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ヴィガノ大司教:新回勅「フラテッリ・トゥッティ」は、妊娠中絶に関して沈黙している。信仰だけでなく、希望と愛も欠けている回勅である

2020年10月25日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

ジョン・ヘンリー・ウェステンからカルロ・マリア・ヴィガノ大司教への三つの質問の日本語訳をご紹介いたします。

ヴィガノ大司教の回答については、次でも読むことができます。Archbishop Viganò has message of encouragement for Judge Amy Coney Barrett

ヴィガノ大司教のエイミー・コーニ―・バレット判事を励ますメッセージ

***

ジョン・ヘンリー・ウェステンからカルロ・マリア・ヴィガノ大司教への三つの質問

質問:教皇フランシスコの新しい回勅「フラテッリ・トゥッティ(Fratelli Tutti)」(すべての兄弟)について、あなたのご意見をお聞かせください。特にこの回勅が、政治家たちの「最大の懸念事項」と定義していますが、しかし妊娠中絶に関して沈黙していることについてご意見は?

ヴィガノ大司教:「フラテッリ・トゥッティ」は、政治家の行動を動機づけるべき懸念事項について語る中で、「社会的・経済的排除の現象とその忌まわしい結果、すなわち人身売買、人間の臓器や組織の販売、少年少女の性的搾取、売春を含む奴隷労働、麻薬や武器の取引、テロリズムや国際的な組織犯罪」[1]について言及しています。これらはすべて糾弾する必要のある災難ですが、多くの人々はすでにそれらをそのようなものとして認識していると私は信じています。

焦点となるのは、道徳的な面でははるかに重要ながらこの回勅では言及されていないこと、つまり、悲惨なことに今日では一つの権利として主張されている妊娠中絶です。[2]

罪がなく無防備な子どものいのちを奪うという罪を犯すがゆえに、この罪は天主の御目には最も憎むべきですが、これについて聞く耳がないかのように沈黙していることは、新世界秩序(New World Order)のために仕えているこのイデオロギー的宣言の持つ歪んだ物の見方を表しています。

その偏った見方は、主流派の思想の要求に心理的に服従してひれ伏すことであり、一方で、福音の教えを、考えられ得ない時代遅れであるとみなす人々の近視眼的で困惑したものとして見ることです。

自然の道徳やカトリックの道徳と同じように、霊的で超越的な次元は完全に無視されています。しかし、罪のない子どもを殺すことが無関係であると考えるならば、人々の間にはどんな兄弟関係が存在できるというのでしょうか。

生き、成長し、愛され、天主を愛し、礼拝し、天主に仕え、永遠のいのちを得る権利を持つ子どもの社会的排除という最もひどい犯罪について沈黙しているのに、いったいどうしたら社会的排除を非難することができるというのでしょうか。

もし、母親の胎内で子どもをバラバラにしたり、生まれる前に子どもの脳を吸い取ったりする人と兄弟関係を結ぶことができるとしたら、武器密売に取り組むことにいったい何の意味があるというのでしょうか。

病人や高齢者を毒殺して彼らから苦しみによって私たちの主のご受難にあずかる機会を奪う人々の恐ろしさよりも兄弟関係を優先させることが、いったいどのようにしてできるというのでしょうか。

染色体に書き込まれた人の性別を変えることができたり、二人の男性や二人の女性の結合からは子どもが生まれないのですが、そのような結合を家族とみなすことができたりするとき、自然に対するどのような敬意が呼び起こされるというのでしょうか。

「母なる大地」の破壊的な怒りは、創造主の素晴らしいみわざを改変することによって、植物、動物、人間のDNAを修正する権利を想定している人々には適用されないというのでしょうか。

「フラテッリ・トゥッティ」は、信仰だけでなく、希望と愛も欠けている回勅です。天主なる牧者であり、かつ霊魂の医者である天主の声は、その回勅の言葉の中では聞かれず、むしろ強欲な狼のうなり声や、雇い人の聞く耳がないかのような沈黙のようです(ヨハネ10章10節)。現代人の善を本当に望むためには、社会改良思想、環境主義、平和主義、エキュメニズム、世界統一主義(globalism)の催眠術の呪文から現代人を目覚めさせる必要があります。しかしその呪文のゆえに、[この回勅には]天主への愛も人間への愛も何もありません。

