Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちもイエズス様の脇の傷口に、私たちの手を入れてミサの黙想をしよう。

2020年04月21日 | お説教・霊的講話
2020年4月19日(主日)白衣の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
 
愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日、疑い深いトマスが、信仰を失って、イエズス様を信じなくなった、復活を信じなかったトマスが、「イエズス様の脇腹に手を入れるように」と招かれた福音が読まれた主日です。
 
私たちも一緒に、イエズス様の脇にイエズス様の傷口に、私たちの手を入れて、今日このミサの黙想する事に致しましょう。
 
「イエズス様の傷」というのは、一体何でしょうか?
これは、イエズス様が私たちに対して持っている、憐れみ深い、「愛の証拠」です。
 
その昔、旧約時代には、イスラエルの民を救う為に天主は、モーゼを使って、紅海、紅い海を開かせて、そしてイスラエルの民を救い、そしてファラオとそのエジプトの大群を海の中に沈めました。
 
新約の今、イエズス様は私たちを救う為に、御自分の脇腹と、そして手と足の傷口を大きく開き、そして私たちを御自分の御血と御水で、そこから流れた血と水で救い、そして悪魔と罪を埋めてしまおうと、滅ぼしてしまおうと思われました。
 
この傷は、イエズス様の体に付いている傷は、3時間の十字架の上で付けられた、苦しい、その肉体的な、精神的な苦悩、私たちの為に受けた苦悩の証拠です。
 
かと言ってイエズス様は、その苦しみの間、不平不満を言ったわけではなく、苦々しかった大洋を通ったわけではなく、イエズス様の御父、天主、その御旨を果たしたい、というその従順の心、離脱の心、平和の心、そして甘美な心でそれを受け止めていました。
 
奉献、そして御捧げ、従順、「我になれかし。御旨の通りに、私のではなく、御父の御旨がなされますように」という愛に満ちた捧げ物でした。
 
イエズス様はですから、この世間の人たちの、あるいはイスラエルの旧約の大司祭たちの嘲りや、告発、あるいは嘘の挑発など、黙って、沈黙の内に捧げていました。
 
イエズス様が受けたその辱め、屈辱、全て御捧げになりました。イエズス様が体に持っているその傷は、それら全てを、その苦しみ全てを、私たちに証拠として出しています。
 
では私たちが、「その傷に私たちの手を入れる、トマスと一緒に手を入れる」という事はどういう事でしょうか?
 
それは、「私たちも、イエズス様が私たちに対して持っている、そのとてつもない大きい無限の憐れみ深い愛を認めて、そしてそれを信じる」という事です。「それに信頼する」という事です。「それから逃げるというのではなくて、それに近寄って、私たちをそれに合わせる、それに触れる」という事です。
 
聖ペトロが今日言います、「私たちは幼子のように、清らかな乳を飲み、そして古い人間を捨てて、新しい人を着るように」と。
 
聖ペトロもやはり同じ事をしました。ペトロの場合には、どうやってイエズス様を否んだかというと、色々な段階がありました。
 
まず第1は、「お祈りをしろ」と言われたにも関わらず、お祈りの時に眠りこけていました。
 
第2に、イエズス様は、お祈りをする事を大切にしていたのに、霊的な手段を大切にしていたのにも関わらず、ペトロは人間的な手段に頼ろうとしました。敵が来たらすぐに剣を取って、それで敵を打ち倒そうとしました。イエズス様はそのようなペトロを叱ります、「剣を鞘に収めよ。」主からこのように叱られてしまって、どうしようもなくなったと思った彼は、私たちの主を打ち捨てて逃げてしまいます。
 
第3には、それでもイエズス様の跡を追おうとしますけれども、どうなったのかと知ろうとしますけれども、しかし遠くから離れて従います。つまり冷淡だったという事です。もう熱心はありませんでした。イエズス様の近くに居たいという熱心はありませんでした。
 
