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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

[SSPX JAPAN]聖ピオ十世会の日本での聖伝のミサの報告 【聖伝のミサ・トリエント・ミサ・ラテン語ミサ】

2018年11月09日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月2日の死せる信者の記念日には大阪でミサを3回立てました。クリスマスもミサを3回捧げることができますが、死者の記念日は煉獄の霊魂たちにとって天国に生まれることが出来るクリスマスのような喜びの日となりますように!同時に初金でしたので、聖時間も行いました。

11月3日には、遠いところから3人の子供たちも一生懸命にミサに与っているのをみて大変感動しました。子供たちは朝5時に起きて6時半に家を出たそうです!

11月4日の主日に、東京では60人がミサに参加しました。そのうち子供たちは13名でした!午後の公教要理には22名が参加しました。

11月6日(火曜日)には特別に大阪でもミサが行われました。全ての死せる信者の霊魂のために死者ミサを歌ミサで執行しました。
翌日の、聖ヨゼフ様の初水曜日にも大阪で早朝ミサがありました。聖ヨゼフの随意ミサをすることが出来たのですが、死者の月なので死者ミサを捧げました。
死に臨める者の擁護者であられる聖ヨゼフが、今世を去りつつある霊魂のために、そして私たちが、良き臨終を迎えることができるように、御取り次ぎをお願い致しましょう。

次回のミサは、イレギュラーになっております。

大阪では
11月11日(主)聖霊降臨後第25主日(2級)緑(御公現後第5主日)
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時 ミサ聖祭(歌ミサ)
【翌日の月曜日のミサはありません】

11月23日(金)殉教者教皇聖クレメンテ1世(3級祝日)赤
         午前10時 ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

11月24日(土)教会博士証聖者十字架の聖ヨハネ(3級祝日)白
         午前10時 ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭(歌ミサ)

東京では
11月25日(主)聖霊降臨後第27主日(2級)緑(聖霊降臨後第24主日) 
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半  ミサ聖祭(歌ミサ)
【翌日の月曜日のミサはありません:ご注意ください!】


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 30人(内、子供7人)
女: 30人(内、子供6人)
計: 60人(内、子供13人)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

聖霊降臨後第第24主日のミサをありがとうございました。
この日は、今年にまだ読まれていなかったご公現後第4の主日の書簡や聖福音が、司祭によって読み上げられました。

お説教で、「荒れ狂う海に漂うかのような教会という船に乗っているのは私たち自身で、そばにいるはずのイエズス様は眠っておられるかのように何をしているかわからないかのように思える、でも必ずこの教会という船は、船に乗っている私たちを凪という天国へ連れて行ってくださるのです」とお話してくださいました。

少し前に多くの諸聖人が天国で平和を祝っているのを黙想したばかりだけれど、それはイエズス様が最後には本当の平和を与えてくださるということで、それは人生の目的はこの地上の喜びや安逸にはないこと、この人生はほんの短い時間に過ぎなくその間に到達しなければならない地点があること、永遠の幸せは生まれてきたその目的に到達することである、とお話くださいました。

やはりカトリック教会は真実の行き先にたどりつくための唯一のところだと確認することができてうれしく思いました。

前回は正義についてお話くださいましたが、カトリック教会で正義という言葉も平和という言葉も小野田神父様の教えて下さるような意味で使われなくなり、教会なのにこの世の正義この世の平和しか「協議」されないとしたら、さびしく悲しいですから。

お説教では、長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産が世界遺産に登録されたのは信仰の遺産が守り抜かれ、そこにキリストへの愛という精神性の高さがみられるということだったということにも、触れてくださいました。

神父様は、いま聖伝のミサが禁止されているかのように見えているとしても、実はイエズス様が一緒にいてくださり最後にはきっと聖伝のミサは勝利する、御聖体への信心・マリア様への信心は、正しかったと言われる日がかならずきます、とも言ってくださいました。

この長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産の世界遺産認定を機に、精神性の高さと評された信仰の遺産というべき御聖体への崇拝とマリア信心という二つの宝を、日本のカトリック教会全体でも復興していってくださいますようにと祈りました。

