Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年11月4-7日,の聖伝のミサの報告:聖ピオ十世会 SSPX JAPAN Latin Traditional Mass

2016年11月11日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

11月の初金、初土とミサ聖祭を大阪で捧げることができました。
ステンドグラスの入った御聖堂で、一段と美しくなり、お祈りもミサ聖祭もますます心を高く上げてすることができました。天主様に感謝!

11月6日の主日には東京で聖伝のミサを捧げました。

午後の公教要理には、カステラーニ神父様の書いた「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)に基づいてお話をしました。
ご参考までに、以下にスペイン語のPDFファイルのリンクをご紹介します。
いろいろな体裁のものが三つありますが、内容は同じものです。

カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)
カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)
カステラーニ神父著「聖ヨハネの黙示録」(El Apokalipsys de San Juan)

今週は、
11月12日(土)10時半から大阪でミサ聖祭が、

11月13日(主)10時半から東京でミサ聖祭があります。

来年、聖ピオ十世会アジア管区はファチマとローマに国際巡礼を行う予定です。
参加ご希望の方々は、どうぞ今日、お申し込みください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

11月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

11月4日 初金曜 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ には20名の方々が
11月5日 初土曜 聖マリアの汚れなき御心の随意ミサ にも20名の方々が御ミサに与る御恵みを頂きました。 デオグラチアス!

11月4日の御ミサには赤ちゃんと小さな女の子が来られていました。歌ミサと御聖体降福式が終わるまで2時間以上最後までおられました。
お聖堂に赤ちゃんの声がするのはとても嬉しいことでした。日本に多くの聖なる家族が与えられますようお祈りを続けたいと思いま す。

「私の心は、侮りと悩みしか期待できなかった。私は誰かがともに苦しんでくれると期待していた。しかし誰も苦しんではくれなかった。
私は人から慰められるのを待っていたが、慰めてくれる者はひとりもいなかった。」
このイエズス様の聖心のミサの奉献文のイエズス様の聖心の叫びを100年前にファチマで天使が代弁していた事について黙想いたしました。
イエズス様の聖心もマリア様の御心も、祈りと犠牲を求めていらっしゃる事をカトリック信者である私は毎日どれくらい真剣に考えているか?
と振り返ると、奉献文の「誰も苦しんではくれなかった」という言葉が胸に突き刺さります。
マリア様が100年前に三人の子供達にお願いされた祈りと犠牲は 、この100年の間に一体どれだけイエズス様とマリア様のみこころをおなぐさめできたのでしょうか?
自分がこの100年の間にこの世に生まれてきたことの意味をしっかりと心に刻んで天主様がお与え下さる全ての十字架を従順に快く担えるよう、御ミサでお祈りしました。

初土曜日のお説教を聞いて、いつも天国へ心をあげて、マリア様の愛の日でもやされ、マリア様の望まれるよう霊魂の救いのために祈りと犠牲を捧げる事を深く決心しました。


【報告】
アヴェ・マリア!
インマクラータ!
小野田神父様こんばんは。
日曜日に煉獄の霊魂の為にお墓参りに行きました。
11月2日から一週間は全贖有が頂けると教えて頂いてから3年目になります。
何故か毎年、道中トラブルが起こります。
今回もはやりトラブルが起こり、引き返そうかと迷いましたが、煉獄で苦しむ霊魂の事を思い、ロザリオをしてマリア様にお願いし、無事にたどり着くことができ、お墓の前でロザリオ一環、全ての死者のための祈り、デ・プロフンディスを唱えることができました。
デオ グラチアス!
主よ、永遠の安息をかれらに與え。耐えざる光をかれらの上に照らしたまえ。かれらの安らかに憩わんことを。