第4には、そのような熱心がなくなって冷淡になったペトロは、今度は主の愛の暖かさの代わりに、物理的な温かさを求めました。焚き火にあたって、そして「あぁ、疲れた」と言って座って、その時でした。
 
最後に、ある召使いの女性が、「あぁ、あなたは、この人と一緒にいたではないか」と言うと、「違う!」と、イエズス様を否みました、世間体の為でした。
 
しかし、ペトロは回心します。
 
ちょうど聖トマスに、疑ったトマスにイエズス様が現れて、イエズス様がそのトマスを愛深い眼差しをかけて、そして、「さぁ、私の傷に、傷跡に手を入れよ」と仰ったように、ペトロも目が覚めます。
 
それは鶏が鳴いた時でした。その時に目が覚めました。
 
イエズス様を見ると、イエズス様はペトロの方を愛深く、憐れみ深く御覧になっていました。この愛の眼差しを見て、ペトロの心は動揺しました。そしてその場所を、罪の場所をすぐに逃げて、そして涙を、熱い涙を流して、そして悔悛しました。
 
後で、復活の後にイエズス様から尋ねられて、3つの愛の告白をします、「主よ、私は御身を愛しています。」
 
今日同じくマグダラのマリアも、弟子たちにペトロとヨハネに、「主がもう墓にいない」と言ってきたマグダラのマリアも、同じように悔悛した女性でした。
 
「罪の女」と言われた、罪の町に住んでいた有名な女性でしたが、彼女は「イエズス様の元に行く」、その事しか考えませんでした。
 
ある日、イエズス様がシモンの家にいた時に、世間体など顧みず、ただ一つの事しか願っていませんでした、それは、「イエズス様の足の元に居たい」と、そして「痛悔の涙でその足を洗いたい」と、「イエズス様に自分の悔悛の心を捧げたい」と、それだけでした。
 
このマグダラのマリアは、十字架の下でも同じ事をします。イエズス様の足元に留まって、そして自分の為にどれほどイエズス様が苦しまれた、というかを見て、そして悔悛の涙を流します。罪の痛悔の涙を流します。そして自分の小さないけにえを、イエズス様の傷口に添えたに違いありません。
 
今日私たちも聖トマスと同じように、私たちの手をイエズス様の傷口にそっと入れる事に致しましょう。
 
痛悔の心で、そしてイエズス様を愛する心で、私たちの罪の償いを添えて、イエズス様にお捧げ致しましょう。一言もおしゃべりなどせず、熱い涙を流して、そして十字架の下に留まりましょう。イエズス様の傷の元に留まりましょう。
 
イエズス様の苦しまれた、その御苦難を黙想して、そのすぐそばを触れる事に致しましょう。そして願わくは、決してそれから離れる事がないように。
 
聖パウロは言います、「キリストは『私』を愛して、『私』の為に御自分を御捧げになった」と。
 
聖トマスも、聖ペトロも、聖マグダラのマリアも、同じ事を考えていたに違いありません、「イエズス様は、私をここまで愛して、私の為にこれほど苦しまれた。だから私も、この自分の苦しみを、イエズス様に御捧げしたい。黙って捧げたい」と。「イエズス様に愛を捧げたい」と。
 
愛は私たちに、更にイエズス様に対する同情と、イエズス様と同じく、私もイエズス様のように苦しみたい、という感情を起こすようにさせてくれます。
 
では私たちも聖ペトロのように、またマグダラのマリアのように、そして疑い深いトマスのように、私たちの手を、イエズス様の脇腹に、イエズス様の傷口に乗せる事に致しましょう。
 
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
 
イエズス様の愛と、憐れみと、その無限の優しい、私たちを赦したい、というその心を信じる事ができますように、そしてそれと同時に、ペトロと、そしてマグダラのマリアがしたように、熱い痛悔の涙を流す事ができますように、そしてイエズス様の御跡に従って、イエズス様の足元にいつも、十字架の足下にいつも留まり続ける事ができますように、お祈り致しましょう。
 
