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2017年10月22日聖霊降臨後第20主日 「天国を求め、時を贖うために、主に乞い願う」―21世紀の私たちに与えられた恩恵とは

2018年02月14日 | お説教・霊的講話
2017年10月22日(主日)聖霊降臨後第20主日のミサ
小野田神父説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。

今日は2017年10月22日、聖霊降臨後第20主日のミサです。今日の御ミサの後でいつものように14時頃から公教要理、今日はイエズス様の当時のユダヤ教とその習慣について、またイエズス様に書き残した資料などについてお話したいと思っています。

次のミサは11月です、11月5日。11月は3回主日にミサがあります、5日と12日と19日です、いらして下さい。



“Descende priusquam moriatur filius meus.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音で私たちの主はこのように頼まれました、「私の息子が死なない前に、ぜひ下りて来て下さい、私の元に来て下さい。」

そこで今日、一体この今日の聖霊降臨後第20主日のテーマというのは何なのか?一体このミサの構造はどうなっているのか?福音は何でここでこの話をわざわざ取り上げたのか?を黙想した後に、

では一体今日この福音は、21世紀の10月に、2017年の10月の私たちに一体どんな関係があるのだろうか?私たちの主はどうやってこのこれを私たちに今実現させようとしているのか?という事を黙想して、

最後に遷善の決心を立てる事にしましょう。

今日の主人公は、主に奇跡を求めて、「自分の子供が死にそうだから早く来て下さい。エルサレムから下ってこちらの田舎に来て下さい」とカファルナウムまでやって来ました。ちょうどファチマの奇跡があると聞いて、雨がザーザー降りであったにもかかわらず、夜中から約8万人から10万人が集まった、その熱情をもって今日、主に奇跡を求めてやって来ました。

では一体何でこの話が取られているのでしょうか?典礼学者によると、この聖霊降臨後第20週のミサは、典礼歴が終わりに近付き、私たちの主の再臨が近付いているという事を思い出して、そして実はこの先週ちょうど、自分の子供が、王が王子が結婚式をするから、その結婚式に呼び集められたその招きの話があったのですけれども、実はこの結婚式というのも、「天主と人類との一致、天国での一致」という事を象っているものですから、ますます終末について世の終わりについて、教会は私たちに黙想するように、と招いているのです。

そしてその黙想のテーマが、「実は私たちのこの地上にいる生活というのは、本当の短い間の、逐謫の身であって、涙の谷に流されている流刑の身であって、外国生活の身であって、国外追放になった身であって、私たちは今本当の故郷から遠く離れた外国に生活していて、私たちのここの住まいは本当の住まいではないのだ」という事を思い出させようとしています。

ですから入祭誦では、ダニエルの言葉を使って、ちょうどバビロンに流されて、ナブコドノゾルの下にあったユダヤ人たちが、「あぁ、私たちは確かに正当な罰を受けて、あなたのなさる事は全て正しい。私たちは罪を犯したから、こんなに流されの身になってしまったのだ。でもあなたに期待する」と言わせています。

もしも私たちがこの地上で、苦しみや、苦々しい事や、涙や、悲しい事があるとしたら、それはまさに人類が罪を犯したからで、流されの身であるからです。ですから聖パウロは私たちに、「この私たちの今住んでいるこの現代の時は悪いから、この時を良く使うように、時を贖うように」と勧めています。

特に最高潮は奉献文です、「バビロンのほとりで私たちは、エルサレムの神殿を思って涙を流した。主の家を思って涙を流した。主の元に行きたい、それが恋しい。早く主の元に行きたい」という事は、「天国の本当の住まいに私たちは行くのを大きな希望を持って待っている、主の助けを待ち望んでいる」という事を意味しています。ノスタルジーに浸っていたように私たちも、天国の本当の故郷に行こうと、私たちの目を上に、天の上に上げています、主の方に目を上げています。

ですからこそ階段誦によれば、これは御聖体の祝日と同じものですけれども、御聖体は天国への補償であり、私たちを天国までへと導く新約のマンナですから、私たちをいつも御聖体を下さるイエズス様の方にと目を向けている、という事を意味しています。

私たちはいつも、この地上にいながら目を上に向けて、天からのお恵みを求めているのですけれども、まさにそこで福音が来るのです、「私たちは流されの身だ、天国をいつも求めている。そしてこの世を霊に、酒に満たされるのではなく霊に満たされて、霊によって讃美の歌を歌い、感謝を歌い、そしてこの善行を果たして、この短い時間を使いたい、贖いたい、時を贖いたい」と思っているのですけれども、しかし私たちはあまりにも弱いというのが現実です。