罪深く反抗的な人間の善を望むためには、創造主と主から離れてしまえば、最後にはサタンと自分自身の奴隷になってしまうことを理解させる必要があります。他の呪われた霊魂との兄弟関係という感覚では、天主への敵意を矯正することはできません。現代人を裁くのはこの世でも慈善家でもなく、現代人を救うために十字架上で死んでくださった私たちの主ご自身なのです。

私は確信していますが、この非常に悲しい「フラテッリ・トゥッティ」は、ある意味で、枯れた心の空虚さ、超自然的な視力を奪われた盲目の男の空虚さを表しており、彼は彼自身が最初は無視している回答を自らが出すことができると手探り状態で考えているのです。

私は、この回勅が悲しく深刻な声明であることを認識していますが、この文書の正統性について自問する以上に、私たちは、愛徳のうねりを感じ取ることができない霊魂の状態、またユートピア的ではかない夢で象徴され天主の恩寵に対して閉ざされている陰鬱な灰色に差し込んでいる天主の光に自ら触れようとしない霊魂の状態とはどんなものなのかを自問すべきです。

この主日のミサの入祭誦は、私たちのために警告音を鳴らしています。

Salus populi ego sum, dicit Dominus: de quacumque tribulatione clamaverint ad me, exaudiam eos: et ero illorum Dominus in perpetuum. Attendite, popule meus, legem meam: inclinate aurem vestram in verba oris mei. [3]
「私は民の救いである、と主は言い給う。どのような艱難の中でも、彼らは私に叫んだなら、私は彼らの願いを聞きいれる。私は、永遠に彼らの主となろう。私の民よ、私の掟を聞け。私の口の言葉に汝らの耳を傾けよ」。[3]

主は主の民の救いであり、民が主の律法に耳を傾ける限り、艱難の中にあっても民の声をお聞きになるでしょう。私たちの主は、はっきりとした言葉で私たちに語りかけておられます。「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)。バベルの塔のユートピアは、自らをどれほど新たな姿にしようとも、国連や新世界秩序の外観で現れようとも、石の上に石が積み重なって崩壊する運命にあります。なぜなら、それはキリストという隅の親石の上に建てられていないからです。

「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないことはあるまい。それなら、われわれは下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」(創世記11章4-7節)。

「フラテッリ・トゥッティ」の世界統一主義的でエキュメニカルな平和主義は、社会と全世界に対するキリストの王権を拒絶すること、人類の救いの唯一の希望というよりもむしろ「分裂的」とみなされている十字架のつまずきについて沈黙すること、この世に存在する社会的不正義と悪が罪の結果であって天主の御意志に従うことによってのみ人々の間に平和と調和を育むことができると私たちが希望するのを忘れることに、その基盤を置く地上の楽園を思い描いています。しかし、人間は、天主が父であることを共に認識することで、キリストによってのみ、まことの兄弟になれるのです。

この回勅に欠如しているのは、"キリストの約束に私たちの信頼を置き、自分の力ではなく、聖霊の恩寵の助けに頼ることで、天の御国と永遠のいのちを望む霊魂に天主から注入された神学的な聖徳として理解されている希望"です。[4]

水平的な兄弟関係が平和と正義を保証することができると希望しても、それについては超自然的なものは何もありません。なぜなら、それは天の御国に目を向けておらず、キリストの約束に基づいておらず、天主の恩寵が必要だとみなさずに、原罪によって堕落したため悪に傾いている人間に信頼を置いているからです。

このような偽りの希望を抱かせる人、例えば「天国に行くために天主を信じる必要はない」[5]と述べる人は、愛徳のわざを行っていません。それどころか、これは罪と滅びの道を歩む邪悪な人々を励まし、自分自身を滅びと絶望の共犯者にしています。これはまさに救い主の次の言葉に反しています。「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬだろうと言ったが、もし私がそれだと信じないなら、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬ」(ヨハネ8章24節)。

大きな痛みを感じながら付け加えますが、この世の悪、死、病気、苦しみ、不正義に直面している最近の教会の答えは、完全にないとまで言えないとすれば、不足しているのです。まるで福音が現代人に語るべきことが何もないかのように、あるいは福音が語るべきことが時代遅れであるかのようにです。「役に立たないレシピは売りたくない、これが現実です」[6]。