「私たちがイエズス様の傷口に手を入れる、手を触れる」というのはまさに、「イエズス様の御傷に、私たちの痛悔、私たちの悔悛、私たちのいけにえを一緒に、それと添えて捧げる」という事に他ならないからです。「イエズス様の捧げる十字架に、ミサ聖祭に与る」という事に他ならないからです。
 
そして私たちがそれをする事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。
 
マリア様は決して、十字架の足下を離れませんでした。私たちもいつもこの傷口を離れる事がありませんように、イエズス様の無限の憐れみ深い愛を信じる事ができますように。
 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





 




フランシスコ教皇に対する理解を深めるために:教皇フランシスコの新しさと第二バチカン公会議の展開

2020年04月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ステイ・アット・ホーム(不要不急の外出自粛)の機会を利用して、フランシスコ教皇の思想(在位2013 - 現在)をよく理解するように努めましょう。

昨年は、教皇の訪日以外にも、アマゾン・シノドスやパチャママ、ドイツのシノドスの道、などの報道が大きくなされました。では、私たちの現教皇であるフランシスコは、これからカトリック教会をどのようにしようとするのでしょうか?

教皇フランシスコは、ヨハネ・パウロ二世とは違った道を行こうとするのでしょうか?それとも、同じ方向に動いているのでしょうか?

私たちは、教皇フランシスコは、第二バチカン公会議の路線を忠実に歩んでいる、と主張します。ただし、その進み方が加速度的に早まり、第二バチカン公会議の中に種子として小さく潜んでいたものが、花を咲かせ、実を付けつつあるという意味で「新しさ」も生じています。

これまでの7年にわたる在位期間での活動や発言を振り返り、フランシスコ教皇に対する理解を深めたいと思います。

第二バチカン公会議以後の教皇たちの行動の指針となる原理は、人間中心主義です。第二バチカン公会議が訴えた新しいヒューマニズムです。

「近代」の特徴は、世界が天主から離れること、この世を聖なるものと切り離すこと、世界の世俗化です。市民社会から教会とキリストと天主とを引き離すことです。聖なるもの(宗教)が、世俗の市民社会(政治)を指導することがないように、それ以前は両者のうちにあった調和を否定して、分離させることです。これは革命によってなされました。

新しいヒューマニズムは、革命によって引き起こされてしまった教会と国家の分裂を乗り越えようと、世俗のことがら(環境問題、移民政策、など)に言及し、それを聖なるものとしようとするかのようです。世俗と宗教の混同です。

もはや教会は、天主から啓示された超自然の真理を、世界や世俗の政治指導者たちに教えようとはしません。そうではなく、教会は世俗と対話し、世俗に聴従します。

人間中心主義の原理がどのように適応されるかについては教皇によって違いがあるとはいえ、しかし、公会議後の教皇たちは皆、同じ原理に従って動いています。

ここでは、図式的に第二バチカン公会議の思想の流れを見てみましょう。

【第二バチカン公会議:現代世界憲章 Gaudium et spes, 22】
「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」
Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit.
スペイン語訳:El Hijo de Dios con su encarnación se ha unido, en cierto modo, con todo hombre.)

それが👇こうなる

【教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅『人間の贖い主』 REDEMPTOR HOMINIS, 8 & 13】
「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた。」

【カトリック教会の公教要理 432】
「キリストは、御托身を通して、自分自身をすべての人間と一致させた。」

それが👇こうなる

【教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』LAUDATO SI, mi Signore, 245】
「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた。」
「主はご自身をわたしたちの地球と決定的に結ばれた」(カトリック中央協議会訳)
245. ((Dios) se ha unido definitivamente a nuestra tierra.

お気づきになられたでしょうか?

ヨハネ・パウロ二世の「キリストは自分自身をすべての人間と一致させた」ということを乗り越えて、
フランシスコは「天主は自分自身を私たちの大地と決定的に一致させた」と主張しています。

これが教皇フランシスコの新しさであり、それと同時に、第二バチカン公会議の中にあった種子が成長した部分です。

これについて、さらに考察を続けましょう。

(続く)






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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