そこで第2のポイントが、私たちがあまりにも弱いので、私たちはもう死なんとしている。私たちの霊魂はこの地上での、あたかもこの地上が全てであるかのように錯覚してしまっている。私たちの霊魂はともすると、この地上に富を蓄えて、大きな御殿を造って、ここに永久に住んで、面白おかしく過ごして、永遠の来世などないかのように錯覚してしまっている。それほど霊魂は弱っているので、主からの助けが必要だ。ですから私たちは今日主に求めるのです、「主よ、私の霊魂が死なない前に、ぜひ来て下さい。」

イエズス様は確かに来られます、祭壇の上に。福音では、「さぁ行け、子供は治っている、生きている」と口で言っただけですけれども、21世紀の私たちには本当に、イエズス様はこの祭壇の上に来られて、そして聖体拝領によって私たちの霊魂に来られて、私たちの霊魂と1つとなって、1つの体となって、そして私たちを直接癒して下さろうとしています。

私たちは、これは状況が違うのですけれども、似たような百不長の話を思い出して、「主よ、われ不肖にして、我が家に主を迎え奉るに及ばず。どうぞ一言宣い給え。されば我が霊魂は癒やされん」と3度繰り返して主を拝領致します。まさに「主からの癒やしが必要だ。主は必ず来られる」という事です。

そしてこの同じイエズス・キリストは、今は癒しの主として、奇跡を起こす主として来られ、命を与える主として来られますが、世の終わりには審判者として、生ける者と死する者とを裁く為に、そして善人には永遠の報いを、悪人には永遠の滅びと辱しめと死を与える為に、もう一度来られ給う主なのです。

では私たちは、主が御聖体拝領に来て下さっただけなのでしょうか。21世紀の私たちには違います。主は更に天からもっと来て下さいました。自分だけでは足りなく、自分の御母を私たちの元に来るように仰って下さいました。100年前にファチマでそうでした。

そしてシスタールチアの話によると、「震える手で、人類に最後の手段を、霊魂を癒やす手段を、救いの手段を、天国へと簡単に行く道、手段を与えようとしている」と言います。その2つの手段は何かというと、「ロザリオ」と「聖母の汚れなき御心に対する信心」です。なぜ震える手で与えようとするかというと、もしもこれを逃すと、その次がないからです。最後の2発。これを逃せばもう手段がない、その究極の最高秘密兵器です。それが私たちに提示されています。

そこで私はぜひ、この主が、「さぁ行け、子供は生きる」と言ったその言葉を信じて、その与えられた手段をそのまま実践する事を皆さんに提案して、この是非これを今日の遷善の決心として取る事を提案致します。

なぜかというと、今から400年前、イエズス様の聖心はフランスの王にお願いした事があります、フランス王ルイ14世に、「フランス王国を奉献してほしい、聖心に奉献してほしい。」そしてその為に、フランス王の聴罪司祭であったド・ラ・シェーズ神父様が責任をもってメッセージを伝えるように、イエズス会の司祭でした。「もしもこのド・ラ・シェーズ神父がその通りに実行するならば、彼は特別の聖徳を得るだろうし、特別の恵みを受けるだろう。またイエズス会全体も祝福を受けるだろう」と約束されました。しかしド・ラ・シェーズ神父はそれを実践しませんでしたし、ルイ14世はそれをしませんでした。

その100年後どうなったかというと、イエズス会は廃止されました。ポルトガル、フランス、スペインで廃止されたのみならず、教皇様によって廃止されました。当時5万人を超えるイエズス会士が世界中で働いていました、南米でも働いていました、中国にもいました、皇帝の元で働いていました、ヨーロッパの王室のすぐ近くで働いています。しかしそれにもかかわらず、イエズス会は廃止されてしまいます。フランス王国も無くなってしまいました。それを思うと、もしもそのフランス王がそのたったちょっとしたお願いをしていたならば、今でもフランスは王国があっただろうし、イエズス会は廃止されずに、世界中で多くの救霊の業をする事ができただろうにと思います。

実際にファチマのマリア様の、ファチマのメッセージを信心をした国は、ポルトガルであれ、3人のファチマの子供たちであれ、あるいはピオ十二世教皇様のもとのカトリック教会であれ、多くの回心と、共産主義者からの回心やお恵みでいっぱいでした。

ですから今日は、その是非この福音に倣って、「私たちは流刑の身であり、祖国から離れた身である。しかし天国に行く為の一番簡単な救いが与えられている。イエズス様は私たちの元に来られるし、マリア様も来られた。私たちはただ簡単な実践をすれば良い。つまりロザリオと、聖母の汚れなき御心への信心だ。」

ぜひ今日はファチマ100周年、10月13日の最後の奇跡のあったその月として、この決心を立てて御聖体を拝領をなさって、そしてこのファチマのメッセージをますます私たちの救霊の為に活かしていくように、遷善の決心を立てる事を提案致します。

“Descende priusquam moriatur filius meus.”