次の言葉を読むと、血の気が引きます。「天主は不正義なのでしょうか。そうです、天主は、天主の御子を十字架に送ることで、天主の御子とともに不正義です」[7]。この言い草に反論する必要はありません。もし私たちが、罪が人類を悩ます苦しみと死の原因であることを否定するならば、私たちは必然的に天主に責任を押し付け、天主のことを「不正義」だと非難し、そのため私たちの地平から天主を排除してしまうことを十分に観察しています。

ここから私たちは、人間の兄弟関係を追求することが、詩篇作者の言葉にどのように概説されているかを理解することができます。「この世の王たちは立ち上がる。主とその油を注がれた者に逆らって、君主たちは手を結ぶ」(詩篇2章2節)。

ですから、教会(あるいはむしろ、ほぼ完全に教会を覆い隠す教会の偽物と言うべきでしょう)は、真理に希望を失って渇いている人に対して、もはやカトリックの答えを提供せず、その根本的な原因が罪である痛みと苦しみというつまずきを促進させ、天主に責任を追求し、「不正義」として天主を冒涜しているのです。

質問:大司教様、米国のプロライフの指導者たちが、今回の大統領選挙で妊娠中絶が最重要課題であることを公に宣言するように司教たちに懇願しているのをご覧になったことがあると思います。全く反対のことを言った司教がいて、今では教皇フランシスコの回勅で議論されている点を自分たちの考えを支持するために利用しています。あなたの兄弟である司教たち、そして信徒たちに、どのようなアドバイスをしたらよいでしょうか。

ヴィガノ大司教:妊娠中絶について沈黙していることは、キリストを否んだために自らの使命を否んでいる位階階級の一部における霊的かつ道徳的な逸脱を示す恐るべきしるしです。

母親が愛すべき、保護すべき、この世のいのちを授けるべき自分自身の子どもを、自らが妊娠中絶で殺してしまうのとちょうど同じように、現在の詐欺行為においては、天主によって霊魂に永遠のいのちを授けるようにと天主のご意向があった教会が、自らの役務者たちの裏切りのせいで、自らの胎内で自らが霊的に子どもたちを殺しているということが分かります。

キリストの敵どもの憎しみは、そのいとも聖なる御母(マリア様)でさえも容赦しません。天主の御母であるために、サタンに憎まれるのです。なぜなら、御母を通して、聖三位一体の第二のペルソナが私たちをあがなうために人となり給うたからです。私たちが聖母の友であるならば、次に示す原福音で主によって打ち立てられた真理によって、聖母の敵どもは、私たちの敵でもあります。「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意を置く」(創世記3章15節)。

私の兄弟である司教の皆さんに思い起こしていただきたいのは、聖なる油を塗られたのは天主と敵対者との間の争いを中立的に見る観客としてではなく、信仰の競技者としてであるということです。

主が自然法で定められた不可侵で譲れない原則を擁護するために声を上げている少数の勇気ある牧者たちに、今日では恐れや臆病さ、あるいは誤った慎重さから躊躇している人々が、勇気ある牧者たちの仲間入りすることができるように私は祈っています。司教の皆さん、あなた方は「地位にふさわしい恩寵」をお持ちであり、群れはあなた方に天主なる牧者の声を聞いているのです(ヨハネ10章2-3節)。ちょうど使徒たちや彼らの後を継いだ司教たちが、殉教を恐れなかったように、キリストの福音を宣べ伝えることを恐れないでください。

非常に多くの心の弱い牧者たちの沈黙によって混乱している信徒の皆さんにお願いします。天に向かって祈りを捧げ、最も頑固で反抗的な心に聖霊だけが植え付けることのできる恩寵を慰め主(Paraclete)に呼び求めてください。
「Lava quod est sordidum, riga quod est aridum, sana quod est saucium. Flecte quod est rigidum, fove quod est frigidum, rege quod est devium.」(こい願わくは汚れたるを清め、乾けるを潤し、傷つけられたるを癒やし給え。固きを柔らげ、冷えたるを暖め、曲がれるを直くし給え。【Veni Sancte Spiritusからの一節】)教会と皆さんの牧者たちのために、皆さんの犠牲、償い、病気の苦しみを捧げてください。

