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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

至福な童貞女は天主の母と呼ばれるべきか 聖トマス・アクィナスの神学大全(第三巻第三十五問第四項)

2019年12月31日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御降誕節です。聖トマス・アクィナスの神学大全(第三巻第三十五問第四項 至福な童貞女は天主の母と呼ばれるべきか)による御降誕の黙想を提案します。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Articulus 4 第四項 至福な童貞女は天主の母と呼ばれるべきか
IIIª q. 35 a. 4 arg. 1 Ad quartum sic proceditur. Videtur quod beata virgo non debeat dici mater Dei. Non enim est dicendum circa divina mysteria nisi quod ex sacra Scriptura habetur. Sed nunquam in sacra Scriptura legitur quod sit mater aut genitrix Dei, sed quod sit mater Christi, aut mater pueri, ut patet Matth. I. Ergo non est dicendum quod beata virgo sit mater Dei. 第四については次のように進められる。至福な童貞女は天主の母mater Deiと呼ばれるべきではないと思われる。(一)天主的諸玄義divina mysteriaに関して、聖書にあること以外は語るべきではない。しかし、聖書には、天主の母、あるいは天主を産んだ女性であることは決して読まれない。むしろ『マテオ福音書』第一章(第十八節)にあるように、キリストの母、あるいは子供の母であるとある。従って、至福な童貞女は天主の母である、と言うべきではない。
IIIª q. 35 a. 4 arg. 2 Praeterea, Christus dicitur Deus secundum divinam naturam. Sed divina natura non accepit initium essendi ex virgine. Ergo beata virgo non est dicenda mater Dei. さらに(二)キリストは天主の本性に従って天主と呼ばれる。しかし、天主の本性は、童貞女から存在の始まりを受けたのではない。従って、至福な童貞女は、天主の母と言われるべきではない。
IIIª q. 35 a. 4 arg. 3 Praeterea, hoc nomen Deus communiter praedicatur de patre et filio et spiritu sancto. Si ergo beata virgo est mater Dei, videtur sequi quod beata virgo sit mater patris et filii et spiritus sancti, quod est inconveniens. Non ergo beata virgo debet dici mater Dei. さらに(三)「天主」という名は、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊とについて共通に述語となる。従って、もし至福な童貞女が天主の母であるならば、至福な童貞女は、聖父と聖子と聖霊との母であることが帰結するように思われるが、これは不適当である。従って、至福な童貞女が天主の母と呼ばれるべきではない。
IIIª q. 35 a. 4 s. c. Sed contra est quod in capitulis Cyrilli, approbatis in Ephesina synodo, legitur, si quis non confitetur Deum esse secundum veritatem Emmanuel, et propter hoc Dei genitricem sanctam virginem, genuit enim carnaliter carnem factam ex Deo verbum, anathema sit. しかし、反対に、エフェゾ公会議において承認されたキリロスの教義書簡には、次のようにある。「もし誰かが、天主が、真理に従ってエンマヌエルであること、そしてこれゆえに、聖なる童貞女が天主の母なること、何故なら彼女は、肉となり給うた天主からの御言葉を肉的にcarnaliter生み給うたからである、と告白しないならば、排斥される。」
IIIª q. 35 a. 4 co. Respondeo dicendum quod, sicut supra dictum est, omne nomen significans in concreto naturam aliquam, potest supponere pro qualibet hypostasi illius naturae. Cum autem unio incarnationis sit facta in hypostasi, sicut supra dictum est, manifestum est quod hoc nomen Deus potest supponere pro hypostasi habente humanam naturam et divinam. Et ideo quidquid convenit divinae naturae et humanae, potest attribui illi personae, sive secundum quod pro ea supponit nomen significans divinam naturam; sive secundum quod pro ea supponit nomen significans humanam naturam. Concipi autem et nasci personae attribuitur et hypostasi secundum naturam illam in qua concipitur et nascitur. Cum igitur in ipso principio conceptionis fuerit humana natura assumpta a divina persona, sicut praedictum est, consequens est quod vere posset dici Deum esse conceptum et natum de virgine. Ex hoc autem dicitur aliqua mulier alicuius mater, quod eum concepit et genuit. Unde consequens est quod beata virgo vere dicatur mater Dei. Solum enim sic negari posset beatam virginem esse matrem Dei, si vel humanitas prius fuisset subiecta conceptioni et nativitati quam homo ille fuisset filius Dei, sicut Photinus posuit, vel humanitas non fuisset assumpta in unitatem personae vel hypostasis verbi Dei, sicut posuit Nestorius. Utrumque autem horum est erroneum. Unde haereticum est negare beatam virginem esse matrem Dei. 答えて、こう言うべきである。上述のように(第十六問第一項)、具体物において或る本性を意味する全ての名詞は、その本性のヒュポスタシスを措定しうる。【ヒュポスタシスは色々な性質の下にあってそれらを受ける受け皿というような意味。