アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2020年10月25日は王たるキリストの祝日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「王たるキリストの祝日の説教」の動画をご紹介いたします。
今日の主日を聖として良くお過ごしください。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
【説教全文】
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年10月25日、王たるキリストの祝日です。一緒にキリストが王であるということを黙想しましょう。
【王たるキリスト】
天主は愛である。天主は私たちに祝福と幸福をあたえることを欲しています。私たちはただそれを受ける準備をするだけでよいのです。どうやって準備をしたら良いのでしょうか?天主を信頼し、天主に忠実に従うことです。天主に信頼する、何故なら天主の富と祝福は与え尽くすことも汲み尽くすこともないからです。天主に従う、何故なら天主を拒むとは、天主の与える祝福を拒むということだからです。
私たちを愛して人となった天主イエズス・キリストは、私たちの最高の王です。ピオ十一世教皇はその回勅『クアス・プリマス』で、イエズス・キリストが王である理由を二つ挙げています。
一つは、イエズス・キリストが天主だからです。天主と人間の本性が位格において結合した神秘(ヒポスタシスにおける結合)によって、イエズス・キリストには天主のペルソナ(位格)一つのみがあり、イエズス・キリストは同時に完全な天主であり同時に完全な人間だからです。ですから天主として、全ての被造物・全宇宙を、絶対最高の主権をもって支配し統治しているからです。
もう一つの理由は、イエズス・キリストが贖い主として、天主の御血で私たち罪人である人間を贖ったからです。人間の救い主として私たちの最大最高の恩人であるからです。イエズス・キリストは私たちを救うために人間になってこの地上に来られました。
「救いは主以外の者によっては得られません。全世界に、私たちが救われるこれ以外の名は、人間にあたえられませんでした。」(Act 4:12) これは聖ペトロの言葉です。永遠の真理です。カトリック教会の教える真理を一言でいう真理です。
カトリック教会はこの永遠の救いを霊魂に与えるために建てられました。イエズス・キリストの福音が、その与える聖寵が、その愛が、その教えが、霊魂たちに与えられるために。イエズス・キリストは、真の天主、私たちの贖い主として、したがって私たちの上に主権を持つ王として、私たちから信じられ、礼拝され、希望され、愛される権利を持っています。
イエズス・キリストは、霊魂たちを愛する王として、霊魂の幸せのために、霊魂を統治する権利を持っています。霊魂に永遠の幸福を与えるために、人間となった天主のことを、この歴史的事実を、だれも知らないでいることはできません。私たちが救われるためには、真の救い主の教えと恵みを、つまりその統治を受け入れなければなりません。
私たち個人のみならず、家庭も、社会もイエズス・キリストを王として認めなければなりません。イエズス・キリストこそが、全宇宙を支配する法を定め、愛の掟そのものである立法者です。それと同時にイエズス・キリストこそが私たちを愛し、私たちを生かしめ存在させている方であり、また最後の審判者です。この世のすべての統治者と指導者らや国々をも裁く方です。
イエズス・キリストの立てた御国である教会の外に救いはありません。何故ならイエズス・キリストの外に救いはあり得ないからです。私たちの主イエズス・キリストにおいてのみ、永遠の救いの価値があるからです。イエズス・キリストを通らなければ、だれも天国に入ることはできません。天国には、イエズス・キリストの神秘体しかないからです。イエズス・キリストこそが天国であるからです。何故ならイエズス・キリストは天主だからです。
イエズス・キリストの御国とは、今日の「王たるキリストの序誦」にあるとおり、すなわち「真理と生命との王国、聖性と聖寵との王国、正義と愛と平和との王国」です。
【ミサ聖祭】
唯一の贖い主かつ救い主であるイエズス・キリストは、その王国を十字架の祭壇の上で完成させました。永遠の司祭として、同時に、汚れなき且つ平和をもたらすいけにえとして自分自身を捧げつつ、唯一天主御父のみこころに適う犠牲を奉献しました。
