Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ミサの時に、5000人のみならず、イエズス様に従う私たちに御自分の体を増やし飽きるまで御恵みで満たし養う

2020年04月08日 | お説教・霊的講話
2020年3月22日(主日)四旬節第4主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教(東京)


“Laetare Jerusalem”
「エルサレムよ、喜べ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン

愛する兄弟の皆さん、今日四旬節のど真ん中、第4主日、そして教会は、カトリック教会の信徒の私たちに向かって、「エルサレムよ、喜べ!」と言っています。

では今日はこのミサに従って、

(1)今日、指定巡礼教会「エルサレムの十字架」、一体これはどんな所なのか?

(2)次に書簡、書簡書ではやはり、エルサレムについて語られます。「新しいエルサレム」です。つまり「私たち」の事です。これについて黙想しましょう。

(3)そして次に、今日は福音では「パンの増加」について語られます。私の思うにはこれは「十字架」の事、十字架のいけにえの象りです。

ですから、この福音と書簡を合わせると、「エルサレムにおける聖十字架が見えてくる」、これを今日は、皆さんと一緒に黙想したいと思っています。


⑴「エルサレムの聖十字架教会」というのは、ローマにある、十字架の聖遺物を安置する教会です。

聖ヘレナが、つまりコンスタンティノ、ローマ皇帝のお母様が、聖地エルサレムに行って、イエズス様の架かった聖なる十字架の聖遺物を、ローマに持って来ました。そして自分の住んでいた家、その家は当時“Domus Sessoriana”と言われていたのですけれども、“Caelius”と言う丘の上に建てられていた大きな家を、これを聖十字架を安置する為の御聖堂に変えて、そしてこの家、自分の家を奉献しました。

それ以来その聖ヘレナの家は、「ローマにおけるエルサレム」、後には「エルサレムの聖十字架教会」と呼ばれるようになりました。

今日は霊的に私たちはそこに巡礼する事になります。ですから心をローマの聖十字架教会に馳せる事に致しましょう。

⑵第2に、書簡では、新約聖書の優位、素晴らしさを示す為に、聖パウロはモーゼが十戒を受けたシナイ山、そしてそこから受けたマンナや、あるいはモーゼがそこまで辿った紅海、海の水を渡っていた事など、それの中心地である「シナイ山」と、新約の私たちの母「新しいエルサレム、天のエルサレム」についての比較があります。

皆さんもよくご存知の通り、モーゼの紅海、渡った紅海は紅い海は、洗礼の象りでした。モーゼが受けたマンナは、御聖体の前兆でした。そしてモーゼがその上で受けた十戒、シナイ山、これは私たちが遂に新約で受ける聖霊の愛の炎、私たちの心に刻まれる愛の掟の前兆でした、前のしるしでした。

そしてモーゼの教えたシナイの旧約の教えは、隷属の奴隷の、恐れの教えでした。なぜ「奴隷の」というかと言うと、恐れには2つあるからです。

1つは「奴隷のような恐れ」、もう1つは「子供のような恐れ」。

奴隷のような恐れというのはつまり、「主人から罰せられるのが恐ろしいから、私はこれを守る、これをする」という恐れの事です。その隷属の奴隷のような恐れに基づくのが、旧約時代でした。モーゼの受けた教えでした。そして罪人を厳しく罰する掟でした

新約は、恐れは恐れですけれども、子供のような恐れであって、子供のような心であって、「天主聖父を悲しませる事を恐れる、罪を犯して、天主の聖心に背いてしまう事を恐れる」「罰ではなくて、その心に適わない事を恐れる」子供の愛の恐れであって、そしてしかもこの新しい教えは、新約の教えは、罪を罰するのではなく、罪を赦す、憐れみの教えでした。

そしてこの新約の優位はどこに現れるかと言うと、「来たるべき、本物のマンナであるイエズス・キリストの御体によって、御聖体によって私たちが養われ、イエズス・キリストと一致する」というところに最高に完成させられます。


⑶第3のポイントは、今日イエズス様が5000人の男の人々を、子供・女性を含まない男、“viri, quinque mília.” 男5000人を、たった5切れのパンと、そして2匹の魚で充分に満たして、そして更に、余ったその残りのパン・魚を集めてみたら、12の大きなカゴにいっぱいになった、満ち溢れたという、本当に起こった奇跡について、私たちは読みました。