そのマリア様への信心のことですが、いろいろな人と話す機会があるなかで考えさせられています。まだあまり知られていなくて今は聖ピオ十世会の司祭によってだけ推奨され実践されているようの思えるのですが、私は共償者としてのマリア様のことがきっといつかすべてのカトリック信者によって知られるときがくるに違いないと思います。マリア様は共償者として、いまのミサをどれほど悲しく心痛めておいででしょうか。

イエズス様である御聖体が冒涜されていること・ないがしろにされていることには、ノブスオルドのミサに与る方々は本当には気づくことができないのだと思います。ミサそのものをそのようなものに変えてしまっているためです。

ましてや人類の罪の贖いのために御一緒にご受難を受けられたマリア様によるファチマや秋田で警告されたその内容に、きちんと耳を貸す方は少ないからです。もし本当に理解したら、聖伝のミサに立ちもどらなければならないということがわかるでしょうから。もし本当にマリア様のメッセージを理解するなら、教会の危機に対して何をすればよいのかをしっかりと考えて行動したいと望み、その力をくださるようマリア様に祈り求めることでしょうから。

けれど、ファチマや秋田以外から出される最近のメッセージも同じマリア様からのものと思う方々は、華々しさや安易な内容(99%の真実の中に1%の嘘を混ぜ込むとか)とか自分の望みを満たすことに引きよせられてしまい、実際のマリア様のメッセージから離れてしまい、目を眩まされてしまい、本当の敵を見きわめることができなくなってしまい、教会の危機に対して闘えなくされてしまっているかのようです。

いつも小野田神父様には聖母の汚れなき御心のことを深く教えていただいていますが、特に先日の聖ピオ十世会の新しい総長様のインタヴュー記事や小野田神父様の聖母の汚れなき御心のミサ説教(特に2018/9/1など)を拝読して本当のマリア信心とは何かということを、深く考えさせられてしまいました。

今はただ、カトリック教会は第二バチカン公会議に象徴される近代化現代化という荒波に揉まれて敵からの攻撃を受けているというような状態だと思います。でもイエズス様は一緒にこのカトリック教会という船に乗っていてくださっていますし、いつも私たち一人一人のすぐそばにいらしてくださることを信じます。

起きあがって波を鎮めて敵の攻撃から守ってください!私たちの乗るこの船を御守ください!至聖なるイエズスの聖心我らを憐れみ給え!聖母の汚れなき御心我らのために祈り給え!

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

公教要理の講話をありがとうございました。
公教要理では、22人が参加されていましたが、子どもたちが多く、今度から子供のためのカテキズム講座も計画されたようでびっくりしました。

講話では、フルトン・シーン司教様の第二次世界大戦はどうして起こってしまったのかということについての分析を紹介してくださいました。簡単にまとめてみました。
(最初にイエズス様はどうやってこの世を統治するかということについてのお話から始まりました。)
●イエズス様の王権の基礎は二つある。
●それは、1、天主であり創造主であること。2、贖い主であることの二つだ。
●しかしその王権は、精神的なもので超自然で国家を超えるもの。
●教皇様にこの地上での代理者として、ご自分の統治権を委ねた。
●イエズス様の統治は、精神的・霊的なものである。
●カトリック教会は、天主の国へと人間を運ぶという超自然の団体である。
●その頭が教皇様で、超自然の世界へ導くことが役割である。
●教皇が司祭を直接統治して、人間を徳のある人に導いていた。
●教皇が王様を間接に統治して、良い法律ができるよう、国家に影響を及ぼしていた。
●そのようにして、かつてキリスト教世界では愛の文明を築いていた時代があった。
●しかしルネッサンスの時代から異教のことに関心を持つようになり信心深い生活がなおざりになってしまった。信心の否定。
●ルター(1514年)の時代から教会(教会・善業・ミサ)が否定されてしまった。
●フランス革命(1789年)ではキリストが否定されてしまった。(キリストの代理者の王をギロチンで処刑した。フリーメーソンとプロテスタントが背後にある。)
●1914年の革命によって、天主が否定されてしまった。
●現代では現実が否定されてしまうようになった。
●反キリストの流れで、人類はますます苦しんでいる。
●問題を解決しようとして、人類は別の方向に解決を求めようとしている。

