Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

アルマ・レデンプトーリス・マーテル Alma Redemptoris Mater(贖い主を養う母よ)の日本語訳をご紹介します

2019年12月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

アルマ・レデンプトーリス・マーテル Alma Redemptoris Mater(贖い主を養う母よ)の日本語訳をご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Alma Redemptoris Mater, quae pervia caeli
Porta manes, et stella maris, sucurre cadenti,
Surgere qui curat populo: tu quae genuisti,
Natura mirante, tuum sanctum Genitorem,
Virgo prius ac posterius, Gabrielis ab ore
Sumens illud Ave, peccatorum miserere.

日本語の直訳

贖い主を養う母よ、天への[通って入る]門、
そして海の星[として御身は留まり給う]、
倒れる民が起き上がろうとするのを助け給え。
御身は、大自然が驚く中、御身の聖なる創造主をお産みになった、
産前も産後も童貞女よ、[大天使聖]ガブリエルの口から、
かの"めでたし(Ave)"[の祝詞]を受けつつ、罪人たちを憐れみ給え。

韻を踏んだ凝った英語訳(ラテン語の直訳ではありません)

MOTHER of Christ, hear thou thy people's cry
Star of the deep and Portal of the sky!
Mother of Him who thee made from nothing made.
Sinking we strive and call to thee for aid:
Oh, by what joy which Gabriel brought to thee,
Thou Virgin first and last, let us thy mercy see.



Photo Credit

教皇ピオ十二世の回勅『フマニ・ジェネリス』進化論および、その他の現代的誤謬について1950年8月12日

2019年12月02日 | カトリックとは
『フマニ・ジェネリス』
進化論および、その他の現代的誤謬について
1950年8月12日
訳者 聖ピオ十世司祭兄弟会

PIUS PP. XII
LITTERAE ENCYCLICAE
HUMANI GENERIS


教皇ピオ十二世は尊敬する兄弟の皆さんに
挨拶と使徒的祝福をおくります。  

導入 

教会外で宣伝される誤謬とそれらのカトリックに対する悪影響

【1】教会の外には何故常に誤謬があるのか

1.人類の [Humani generis] 間に見られる道徳的および宗教的なことがらについての見解の不一致と誤謬は、善意の人々皆の、とりわけ教会の真に忠実な子らにとっての、常に深い悲しみの基となってきました。これは、キリスト教文化があらゆる方向から攻撃されている今日にあっては特にそうです。

2.このような不一致と誤謬がキリストの群れの外に、いつも存在していたということは驚くに足りません。なぜなら、確かに人間の理性を端的に考えると、理性は自ら自身の力と光で「御摂理により世界を見守り統治する一なる人格的な天主の存在」ならびに「創造主が私たち人間の心に書き込まれた自然法」についての真正で確実な認識に到達しえるのですが、少なからぬ障害が存在するために、理性はその自然的能力を実効的かつ実りを生むかたちで用いるのを妨げられるからです。天主に関する真理ならびに天主と人間らとの関係に関する真理は、完全に感覚的な次元を凌駕しており、それが実践に移され、実際の生活に影響をもたらすためには、人間の側の自己放棄と自己否定が求められます。さて、そのような諸真理の獲得に際し、人間の知性は感覚と想像力の働き、および原罪に由来する諸々の悪い情念によって妨げられます。そのために、人々はこの種のことがらに関して、自分が信じたくないことが偽りだとか、あるいは少なくとも疑わしいと自分に思い込ませるのです。

3.このためにこそ、天主による啓示が事実上必要であると考えなければならないのです。それは、それ自体としては現今の状態にある人類の理性の[能力の]及び得る道徳および宗教上の諸々の真理が、このような啓示があって始めて全ての人によって容易に、しかもしっかりとした確実性をもって、あらゆる誤謬から免れたかたちで知られ得るからです。(第1ヴァチカン公会議D.B.,1876,「カトリック信仰について」の憲章 第2章「啓示について」)

4.さらに、天主がお与えになった数多くの驚嘆すべき外的しるしは、理性の自然的な光のみにより、確実性を伴ってキリスト教の天主的起源を証明するに十分なものです。しかし、それにも関わらず、時として人間の知性は、カトリック信仰が信ずるに値するものであるか否かについての判断を成すにあたって、困難を経験します。と言うのも、人間は、偏見か情念か、あるいは心の不誠実さから、手もとにある種々の外的なしるしの証拠が自明であることのみならず、助力の聖寵の勧めを拒絶し抵抗することができるからです。

【2】現代のいろいろな誤謬

5.もし誰であれ、キリストの群れの外にある状況を調べてみるならば、学のある人々がしばしば追従している主だった思潮を容易に見出すことができるでしょう。ある人々は、自然科学の分野でさえいまだ十分に立証されていない進化論が、全てのものの起源を説明すると考え、世界が継続的進化の状態にあるという一元論的かつ汎神論的な見解を支持しています。共産主義者は諸手を挙げてこれに賛同しますが、それは、自分たちの弁証法的唯物論を、より効果的に弁護し、喧伝することができると考えているからです。こうして人々の心から人格的な天主という観念がことごとく失われてしまうのです。

6.人間の経験に絶対的で確実また不変なるものをことごとく否認する進化論の、このような虚構の教条は、観念論、内在主義、プラグマティズムといった誤謬と肩を並べる、新しい誤った哲学に道を開きました。この哲学は実存主義と呼ばれることとなりましたが、それは、この哲学がただ個々の実在だけに着目し、それらの事物が有する不変の本質にはまったく顧みることがないからです。

