び主のものにしようとしています。これは天主から来る一つの息吹によるものと言えましょう。

 これらの計画を完成するために、まさに終わろうとしている聖年はこの上ない機会となりました。というのは、この聖年の間慈悲に富まれる天主は信者の知性と心に、あらゆる理解を超える天の祝福への招きと、成聖の聖寵を再び与え、またより高い賜物を望む新たな刺激を起こして正しい道を歩み続けるように強めて下さったからです。私に宛てられた数々の願いを見、或いはこの聖年に行われた様々なことを顧みるにつけても、キリストを全人類の王として祝う、特別な祝日を定める喜ばしい時がついにやってきたと考えられます。最初に述べたように、全ての聖人のうちで感嘆されるこの王は今年地上でも光輝溢れるみいつを称えられました。それはこの王の軍隊の一部が新たに聖人の列に加えられたからです。また、人々が展覧会の出品物から御国を発展させるための宣教師たちの事業や苦労を眺め、それらによってもたらされたキリストの勝利に感嘆したのも、やはり今年でした。そして今年はまたニケア公会議千六百周年を荘厳に祝うことによって、キリストの王国の基礎である、<人となられた御言葉>の御父との同一本性(consubstantialitatem)が裁可されたことを新たに記念しました。

 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。前任者ピオ十世が毎年更新することを命じた至聖なるイエズスの聖心に対する全人類の奉献の更新も、毎年この日に行うように定めます。しかし、今年に限り、それは今月31日に行います。なお当日、王たるキリストの誉れのため、私は教皇ミサを執行し、その奉献が私の前で行われるようにします。この聖年を閉じるにあたり、永久不滅の王であるキリストに私の心からの感謝を表すのに、これ以上ふさわしい方法はないと思います。この機会に私は全カトリック信者と共に、この聖年の間、教会、全カトリック信者に注がれた聖寵に対して私自身感謝の念を表したいと思います。

4 その設定の動機

 ところでキリストの王としての権威を間接に示し祝う祝日が他にもあるのにどうしてこれとは別に王たるキリストの祝日を制定したかということは、今さら説明する必要もないと思います。これについてはただ一つのことに注意すれば十分でしょう。すなわち、今までの主の祝日は全部その礼拝の対象、いわば素材的対象(対象そのもの)はキリストのペルソナですが、形相的対象(観点)は、キリストの王権と王の称号ではありませんでした。

 私がその祝日を日曜日にしたのは、ただ聖職者のみがミサ聖祭や聖務日課によって礼拝を捧げるのではなく、信者たちも参加することが出来るようにしたために他なりません。日曜日ならば信者たちは日々の仕事から解放され聖なる喜びの精神をもってキリストに対する服従を公に表明することが出来るからです。また他の面でも十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日ではないかと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

 尊敬する司教の皆様、そこで毎年その祝日の前に、各小教区で何日か特別に説教が行われるように配慮して下さい。これはあなたたちの義務です。そうすれば信者たちもその祝日の性質、意味、また重要性を聞いたはっきり分かり、天主である王の支配に忠実と熱誠を捧げるものにふさわしく自分の生活を律し、整えることが出来るでしょう。

5 その祝日から生じる効果

 尊敬する皆様、私は今この書簡を結ぶにあたって、王であるキリストに対する公の崇敬から期待される教会と社会とに対する効果、個人に施される恵みを簡単に列挙してみたいと思います。

 まずこのように、キリストの主権に誉れを帰するならば人々はキリストによって完全な社会として創設された教会が、本来持つ権利をどうしても思い出さずに入られないのです。放棄してはならないこの権利によって、キリストの王国に属する天主から託された人々を支配し永遠の幸福へ教え導く使命を果たすために、教会は国家権力から完全な自由と独立を要求します。教会はこの使命のためにいかなる他の権力にも服してはならないのです。