以上を踏まえて、その後で、フルトン・シーン司教の分析をもとしたお話をもっと詳細にお話しくださる予定でしたが、途中で時間が足りなくなり最後までお話しいただくことができませんでした。、

今回のお話の中で、“カトリック教会は天主の国へと人間を運ぶ超自然的団体である”ということがとても心に響きました。一般の人には、この世のことこの世の国しか見えていません。天主の国というものが存在するということなど、少しも知らないで生活するばかりでしょう。それでも、生きている意味をさがす人や苦しみや悲しみ打ちのめされてしまった人は、この世だけがあるのではないということに気づかされると思います。その時に宗教の領域へ導かれるかもしれませんが、カトリック教会が“天主の国”のことを言わなくなるなら、たどりつかなければならない唯一の国へ還れないことになってしまうとおもいました。

もう一つは、ルネッサンス以降に、信心→教会→キリスト→天主と次々と否定してきたものが、今の社会ではとうとう“現実”を否定するようになったというお話にすごく考えさせられました。バーチャルな世界という言葉を聞くことがありますが、バーチャルという言葉は、もとの言葉には二重の意味があるようです。惑わされないようにしなければと思います。これは先日のLGBTのお話にも繋がっているようで、教会が“現実”を決して否定しませんようにと祈るばかりです。
続きが楽しみです。神父様、いつも貴重なお話をありがとうございます。

聖マリアの汚れなき御心のうちに

【報告】
個人的な話になりますが、前、「隠されている宝 ミサ聖祭」という本を読む機会が与えられて、
そこには、聖トマス・アクイナス様が、私たちは皆天主に対して義務を負っており、それは特に四つあって、その一つ一つが無限である、と言っておられ、
「第一は、無限の誉れ・無限の讃美にふさわしい、天主の限りない御稜威に讃美と誉れを帰すること。」
「第二は、その限りない御稜威に対して犯された、数々の罪を償うこと。」
「第三は、私たちが頂いた数々の恵みについて天主に感謝すること。」
「第四は、あらゆる恵みの与え主として天主に祈り求めること。」
このような義務を、惨めな被造物である私たちがどのように果たす事ができるかというと、その極めて甘美で易しい方法が、多くのミサに与ること、できるだけ敬虔にあずかること、そして他のところでも私たちに可能な限りしばしば捧げられるようにすることであって、そうする事によって、私たちの負債がいかに大きく、文字通り数え切れないとしても、この宝をもって、そのすべてを完全に支払えるのだと確信できる。

という事が書いてあって、そしてその後に、一つ一つの義務に対して、どのように聖なるミサ聖祭の豊かな宝庫のうちに、支払いのために持っている汲み尽くせないほどの手段があるかという事が詳しく書かれてあり、非常に大きな慰めを受けました。そしてミサは無限の宝だ、という事が深く心に刻まれるようになりました。

自分の負債の大きさに途方に暮れている私に、憐れみの御母であるマリア様は、至聖なるイエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心の無限の功徳に寄りすがるように招いて下さいました。

この世の終わりの裁きの日に、そして私たちの人生の終わりに、「天主に捧げるものを、捧げたか、否か」と、この正義について私たちが裁かれる時、
弁護者であるマリア様と共に、安心してイエズス様の御前に立つことができるように、ますます多くの方が、マリア様の汚れなき御心の信心に、そして聖伝のカトリックのミサ聖祭へと導かれる事ができますように!