7.そこにはまた、ある種の歴史的手法も垣間見られます。これは人間の生活の出来事のみに価値を置き、哲学の問題を取り扱うときであろうと、またさらに、キリスト教の教義を取り扱うときであると、絶対的な真理や絶対的な法を覆してしまうものです。

8.この思想的混乱の最中にあって、理性主義を信奉していた者たちが今日、天主によって啓示された真理の源泉に立ち戻り、聖書に含まれている天主のみ言葉を、宗教教育の基盤として認め、公言している事実に、私は幾分の慰めを見出します。しかし、それと同時に、遺憾に感ぜずにはいられないことがあります。すなわち、これらの人々の一部が、天主のみ言葉をしっかりと心に受け入れれば受け入れるほど、それだけ一層、人間の理性の価値を軽んじ、啓示を与える(者としての)天主の権威を賞揚し、神的啓示を保管し、解釈すべく、私たちの主キリストによって制定された、教会の教導権をはねつけているという事実です。このような態度は聖書[の内容]に明らかにもとるだけでなく、経験によっても誤りであることが分かります。なぜなら、真の教会に賛同しない人々は、往々にして教義的なことがらでの[相互の]見解の不一致をあからさまに認めており、こうしてはからずも、生きた教える権威の必要性をあかし立てているからです。

【3】現代のいろいろな誤謬のカトリック信者に及ぼす悪影響

9.さて、自然的および超自然的真理を守り、人々の心に注ぎいれることをその重大な任務とするカトリックの神学者ならびに哲学者は、これらの多かれ少なかれ誤った諸見解を知らずにいること、あるいは無視することはゆるされません。むしろ、彼らはこれらの理論をよく理解するようにしなければなりません。なぜなら、病気というものは正しく診断されなければ適切に治療されないからであり、また、時としてこれら誤った理論の中にも幾分の真理が含まれているからであり、さらに、これらの理論は、哲学的ならびに神学的真理のより精緻な議論および評価を要するからです。

10.もし哲学者ならびに神学者が、これらの教説の丹念な検証から上に述べた利益のみをもたらすために尽力するならば、教会の教導権が介入する理由は何一つとしてありません。カトリックの教師は大方これらの誤謬を避けていることを私は承知していますが、しかし今日、一部の者が使徒の時代にそうであったのと同様に新奇なことがらを切望し、また近年の科学上の発見に通じていないと思われることを恐れて、[教会の]聖なる教導権から身を引き離そうとしているということは明らかです。こうして彼らは徐々に啓示された真理から離れ、そして他の者らをも自分たちと共に誤謬へと引きずり込んでしまう危険を有しているのです。

11.また、もう一つ別の危険が見受けられます。それは良い意向の外見の下に隠されているだけに、それだけ一層深刻な危険となっています。この世界中に広まる不一致と誤解とを嘆きつつ、霊魂らのための賢慮を欠いた熱心によって道を逸れてしまった人々が数多くあります。彼らは善意の人々を互いに分け隔てている障壁をうち倒そうという衝動、いえ燃えるような望みを持っています。こういった人たちは、一種の「平和主義」を標榜しています。この主義に則って、彼らは人々を分裂させてしまう問題をわきに置き、ただ無神論の攻勢を迎え撃つために力を合わせるだけでなく、教義の領域で互いに対立している事柄を妥協させることを目指すのです。そして教会の伝統的な護教の体系が霊魂たちをキリストのために勝ち取るための助けになるよりもむしろ邪魔になるのではないかと疑う人が今でもいます。これらの現代人たちと共に彼らは更に遠くに行くのです。そして彼らは私たちの神学とその全ての手法に関して大きな疑問を投げかけ、教会当局の励ましさえ受けて私たちの様々な学校で好意を受けているのです。これらの更なる発展を求める要求はまだありませんが、しかし彼らの言う全体的な改革を求める声が挙がっています。この改革こそが、キリストの王国をいかなる文化を持つ人々であれ、いかなる宗教に関する意見を持つ人々であれ、彼らの間に世界中に広げるために持っても効果があると私たちは聞かされています。

12.さて、もしこういった人々が目しているのが、ただ教会の教えならびにやり方とを、何か新しい説明を用いることによって現代の状況に適合させることだったとすれば、警戒を促す理由はほとんどないでしょう。しかし、一部の人は不賢明な「平和主義」への熱意のために、キリストによって与えられた諸々の法と原則、ならびに同じそのキリストによって打ち立てられた諸制度に基く事柄が、あるいは信仰の十全さを守り、支える事柄が兄弟的一致の妨げになると見なすのです。しかし実際は、これらのものを取り去ってしまうことは万人を一致させはしても、その一致は皆を破滅へと導くものに他なりません。

13.新奇なことがらへの非難に値する望みから生じてきたものであろうと、あるいは賞賛に値する動機から生まれたものであろうと、これらの新しい考え方は、常に同じ程度に、等しい明晰さで、同じ言葉づかいで、また常にその想起者の完全に一致した同意をもって提唱されているわけではありません。今日ある人々によって密かにしかも慎重な注意と区別とを用いて提起される理論は、明日にはもっと大胆な他の人々によって堂々と、何の節度もなく喧伝され、多くの人、特に若い司祭の間につまずきをもたらし、また教会の権威を傷つけています。ふつう彼らは、出版される著作については慎重になるのですが、私的に[仲間内で]回される著作および講演・講義においては、より開けっぴろげに自分の考えを表します。さらに悪いことにはこういった教説が伝播されるのは司祭階級に属する者たちの間、ないしは神学校や修道院の中だけでなく、一般信徒とりわけ青少年の教育に携わる者たちの間でも広められているのです。