質問:私は最近、ロバート・ボーク元最高裁判事候補の妻にインタビューしました。彼女は、夫に対する無礼な公聴会の間、教会からの支援がなかったことについて語りました。彼女は、夫への攻撃が「カトリックの」民主党上院議員テッド・ケネディによって主導されていたという事実をほのめかしていました。バレット判事への攻撃、特に彼女の信仰のゆえの攻撃について、あなたのご意見をお聞かせください。

ヴィガノ大司教:サタンをかしらとするこの世の憎しみ(ヨハネ12章31節)は、「フラテッリ・トゥッティ」のユートピア的な夢を最も明白に否定しています。もしその夢が、唯一にして三位一体である唯一のまことの天主が共通の父であることを排除するならば、人間の間に兄弟関係があるはずがありません。

誤謬や悪徳に正当性を与えるという段階まで平等性や平等な権利を説く人々は、カトリック信者の政治家が、平等な権利の名の下に、立法と統治においてその政治家自身の信仰を証言しようとするやいなや、自分たち自身が乱用している権力が危険にさらされているのを見て、不寛容になります。ですから、このようにして、非常に宣伝されている「兄弟関係」は闇の子らの間だけで実現されるのであって、必然的に光の子らを排除するか、自分たちのアイデンティティーを否定するのを余儀なくされるかのいずれかになるのです。

そして、重要なことは、この兄弟関係の唯一の必要条件が常にキリストを拒否することに基づいているように見える一方で、「正義と真実の聖徳において」(エフェゾ4章24節)愛徳という聖なるかなめによって、まことの聖なる兄弟関係を持つことは不可能と考えられている、ということです。

堅振の秘蹟の塗油によって、カトリック信者はキリストの兵士になるのです。王のために戦わず、敵に味方する兵士は裏切り者であり、反逆者であり、敵前逃亡者です。したがって、カトリック信者の政治家たちや、制度的な地位を保持するカトリックの人々を、自分たちのために血を流したキリストの証人となるべきです。そうすれば、彼らは公務を遂行するために必要な恩寵を受けるだけでなく、兄弟たちの模範となり、本当に重要な唯一のものである永遠の報いを受けることになるでしょう。

「Te nationum praesides honore tollant publico; colant magistri, judices, leges et artes exprimant.」(諸国民の指導者(政府)たちは、御身を公けに尊び、学者たちも、裁判官らも、崇敬し。法律も芸術も御身を表明せんことを。【王たるキリストの祝日の賛歌】)

2020年10月11日

天主の御母たる聖マリアの祝日、聖霊降臨後第十九主日

注:
[1] Speech at the United Nations Organization, New York, 25 September 2015, AAS 107 (2015), 1039. Cited in the encyclical Fratelli Tutti, 188.

[2] The only indirect mention of abortion is n. 24 of the Encyclical, in which violence that “forces [women] to abort” is denounced, but without condemning the killing of the unborn itself. The reference to the unborn child in Fratelli Tutti n. 18 is very weak and does not explicitly mention the term “abortion.” Spending just three words on the most abominable crime that involves millions of deaths every year in the world, does not change the evidence that the encyclical is literally obsessed with human solidarity in support to globalist agenda. Besides, in the contest of the US election campaign (concomitant with the publication of the papal document), an explicit condemnation of abortion would openly contradict the democratic candidate, which is strongly in favor of the abortion. I would add that the references to children seems more aimed to the Islamic families, in particular of those of the immigrants, who, according to Bergoglio, represent the demographic future of Europe.

[3] “I am the salvation of the people, says the Lord: Should they cry to me in any distress, I will hear them, and I will be their Lord forever. Hear my teaching, O my people: incline your ear to the words of my mouth.” Ps. 77:1, 19th Sunday after Pentecost, Introit.

[4] CCC, 1817.

[5] https://www.independent.co.uk/news/world/europe/pope-francis-assures-atheists-you-don-t-have-believe-god-go-heaven-8810062.html

[6] Il Papa: non c’è una risposta alla morte dei bambini, in: Avvenire, 15 December 2016; https://www.avvenire.it/papa/pagine/papa-udienza-al-bambino-gesu

[7] Ibid.



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