 また国家は同様の自由を男女両修道会にも与えなければなりません。これら修道会は司教達の有力な助け手となって、キリストの王国を広げ、確立するために大きな働きをしています。というのは、修道者たちは聖なる三つの誓願を持って、この世の三つの欲望と戦い、一層完全な生活を公言することによって天主なる創立者が教会の印とされたあの聖性が絶えず人々の前に輝きを増し、認められるように力を尽くしているからです。

 毎年くり返されるこの祝日は、個人と同様に、政府も為政者もキリストに対して公の誉れと服従を示さねばならないことを全ての国々に思い出させるでしょう。そして人々は最後の審判のことを思い、公の生活から締め出され軽蔑され無視されたキリストが、どれほど厳しくその不正を責めるかということも考えるに相違ありません。

 キリストの王としての権威は全ての国家が天主の掟をキリスト教の原則に従い、それによって法を作成し、裁判を行い、青少年には健全な知識と道徳を教えるのを要求する以上それは当然なのです。

 その上信者は、これらの真理を黙想することによって、真のキリスト教的理想に向かって歩む大きな力と勇気とを受けるでしょう。というのは私たちの能力は主の支配から除外されているものは一つもないからです。そのことは次の三つの理由によってはっきり分かるでしょう。

私達の主キリストには、
(1)天と地の全ての権能が授けられ、そして
(2)その高価な御血によって贖われた全人類は、新たにキリストの権威のもとに置かれ、また
(3)その権能は全人類を含んでいるのですから、
私達がキリストの王権から逃れてならないのは明らかでしょう。

 従ってキリストが人間の知性を支配するのはふさわしいことです。それで人間の知性は謙遜に啓示された真理と、キリストのみ教えに完全に従い、これを奉じなければなりません。

 そしてまた、キリストが意志をも支配するのはふさわしいことです。意志は、天主の法と掟に従わねばなりません。

 更にまた、キリストは心の王でもなければなりません。従って心のなすべきことは本能的な要望を捨てて全てに越えて天主を愛し天主だけを追い求めることです。

 また手足と身体においてもキリストを王としなければなりません。それらは道具であり、使徒パウロの言うように、天主のために正義の武器となって(ローマ6:13)、霊魂の内的聖化のために仕えなければならないからです。

 信者がこれらの真理をよく考えよく悟るようにすれば、人々はもっと容易に完徳に向かって進むでしょう。それで未信者たちが自分の救いのためにキリストの甘美なくびきを求めてこれを受け入れるように、また天主の慈悲によって信者となった私達もそのくびきを不承不承耐えるのではなく、かえって望みと愛と信心を持って担うように私は切に願っています。そして私達が天主の王国の法と一致した生活を営み、その実りを溢れるばかりに受け、キリストによって忠実な良い僕のうちに数えられ、天上の王国においてキリストと共に永遠の幸いと栄光に与ることが出来ますように、私は切望しています。

 主イエズス・キリストの御降誕の大祝日が間近に迫っているこの時にあたり、尊敬する皆様、この書簡を父の愛の印として受け取り、天主の恵みをもたらす教皇掩祝をお受け下さい。私はこの掩祝を愛の心をもって聖職者の皆様、ならびに信者の皆様に送ります。

 聖年の1925年12月11日

ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目

ピオ十一世教皇


ヴィガノ大司教:新回勅「フラテッリ・トゥッティ」は、妊娠中絶に関して沈黙している。信仰だけでなく、希望と愛も欠けている回勅である

2020年10月25日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

ジョン・ヘンリー・ウェステンからカルロ・マリア・ヴィガノ大司教への三つの質問の日本語訳をご紹介いたします。

ヴィガノ大司教の回答については、次でも読むことができます。Archbishop Viganò has message of encouragement for Judge Amy Coney Barrett

ヴィガノ大司教のエイミー・コーニ―・バレット判事を励ますメッセージ

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ジョン・ヘンリー・ウェステンからカルロ・マリア・ヴィガノ大司教への三つの質問

質問:教皇フランシスコの新しい回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」(すべての兄弟)について、あなたのご意見をお聞かせください。特にこの回勅が、政治家たちの「最大の懸念事項」と定義していますが、しかし妊娠中絶に関して沈黙していることについてご意見は?