第1部

神学における新しい危険な傾向

【1】教義相対主義の危険

14.神学において一部の人は、教義の意味を最小限に縮め、そして教義自体を教会において長きにわたって定着してきた用語、ならびにカトリックの教師たちによって保持されてきた哲学的概念から解き放つことを欲しています。これはカトリックの教理の説明にあたって、聖書や教父の著作で用いられている言葉遣いに戻ることをよしとするからです。彼らの望みは、天主の啓示に非本質的と彼らが考える要素が教義から取り除かれれば、教会の一致から離れている人々の教義的信念とよりよく対応するものとなるだろうということです。このようにして、彼らはカトリックの教義とカトリック教会と一致していない者たちの信条とを徐々に、互いに近付け、同化することを目しているのです。

15.さらに、彼らはカトリックの教理がこのような条件の下に置かれたならば、現代的必要を満たす方法が見つかると主張しています。つまり、このようにして、教義が内在主義であれ、観念主義であれ、実存主義、あるいはその他どのような体系のものであれ、現代哲学の概念によって表すことができるようになると言うのです。そして、さらに大胆な者たちは、このことが成し得るばかりではなく、成さねばならないと断定します。なぜなら彼らの主張によると、信仰の諸々の神秘は決して真に十全な概念によって表現されることができず、ただ近似的かつ常に可変的な観念によってのみ表され得るのであり、その場合、真理はある程度まで表現されるものの、必然的に歪められてしまうからです。したがって、神学が新しい概念を古い概念に取って代えてしまうことを彼らは浅はかであるどころか必要なことと見なすのです。

16.以上述べてきたことによって、このような試みは、教義相対主義と呼ばれるものへと導くだけでなく、実際にそれをすでに含んでいるということは明らかです。共通に教えられている教義および、それらを表現する用語に対する軽視は、この思潮を大いに助長します。学校で使われて続けてきた、あるいは教会の教導権によってどれほど長い間用いられる続けてきたものであれ、或る観念を意味する術語がより一層洗練され、完全にされる余地がありうるということは周知の事実です。また、教会自体も同じ用語を常に同じ意味で使ってきたわけではないということも明らかです。また、教会がごくわずかの間だけ存在したような哲学体系のことごとくに縛られるのではないということも明白です。しかしながら、教義について何らかの理解をもたらすべくカトリックの教師たちによる幾世紀にわたる共通の努力によって構築されてきた諸々の事柄は、そのような脆弱な土台に基いているのではありません。これらは被造物についての真の認識から演繹された諸々の原理と概念に立脚しています。演繹の過程において、この認識は星のように、教会を通して人間の知性を照らします。したがって、これらの概念のいくらかが複数の公会議によってただ用いられるだけでなく、裁可されてきたことは驚くに値せず、また、それらから逸れることは誤りです。

17.それゆえ、並外れた才能と聖性とに恵まれた者たちによってなされた古来からの働きは聖なる教導職の注意深い監督の下に営まれ、さらに信仰の諸真理を一層正確に述べるために聖霊の光と導きとを得て為されたのですが、この働きを通して考え出され、表現され、完成されたかくも多くの、かくも大いなる神学的な概念をなおざりにしたり、拒絶したり、あるいはその価値を軽んじること、そしてこれらのものを推測的な概念や、新しい哲学の何か形の定まらず不確定な教条、つまり、野の花のように今日はあっても明日は萎え果ててしまう諸々の教条によって取って代えてしまうこと、これこそ不賢明の極みであり、教義自体を風に揺らぐ葦のようなものと化しまうことです。スコラ派の神学者によっていつも用いられてきた用語や概念に対する軽視は自ずと、いわゆる思弁的神学の脆弱化を招いてしまうこととなります。これらの現代の思想家らは、スコラ神学が神学的な推論に基いているために真の確実性に欠けると見なしているのです!

【2】教導の権威に対する誤った考え

18.残念なことに、新奇な教説を提唱するこれらの人々は、スコラ神学に対する蔑視から、スコラ神学にたいへん権威のある承認を与えている教会の教導権自体の軽視ならびに軽蔑へと容易に進んでしまいます。この教導権は、当の人々によって、進歩の妨げおよび科学の道のりの障害物と見なされています。一部の非カトリック者は、教導権を他のより有能な神学者たちが神学を刷新するのを不正に阻むものと見なしています。また、信仰と道徳に関する事柄における教師としてのこの神聖な職務は、全ての神学者にとって真理の最も手近で普遍的な基準となるべきものです。なぜなら、この教導権には、主キリストから信仰の遺産の全体(すなわち聖書と聖伝)が保存され、守られ、解釈されるべく託されているからです。しかし「多かれ少なかれ異端に近づいている教説を避け」それゆえ「かかる邪悪な諸見解が聖座によって排斥され禁止されているところの諸々の教令ないし勅令をも守る」という信徒に課せられた義務は時としてほとんど知られておらず、まるで存在していないかのようにされています。教会の本性ならびに組織に関して諸教皇の回勅中で敷衍されている事柄が、古代教父の、とりわけギリシャ教父の[思想の]中に見出されると主張される、特定のあいまいな概念に力を与えようとする者たちによって故意に、かつ常態的に無視されています。彼らは、諸教皇は神学者の間で議論の対象となっている事柄について判断を下すことを望んでおらず、したがって[そういった事柄に関しては]古代の典拠に頼る必要があり、教える教会が出す近年の教令や勅令は、古代の著作からして説明されねばならない、と言うのです。

