2020年4月19日(主日)白衣の主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は白衣の主日、疑い深いトマスが、信仰を失って、イエズス様を信じなくなった、復活を信じなかったトマスが、「イエズス様の脇腹に手を入れるように」と招かれた福音が読まれた主日です。
私たちも一緒に、イエズス様の脇にイエズス様の傷口に、私たちの手を入れて、今日このミサの黙想する事に致しましょう。
「イエズス様の傷」というのは、一体何でしょうか?
これは、イエズス様が私たちに対して持っている、憐れみ深い、「愛の証拠」です。
その昔、旧約時代には、イスラエルの民を救う為に天主は、モーゼを使って、紅海、紅い海を開かせて、そしてイスラエルの民を救い、そしてファラオとそのエジプトの大群を海の中に沈めました。
新約の今、イエズス様は私たちを救う為に、御自分の脇腹と、そして手と足の傷口を大きく開き、そして私たちを御自分の御血と御水で、そこから流れた血と水で救い、そして悪魔と罪を埋めてしまおうと、滅ぼしてしまおうと思われました。
この傷は、イエズス様の体に付いている傷は、3時間の十字架の上で付けられた、苦しい、その肉体的な、精神的な苦悩、私たちの為に受けた苦悩の証拠です。
かと言ってイエズス様は、その苦しみの間、不平不満を言ったわけではなく、苦々しかった大洋を通ったわけではなく、イエズス様の御父、天主、その御旨を果たしたい、というその従順の心、離脱の心、平和の心、そして甘美な心でそれを受け止めていました。
奉献、そして御捧げ、従順、「我になれかし。御旨の通りに、私のではなく、御父の御旨がなされますように」という愛に満ちた捧げ物でした。
イエズス様はですから、この世間の人たちの、あるいはイスラエルの旧約の大司祭たちの嘲りや、告発、あるいは嘘の挑発など、黙って、沈黙の内に捧げていました。
イエズス様が受けたその辱め、屈辱、全て御捧げになりました。イエズス様が体に持っているその傷は、それら全てを、その苦しみ全てを、私たちに証拠として出しています。
では私たちが、「その傷に私たちの手を入れる、トマスと一緒に手を入れる」という事はどういう事でしょうか?
それは、「私たちも、イエズス様が私たちに対して持っている、そのとてつもない大きい無限の憐れみ深い愛を認めて、そしてそれを信じる」という事です。「それに信頼する」という事です。「それから逃げるというのではなくて、それに近寄って、私たちをそれに合わせる、それに触れる」という事です。
聖ペトロが今日言います、「私たちは幼子のように、清らかな乳を飲み、そして古い人間を捨てて、新しい人を着るように」と。
聖ペトロもやはり同じ事をしました。ペトロの場合には、どうやってイエズス様を否んだかというと、色々な段階がありました。
まず第1は、「お祈りをしろ」と言われたにも関わらず、お祈りの時に眠りこけていました。
第2に、イエズス様は、お祈りをする事を大切にしていたのに、霊的な手段を大切にしていたのにも関わらず、ペトロは人間的な手段に頼ろうとしました。敵が来たらすぐに剣を取って、それで敵を打ち倒そうとしました。イエズス様はそのようなペトロを叱ります、「剣を鞘に収めよ。」主からこのように叱られてしまって、どうしようもなくなったと思った彼は、私たちの主を打ち捨てて逃げてしまいます。
第3には、それでもイエズス様の跡を追おうとしますけれども、どうなったのかと知ろうとしますけれども、しかし遠くから離れて従います。つまり冷淡だったという事です。もう熱心はありませんでした。イエズス様の近くに居たいという熱心はありませんでした。
第4には、そのような熱心がなくなって冷淡になったペトロは、今度は主の愛の暖かさの代わりに、物理的な温かさを求めました。焚き火にあたって、そして「あぁ、疲れた」と言って座って、その時でした。
最後に、ある召使いの女性が、「あぁ、あなたは、この人と一緒にいたではないか」と言うと、「違う!」と、イエズス様を否みました、世間体の為でした。
しかし、ペトロは回心します。