【聖伝のミサ・トリエント・ミサ・ラテン語ミサ】聖霊降臨後第二十四の主日(2018年11月4日)【二級祝日 緑】のミサ聖祭の固有文をご紹介します

2018年11月09日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
聖霊降臨後第二十四の主日(2018年11月4日)【二級祝日 緑】のミサ聖祭の固有文をご紹介します。
本日のミサの<集禱文>は、五・六世紀ごろ、ローマが占領されたり掠奪されたりしていたころの、悲惨な状態を暗示する。
<書簡>には、隣人愛が社会義務であるばかりでなく、キリストの掟の中心であることをものべている。
<聖福音>では、嵐をおさめ、大自然を従える力をもつイエズスを紹介する。ここに出る舟は、公教会を象る。イエズスは、時としてねむっておられるように見えても、常に舟の中にあって、舟を保護し、安全な港へとみちびき給うのである。

Dominica Vigesima tertia post Pentecosten 聖霊降臨後第二十三の主日
II Classis 二級祝日
Ant. ad Introitum. Ier. 29,11,12 et 14. 入祭文  エレミア書、29ノ11、12、14
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : in vocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主はいい給う。私の思うことは、悲しみではなく平和である。私に祈れば、私は汝らの祈りをきくであろう。私は汝らを奴隷より解き、全地から集めるであろう。
Ps. 84, 2. 詩篇、84ノ2
Benedixísti, Dómine, terram tuam : avertísti captivitátem Iacob. 主よ、主は御国を祝福し、囚われ人をヤコブの地にかえし給うた。
V/.Glória Patri. ℣. 願わくは、聖父と・・・・(栄誦)
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : in vocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主はいい給う。私の思うことは、悲しみではなく、平和である。私に祈れば、私は汝らの祈りをきくであろう。私は汝らを奴隷より解き、全地から集めるであろう。
Oratio. 集祷文
Absólve, quǽsumus, Dómine, tuórum delícta populórum : ut a peccatórum néxibus, quæ pro nostra fragilitáte contráximus, tua benignitáte liberémur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御民の罪をゆるし、御慈悲によって、われらが弱さのためにしばられた鎖よりとき放ち給え。天主として・・・・。
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Philippénses. 使徒聖パウロの、フィリッピ人への書簡の朗読
Philipp. 3, 17-21 : 4, 1-3. 3ノ17-21。4ノ1-3
In illo témpore : Loquénte Iesu ad turbas, ecce, princeps unus accéssit et adorábat eum, dicens : Dómine, fília mea modo defúncta est : sed veni, impóne manum tuam super eam, et vivet. Et surgens Iesus sequebátur eum et discípuli eius. Et ecce múlier, quæ sánguinis fluxum patiebátur duódecim annis, accéssit retro et tétigit fímbriam vestiménti eius. Dicébat enim intra se : Si tetígero tantum vestiméntum eius, salva ero. At Iesus convérsus et videns eam, dixit : Confíde, fília, fides tua te salvam fecit. Et salva facta est múlier ex illa hora. Et cum venísset Iesus in domum príncipis, et vidísset tibícines et turbam tumultuántem, dicebat : Recédite : non est enim mórtua puélla, sed dormit. Et deridébant eum. Et cum eiécta esset turba, intrávit et ténuit manum eius. Et surréxit puella. Et éxiit fama hæc in univérsam terram illam. 兄弟たちよ、私に倣え。あなたたちの模範である私たちにしたがって生活している人々を見よ。私がしばしばはなし、いままた涙とともに訴えることであるが、多くの人は、キリストの十字架の敵として生活している。かれらの行先は亡びである。かれらの天主は自分の腹であり、自分の恥に誇りをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。しかし、私たちの国籍は天にあり、そこからこられる救い主イエズス・キリストを待っている。かれは、万物を支配下に置く力によって、私たちの卑しい体を、光栄の体のかたどりに変えられるであろう。そこで、私の慕い愛する兄弟たちよ、私のよろこびと冠なる者よ、愛するものよ、主において固く立て。私は、エヴォディアに勧め、シンティケに勧める。主において仲よく生きよ。私のまことの仲間であるシジゴスに頼む。かの女たちを助けよ。いのちの書に名をしるされているクレメンス、その他の協力者と同様に、かの女たちも、福音のために私とともに戦った人々だからである。