もしもそのような今日光景に出会ったら、私たちは一生忘れない事でしょう。5000人の大群衆が、たったほんのちょっとのパン切れで養われた。たくさん食べて、食べて、食べて、そして満たされた。どれほど嬉しかった事でしょうか。

彼らは砂漠のイエズス様を付いて、イエズス様の聖心を聞こうとして、イエズス様の御跡を慕って、一体、将来の事も、あるいはどうするべきだろうか、という事も考えずに、おそらく信頼して、付いてきた事でしょう。

イエズス様はそのような人々を、決して空腹で野垂れ死にさせるような事はありませんでした。その御摂理と憐みとの心が、この奇跡に現れています。天主イエズス・キリストの全能の愛が、ここに滲み溢れています。「彼らはどれほどお腹が空いているだろうか」と、私たちの体の事をさえも心配して下さる、イエズス様。

ヨハネはこの事をよく覚えていました、「これは過越の少し前だった。」「座っている所には、草がたくさん生えていた」等々、詳しい事を覚えています。

もちろん私たちがよく知っているように、これは、来たるべき過越の時に、最後の晩餐の時に、イエズス様が成そう、成立しようとする、「御聖体の秘跡」のいわば象りでした。

イエズス様はこの砂漠に付いて来た5000人の男たちとその家族たちだけではなく、イエズス様に付いて砂漠のようなこの世を歩む、巡礼する、天国のエルサレムまで巡礼しようとする私たちの事をも、考えていました。

そして私たちを単なるパンで養うのではなく、御自分の御体と、御自分の流す御血によって養おうとされます。

この今日福音で読んだこの奇跡は、そのもっと素晴らしい事が、今日皆さんの目の前で、この祭壇の上で、実現します。何故かというと、この祭壇は、新約のカルワリオであって、今皆さんが与っているのは、「十字架のいけにえの再現」であるからです。

あたかも皆さんは、エルサレムのカルワリオの丘に居て、そしてイエズス様の十字架のその効果を、今受けようとしています。これがカトリックの教えです。ですから私たちは、どんな事があっても、このミサを挙げ続けたいと願っています。

パドレ・ピオは言いました、「地球が存在する為には、太陽よりもミサがある方がもっと必要だ。」もうちょっと正確な言い回しを使うと、「地球にとって、ミサが無いよりも、太陽が無い方がまだ存在できる」と。それほど、このミサの重要性を分かっていたのが、聖パドレ・ピオでした。

そしてこのミサの時に、イエズス様は5000人のみならず、無数の世の終わりに至るまでの、イエズス様に従う私たちに、御自分の体を増やして、飽きさせるほどまで御恵みで満たして、私たちを養ってくれようとしています。

このイエズス様のこの奇跡が、今この目の前で行なわれるという事を黙想すると、私たちの思い起こすものは、「何と、イエズス様の愛の深さ、イエズス様の憐みの深さか」という事です。

イエズス様は憐み深く更に、今日のジェスチャーを以って別の事も象徴しています。

それは、今日の福音では、イエズス様はパンの奇跡の時に、「弟子たち」を「使徒たち」を使ってなさいました。

新約時代において、カトリック教会の司祭を以って、イエズス様は、全く同じことをします。もしも使徒たちが配らないのならば、このパンの奇跡は起こりません。

もしも司祭が存在しないならば、新約のカトリック司祭が存在しないならば、この御聖体も作られる事ができられません。

最後の晩餐の時に、イエズス様は御聖体を制定しましたが、それと同時に、新約の司祭、新しい司祭職を制定しました。十字架のいけにえを日々私たちの祭壇の上で再現させる、実現させる、もう一度それを目の前に現存させる、その権能を持った司祭職を作りました。

ですから、カトリックの司祭というのは、「イエズス様のいけにえである、十字架のいけにえ、ミサ聖祭」と非常に深く結び付いています。

カトリックの司祭の最も核心的な能力は、まさにここにあります。イエズス様の御体を聖変化させる事、パンの実体を、全くイエズス・キリストの御体に聖変化させる事、「全実体変化」という大奇跡を行なって、今日福音で読んだ奇跡よりも、更に偉大な事を毎日、ミサの祭壇の上で行なう、という事です。