例えばこのある馬は茶色で速く走ることができ体重はいくらいくらなど色々な性質を持っているが、それらの性質を持の受け皿となるようなものはこのある馬。ヒュポスタシスはギリシア語。基体とも訳される。】【措定するsupponereとは、ある言葉を特定の意味として使うこと。例えば人間という言葉は、ある具体的な人において共通の本性を意味する。人間という言葉で、どのような具体的な個人をも意味しうる。ソクラテスが人間だとすると「ソクラテスが寝ている」という代わりに「人間が寝ている」と表現することが出来る。ここで「人間」という言葉は、ソクラテスのことを措定している。ハチ公を措定して(ハチ公のことを指して・前提として・意味して)犬と言いつつ「犬が渋谷駅で待っている」と言うことが出来る。】ところで、上述のように(第二問第三項)、托身の合一はヒュポスタシスにおいて為されたので、この「天主」という名詞が、人間本性と天主の本性を有するヒュポスタシスを措定しうる(主語として立ちうる)ことは明らかである。従って、天主の本性或いは人間本性に適合することは何であれ、かのペルソナに帰属されうる。天主の本性を意味する名詞がペルソナに代わって措定されるか、あるいは人間本性を意味する名詞が措定されるか、その両者のやりかたで。ところで、懐胎される、および生まれるということは、それにおいて懐胎されて生まれる本性に従って、ペルソナとヒュポスタシスとに帰属される。従って、前述のように(第三十三問第三項)、懐胎の正に始まりにおいて人間本性が天主的ペルソナによって受容されたので、その結果として天主が懐胎され、童貞女から生まれ給うた、と真に言われうる。ところで、或る女が或る者の母であると言われるのは、その者を懐胎し、生んだからである。従って、その結果として至福な童貞女は真に天主の母と呼ばれる。ただし至福な童貞女が天主の母であることは、次の場合にのみ否定されうる。つまり、フォティヌスが主張したように、もしもかの人間が天主の聖子であったよりもその先に人間本性が懐胎と誕生のもとに在ったとすると、あるいはネストリウスが主張したように、もしも人間本性が天主の御言葉のぺルソナあるいはヒュポスタシスの一性へと受容されなかったならば。しかし、これら両者は誤謬である。従って、至福な童貞女が天主の母であることを否定するのは異端である。
IIIª q. 35 a. 4 ad 1 Ad primum ergo dicendum quod haec fuit obiectio Nestorii. Quae quidem solvitur ex hoc quod, licet non inveniatur expresse in Scriptura dictum quod beata virgo sit mater Dei, invenitur tamen expresse in Scriptura quod Iesus Christus est verus Deus, ut patet I Ioan. ult.; et quod beata virgo est mater Iesu Christi, ut patet Matth. I. Unde sequitur ex necessitate ex verbis Scripturae quod sit mater Dei. Dicitur etiam Rom. IX, quod ex Iudaeis est secundum carnem Christus, qui est super omnia Deus benedictus in saecula. Non autem est ex Iudaeis nisi mediante beata virgine. Unde ille qui est super omnia Deus benedictus in saecula, est vere natus ex beata virgine sicut ex sua matre. (一)については、従って、これはネストリウスの異論であったと言うべきである。これは次のことで解決される。即ち聖書には至福な童貞女は天主の母であると明らかに言われている所は見出せないが、しかし聖書には『ヨハネの第一書簡』最終章[第五章二十節]に明らかなように「イエズス・キリストは真の天主である」と明らかに見いだされ、また『マテオ福音書』第一章[十八節]に明らかなように、至福な童貞女はイエズス・キリストの母であると明らかにある。従って、聖書の言葉から必然的に聖母は天主の母であると帰結する。さらに『ローマ人への書簡』第九章[五節]には「肉に従って(人間として)はキリストもユダヤ人から出た。キリストは万物の上にあって、世々に賛美せられる天主である」と言われている。ところで、イエズスは至福な童貞女を介してでなければ「ユダヤ人から出た」のではない。従って、万物の上にあって、世々に賛美せられる天主であるかの方は、真に至福な童貞女から、御自分の母からとして生まれ給うた。
[48362] IIIª q. 35 a. 4 ad 2 Ad secundum dicendum quod illa est obiectio Nestorii. Sed Cyrillus, in quadam epistola contra Nestorium, eam solvit sic dicens, sicut hominis anima cum proprio corpore nascitur, et tanquam unum reputatur; et si voluerit dicere quispiam quia est genitrix carnis, non tamen et animae genitrix, nimis superflue loquitur, tale aliquid gestum percipimus in generatione Christi. Natum est enim ex Dei patris substantia Dei verbum, quia vero carnem assumpsit, necesse est confiteri quia natum est secundum carnem ex muliere. Dicendum est ergo quod beata virgo dicitur mater Dei, non quia sit mater divinitatis, sed quia personae habentis divinitatem et humanitatem est mater secundum humanitatem. (二)については、これはネストリウスの異論であると言うべきである。キリロスはネストリウスを論駁した或る書簡において、次のように言ってそれを解決した。「人間の霊魂は[それに]固有の体と共に生まれ、一つであると見なされる。もし誰かが、[母親は]肉体の母であって霊魂の母ではないと言おうとしたなら、あまりにも言い過ぎである。何かこのようなことがキリストの出生になされているのを私たちは見ている。実に天主の御言葉は聖父なる天主の実体から生まれ給うた。しかし肉を受容し給うたので、肉に従っては女から生まれ給うたと告白する必要がある。」従って至福な童貞女は天主の母と呼ばれるが、それは天主の本性の母であるからではなく、天主本性と人間本性とを有するペルソナの、人間本性に従っての母であるからである、と言わなければならない。
IIIª q. 35 a. 4 ad 3 Ad tertium dicendum quod hoc nomen Deus, quamvis sit commune tribus personis, tamen quandoque supponit pro sola persona patris, quandoque pro sola persona filii vel spiritus sancti, ut supra habitum est. Et ita, cum dicitur, beata virgo est mater Dei hoc nomen Deus supponit pro sola persona filii incarnata. (三)についてはこう言うべきである。「天主」という名称は三つのペルソナに共通であるが、上述のように(第十六問第一項、第一部第三十九問第四項)、時には聖父のペルソナのみを、時としては聖子あるいは聖霊のペルソナのみを措定する【例えば聖父ということを意味して「天主」という言葉が使われる】。従って、「至福な童貞女は天主の母である」と言われるとき、「天主」という名称は天主聖子の托身したペルソナのみを措定する。