19.こうしたことは、一見当を得ているように見えますが、実際は誤っていると言わざるを得ません。諸教皇がふつうこの領域神学者たちに、この分野における際立った権威を有する者たちによって様々に論じられている事柄については、その自由に任せるということは[確かに]事実です。しかし、歴史の教えるところに従えば、以前は自由に討論され得た事柄の多くが、もはや議論の対象たり得ないということも、また事実です。

20.また、回勅を執筆する際に教皇は自らが有する最高の教権を行使するわけではないことを理由に「回勅において論じられている事柄がそれ自体として同意を要求するものではない」とも考えられるべきではありません。なぜなら、こういった事柄は通常の教導権によって教えられるからであり、これに関しては、「あなたたちを聞く者は私を聞くのである」(ルカ10章16節)と言う言葉が当てはまります。しかし、もし教皇たちがその時まで討議されていた問題について公式の文書の中で意図的に判断を下すならば、かかる事柄はその同じ教皇らの知性と意志とに従って、もはやこれ以上、神学者の間で自由に論議されうる問題と見なされ得なくなるのです。

21.神学者たちが常に神的啓示の源泉へと立ち戻らねばならないということもまた事実です。なぜなら、生ける教導権の教えるところが、どのようなかたちであるいは明示的に、あるいは暗示的に聖書ないし聖伝の中に見出され得るか(ルカ10章16節)を指摘することが神学者に固有な職務だからです。また、神的に啓示された教理の2つの源泉もきわめて多くの豊かな真理の宝を含んでおり、決して汲み尽すことはできません。そのため、神学は自らの神聖な源泉の研究を通して、いつまでも新しいものなのです。他方、信仰の遺産へのより深い探求をないがしろにした思索は経験から知られるとおり、不毛なものに終わります。しかし、このゆえに実証神学が単に歴史的な科学と等しい価値しか有しないというわけではありません。なぜなら、天主はご自分の教会に、実証神学の源泉と共に、信仰の遺産の内にただ不明瞭かつ暗示的に含まれている事柄を浮き彫りにし、説明するための生きた教導権をお与えになったからです。私たちの天主なる贖い主は、真正な解釈をほどこされるべき、この信仰の遺産を個々の信者にではなく、また神学者にでもなく、ただ教会の教導権にのみ[真正な解釈をほどこすべく]お与えになったのです。しかるに、もし教会が幾多の世紀にわたって度々そうしてきたように、この教える職務を通常の仕方で、あるいは特別な仕方で行使するのであれば、不明瞭な事柄を通して判然とした事柄を説明しようとする手順が、いかに誤ったものであるかは明らかです。実際のところは、まさにこの逆の手順が用いられなければならないのです。それゆえに、いつまでも記憶に残る先任者ピオ九世は、神学の最も高貴な職務は教会によって定義された教理が、啓示の2つの源泉の中にどのように含まれているかを示すことであると教えられた際、至当にも「教会によって定義されてきた当の意味に即して」という言葉を言い加えられました。

【3】聖書の解釈に関する誤謬

22.しかし、先に述べた種々の新奇な教説に話を戻せば、聖書が神感を得て書かれたものであることに矛盾対立することが多々、一部の人々により提唱されあるいは仄めかされています。実際、ある人たちは天主が聖書の著作者であるというヴァチカン公会議の定義の意味をねじ曲げ、すでに再三排斥されている見解、すなわち聖書が誤りから免れているのは、天主ならびに道徳と信仰について述べている箇所に限られるという見解を主張するにいたっています。彼らはまた、聖書の人間的意味なるものを標榜し、この意味の下に神的な意味が隠れており、後者のみが唯一、誤りのない意味なのだとしています。聖書を解釈するに当たって彼らは、信仰と教会の聖伝との間にある類比対応を、まったく考慮に入れようとしません。それゆえ、彼らは、私たちの主キリストが、神的に啓示された真理の遺産全体の守護者かつ解釈者として定められた教会の精神に従って聖書を解き明かす代わりに、教父ならびに教える教会の教え[教理]を、釈義学者の単なる人間的な理性によって解釈されたかぎりでの聖書を規範によって判断するのです。

23.さらに、かかる偽りの教説によると、教会の監督の下に、かくも多くの偉大な解釈学者によって入念に為されてきた聖書の字義どおりの意味およびその解説は、今や彼らが好んで象徴的ないし霊的と呼ぶところの新しい釈義方法に場を譲るべきである、と言うのです。この新たな解釈方法に従ってはじめて今日、カトリック教会においては封印された書であった旧約聖書がとうとう全ての信徒に読まれるよう封印を解かれる、などと言うのです。彼らの言うには、この方法により、[解釈に当たっての]あらゆる困難な点は解消するのであり、ただ聖書の字義どおりの意味に固執する者にとってのみそういった点が問題となるのです。