カトリックの司祭は、プロテスタントの牧師や、あるいは離教の教会の正教会等の司祭とは全く違います。イスラム教のイーマン等とは全くレベルが違います。

唯一、カトリック司祭だけが、イエズス・キリストの代理者であって、使徒たちから受けた、脈々と途切れる事なく受けた、司祭職を続けているものです。私たちがこのミサを捧げ続ける為には、この聖伝の司祭が、カトリックの教えを変えずに行ない、そしてミサを、聖変化をさせ続ける司祭がどれほど必要でしょうか。

これは、私たちが傲慢の為にこう言うのではなく、しかしイエズス様の御望みによって、私たちが天国のエルサレムに届く為にも、この秘跡が制定されたからです。「御聖体」と「司祭職」。

では今日、教会の精神に従って喜び、そしてイエズス様に感謝する事に致しましょう。

そして復活祭まで、ますますこの御聖体が毎週日曜日に主日にここで捧げられますように。そして私たちの間から、あるいは日本から、聖なる司祭たちがたくさん出てきますように。若い青年たちが、イエズス様の御業を続ける為に、自分をイエズス様に全く捧げて奉仕する事できますように。

その御恵みを、今日ミサでお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
















イエズスは罪に対する非常な憎しみを私たちに教える。しかし罪人に対しては愛と憐みに満ちた愛に満ちて赦そうとされる。

2020年04月08日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

2020年3月21日(土)四旬節第3主日の後の土曜日のミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2020年3月21日、四旬節第3主日の後の土曜日のミサを行なっております。

今日このミサの後の感謝の祈りの後に、コロナウィルスの疫病の一日も早い終息を願って、短い御聖体降福式を行ないたいと思っております。どうぞいらして下さい。


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、

⑴ まず指定巡礼教会に霊的に行きましょう。

⑵次に旧約聖書から、ダニエルとスザンナの話これを黙想して、

⑶次に福音の女について黙想する事にします。

⑷そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。


指定巡礼教会は、旧約聖書のスザンナと同じスザンナですけれども、これはローマの殉教者の聖スザンナから取られています。その祝日は8月11日です。

そしてこの聖スザンナは、教皇カリウスという方の姪御さんでした。とても高貴な生まれで、カトリックの熱心な信者で、美しい知性的な女性でした。

ところが、ローマ皇帝のディオクレチアヌスという、キリスト教を迫害する有名な皇帝がいたのですけれども、その息子ガリレウス・マキシムから求婚をされました。ところが聖スザンナは既に、「終生貞潔を守る」という誓願を立てていたので、「残念だけれども、結婚はできない」と、その申し込みを拒否しました。それに怒ったローマ皇帝によって聖スザンナは殉教しました。

今日その指定巡礼教会に、私たちは霊的に巡礼して、ミサをする事になっています。


⑵ 第2に、旧約のスザンナの話は有名です。

これは初代のカトリック信者はいつもこの事をよく知っていました。そしてカタコンベに行くと、スザンナと思われる祈りをする女性が、「オランテ」という、「祈りをする女性」という名前で、聖画がイコンに描かれています。

この旧約のこの話は、読めばすぐそのままですけれども、罪無く迫害を受け、罪無くユダヤ人あるいは異教徒たちから、ありもしない讒言、あるいは告発を受けて、迫害を受け、そして圧迫を受けていた、カトリック教会の象りでした。

「まさにこのスザンナのように、私たちは今圧迫を受けている。しかしイエズス様は、天主なるダニエルは、私たちカトリック教会を守って下さる。そして罪の無い霊魂たちを守って下さる」という強い信頼から、この聖スザンナがとても有名でした。

しかし、この旧約聖書のこの話だけを見ると、ここに、旧約時代の限界が見えてきます。旧約では、確かに罪の無い者を守る事はできたけれども、しかし罪を犯した者に対しては、死が待っていた。残酷な刑罰が待っていた。そしてそれへの恐れを以って、それを、罪を犯さないようにさせていた。


⑶ところが最後の第3の点、福音では、私たちの主のその愛と憐れみは、大きく表現されています。旧約ではできなかったその限界を、イエズス様は遙かに超えます。

「罪」に対しては、イエズス様がどれほどの事をするかという事は、ゲッセマニの園にてと、あるいは十字架の道行きと、この十字架に付けられたイエズス様を見れば分かります。罪に対する非常な憎しみと、そして罪の結果は恐るべきものである、という事を私たちに教えます。