聖ピオ十世会 聖伝のミサ報告:SSPX Japan Traditional Latin Mass

2019年12月31日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恵みに溢れた2019年もあと数時間となりました。いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

先日の主日にはフォルティン神父様が日本の東京と大阪で聖伝のミサを捧げて下さいました。深く感謝いたします。

本年も愛する兄弟姉妹の皆様から多くの祈りとご支援を頂きました。心から感謝いたします。イエズスの至聖なる聖心から多くの祝福がありますように!

ところでフォルティン神父様が校長をしている学校のためのクリスマス募金ですが、大阪では58,010円、東京からは56,000円、計114,010円が集まりました。愛する兄弟姉妹の皆様の温かいご支援を感謝しております。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
大阪でのクリスマスの第二献金、マニラのOLVCのための献金は58010円でした。フォルティン神父様にお渡しします

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日もピーター・フォルティン神父が大阪から往復して、御降誕の八日間内の主日のミサをあげてくださいました。

今日の御説教では、天主であるキリストが人間の本性をおとりになり、ご自分の玉座を離れまぐさ桶にいらっしゃったという神秘について、特にキリストの謙遜と、人が高められたという二点についてお話しいただきました。

まず、キリストのこの地上での御生涯はみずからがいけにえとなるためであり、そしてその頂点は十字架上でご自分の命を捧げされた時であって、そのただ一つの目的のために私たちの主はご自分を低められたということです。

第二の点については、私たちが天主の子供と呼ばれるよう、天主が私たちの主を地上に送ってくださったということ、そして、聖パウロが書いているように、キリストの御誕生によって私たちはもう奴隷ではなく、天の御父の養子となったということです。

ですから私たちも天主の子となれたことをよく知り、私たちの主イエズス・キリストのように天主に忠実と愛徳とをお捧げするように務めなくてはならないこと、を教えていただきました。

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

男: 22人(内、子供4人)
女: 25人(内、子供5人)
計: 47人(内、子供9人)

なお、12月25日のマニラの学校への第2献金については、東京の献金から403円を加えて、56,000円を今日フォルティン神父にお渡ししました。

【報告】
Ave Maria Immaculata!