【報告】
+Ave Maria! Immaculata!
死者の月になり、「永遠」について、黙想してみました。

公教要理では・・・
173* 地獄とは、どのようなところでありますか。
   地獄とは、悪人が天主に棄てられて、悪魔と共に終なく苦しむところであります。
174* 地獄に行くのは、どのような霊魂でありますか。
   地獄に行くのは、大罪をもって死んだ人の霊魂であります。
   終ない天国と地獄との存在は、
  一、天主の啓示によっても明らかでありますが(コリント前 13:12、黙 21:4、ペトロ後 2:4、マテオ 8:12)
  二、道理を推し究めても、此の世に於ける幸不幸の不公平なことを改めるために、
     後の世で適当な賞罰がなければならぬことによって認められます。
     尚此の賞罰に終がないのは、人は不滅の霊魂を有して、永遠なる天主の御前に善悪を行うのでありますから、
     たとえその善悪は一時的の仕業であっても、永遠の賞罰を受けねばならぬことになるのであります。
     特に地獄については、人は死と共に取り返しのできぬ最後の決定を受けねばなりませんから、
     死後痛悔して罪の赦を蒙る余地がなく、従って罪人は終ない地獄の罰を受けねばならないのであります。
177 世の終の後にも煉獄がありますか。
   世の終の後には、天国と地獄とがあるだけで、煉獄はありません。
と、あります。

もし息を引き取る瞬間に、聖寵の状態でなかったら?それで万事休す。永遠に地獄。永遠。永遠。永遠。
ひとりの例外も特例もなく、地獄に行けば永遠!
永遠を考えると恐怖で息苦しくなります!

ヤシンタは特に地獄について、いつも黙想していたそうですね。
どれほど多くの人が地獄に行ったか、地獄に行った霊魂はどれほど哀れな状態かを見て。

マリア様は「彼らのために祈る人がいなかったから。」とおっしゃいました。
それで、ヤシンタたちは、ファティマの聖母マリア様の懇願のとおりに、地獄に落ちようとしている霊魂のために
祈りと犠牲を捧げつくそうと決心しました。あんなに小さな子供でしたのに!

ファティマ100周年の時代に生きている私たち(カトリック信者)のなすべきことは、

ファティマのマリア様の懇願のとおりに、ファティマの3人の牧童たちに倣って、
マリア様の汚れ無き御心に逃げ込んで、毎日ロザリオを握りしめて、
地獄に落ちようとしている多くの罪人の救霊のために、彼らのために、彼らに代わって祈り、天主対する侮辱、冒涜を
償い、犠牲をすることだと理解いたしました。

毎日、マリア様の汚れ無き御心と共に、汚れ無き御心に犠牲をお捧げするときに、この祈りを唱えながら。
“イエズスよ、これは御身を愛するため、罪人たちの回心のため、そしてマリアの汚れ無き御心に対して犯される罪を償うためです”

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母マリア様、我らのために祈りたまえ。
我は弱き者ゆえ、御身の懇願に、従順たる御恵みを与えたまえ。


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

イエズス様の聖心は嘆いておられるけれども、「この聖母の汚れなき御心聖堂に集う霊魂たちは例外だ」と仰って下さったのがとても嬉しかったです。
イエズス様とマリア様のお気に入るようにという事だけを考えて、「ここにいます」と、ファチマの天使様を真似てお祈りと、
日々の犠牲をお捧げすることができますように!

公教要理のレポートを書かせて頂きます!

《分かったところ》
ファチマの御出現の時代背景がこんなにひどい第一次世界大戦の真っ最中だとは知りませんでした。全く終わりの解決の糸口の見えない、状況は何も変わっていないのに、戦死者の数だけが膨れあがるという、まさにこの世の地獄という状況で、しかし、人間の力ではどうしようもできない状況でも解決に導いて下さるのが、マリア様で、小野田神父様が質問された方のお答えでも仰って下さっていましたが、天主様の憐れみマリア様の憐れみの力がより一層輝くために、もちろん人間の自由意志の濫用なのですが、天主様はこの第一次世界大戦が起こることをお許しになったのだなと思いました。