私たちは、全カトリック教会と共に、イエズス・キリストを王として認めます。特に、聖伝のミサ聖祭においてイエズス・キリストが私たちの王であることを、知性と意志と体の態度で示します。
聖伝のミサによって、イエズス・キリストに、私たちの王としてふさわしい礼拝と賛美と感謝を捧げたいと望みます。イエズス・キリストの現存にふさわしい礼拝をささげます。私たちのカトリック信仰を心の底からの愛を表明する、聖伝のミサを捧げ続けることを望みます。私たちは、御聖体のうちに真にましまし給うイエズス・キリストを跪いて、天主として、王として、崇敬し敬います。
私たちはイエズス・キリストが愛をもって私たちを統治することを望みます。イエズス・キリストは私たちのすべてだからです。何故なら、イエズス・キリストこそが真の天主だからです。Regnavit a ligno Deus. 天主は十字架の木から統治するからです。
聖パウロが言う通り、天主御父は「キリストによって、キリストにおいて、すべてのものを和睦させ、御子キリストの十字架の御血によって、地にあるものも、天にあるものも、平和にさせようと望み給うた」からです。本当の和睦と平和は、キリストの十字架の御血だけによるからです。
聖伝のミサは、私たちの主が持つその絶対的首位権を、祈りと態度で明白に表明しています。しかし、新しいミサでは、残念ながら、人間が中心になっています。
何故なら、十字架の犠牲の再現であるよりは、新しいミサの総則の定義によれば、「主の晩さん、またはミサは、聖なる集会の義、すなわち『主の記念』を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」(7)であり、「主の晩餐を食する」(10) ことだからです。そこで、新しいミサは、もはや人から天主に向う垂直的な礼拝というよりは、それに代わって人と人との間での水平的な礼拝を制定しているからです。
【カトリック司祭の務め】
王であるイエズス・キリストは、ご自分の十字架によって勝ち取った天国の救いを与えるためにカトリック教会を創立しました。従って、イエズス・キリストの福音、イエズス・キリストの御国、イエズス・キリストによる霊魂の救いを説教するのは、カトリック司祭たちの務めです。
天国のみならず、この地上での幸せをさえも、イエズス・キリストがなければ得ることはできません。何故なら、イエズス・キリストこそ、この世界の創造主であり、愛の天主だからです。私たちの主の恩寵なしには何もできないからです。イエズス・キリストこそが全ての恵みの源だからです。
カトリック司祭は、救霊を望む人々全てに本当のことを伝えなければなりません。イエズス・キリストだけが救いの唯一の手段です。十字架につけられたイエズス・キリストを司祭たちは語らなければなりません。もしも聖伝のミサが、教会の聖伝の教えが、迫害されているとしたら、まさにこの真理のためです。
カトリック司祭は、イエズス・キリストの立てた宗教が超自然の真の宗教だと教え続けなければなりません。過去の歴代の教皇様たちの不可謬の教えをそのまま信じて繰り返し、カトリック教会が教えてきたことをそのまま変えずに教えなければなりません。使徒継承の教えを捨ててはなりません。カトリック教会の聖伝と断絶してはなりません。教会の聖伝や歴代教皇の教えと断絶することこそ、離教的です。教会を破壊することです。
カトリック司祭は、聖伝を礎(いしずえ)として教会を建てなければなりません。真の天主イエズス・キリストの上に、十字架の上に、聖伝のミサ聖祭の上に、教会を建てなければなりません。
王たるキリストの祝日の聖務日課では次のような賛歌を歌います。
(讃課)
キリストは誉れ高き御旗を
凱旋して大きく広げ給う、
民々よ、跪いて来たれ、
王の王に喝采せよ。
彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、
暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。
[十字架の]木に高く挙げられて、
全てを愛によって引き寄せた。
三重(みえ)に幸いなる国よ、
そこにキリストが合法的に命令し、
天からこの世へ命じられた
法の順守を実行する社会!