12月29日、今年最後の「御降誕の大祝日の八日間中の主日」の御ミサをありがとうございます。

「今日は沈黙を守って黙想するべき時…」というお説教の初めの言葉によって天主が人となられたことを黙想していくうちに、心の深いところに光が差し込みはじめたようでした。

私は、永遠や無限や美や限りないすべての良きものが、いったいどうやって幼子として人間の姿をとることが出来たのだろうという、神秘のなかに引き込まれ、ひそかに想いを上に挙げることができるようになりました。ミサの後も、そのあとに身を置かねばならない巷の年末の騒々しさの中でも、そのことを思い出して心のなかに飼い葉桶の中に置かれたイエズス様の御姿が置かれているのを探しています。

人間の想いや推理や理性とか知性とかではとらえることのできない深遠な真理が確かにあることが、幼子の姿をとられた天主の慎み深い愛によって私にもとらえることが出来るようになったように思います。

そして救い主イエズス様が来られたのは、そういった神秘的なことを教えるためだけではなく、もっともっと素晴らしい想像もつかないようなことを私たちのためになさってくださるためであることも、わかりました。
そのことをもっとしっかりと本当に理解できたなら、私もきっと周りの人にこの素晴らしいできごと・喜ばしいできごとを伝えなければと思うに違いないでしょう。

その、シメオンが預言した“その母に「剣で心が差し貫かれる」ほどの残酷な痛み・苦しみがもたらされるような出来事が起こる”ことが、“人間にとっては喜びの出来事になる”とはどういうことかを、静かに黙想しようと思います。

イエズス様が無償でくださったそのはかり知れない大きな愛は、その愛を本当に受け入れて愛に対して愛をもってお答えしたいと決意する時、こちらからもある種の小さな痛みをお捧げするようになるものかもしれません。そのときこそ、眠りこんでいた自分を取り囲む我儘な殻が破られて、本当の真実の世界への扉が開かれて、この弱くみすぼらしいものである私であっても、天に住まわれる聖なる家族が待ち受けてくださっていることに気づかされるように思います。

厩の飼い葉桶の中に置かれているキリストのすがたを眺めながら、イエズス様がどれほど柔和で謙遜であられるかを黙想しようと思います。天主様が人間に与えてくださった愛の贈り物に感謝申し上げます。もう一度与えてくださった超自然の命をありがとうございます。

こころのうちにて深く潜って礼拝しながら、天主の本性をお持ちでありながら人間の本性をもおとりになられたイエズス様を沈黙のうちに礼拝しながら御降誕節をすごしたいと思います。

大切な休暇を日本で過ごしてくださいましたフォルティン神父様、クリスマスのミサ、御降誕のミサをありがとうございました。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
主の御降誕おめでとうございます!

フォルティン神父様は、休暇中だったにもかかわらず、何度も大阪から東京まで往復してくださって、待降節と御降誕の御ミサをお捧げくださいました。
今回は友人の通訳を介してですが、フォルティン神父様とお話させていただく機会がありました。フォルティン神父様は、アメリカのヴァージニア州のご出身、9人の兄弟姉妹の真ん中で、生まれた時からこのトリエント・ミサで養われるカトリック信仰をいただくご家庭で成長され、ミッション・スクールでの伝統的なカトリック教育を受けられたという事を教えていただきました。ずっと39年間のこの地上での生活が聖伝のミサとともにあるということを知りました。なんと素晴らしいお恵みをいただいているのでしょう!きっと幼い時から世界創造の意味や人生の意義やあらゆる疑問に出会うたびに、いつもイエズス様からの答えがあたえられ、まっすぐに御父のみ旨を行うようにみちびかれていらっしゃられたのでしょう。私のように人生の大半をその答えを探す旅をするのに費やさねばならなかったような者とは全く異なる、最初から聖なるものに接していた人生でいらっしゃるのだと思いました。フォルティン神父様はそのような恵まれた環境の中で、イエズス様と聖母に身を捧げられる聖ピオ十世会の司祭の召命を受けられた方なのですね。フォルティン神父様はマニラ(アジア管区)で働いてくださっていますが、お兄様の一人もまた聖ピオ十世会の司祭でいらっしゃってアフリカの地で働かれていらっしゃるとのお話にも感激いたしました。

ご家族のお話を聞きながら、フォルティン神父様の中にはご自身の体験として、子供の時からカトリック信仰に触れて育つことの大切さが身に浸みていらっしゃるに違いないと感じさせられました。神父様はマニラのミッション・スクールの小学校の校長先生でいらっしゃるので、おもわず日本にもそのような学校を作ってくださいとお願いしてしまいました。

今回はフォルティン神父様のことを少し知ることが出来てうれしかったです。クリスマス休暇中日本に来てくださりごミサを捧げてくださいまして、本当にありがとうございます。