Graduale. Ps. 43, 8-9. 昇階誦 詩篇、43ノ8-9
Liberásti nos, Dómine, ex affligéntibus nos : et eos, qui nos odérunt, confudísti. 主よ、御身は、われらを敵より救い、われらを憎む者をはずかしめ給うた。
V/. In Deo laudábimur tota die, et in nómine tuo confitébimur in sǽcula. ℣. われらは、日々、天主において喜び、永遠に、主の御名をたたえるであろう。
Allelúia, allelúia. V/.Ps, 129, 1-2. アレルヤ、アレルヤ、 ℣.詩篇、129ノ1-2
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam. Allelúia. 主よ、私は、深い淵より、御身に向って叫ぶ、主よ、私の声をきき給え、アレルヤ。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦
Matth. 9, 18-26. 9ノ18-26
In illo témpore : Loquénte Iesu ad turbas, ecce, princeps unus accéssit et adorábat eum, dicens : Dómine, fília mea modo defúncta est : sed veni, impóne manum tuam super eam, et vivet. Et surgens Iesus sequebátur eum et discípuli eius. Et ecce múlier, quæ sánguinis fluxum patiebátur duódecim annis, accéssit retro et tétigit fímbriam vestiménti eius. Dicébat enim intra se : Si tetígero tantum vestiméntum eius, salva ero. At Iesus convérsus et videns eam, dixit : Confíde, fília, fides tua te salvam fecit. Et salva facta est múlier ex illa hora. Et cum venísset Iesus in domum príncipis, et vidísset tibícines et turbam tumultuántem, dicebat : Recédite : non est enim mórtua puélla, sed dormit. Et deridébant eum. Et cum eiécta esset turba, intrávit et ténuit manum eius. Et surréxit puella. Et éxiit fama hæc in univérsam terram illam. こう話しておいでになると、一人の司が近よってひれ伏し、「私の娘が、いま死にました。ですが、あの子のうえに、あなたの手をのべにおいでくだされば、あの子は、生きかえりましょう」といった。イエズスは立ちあがって、弟子たちをつれて司についていかれた。すると、十二年前から出血症をわずらっていた女が、イエズスのうしろから近づいて、そのお服の房にふれた。そのお服にふれただけで、私はなおるにちがいない、と心にいいきかせていたからである。イエズスは、ふりかえって、かの女を見て、「娘よ、信頼せよ。あなたの信仰があなたを救った」とおおせられた。女は、このときいやされた。さて、司の家についたイエズスが、笛吹きと、さわぐ人々とをみて、「みなさがれ。娘は死んではいない、ねむっているのだ」と、おおせられると、人々はあざ笑った。群衆を追い出してから、イエズスがはいって、娘の手をおとりになると、娘は起きあがった。この噂は、その地方一帯にひろまった。
Credo 信経
Ant. ad Offertorium. Ps. 129, 1-2. 奉献文 詩篇、129ノ1-2
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam : de profúndis clamávi ad te. Dómine. 主よ、私は深い淵より主に向って叫ぶ、主よ、私の声をきき給え。私は、深い淵より、主に向って叫ぶ。
Secreta. 密誦
Pro nostræ servitútis augménto sacrifícium tibi, Dómine, laudis offérimus : ut, quod imméritis contulísti, propítius exsequáris. Per Dóminum nostrum. 主よ、主への服従の心を強めるために、われらはこの称讃のいけにえをささげ奉る、何の功徳もないわれらであるが、主がわれらにまかせ給うたこの行いを完うし給わんことを。天主として・・・・。
Præfatio de sanctissima Trinitate 序誦  三位一体の序誦
Ant. ad Communionem. Marc. 11, 24. 聖体拝領誦  マルコ、11ノ24
Amen, dico vobis, quidquid orántes pétitis, crédite, quia accipiétis, et fiet vobis. 汝らにいう、祈って願うことは、すでに得たと信じよ。そうすれば、得るであろう。
Postcommunio. 聖体拝領後の祈
Quǽsumus, omnípotens Deus : ut, quos divína tríbuis participatióne gaudére, humánis non sinas subiacére perículis. Per Dóminum. 全能の天主よ、願わくは、天の奥義によろこびのうちにあずからせ給うた人々を、世俗の危険より守り給え。天主として・・・・。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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