しかしイエズス様は、愛と、憐みに満ちた愛に満ちて、「罪人」に対しては、それを赦そうとされます。ここに新約の、イエズス様の聖心の満ち溢れる愛が見えてきます。私たちもそれを垣間見る事ができます。

皆さんもご存知の通り、読めばすぐ分かる通り、幕屋祭の時に、ユダヤ人たちは現行犯で罪の女を逮捕してきました。おそらくこの女性は弱さから婚姻の約束を破って、罪を犯してしまいました。

そこでおそらく涙ながらに、ユダヤ人の前で連れて来られた時に、もうこのまま石殺しにされてしまう、死刑になるという事を覚悟していた事でしょう。涙を流しながらおそらく、痛悔の念と、自分の弱さを、至らなさを悔い、そして悲しんでいた事に違いありません。

そしてうなだれて、引きずられて来てユダヤ人たちに囲まれて来ると、ユダヤ人たちの心はイエズス様の目から見れば、この女性、弱さの為に罪を犯したこれよりも、更に邪悪だ、という事を知っていました。

この女性に対して全く関心が無く、ただ法律を守るという事にも実は関心がなく、実は律法を守る事に関心もなく、実はイエズス様を何とか告発したい、言葉尻を捉えて何か悪いところを見つけたい、それだけの為に、彼女は連れられて来たからです。

イエズス様はそのような人々を見て、その相手をしようとされなかったように思われます。地面に座って、何かを書いておられます、砂に。教父たちによると、「この告発をしてきた人々の犯した罪を、その心の中に隠れているその罪を、一つ一つ書いていた」と言われています。

そしてイエズス様は彼らに、「それでは、罪の無い者から最初に石を投げろ」と仰います。

そして、「ところで、この男は一体何を書いているのだろう?何をやってるんだろう?」と興味本意でこう見ると、自分がやった、あの日あの時のあの事を、よく書かれている、という事を見て、そして自分が石を投げる事ができない、「お前、これやっただろう」という事を、老人から一人一人、何も言わずに、「やばい。」

実はこの現行犯で捕まえられた女性よりも更に酷い事がある、という事を一人一人帰って行きます。

そしてしばらくすると、イエズス様は辺りを見回して、「誰もお前に石を投げないのか?そういう人はどこにいるのか?」と聞くと、「誰もいません。」

するとイエズス様は、もちろんイエズス様は、彼女を死罪にする事ができる裁判官でした。そして罪の無い御方でした。彼女に石を投げる事ができる、罪の無い方でした。

しかしイエズス様も仰います、「私も、お前を断罪しない。もう罪を犯すな」と、憐れみと愛に満ちて、彼女をそのまま家に帰らせます。

この女は今後一切、決して罪を犯さなかった事に違いありません。イエズス様のその憐れみにどれほど感謝した事でしょうか。


⑷ちょうど現代、コロナウィルスあるいはその他で、私たちは何か罰を受けようとしているようにも思われます。

しかし私たちは、イエズス様の御憐れみと、全能の力に信頼致しましょう。私たちを憐み、罪を赦して下さるイエズス様に、回心の実りを捧げる事に致しましょう。

イエズス様はそのような私たちを見て、「私ももう、お前たちを罰しない。もう、これで十分だ。コロナもこれで終息するだろう」と仰るに違いありません。そして、「もはやこれで罪を犯さずに、平和に生きるように」と仰るに違いありません。

マリア様に是非お祈り致しましょう。このイエズス様のその憐みに信頼して、罪の回心、罪を忌み憎む、そして罪を犯さない生活をする御恵みを、マリア様の御取り次ぎで受ける事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。















シュナイダー司教はマーシャル・テイラーとのインタビューの中で聖ピオ十世会について語る

2020年04月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

参考資料です。

シュナイダー司教様は、マーシャル・テイラーとのインタビューの中で、聖ピオ十世会について語っています。


シュナイダー司教は、新しいミサにより、カトリック生活の中心が、一種のプロテスタント化を受けた、私たちは極めて特別な時代に生きている、と言われます。

将来、私たちはルフェーブル大司教に感謝するだろう、と。「私は、この日の来ることを確信している。今、これが起こりつつある。それを見つつある。」




聖ピオ十世会の「聖トマス・アクィナス神学校」における昨年の枝の主日の動画

2020年04月08日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

聖ピオ十世会の「聖トマス・アクィナス神学校」における昨年の枝の主日の動画を御紹介いたします。







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