ヴィガノ大司教:「フラテッリ・トゥッティ」は、政治家の行動を動機づけるべき懸念事項について語る中で、「社会的・経済的排除の現象とその忌まわしい結果、すなわち人身売買、人間の臓器や組織の販売、少年少女の性的搾取、売春を含む奴隷労働、麻薬や武器の取引、テロリズムや国際的な組織犯罪」[1]について言及しています。これらはすべて糾弾する必要のある災難ですが、多くの人々はすでにそれらをそのようなものとして認識していると私は信じています。

焦点となるのは、道徳的な面でははるかに重要ながらこの回勅では言及されていないこと、つまり、悲惨なことに今日では一つの権利として主張されている妊娠中絶です。[2]

罪がなく無防備な子どものいのちを奪うという罪を犯すがゆえに、この罪は天主の御目には最も憎むべきですが、これについて聞く耳がないかのように沈黙していることは、新世界秩序(New World Order)のために仕えているこのイデオロギー的宣言の持つ歪んだ物の見方を表しています。

その偏った見方は、主流派の思想の要求に心理的に服従してひれ伏すことであり、一方で、福音の教えを、考えられ得ない時代遅れであるとみなす人々の近視眼的で困惑したものとして見ることです。

自然の道徳やカトリックの道徳と同じように、霊的で超越的な次元は完全に無視されています。しかし、罪のない子どもを殺すことが無関係であると考えるならば、人々の間にはどんな兄弟関係が存在できるというのでしょうか。

生き、成長し、愛され、天主を愛し、礼拝し、天主に仕え、永遠のいのちを得る権利を持つ子どもの社会的排除という最もひどい犯罪について沈黙しているのに、いったいどうしたら社会的排除を非難することができるというのでしょうか。

もし、母親の胎内で子どもをバラバラにしたり、生まれる前に子どもの脳を吸い取ったりする人と兄弟関係を結ぶことができるとしたら、武器密売に取り組むことにいったい何の意味があるというのでしょうか。

病人や高齢者を毒殺して彼らから苦しみによって私たちの主のご受難にあずかる機会を奪う人々の恐ろしさよりも兄弟関係を優先させることが、いったいどのようにしてできるというのでしょうか。

染色体に書き込まれた人の性別を変えることができたり、二人の男性や二人の女性の結合からは子どもが生まれないのですが、そのような結合を家族とみなすことができたりするとき、自然に対するどのような敬意が呼び起こされるというのでしょうか。

「母なる大地」の破壊的な怒りは、創造主の素晴らしいみわざを改変することによって、植物、動物、人間のDNAを修正する権利を想定している人々には適用されないというのでしょうか。

「フラテッリ・トゥッティ」は、信仰だけでなく、希望と愛も欠けている回勅です。天主なる牧者であり、かつ霊魂の医者である天主の声は、その回勅の言葉の中では聞かれず、むしろ強欲な狼のうなり声や、雇い人の聞く耳がないかのような沈黙のようです(ヨハネ10章10節)。現代人の善を本当に望むためには、社会改良思想、環境主義、平和主義、エキュメニズム、世界統一主義(globalism)の催眠術の呪文から現代人を目覚めさせる必要があります。しかしその呪文のゆえに、[この回勅には]天主への愛も人間への愛も何もありません。

罪深く反抗的な人間の善を望むためには、創造主と主から離れてしまえば、最後にはサタンと自分自身の奴隷になってしまうことを理解させる必要があります。他の呪われた霊魂との兄弟関係という感覚では、天主への敵意を矯正することはできません。現代人を裁くのはこの世でも慈善家でもなく、現代人を救うために十字架上で死んでくださった私たちの主ご自身なのです。

私は確信していますが、この非常に悲しい「フラテッリ・トゥッティ」は、ある意味で、枯れた心の空虚さ、超自然的な視力を奪われた盲目の男の空虚さを表しており、彼は彼自身が最初は無視している回答を自らが出すことができると手探り状態で考えているのです。