24.思い出深い先任教皇たち、すなわちレオ十三世が回勅『プロヴィデンティッスィムス』で、ベネディクト十五世が回勅『スピリトゥス・パラクリトゥス』で、また私自身が回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』で正しく定めた諸原則ならびに規範にどれほど相容れないものであるかは、誰の目にも明らかです。

【4】いろいろな神学上の誤り

25.この種の新奇な教説が神学のほとんどの分野で、その致命的な毒を含んだ実を生じていることは、驚くに値しません。人間の理性が神的啓示および神的恩寵の助けなしに、創造された世界から導き出された論拠によって人格的な天主の存在を証明することができるという事実が、今や疑われています。また、世界が始原をもっていることが否定されています。そして、世界の創造は、天主の愛が拒むことの出来ない寛大さから生じたことであるから、必然的な出来事であったと主張されています。さらに、天主が人々の自由な行為についての永遠かつ誤ることのない知識を有していることが否定されています。[しかし]これらのこと全ては、ヴァチカン公会議の教令に相反するものです。(ヴァチカン公会議『カトリック信仰に関する憲章』第1章、万物の創造主である天主について参照)

26.また、ある人々は天使が人格的な存在であること、また物質と霊魂が本質的に異なるものであることに疑念を抱いています。また別の人たちは、天主が至福直感へと秩序付け招くことなしに知的存在者を創造することは不可能であるとして、超自然的秩序の無償性を否定しています。そして、これが全てのではありません。ある者たちは、トリエント公会議を無視し、天主に対する侮辱という罪一般の概念と共に、原罪の概念自体を、また私たちのためにキリストによって成された贖罪の観念を歪曲しているのです。ある者たちは、全実体変化の教義は実体という時代遅れの哲学的概念に基づくものであり、[したがって]聖体におけるキリストの現存は一種のシンボリズムに減じられ、聖変化された形色はキリストの霊的な現存および神秘体の忠実な成員との親密な一致の効果的なしるしに過ぎないものとされるべきだとしています。

27.私は数年前、回勅で、啓示の両源泉に基き、キリストの神秘体とローマ・カトリック教会が同一のものであるという教えを確認しましたが、ある人はその教えに縛られる必要はないと公言しています。ある者たちは、永遠の救いを得るために真の教会に属することが必要であるという教義を、[実質的な]意味のない決り文句に過ぎないものとしています。他の者たちはキリスト教信仰の可信性の理性に適合した性格を過小に評価しています。

28.これらおよびそれに類した誤謬は確かに、私の子らの特定の者の間に入り込み、そして、それらの者たちは人々の霊魂に対する賢明さを欠いた熱意、あるいは誤った学問のために欺かれてしまいました。これらの者たちに対して、私は嘆きつつ、すでによく知られた諸々の真理に立ち返るよう再度呼びかけ、また熱心な配慮をもって明らかな誤謬および誤謬のおそれとを指摘せずにはおけません。  

第2部

哲学の領域に関して

【1】自然理性と哲学の基礎原理

29.教会がどれほど高く人間の理性を評価するかはよく知られたことです。人格を有し唯一の天主の存在を確実に証明すること、キリスト教信仰それ自体がよって立つ基礎的な事実を天主から与えられた証拠によって議論の余地もなく証明すること、創造主が人々の心に刻み込んだ法を正しく表現すること、そして最後に、これは非常に実り豊かな理解に到達することなのですが、諸々の玄義について私たちが理解すること、これらは理性に課せられているからです。しかし、理性がこれらの機能を安全に良く果たすことができるのは、正しい原理に関して適正に練成されたときにのみ、すなわちキリスト教以前から代々伝えられて来た、いわば共通の遺産であるかの健全な哲学によって教化されているときに限られます。実際この哲学はより高い次元の権威をも有しています。それは、秀でた才知をもった者たちにより徐々に洗練され定義付けられてきたその根本的な教条の価値を、教会の教導権が神的啓示自体に照らし合わせて、重んじてきたからです。なぜなら、教会によって認められ、受容れられてきたこの哲学は人間の認識の真正な有効性、充足律、因果律、[事物の]目的因性といった揺るぐことのない形而上学的原理、および精神のもつ確実不変の真理に到達する能力を擁護するものだからです。

30.もちろん、この哲学は直接的にも間接的にも信仰あるいは道徳に関係せず、したがって教会が専門家の自由な議論に委ねる多くの事柄を取り扱っています。しかし、このことは他の多くの事柄、とりわけ私がたった今言及したところの諸原理ならびに根本的教条については当てはまりません。こういった根本的な問題についても、私たちの哲学をより便宜に適い、より豊かな衣を着せること、より効果的な言葉づかいによってさらに力強いものとすること、また、あまり有用でないと思われる特定のスコラ的な補助物を取りはらうこと、人間知性の発展の実りによって豊かなものとすることが私たちに許されています。しかし、私たちは決してこの哲学を覆したり、または誤った原理によって汚染したり、あるいはそれを偉大ではあるがもはや廃れてしまった遺物として見なすことはできません。というのも、真理とその哲学的表現は時の変遷と共に変わるものではあり得ないからです。殊に、人間の精神にとって自明的な諸原理、あるいは悠久の知恵と神的啓示とによって保持されてきた諸々の命題に関しては尚更そうです。人間の誠実な精神が見出し得る新たな真理は何であれ、すでに獲得されている真理と相反することは当然できません。なぜなら、最高の真理である天主が人間の知性を創造し、導かれるのは、それが日々新たな真理を正しく打ち立てられた真理に対立させるためではなく、かえってその中に忍び入る恐れのあった種々の誤謬を除き去った後、当の精神が真理の上に真理を、真理の源である現実の中に存在するのと同じ秩序と構造にしたがって築くためだからです。それゆえ、 [たとえ]哲学者であれ神学者であれ、いかなるキリスト教信者も、日々新たに考案される新しい思想を、それが何であれ、熱心かつ軽率に採り入れてしまうことのないようにし、かえって細心の注意と公平な判断によってその価値を見きわめるようにせねばなりません。それは自分がすでに有している真理を失ったり、歪めてしまい、結果として自らの信仰に重大な危険と害とを招くことのないためです。