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

福音の働き手の聖性 ― その土台は内的生活である (続き) 【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月14日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、 福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き)


(A)内的生活は、使徒的事業につきものの危険にたいして、霊魂を予防してくれる
 「人びとの霊魂の世話をゆだねられたときは、そのたずさわる仕事に付随している外的危険のため、あくまでも善良な生活を生きぬくことが、当人にとっていっそうむずかしくなる」(『神学大全』Ⅱa Ⅱae, q. 184, a. 8)
これは、聖トマスの言葉だが、かれのいわゆる“危険”が、どんなものだかについては、すでに前章で、くわしく述べたとおりである。
 内的精神をもっていない福音の働き手は、使徒的事業から自然におこってくるいろんな危険を、ちっとも感知しない。かれは強盗や追いはぎの横行するぶっそうな山林を、護身用の武器もなにも持たず、丸腰で通過しようとする旅人に、さもよく似ている。これに反して、まことの使徒は、この山賊どもを、大いに恐れる。恐れるから、毎日、まじめな良心の糾明をして、かれらにたいする警戒を怠らない。良心をまじめに糾明してみれば、自分の弱点がどこにあるかが、すぐ目につく。
 「自分は、ひっきりなしに、ある危険にさらされている!」
 内的生活のおかげで、こう身にしみてさとっているだけでも、すでに大きな収穫ではないか。そして、危険を自覚している、というこの事実が、道中、不意に賊どもから襲われるという災難を、未然に防止するうえにおいて、どれほど役にたつことだろうか。なぜなら、危険を、事前に見破るということは、すでに半ば危険を脱したことになるからである。
 だが、内的生活の利益は、ただこれだけではないのだ。使徒的事業にたずさわっている人にとって、内的生活は、完全で精強な霊的“武具”なのだ。
 「兄弟たちよ、悪魔の策略に対抗して立ちうるために、天主の武具で身をかためなさい。……悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ちぬいて、かたく立ちうるために、天主の武具を身につけなさい。すなわち、立って真理のおびを腰にしめ、正義の胸当てを胸につけ、平和の福音のそなえを足にはき、信仰のタテを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ矢を消すことができるであろう。また、救いのカブトをかぶり、聖霊の剣、すなわち、天主の言葉を取りなさい」(エフェゾ6・10~17)
 これこそは、霊的武具――天主からたまわった武具なのだ。この武具によって、内的使徒は、ただ悪魔の誘惑と策略にむかって抵抗することができるばかりだけでなく、さらに一歩すすんで、おのれのすべての行為を聖化することもできる。

 内的生活は、“純潔な意向”を、腰におびさせる。“多くのこと”について、思いわずらわねばならぬ活動的生活の人たちにとって、ただ“唯一の必要事”なる天主にのみ、おのれの思いも、望みも、愛情も、集中させ、定着させておくことは、きわめて大切である。そして、“純潔な意向”こそは、このすぐれた仕事を、みごとにやりとげてくれる。そればかりではない。純潔な意向のおかげで、霊魂は、活動面で、脱線しない。自然の安逸を求めたり、人間的な楽しみにふけったり、世間的な娯楽に、時間を浪費しない。“真理のおびを腰にしめる”とは、このことをいうのである。

 内的生活はさらに、使徒の身に、“愛徳”のヨロイをつけてくれる。愛徳のヨロイを身につける人は、剛毅の精神が霊魂にみなぎる。それで、被造物の魅惑にたいして、世間的精神にたいして、悪魔の攻撃にたいして、勇ましく抵抗することができる。“正義の胸当てを胸につける”とは、このことをいうのだ。

 内的生活はまた、“用心”と“控え目”という二つの徳を、使徒にあたえる。この二つの徳のおかげで、使徒職にたずさわる人たちは、おのれのすべての行動において、「ハトのように正直」であると同時に、「ヘビのように慎重」でもある。“平和の福音のそなえを足にはく”とは、このことをいうのである。