私は、この回勅が悲しく深刻な声明であることを認識していますが、この文書の正統性について自問する以上に、私たちは、愛徳のうねりを感じ取ることができない霊魂の状態、またユートピア的ではかない夢で象徴され天主の恩寵に対して閉ざされている陰鬱な灰色に差し込んでいる天主の光に自ら触れようとしない霊魂の状態とはどんなものなのかを自問すべきです。

この主日のミサの入祭誦は、私たちのために警告音を鳴らしています。

Salus populi ego sum, dicit Dominus: de quacumque tribulatione clamaverint ad me, exaudiam eos: et ero illorum Dominus in perpetuum. Attendite, popule meus, legem meam: inclinate aurem vestram in verba oris mei. [3]
「私は民の救いである、と主は言い給う。どのような艱難の中でも、彼らは私に叫んだなら、私は彼らの願いを聞きいれる。私は、永遠に彼らの主となろう。私の民よ、私の掟を聞け。私の口の言葉に汝らの耳を傾けよ」。[3]

主は主の民の救いであり、民が主の律法に耳を傾ける限り、艱難の中にあっても民の声をお聞きになるでしょう。私たちの主は、はっきりとした言葉で私たちに語りかけておられます。「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)。バベルの塔のユートピアは、自らをどれほど新たな姿にしようとも、国連や新世界秩序の外観で現れようとも、石の上に石が積み重なって崩壊する運命にあります。なぜなら、それはキリストという隅の親石の上に建てられていないからです。

「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないことはあるまい。それなら、われわれは下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」(創世記11章4-7節)。

「フラテッリ・トゥッティ」の世界統一主義的でエキュメニカルな平和主義は、社会と全世界に対するキリストの王権を拒絶すること、人類の救いの唯一の希望というよりもむしろ「分裂的」とみなされている十字架のつまずきについて沈黙すること、この世に存在する社会的不正義と悪が罪の結果であって天主の御意志に従うことによってのみ人々の間に平和と調和を育むことができると私たちが希望するのを忘れることに、その基盤を置く地上の楽園を思い描いています。しかし、人間は、天主が父であることを共に認識することで、キリストによってのみ、まことの兄弟になれるのです。

この回勅に欠如しているのは、"キリストの約束に私たちの信頼を置き、自分の力ではなく、聖霊の恩寵の助けに頼ることで、天の御国と永遠のいのちを望む霊魂に天主から注入された神学的な聖徳として理解されている希望"です。[4]

水平的な兄弟関係が平和と正義を保証することができると希望しても、それについては超自然的なものは何もありません。なぜなら、それは天の御国に目を向けておらず、キリストの約束に基づいておらず、天主の恩寵が必要だとみなさずに、原罪によって堕落したため悪に傾いている人間に信頼を置いているからです。

このような偽りの希望を抱かせる人、例えば「天国に行くために天主を信じる必要はない」[5]と述べる人は、愛徳のわざを行っていません。それどころか、これは罪と滅びの道を歩む邪悪な人々を励まし、自分自身を滅びと絶望の共犯者にしています。これはまさに救い主の次の言葉に反しています。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬだろうと言ったが、もし私がそれだと信じないなら、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」(ヨハネ8章24節)。

大きな痛みを感じながら付け加えますが、この世の悪、死、病気、苦しみ、不正義に直面している最近の教会の答えは、完全にないとまで言えないとすれば、不足しているのです。まるで福音が現代人に語るべきことが何もないかのように、あるいは福音が語るべきことが時代遅れであるかのようにです。「役に立たないレシピは売りたくない、これが現実です」[6]。

次の言葉を読むと、血の気が引きます。「天主は不正義なのでしょうか。そうです、天主は、天主の御子を十字架に送ることで、天主の御子とともに不正義です」[7]。この言い草に反論する必要はありません。もし私たちが、罪が人類を悩ます苦しみと死の原因であることを否定するならば、私たちは必然的に天主に責任を押し付け、天主のことを「不正義」だと非難し、そのため私たちの地平から天主を排除してしまうことを十分に観察しています。