【2】スコラ哲学を尊重しなければならないこと

31.誰であれ、このことを良く考えてみるならば、なぜ教会が「天使的博士である聖トマス・アクィナスの手法、教説、および原理に従って」将来の司祭が教育されることを求めているのかを容易に悟るでしょう。なぜなら、何世紀にも及ぶ経験から、私たちはアクィナスの手法が生徒の教育、ならびに真理を明るみに出すために著しく秀でていること、その教説が天主の啓示に調和しており、信仰の基盤を保護し、健全な進歩の実りを安全かつ有益なしかたで刈り取るためにきわめて有効であることをよく知っているからです。

32.ですから、教会によって受け入れられ、尊重されてきたこの哲学がある人々によって恥知らずにも、形式において時代遅れであり、思考方法において純理論的であるとして軽蔑されていることは真に嘆かわしいことです。彼らは私たちのこの哲学が「絶対に正しい形而上学が在り得る」という誤った考えを提唱していると言っています。彼らは [私たちをあざ笑って] むしろ「私たちの観念は、少なくとも超越概念は、ある意味で互いに矛盾していながらも、相互に補完し合う独立した種々の一連の命題によって正確に表現されうる」と言い直さなければならないのではないだろうか、と彼らは言います。いろいろな学派の哲学的な伝統は、問題とその解決をはっきりと提示することによって、また用語の的確な定義ならびに明確な区別によって、スコラ神学への準備としてとみに有益であり、この準備は中世的な精神性にすこぶる合致したものだった、しかし、この哲学は現代の文化に相応しくなく、現代のニーズに適ってはいない、と彼らは言うのです。最後に彼らは、私たちの「久遠の哲学」はむしろ「物事の変わり得ない本質を取り扱うだけの哲学」に過ぎず、反対に「現代的精神は絶えざる流動の中にある世界のバラバラな存在に注意を向けている、と言います。私たちの哲学を蔑視する一方で、彼らはそれ以外の現代・古代、西洋・東洋のあらゆる種類の哲学を賞賛しています。このようにして彼らは、いかなる種類の哲学ないし理論は必要に応じてわずかな補足と訂正とを加えればカトリックの教理と調和させることができると暗に仄めかしているよう思われます。カトリック信者は誰一人としてこれがいかに誤りであるかを疑い得ません。殊に、いわゆる内在主義、観念論、歴史的または弁証論的な唯物論、あるいは無神論的、もしくは単に形而上学の領域における理性の有効性を否定する系統の実存主義といった虚偽の理論に関しては尚更そうです。

33.加えて、彼らは私たちの学校で教えられているこの哲学が認識の営みにおいて知性のみに着目し、意志と感情の果たす役割をないがしろにしているといって非難します。これはまったく正しくありません。キリスト教哲学は道徳および宗教上の真理を認識し、受容するために霊魂の善い性向がいかに有益かつ有効であるかを否定したことは、未だかつてありませんでした。事実、教会は、こういった善い意志の性向の欠如こそが、諸々の情欲や悪い傾きの影響されて知性が暗まされてしまい、明らかに事物を見ることができなくなってしまう理由だと常に教えてきたのです。実際、聖トマス・アクィナスは、知性が何らかの仕方によって超自然の或いは自然の道徳領域におけるより高い善を認識できると教えています。知性は、単に自然的なものである場合もあるいは恩寵の結果である場合もありますが、こういった善とのある種の「親和性」(connaturalitas) を経験し、たとえ漠然としたものであれこの認識が理性の探求を非常によく助けることは明らかです。しかしながら以上のことは「理性が道徳的真理のより確実で確固とした認識を得るにあたって意志の性向が果たす補助的な力を認めること」と言おうとするだけで、このことと、新奇な教説を唱えるこれらの者が言っているように「認識と意志の行為を無差別に混同し、意欲的および情意的能力はある種の知解能力を有するのであり、また人間は自らの理性を用いては何が真であり受容れられるべきであるかを確実に決めることができず、自らの意志に頼りそれによって相対する見解の中から自由に選択する」と言うことは別の話です。

34.これらの新奇な見解が、その本性自体のゆえに信仰の教義と密接に関連する2つの哲学的学問、すなわち自然神学と倫理学を危機に陥れることは驚くに足りません。彼らは「これら2つの学問の役目は天主ないしその他いかなる超越的存在について何事かを確実に証明することにあるのではなく、むしろ信仰が人格的な天主およびその戒律について教える諸々の真理が生活上の必要に完全に適合するものであり、それゆえ絶望に陥るのを避け永遠の救いを得るために全ての人によって受容れられるべきものであることを示すことにある」と主張しています。これらの見解ならびに言明は先任者レオ十三世およびピオ十世の出した文書とあからさまに矛盾しており、また[第1]バチカン公会議の教令と折り合わせることができないものです。[しかし]もし、全ての人、少なくとも哲学の分野にいる人々が皆、ふさわしい尊敬をもって教会の教導権に注意を向けたならば、こうした真理からの逸脱について嘆く必要は要らなかったでしょう。この教導権は天主によって啓示された真理の遺産を保護し、解釈するだけでなく、カトリックの教義が誤った教説のために損ねられることのないよう、哲学的諸科学を監視する使命を天主により定められているからです。  