不敬な戦争は火を噴かず、
平和は条約を固め、
心の一致も微笑み、
市民秩序は安全に立ち留まる。
忠誠は、婚姻を守り、
若者は、貞潔を尊び、
家庭生活の諸徳により、
慎み深い家族は花咲く。
望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、
いとも甘美なる王よ、
燦然たる平和を楽しむことにより、
[御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。
イエズスよ、御身に栄光あれ、
御身は世の王笏を統括し給う、
聖父と聖霊と共に、
代々に至るまで、アメン。
(晩課)
千代の八千代の君主なる御身を
キリストよ、諸国の王なる御身を
御身を精神と心の唯一の
判定者と私たちは告白する。
邪悪な群れは叫ぶ
「俺たちはキリストの支配を望まない」と
私たちは御身を全て人々の最高の王と
拍手喝采して宣言する。
おお、キリストよ、平和を与える君よ、
逆らう人々の心を平定し、
御身の愛によって道を外れた人々を
一つの群れと集め給え。
それのために、流血の木に
御身は掛けられ両の腕(かいな)を開き
剣にて開かれた
火に燃える聖心を見せ給う。
それのために、御身は祭壇に隠れ給う、
ブドウ酒と食事の姿で。
子供たちに救いを注ぎながら
胸を突き刺されて。
諸国民の指導者(政府)たちは
公けの名誉を捧げつつ、
学者たちも、裁判官らも、御身を崇敬し
法律も芸術も、それを表明せんことを。
奉献された王たちの御旗らが
そこで輝き出んことを。
柔和な支配に祖国を
全ての家庭を奉献せよ。
イエズスよ、御身に栄光あれ、
御身はこの世の支配を司り給う、
御父と、聖霊とにも、栄光が
代々、とこしえに。アメン
邪悪な群れは「俺たちはキリストの支配を望まない」と叫ぶかもしれません。しかし私たちは、天主の御恵みと御助けにより、カトリック教会と歴代の教皇様たちと共に、イエズス・キリストを全て人々の最高の王と拍手喝采して宣言しましょう。御国の来たらんことを!御国が天にあるごとく地にも来たらんことを!と心から祈りましょう。
【遷善の決心】
ロザリオの聖母に祈りましょう。私たちを愛し、私たちを本当に幸福にすることを欲している王であるイエズス・キリストに、私たちが従いますように。イエズス・キリストの愛の掟に従いますように。王なるイエズス・キリストの福音を生きることができますように。王たるキリストの御旗のもとに、善のために罪に対してたたかうことができますように。そして、ついには永遠の王であるキリストと天国で、キリストとともに、とこしえに喜びを得ることができますように。
イエズスは、「あなたのいうとおり、私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」とお答えになった」。
洗礼って、額を水が流れないと無効なんですよね…?
私に洗礼を授けた神父様はきちんと「父と、子と、聖霊のみ名によって洗礼を授けます」と言い、「父と、子と、聖霊の」の部分で三回、水を私の頭に流されたのですが、私の前髪が長く、きちんと額を流れていない気がするのです。代母さんから前髪をきちんと横に分けるよう言われて従いましたが、前髪が長いうえに量が多く、横にやろうとしてもなかなか上手くいかず…
洗礼の水を垂らす瞬間も、私は祈るときのように頭を若干さげて手を組み合わせており(今思えば単に前髪を自分の手で押さえればよかっただけの話ですが、当時の私は額を水が流れなければ洗礼が無効になるということを知りませんでした。頭に流すものだと誤解していました)、額というより前髪に流れた気がするのです。(当時私の前髪はかなりボリュームがありました)
五年も前のことなので記憶が曖昧です…
前髪からのぞくわずかな額のスペースに水が流れたような気もしなくはないのですが、額を滴が流れる瞬間、額が痒くて指でかいてしまい、せっかくの水を手でぬぐってしまったような気もします。今覚えば、あの神父様はきちんと水が額を流れているか確認していたような気もするのですが、私が額を指でかいてぬぐってしまった瞬間は代母さんしかみておらず、今思えば代母さんが「あっ」と言っていたような気もします。
ただしこれは五年前のことで、本当にそんな会話があったのかすら曖昧ですし、当時のことを思い出そうとするあまり記憶が捏造されてるような気もします(私には精神障がいがあります)
この洗礼は無効なのでしょうか…
あー…秘跡の有効性をいちいち気にしなければいけない時代なんて…悲しいです。