ここから私たちは、人間の兄弟関係を追求することが、詩篇作者の言葉にどのように概説されているかを理解することができます。「この世の王たちは立ち上がる。主とその油を注がれた者に逆らって、君主たちは手を結ぶ」(詩篇2章2節)。

ですから、教会(あるいはむしろ、ほぼ完全に教会を覆い隠す教会の偽物と言うべきでしょう)は、真理に希望を失って渇いている人に対して、もはやカトリックの答えを提供せず、その根本的な原因が罪である痛みと苦しみというつまずきを促進させ、天主に責任を追求し、「不正義」として天主を冒涜しているのです。

質問:大司教様、米国のプロライフの指導者たちが、今回の大統領選挙で妊娠中絶が最重要課題であることを公に宣言するように司教たちに懇願しているのをご覧になったことがあると思います。全く反対のことを言った司教がいて、今では教皇フランシスコの回勅で議論されている点を自分たちの考えを支持するために利用しています。あなたの兄弟である司教たち、そして信徒たちに、どのようなアドバイスをしたらよいでしょうか。

ヴィガノ大司教:妊娠中絶について沈黙していることは、キリストを否んだために自らの使命を否んでいる位階階級の一部における霊的かつ道徳的な逸脱を示す恐るべきしるしです。

母親が愛すべき、保護すべき、この世のいのちを授けるべき自分自身の子どもを、自らが妊娠中絶で殺してしまうのとちょうど同じように、現在の詐欺行為においては、天主によって霊魂に永遠のいのちを授けるようにと天主のご意向があった教会が、自らの役務者たちの裏切りのせいで、自らの胎内で自らが霊的に子どもたちを殺しているということが分かります。

キリストの敵どもの憎しみは、そのいとも聖なる御母(マリア様)でさえも容赦しません。天主の御母であるために、サタンに憎まれるのです。なぜなら、御母を通して、聖三位一体の第二のペルソナが私たちをあがなうために人となり給うたからです。私たちが聖母の友であるならば、次に示す原福音で主によって打ち立てられた真理によって、聖母の敵どもは、私たちの敵でもあります。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く」(創世記3章15節)。

私の兄弟である司教の皆さんに思い起こしていただきたいのは、聖なる油を塗られたのは天主と敵対者との間の争いを中立的に見る観客としてではなく、信仰の競技者としてであるということです。

主が自然法で定められた不可侵で譲れない原則を擁護するために声を上げている少数の勇気ある牧者たちに、今日では恐れや臆病さ、あるいは誤った慎重さから躊躇している人々が、勇気ある牧者たちの仲間入りすることができるように私は祈っています。司教の皆さん、あなた方は「地位にふさわしい恩寵」をお持ちであり、群れはあなた方に天主なる牧者の声を聞いているのです(ヨハネ10章2-3節)。ちょうど使徒たちや彼らの後を継いだ司教たちが、殉教を恐れなかったように、キリストの福音を宣べ伝えることを恐れないでください。

非常に多くの心の弱い牧者たちの沈黙によって混乱している信徒の皆さんにお願いします。天に向かって祈りを捧げ、最も頑固で反抗的な心に聖霊だけが植え付けることのできる恩寵を慰め主(Paraclete)に呼び求めてください。
「Lava quod est sordidum, riga quod est aridum, sana quod est saucium. Flecte quod est rigidum, fove quod est frigidum, rege quod est devium.」(こい願わくは汚れたるを清め、乾けるを潤し、傷つけられたるを癒やし給え。固きを柔らげ、冷えたるを暖め、曲がれるを直くし給え。【Veni Sancte Spiritusからの一節】)教会と皆さんの牧者たちのために、皆さんの犠牲、償い、病気の苦しみを捧げてください。