第3部

信仰と実証科学

【1】生物学と人類学 進化と人祖複数説

35.今、私は残された問題、すなわち実証的な諸科学に属しながらも、キリスト教信仰の諸真理に多かれ少なかれ関連している問題について語らねばなりません。実際、少なからぬ者はカトリックがこれらの科学をできるかぎり採り入れることを執拗に求めています。このことは、明白に証明された事実の場合には賞賛に値すべきことでしょう。しかし問題とされているのがある種の科学的な基礎を持っておりしかもそれが聖書または聖伝に含まれている教えに関与するものであるような仮説の場合には、慎重な注意を要します。もし、こういった憶測に基く見解が直接あるいは間接に天主によって啓示された教理に反している場合、それらが認められるようにとの要求は決して受容れることができません。

36.このようなわけで、教会の教導権は、現今の人間的諸科学および聖なる神学の状況に即して、両分野の専門家により、進化論の教説に関して、それが人間の身体の起源をそれ以前に存在していた生物から生じたとして探求する理論であるかぎりにおいて、研究と議論がおこなわれることを禁じてはいません。と言うのも、カトリックの信仰は人間の霊魂が天主によって直接に創造されることを信じるよう命じるからです。しかしながら、以上のことは双方の意見、すなわち進化論を支持する者と支持しない者の意見が、必要な真摯さと中庸さならびに節度をもって評価され、判定されるかたちでなされ、加えて、皆が聖書を正当に解釈し、信仰の教義を守護する使命を与えた教会の判断に従う用意があることが不可欠な条件です。しかしながら、一部の人はこの討論の自由を軽率にも逸脱し、人間の身体がそれ以前に存在していた生物に起源を有するということが、あたかもすでに全く確実であり、現在まで発見されてきた事実およびそれらの事実に基く推論によって証明されているかのように、また神的啓示の2つの源泉の内に、この問題に関して最大の節度と注意とを求める要素が何一つないかのように振舞っています。

37.しかし、もう一つの推論的な見解、すなわち人祖複数説(polygenism)に関しては、教会の子らはそのような自由をいささかも持っていません。なぜなら信徒は「アダムの後にこの地上に全ての人の最初の親であるアダムに源をたどるのでない本物の人間が存在した、あるいはアダムとはある一定数の最初の親を代表しているに過ぎない」とする見解を受容れることができないからです。さて、このような見解が教会の有する源泉が原罪について提示していることと、どのようにして調和させることができるのかは、まったく明らかではありません。原罪とは、アダムという個人によって実際に犯された罪から生じたもので、親から子へと全ての人に伝えられ、そして各人の中に、自らの罪としてあるものだからです。

【2】歴史 創世記の最初の11章

38.生物学的および人類学的な諸科学におけるのと同様、歴史的な諸科学においても、教会によって定められた範囲と保護策とを破る者たちがいます。とりわけ憂慮されねばならないのは、旧約聖書の歴史書の過度に自由な解釈です。このやり方に与する者らは自分たちの行動を弁護するため、少し前に教皇庁立聖書研究委員会からパリの大司教に宛てられた書簡を誤って引き合いに出します。実際、この書簡は創世記の最初の11章は、厳密に言うとギリシャおよびラテン世界の最も優れた著述家、およびことがら現代の有能な著述家によって用いられる歴史的手法に合致してはいないものの、真の意味での歴史に属すものであること、しかし同時に解釈学者によってさらに研究され、確定されねばならないことをはっきりと指摘しています。[また同書簡の指摘するように]、当の数章[創世記の最初の11章]は、教養の乏しい当時の人々の精神性にあわせた素朴で比ゆに富んだ言葉で私たちの救いにとって根本的なものとなる主要な諸真理を述べ、さらに人類の起源および選ばれた民に関する大衆的な記述を提供しています。しかしながら、もし古の聖書著述家が民衆の間で広まっていた叙述から何かを取ったとするなら(このことは認めねばなりませんが)、彼らは神的な霊感の助けによってそうしたことを決して忘れてはなりません。この神感によって彼らはそれらの文書の選別、評価においていかなる誤謬からも免れたのです。

39.ですから、聖書に挿入されたいかなる民間伝承に基く叙述も、神話ないしその他それに類したものと同列に置くことはできません。後者は旧約も含め、聖書においてかくも顕著な真理への努力と単純さによるというより、むしろ大げさな想像の産物だからです。この点からして、私たちの聖書著述家たちは古代の世俗的著作家に明らかに優っているということを認めざるを得ません。

結論

教える権威を持つ者の義務

40.実際、私はカトリックの博士の大部分―その勉学の実りは大学、神学校ならびに修道院経営の学校においてかり取られていますが―は、今日新しいものへの欲求のため、あるいは使徒職における節度を欠いた熱意のために堂々と、あるいは密かに広められている誤謬から遠く距離を置いていることを知っています。しかし、同時に新奇な教説が用心に欠ける者たちを惑わし得ることも承知しています。ですから、病いが慢性になってしまった後に薬を投じるよりも、むしろその端緒を摘み取ることを望むのです。