 悪魔と世間は、福音の働き手のあたまに、まちがった教えをたたきこんでやろうと、詭弁をろうしてやまない。かれらを、腐敗した世間の悪習に感染させ、そのエネルギーを消耗させてやろうと、必死になっている。この欺瞞にむかって、内的生活は、“信仰”のタテを取って戦わせる。信仰のタテのかげで、霊魂の目には、天主的理想のともしびが、あかあかと照りかがやく。“信仰のタテを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう”とは、このことをいうのである。

 霊魂は、おのれの無力を、心からさとっている。自分の救霊にかんしては、恐れおののいて、万全のそなえと配慮を怠らない。天主のお助けがなければ、自分は絶対に何もできないのだ、と確信している。この確信から、たえまなく祈りが生まれる。嘆願にみちた、しばしばの祈りが。この祈りは、おのれの無能を自覚し、天主のお助けのみに信頼するから、それだけいっそうゆたかな効果に富んでいる。これこそは、つよい青銅のカブトではないだろうか。“傲慢”の強打が、いかに頭上にふりそそいでも、傲慢自体が自滅するばかりだ。“救いのカブトをかぶれ”とは、このことをいうのである。

 このように、使徒は、足の爪さきから、頭のてっぺんまで、完全に武装してこそはじめて、なんのおそれもなく、事業に身をゆだねることができるのだ。福音書の黙想によって、かれの奮発心は火と燃える。ご聖体の秘跡によって、かれの霊的エネルギーは増進する。そうなると、使徒職はかれにとって、一つの強力な武器となる。一方においては、かれの霊魂の敵を“撃破”することができると同時に、他方においては、多くの霊魂を“征服”して、これをキリストのものとなすことができる。“聖霊の剣、すなわち、天主の言葉をとりなさい”とは、このことをいうのである。

(B)内的生活は、使徒的活動によって消耗された、心身のエネルギーを回復してくれる

 前にも一言したとおり、多忙な仕事の混乱の中にあっても、また、たえまなく世間と交わっていても、すこしも霊魂に害をうけない、りっぱに内的精神を確保している、その考えも、その意向も、いつもタダ天主のなかにだけ集中し固定しておく――ということは、ただ聖人にだけできる仕事である。聖人においては、そのいっさいの外的活動のいとなみが、高度に超自然化され、天主の愛の燃えさかりから出ているので、それはすこしも、心身のエネルギーの減退とはならない。それどころか、かえって、それを機会に、恩寵の増進ともなるのである。
 他の人たちにおいては、そうではない。熱心な人たちにおいてさえも。
多少ながいあいだ、外面的な仕事にたずさわれば、末は超自然的生命の衰退におわるようである。
 隣人に善をほどこすのは、いいことにはちがいないが、かれらはあまりに、それに没頭しすぎる。他人の惨状に同情し、これを救済するのは殊勝なことだが、この同情も、あまり超自然的動機からは出ておらず、そのうえ、あまりにそのことに気を奪われている。かくてかれらの心は、あまたの不完全のスモッグのために黒ずんだ、純すいでない愛情の炎しか、天主にささげることができないのである。
 天主は、霊魂のこの弱さをごらんになっても、怒ってすぐ罰をくだすようなことはなさらない。その恩寵を減らすようなこともなさらない。――もしこの霊魂が、仕事をしているあいだ、よく警戒し、よく祈ろうと、まじめに努力してさえいるなら。また、仕事がおわったら、ご自分のみもとに帰ってきて、休息し、その消耗したエネルギーを回復しようと、常に心がけてさえいるなら。かようにして、霊魂は、活動的生活と内的生活の交錯によってひきおこされる“天主への立ち帰り”を、いつでも、どこでも、くり返していく。そして、この“くり返し”こそは、天父のみ心を、このうえなく、およろこばせするのである。
 不完全とたたかう人は、さいわいである。 
 霊魂は、うむことなく、キリストのみもとに馳せていくことを知るにつれ、不完全そのものもだんだんに減り、それにおちいる回数も、だんだん少なくなっていく。ご自分のもとに馳せてくる霊魂にむかって、イエズスはいつも仰せられるであろう――
 「私のもとにおいで。へとへとに疲れきった小鹿のような、あわれな霊魂よ。
 巡礼のみちの長く、険しいために、のどは渇き、谷間の水にあえいでいる。
 私のもとに来て、生ける水をお飲み。この水のなかにこそ、新たに道をたどるための、新たな力の秘訣を、見いだすだろう。
 しばらく、人ごみのさわがしさから遠ざかりなさい。かれらは、あなたの消耗しつくされた力が求めている旅のかてを、あなたにあたえることはできない。
 「さあ、あなたは、人をさけて寂しい処へ行って、しばらく休むがよい」(マルコ6・30)
 私のところには、静けさがある。平和がある。
 まもなくあなたは、最初の若さを、失われた青春をとりもどすだろう。
 そればかりではない。あなたはそこに、より少ない苦労をもって、より大きな働きをする秘訣を、手段を見いだすだろう。
 エリヤは、旅に疲れて、半死半生だった。暗い気持ちにとざされていた。
 だが、あのふしぎなパンを食べるとすぐに、失われた気力を回復したではないか。
 そのように、私は、自分の使徒なるあなたにも、――私と共同の救い主として、人類救済のいともうらやましい聖業に協力させるため、私自身が選んだあなたにも、同様の旅のかてをあたえる。
 生命そのものなる私の言葉こそは、万物をいのちづける私の恩寵こそは、すなわち、私の血肉こそは、まさしく、このかてなのだ。
 これを食べ、これを飲むがいい。そうしたら、あなたは新たな気力を恵まれて、精神を高く、永遠の彼岸にあげることができよう。あなたの心と私の心のあいだに、親しい友情のちぎりを結ぶことができよう。
 私のもとにおいで。あなたは旅路に疲れて、しおれている。
 幻滅の悲しみに、現実の裏切りに、おしつぶされている。
 私は、あなたを、慰めてあげよう。
 私の心は、あなたをいつくしむその愛に、燃えさかっている。
 私の愛のかまどのなかで、あなたの再起の決心を、きたえあげるがよい。
 『すべて重荷をせおって、苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを、休ませてあげよう』(マテオ11・28)……」