質問:私は最近、ロバート・ボーク元最高裁判事候補の妻にインタビューしました。彼女は、夫に対する無礼な公聴会の間、教会からの支援がなかったことについて語りました。彼女は、夫への攻撃が「カトリックの」民主党上院議員テッド・ケネディによって主導されていたという事実をほのめかしていました。バレット判事への攻撃、特に彼女の信仰のゆえの攻撃について、あなたのご意見をお聞かせください。

ヴィガノ大司教:サタンをかしらとするこの世の憎しみ(ヨハネ12章31節)は、「フラテッリ・トゥッティ」のユートピア的な夢を最も明白に否定しています。もしその夢が、唯一にして三位一体である唯一のまことの天主が共通の父であることを排除するならば、人間の間に兄弟関係があるはずがありません。

誤謬や悪徳に正当性を与えるという段階まで平等性や平等な権利を説く人々は、カトリック信者の政治家が、平等な権利の名の下に、立法と統治においてその政治家自身の信仰を証言しようとするやいなや、自分たち自身が乱用している権力が危険にさらされているのを見て、不寛容になります。ですから、このようにして、非常に宣伝されている「兄弟関係」は闇の子らの間だけで実現されるのであって、必然的に光の子らを排除するか、自分たちのアイデンティティーを否定するのを余儀なくされるかのいずれかになるのです。

そして、重要なことは、この兄弟関係の唯一の必要条件が常にキリストを拒否することに基づいているように見える一方で、「正義と真実の聖徳において」(エフェゾ4章24節)愛徳という聖なるかなめによって、まことの聖なる兄弟関係を持つことは不可能と考えられている、ということです。

堅振の秘蹟の塗油によって、カトリック信者はキリストの兵士になるのです。王のために戦わず、敵に味方する兵士は裏切り者であり、反逆者であり、敵前逃亡者です。したがって、カトリック信者の政治家たちや、制度的な地位を保持するカトリックの人々を、自分たちのために血を流したキリストの証人となるべきです。そうすれば、彼らは公務を遂行するために必要な恩寵を受けるだけでなく、兄弟たちの模範となり、本当に重要な唯一のものである永遠の報いを受けることになるでしょう。

「Te nationum praesides honore tollant publico; colant magistri, judices, leges et artes exprimant.」(諸国民の指導者(政府)たちは、御身を公けに尊び、学者たちも、裁判官らも、崇敬し。法律も芸術も御身を表明せんことを。【王たるキリストの祝日の賛歌】)

2020年10月11日

天主の御母たる聖マリアの祝日、聖霊降臨後第十九主日

注:
[1] Speech at the United Nations Organization, New York, 25 September 2015, AAS 107 (2015), 1039. Cited in the encyclical Fratelli Tutti, 188.

[2] The only indirect mention of abortion is n. 24 of the Encyclical, in which violence that “forces [women] to abort” is denounced, but without condemning the killing of the unborn itself. The reference to the unborn child in Fratelli Tutti n. 18 is very weak and does not explicitly mention the term “abortion.” Spending just three words on the most abominable crime that involves millions of deaths every year in the world, does not change the evidence that the encyclical is literally obsessed with human solidarity in support to globalist agenda. Besides, in the contest of the US election campaign (concomitant with the publication of the papal document), an explicit condemnation of abortion would openly contradict the democratic candidate, which is strongly in favor of the abortion. I would add that the references to children seems more aimed to the Islamic families, in particular of those of the immigrants, who, according to Bergoglio, represent the demographic future of Europe.

[3] “I am the salvation of the people, says the Lord: Should they cry to me in any distress, I will hear them, and I will be their Lord forever. Hear my teaching, O my people: incline your ear to the words of my mouth.” Ps. 77:1, 19th Sunday after Pentecost, Introit.

[4] CCC, 1817.

[5] https://www.independent.co.uk/news/world/europe/pope-francis-assures-atheists-you-don-t-have-believe-god-go-heaven-8810062.html

[6] Il Papa: non c’è una risposta alla morte dei bambini, in: Avvenire, 15 December 2016; https://www.avvenire.it/papa/pagine/papa-udienza-al-bambino-gesu

[7] Ibid.


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