【報告】
天主が、私たち罪人を御受難によって贖うために、人間の赤子となって生まれ給うた。全被造物は永遠に声を上げて主を讃美し、感謝し、礼拝せよ!という聖霊の息吹を強く感じます。

個人的に、クリスマスの聖歌の中で、「あおげや仰げ」の3番の歌詞が、天主様の愛をあまりにも端的に言い表していて、いつも歌いながら感動します。

とこしえの生命 ほろびの子等に 
与えてその身は 死にますみかみ


洗礼式の解説

2019年12月31日 | カトリックとは
ゴフィネ神父の「教会暦年」による洗礼式の解説


洗礼式
洗礼とは、水と天主のみ言葉によって、私たちがすべての罪から洗われて、永遠のいのちのためにキリストにおいて再生され、聖化される秘蹟です。

洗礼には、どのような儀式がありますか? それは次の三つです。

1.準備の儀式
2.洗礼式自体
3.締めくくりの諸儀式


教えの第一段階、すなわち聞き取りの段階に、教会の扉の前で行われる準備の儀式は、以下の通りです。

1.洗礼志願者は、洗礼を受けなければ教会に属することはできませんから、教会の外にいます。
2.洗礼志願者には、聖人の名が与えられます。それは、その聖人を天主の御前で代願者とすることができるように、またその聖人の生き方を模範とすることができるようにするためです。
3.洗礼志願者は、洗礼と、洗礼を通して永遠のいのちを望んでいるかどうかを尋ねられます。
4.司祭は、「汝、不浄な霊よ、この者から離れよ、慰め主なる聖霊に道を開けよ」(ヨハネ20章22節)と言いながら、洗礼志願者に三回息を吹きかけます。
5.司祭は、洗礼志願者が十字架に付けられた救い主のものになり、救い主の教えを心で大切にし、公に宣言するしるしとして、洗礼志願者の額と胸に十字架のしるしをします。
6.司祭は、「知恵の塩を受けよ。汝にとって永遠のいのちへ至るための償いとなるであろう」と言いながら、祝別された塩を洗礼志願者の口につけます。塩はキリストの知恵と、罪の汚れからの保護の象徴です。
7.祓魔式を繰り返すことによって、「死の力を持つ」(ヘブライ2章14節)サタンの力は、三位一体の天主の御名によって、打ち破られます。
8.再び、司祭は、「非難されるべき霊よ、われらがこの者の額にしるすこの十字架のしるしを汚すな」と言いながら、洗礼を受ける人の額に十字架のしるしをします。
9.司祭が、 両手で按手をするのは天主の御保護の象徴であって、また洗礼志願者にストラを置きながら教会内に導くのは、司祭が教会の力によって洗礼志願者を囲いの中に受け入れることの象徴です。


第二の段階の儀式、すなわち、嘆願者のための儀式は、教会の中で行われます。それは、

1.洗礼は信仰の秘蹟ですから、教会の中に入りながら、使徒信経と主祷文が唱えられます。
2.司祭は、イエズスの模範(マルコ7章33節)に倣って、「エフェタ」すなわち「開かれよ」と言いながら、洗礼を受ける人の両耳と鼻につばをつけて触れます。これは、洗礼の恩寵を通して人間の霊的な感覚が天の真理の教えを受け入れるように開かれることを意味しています。
3.洗礼を受ける人は、サタンとそのわざ、その栄華を捨てなければなりません。なぜなら、これを捨てなければ、誰もキリストに従うことができないからです。サタンとそのわざという言葉は罪を意味し、その栄華という言葉はサタンが人間の目をくらませ、人間を罪に導くこの世の精神と虚栄を意味しています(マテオ4章8、9節)。ここで、使徒信経を唱えることによる信仰宣言が続きます。
4.次に来るのは、聖霊志願者の両肩と胸に聖油を塗ることです。なぜなら、たった今から、この新たに洗礼を受けた人は、この世および悪魔との戦いにおけるキリストの兵士とならねばならないからです。


実際の洗礼はどのようにして行われますか?

洗礼を授ける人は、洗礼を受ける人の頭の上に水を注ぎ、同時に次の言葉を唱えます。
「私はあなたに、聖父(ちち)と、聖子(こ)と、聖霊との御名によりて、洗礼を授けます」


洗礼に続く儀式はどんなものですか?

1.頭に聖香油を塗油することです。なぜなら、洗礼を受けた人は今やキリスト信者、天主の油を受けた人の一人であるからです。
2.白い衣の授与
3.火のついたろうそく
4.祝福で閉式



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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