(この章 続く)

聖ピオ十世会:聖伝のミサ(ラテン語のミサ)の報告 平和のために祈りましょう。私たちの最強のICBM 聖母マリアの汚れなき御心

2018年02月14日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は灰の水曜日ですね。四旬節が始まります。
 先日の聖伝のミサのレポートを皆様からいただきましたのでご紹介いたします。

 大阪では、2月12日(月)に「憐みを乞い求める聖体降福式」を行いました。2月17日のミサの直後にも、大阪では公教要理に代わって「憐みを乞い求める聖体降福式 第二回目」を行いたいと思います。

 東京では、2月18日の四旬節第一主日のミサの後で、灰の式を行います。灰の式の後、四旬節をよく過ごすために、日本と世界の平和のために、朝鮮半島での平和のために、共産化による統一が避けられるために、中国のカトリック信徒の方々のために、コロンビアのために、御聖体降福式を行う予定です。

 私たちは平和のために祈ります。私たちには最強のICBMがあります。私たちのICBMは、Immaculatum Cor Beatae Mariae Virginis 童貞聖母マリアの汚れなき御心です。核(カク)の脅威に対抗するために、私たちは天主(カミ)の傘のもとに守られようと思います。私たちは天主の御母である聖母マリアにより頼みましょう。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪での2月11日主日のミサの報告をお送りいたします。

2月11日 五旬節の主日には24名が、
2月12日 聖母マリアの僕の7人の創立者のミサには17名が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

主日のお説教を通して、四旬節をよく過ごすためのウォーミングアップを仕上げて、灰の水曜日のスタートラインに立てるよう教会が私達を導いて下さっている事が良くわかりました。

また、その教会がペトロの岩の上に建てられている事の意味はイエズス様が三度「私を愛するか?」とペトロに尋ねられてペトロが三度「御身を愛しています」と宣言した、その「愛の宣誓」の上に教会が建っていて、それはこの日の書簡の聖パウロのいう「愛がなければ無」とこだましているように思いました。

聖福音に登場した盲目の乞食のように「憐れんで下さい!!」と、「私を憐れんでください」「私達日本を、韓国を、中国の教友を、憐れんで下さい!!」と今年が最初で最後の四旬節だという覚悟で叫びたいと思いました。

私の犠牲や祈りはあまりにも小さく、そのみじめな声はイエズス様に聞こえないかも知れないけれどマリア様の汚れなき御心をとおして叫べばイエズス様は最優先で聞いて下さることを私は小野田神父様から長い月日をかけて教えて頂きましたのでそのように叫ぼうと決心しました。