41.それゆえ、天主のみ前でじっくりと反省し、思いめぐらした結果、私が自らの神聖な責務を果たすにあたって不足のないように、私は司教たち、および修道会の総長らに、そういった教説が学校の中で、あるいは講演やあらゆる種類の著作において提唱されぬよう、またこれらがいかなるかたちであろうと、聖職者あるいは信徒に教えられることのないよう、きわめて入念な注意を払うことを、良心上の重大な義務として課します。

42.教会関係の学校で教える教師は、生徒たちを教えるにあたって、私が定めた基準を神妙に受容れ、厳守するのでなければ、平安な良心をもって自らに託された教職を果たすことはできないと、悟りますように。彼らが自らのたゆまぬ働きにおいて教導権に対し表明すべき、ふさわしい尊敬と恭順とを、生徒たちの精神と心にも植え付けますように。

43.彼らがあらゆる力と努力とを用いて、自らが教えるところの諸科学の発展に尽くしますように。しかし同時に、私がカトリックの信仰と教えの真理とを守るために定めた限度をふみ越えることのないよう、注意を払いますように。現代の文化と進歩がもたらした新しい問題については、きわめて入念に、しかし必要な賢慮と注意をもって研究しなければなりません。最後に、もし教会において見出される真理の全体が、曲げも減らしもせずに誠実に教えられない限り、彼らが偽りの「平和主義」の精神に道を誤らされて「教会の一致から離れている者および誤りに陥っている者がめでたく教会のもとに帰ってくる」などと考えませんように。

44.あなた方の司牧的配慮によっていや増すべきこの望みに期待しつつ、天の賜物と私の父としての慈愛の印として、尊敬する兄弟のみなさん、私は心からあなた方一人々々全てに、また、あなた方の[もとにある]聖職者および信徒に、使徒的祝福をおくります。

1950年(教皇在位第12年)8月12日 聖ペトロ大聖堂にて  

教皇ピオ十二世

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悪魔は悪人どもの頭であるか?悪魔の目的は、理性的被造物を天主から引き離すこと

2019年12月02日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖トマス・アクィナスは、神学大全第三巻第八問で、キリストが教会の頭(かしら)であるかを問うた後、第七項で、悪魔は悪人どもの頭であるか否かについて、を問うています。

聖トマス・アクィナスは、こう答えます。

頭(かしら)は、その肢体である成員を、内的に影響を及ぼすのみならず、外的にも彼らを統治し、ある目的に向けて彼らの行動を方針づける。

ここから、誰かが多くの人々の頭であると言えるのは、
或いは、その両方の意味においてである。すなわち、内的に影響を与えており、しかも更に、外的に統治しているからである。従って、この両方の意味で、キリストは教会の頭である。
或いは、単に、外的に統治しているからである。従って、この意味で、全ての君主や教会指導者(司教)は、彼に属する多くの人々の頭である。

そして、この後者のやり方で、悪魔は全ての悪人どもの頭である。

何故なら「彼は、全ての傲慢の子らの王である ipse est rex super omnes filios superbiae」(ヨブ41:25)と聖書に書かれているからだ。

統治者には、自分が統治する者たちを彼らの目的に導くことが属している。

ところで、悪魔の目的は、理性的被造物を天主から引き離すこと(aversio rationalis creaturae a Deo)である。

従って、原初から、悪魔は人間を天主の掟に従順であることから引き離そうと試みた。

しかし、「天主から引き離すことaversio a Deo」自体には、自由の外観のもとに追求される限り「目的」という理念がある。それは、エレミア(2:20)の言うとおりである。「いにしえに、お前は軛(くびき)を壊した、おまえは絆を振り払ってこう言った、"私は仕えない"と。a saeculo confregisti iugum, rupisti vincula, dixisti, non serviam.」


従って、誰かが、罪を犯すことによってこの目的まで導かれる限り、彼らは悪魔の支配と統治のもとに陥る。従って、悪魔は、彼らの頭と呼ばれる。

(IIIª q. 8 a. 7 co.) Respondeo dicendum quod, sicut supra dictum est, caput non solum interius influit membris, sed etiam exterius gubernat, eorum actus dirigendo ad aliquem finem. Sic igitur potest dici aliquis caput alicuius multitudinis vel secundum utrumque, scilicet secundum interiorem influxum et exteriorem gubernationem, et sic est Christus caput Ecclesiae, ut dictum est. Vel secundum solam exteriorem gubernationem, et sic quilibet princeps vel praelatus est caput multitudinis sibi subiectae. Et per hunc modum dicitur Diabolus caput omnium malorum, nam, ut dicitur Iob XLI, ipse est rex super omnes filios superbiae. Pertinet autem ad gubernatorem ut eos quos gubernat ad suum finem perducat. Finis autem Diaboli est aversio rationalis creaturae a Deo, unde a principio hominem ab obedientia divini praecepti removere tentavit. Ipsa autem aversio a Deo habet rationem finis inquantum appetitur sub specie libertatis, secundum illud Ierem. II, a saeculo confregisti iugum, rupisti vincula, dixisti, non serviam. Inquantum igitur ad hunc finem aliqui adducuntur peccando, sub Diaboli regimine et gubernatione cadunt. Et ex hoc dicitur eorum caput.


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--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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