ちょうど聖トマスに、疑ったトマスにイエズス様が現れて、イエズス様がそのトマスを愛深い眼差しをかけて、そして、「さぁ、私の傷に、傷跡に手を入れよ」と仰ったように、ペトロも目が覚めます。
それは鶏が鳴いた時でした。その時に目が覚めました。
イエズス様を見ると、イエズス様はペトロの方を愛深く、憐れみ深く御覧になっていました。この愛の眼差しを見て、ペトロの心は動揺しました。そしてその場所を、罪の場所をすぐに逃げて、そして涙を、熱い涙を流して、そして悔悛しました。
後で、復活の後にイエズス様から尋ねられて、3つの愛の告白をします、「主よ、私は御身を愛しています。」
今日同じくマグダラのマリアも、弟子たちにペトロとヨハネに、「主がもう墓にいない」と言ってきたマグダラのマリアも、同じように悔悛した女性でした。
「罪の女」と言われた、罪の町に住んでいた有名な女性でしたが、彼女は「イエズス様の元に行く」、その事しか考えませんでした。
ある日、イエズス様がシモンの家にいた時に、世間体など顧みず、ただ一つの事しか願っていませんでした、それは、「イエズス様の足の元に居たい」と、そして「痛悔の涙でその足を洗いたい」と、「イエズス様に自分の悔悛の心を捧げたい」と、それだけでした。
このマグダラのマリアは、十字架の下でも同じ事をします。イエズス様の足元に留まって、そして自分の為にどれほどイエズス様が苦しまれた、というかを見て、そして悔悛の涙を流します。罪の痛悔の涙を流します。そして自分の小さないけにえを、イエズス様の傷口に添えたに違いありません。
今日私たちも聖トマスと同じように、私たちの手をイエズス様の傷口にそっと入れる事に致しましょう。
痛悔の心で、そしてイエズス様を愛する心で、私たちの罪の償いを添えて、イエズス様にお捧げ致しましょう。一言もおしゃべりなどせず、熱い涙を流して、そして十字架の下に留まりましょう。イエズス様の傷の元に留まりましょう。
イエズス様の苦しまれた、その御苦難を黙想して、そのすぐそばを触れる事に致しましょう。そして願わくは、決してそれから離れる事がないように。
聖パウロは言います、「キリストは『私』を愛して、『私』の為に御自分を御捧げになった」と。
聖トマスも、聖ペトロも、聖マグダラのマリアも、同じ事を考えていたに違いありません、「イエズス様は、私をここまで愛して、私の為にこれほど苦しまれた。だから私も、この自分の苦しみを、イエズス様に御捧げしたい。黙って捧げたい」と。「イエズス様に愛を捧げたい」と。
愛は私たちに、更にイエズス様に対する同情と、イエズス様と同じく、私もイエズス様のように苦しみたい、という感情を起こすようにさせてくれます。
では私たちも聖ペトロのように、またマグダラのマリアのように、そして疑い深いトマスのように、私たちの手を、イエズス様の脇腹に、イエズス様の傷口に乗せる事に致しましょう。
「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
イエズス様の愛と、憐れみと、その無限の優しい、私たちを赦したい、というその心を信じる事ができますように、そしてそれと同時に、ペトロと、そしてマグダラのマリアがしたように、熱い痛悔の涙を流す事ができますように、そしてイエズス様の御跡に従って、イエズス様の足元にいつも、十字架の足下にいつも留まり続ける事ができますように、お祈り致しましょう。
「私たちがイエズス様の傷口に手を入れる、手を触れる」というのはまさに、「イエズス様の御傷に、私たちの痛悔、私たちの悔悛、私たちのいけにえを一緒に、それと添えて捧げる」という事に他ならないからです。「イエズス様の捧げる十字架に、ミサ聖祭に与る」という事に他ならないからです。
そして私たちがそれをする事ができますように、マリア様にお祈り致しましょう。
マリア様は決して、十字架の足下を離れませんでした。私たちもいつもこの傷口を離れる事がありませんように、イエズス様の無限の憐れみ深い愛を信じる事ができますように。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。