12日の御ミサの後には、憐みを乞い求める聖体降福式がありました。
これは、日本にとってどれほど大きなお恵みでしょうか!!
御聖体の前で跪きながら、私達が憐みを乞う機会をお与え下さったイエズス様の大きな愛に感動していました。
きっとこの大きなお恵みもマリア様がお取次ぎ下さって準備してくださったに違いないとも思いました。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え

【報告】
イエズス様の神殿への奉献とマリア様のお潔めの意義について

昨日は公教要理のお時間の中で、イエズス様の神殿への奉献とマリア様のお潔めの意義、必要性に対する異論に対する聖トマス・アクイナスの論じた解答について学ぶことができました。
この場を借りまして、まずもって、小野田神父様に対しまして、お忙しい中、私たちの公教要理のために、たくさんの準備を含めて、貴重なお時間をさいていただいたことに深く感謝いたします。

さて、今回の質問は、聖トマス・アクイナスの未完の大著である「神学大全」の中で論じられているということですが、
まず、イエズス様が神殿に奉献されたということに対する異論としては、次の3つ、すなわち、
(1)イエズス様は天主の御子であり、神殿に奉献される必要はそもそもなかったのになぜ奉献されたか、
(2)イエズス様の奉献において、律法に従い、鳩が用いられたのだが、イエズス様ご自身が真の生贄なので、鳩のようないわばイエズス様の「影法師」は必要なかったのではないか、
(3)イエズス様は天主の羔(こひつじ)であり、鳩は生贄としてふさわしくなかったのではないか、
が挙げられるということです。

聖トマス・アクイナスによればこの理由は「律法の下にある人々を購うために律法を果たしたのであり、これにより、イエズス様の神殿への奉献の意義、必要性、必然性が説明されるというようなことでした。
この御摂理は皮相的にとらえると先の異論が生じるのですが、よくよく、考えれば、「律法」が同時代において天主様がユダヤ人に与えた至高のメッセージであり、最高ランクの掟であったことからすれば、むしろ、律法に従わないということは、天主たるイエズス様が自ら定めたことを自ら侵してしまうということになり、サタンの攻撃材料を与えることにもなりかねなかったということもあるのではないかと自分なりに思いました。

次にマリア様のお潔めの意義、必要性に対する異論ですが、やはり次の3つ、すなわち、
(1)そもそも潔めとは汚いものがきれいになるためにすることであるのにもかかわらず、マリア様は無原罪であり、汚くないのだから、お潔めは不要であったのではないか、
(2)レビ記12章3-4節は現在を持つ一般の女性に対する教えであり、マリア様は聖霊によって身籠ったのだから、マリア様に適用するのは前提を欠くのではないか、
(3)潔めは「聖寵」により為されるものであるが、旧約の秘跡は聖寵を与えないし、また、マリア様はその聖寵の与え主たるイエズス様を有していたので、おかしくないか、
が挙げられるということでした。
これについては、キリストには潔めも奉献も要らなかったが、「謙遜と従順」の模範を示すことで、律法を承認、確認し、したがって、マリア様もそのようにされたということでありました。
ヤコブの書第4章6節に「神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」にあるとおりということからも、神の嘉する行いは謙遜と従順であり、私たちはこのことからその重要性をよくよく理解し、実践しなければならないと思いました。
以上、私の理解するところを一言で言い表すと、「律法の成就」と「謙遜と従順」がそれらを根拠づけたということになります。

私は、かりにイエズス様の神殿への奉献がなかりせば、マリア様のお潔めがなかりせばということを想起するとその果たした意味がわかるのではないかとも思いました。

乱筆乱文お許しくださいませ。また私の理解が不足あるいは違っていればご指摘くださいませ。

至聖なるイエズスの聖心、我らを憐れみ給え!
天主の聖母、我らのために祈りたまえ!
聖ヨゼフ、我らのために祈りたまえ!


【手紙】
中国のカトリック信徒の方々の為にお祈りさせて頂きます。大変です。避難所であるマリア様の汚れ無き御心が中国のカトリック信徒の方々を守り導いて下さいますように!


【手紙】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

안녕하세요! 내일 올림픽 개막식 네요.
ケンティの聖ヨハネのお話、とても良かったです!
神父様のお説教でケンティの聖ヨハネという聖人さまのことを初めて知りました。
いつもありがとうございます。

【手紙】
使徒職の秘訣、いつも興味深く読ませて頂いております!ありがとうございます!
ヨゼフ様の初水曜日の信心もブログで毎月仰って下さってありがとうございます!


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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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