また東京の方もレポートで書いて下さっていましたが、第二バチカン公会議以降の今教会内部にある戦争は、上層部が「戦争は起こっていない、何も問題がない」と、敵に対して無抵抗のままなので、更に全世界で膨大な数の霊魂が死んでいる更に恐ろしい状況だなと思いました。
この時また、秋田のマリア様が天から介入して下さり、秋田のマリア様は、「私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残されたしるしだけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって司教、司祭のために祈ってください」と、解決に導いて下さっているのだなと感じました。またより一層ロザリオの十字軍の重大さを感じました。

《分からなかったところ》
全てが新たな発見で、分からない所はなかったように思います。三部作にして下さりありがとうございます。これから天の介入の所に入っていくと思うので次が楽しみです!

デオ・グラチアス!


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!
昨日一昨日と、御ミサ・御聖体降福式・ファチマの歴史の時代背景の御講話など本当に色々ありがとうございました!!(*^▽^*)
ステンドグラスが付けられた御聖堂は本当に天上的で美しいですね!!それを眺めているだけで心が天に上げられるようです。
ルフェーブル大司教様が、「…天主様との一致は、むしろ、宗教的な天的な音楽や、典礼行為を取り巻く全体的な雰囲気や、その場所の敬虔さとか沈潜、建築学的な美しさ、キリスト共同体の熱意、ミサ司式者の高貴さや敬虔の念、象徴を使ってある装飾、香の香り、などによって得られるのです…」と仰っていた事を思い出しました。

デオ・グラチアス!


【報告】
大変遅くなってしまいましたが、
御ミサでの所感をご報告申し上げます。(^_^;)

【霊的講話で】
これまで第一次世界大戦については、
「サラエボ事件でオーストリア皇太子夫妻が暗殺された、それが第一次世界大戦のきっかけとなった。」という
歴史の授業の内容しか記憶していませんでした。
今日の小野田神父様の霊的講話で、その真理が明らかになりました。
真の宗教、真理の観点では、これは国同士を巻き込んだ戦争ではなくて、
「カトリック」対「フリーメーソン、共産主義」の戦い、つまり「唯一の善」と「悪」の戦いだったことです。
真の、唯一の天主、唯一の宗教だけが、歴史も自然も、全てを完全に説明できると深く理解できました。

また天主を排除した世界が、どれほどみじめな状況になるかを悟りました。

【お説教で】
ファティマのマリア様は「私は天国からのものです。」とおっしゃいました。
どうして「天主の御母です」とか「無原罪の御宿りです」などとおっしゃらなかったのだろうと、
ずっとなんとなく疑問でした。その疑問にマリア様は小野田神父様のお説教を通してお答えくださいました。
それは私たちの心を天国に向けようとされていたのだと理解できました。
なぜなら、ルチアはすぐに自分やヤシンタ、フランシスコ、亡くなったお友達が天国に行けるか、行ったかを聞いたからです。

マリア様は、亡くなったお友達が煉獄に行ったこともおっしゃいました。
7月には地獄のビジョンを子供たちにお見せになりました。
ファティマのマリア様は死の次にある、天国、煉獄、地獄を
現代の私たちに、はっきりとお示しになられたのですね。

ファティマの天使が、大天使聖ミカエルであったことに驚きました!
天使の祈りを、額を地面につけて唱えるよう教えてくださったのが、
聖ミカエル様であったことに、深く納得し、天軍の総帥が自ら手本をお示しになってくださったことに
さらに尊敬と親愛が増しました。
ポルトガルも日本も、聖母の汚れ無き御心に捧げられた国家だから、
聖ミカエル様も保護者となってくださったのでしょうか?と思いました。

天使は祈ることはできても、苦しみ、犠牲を捧げることはできないので、
苦しんだり、犠牲を捧げることのできる人間を羨ましいと思ってさえ、いるということに、
はっ!としました。
そして犠牲をお捧げできる私たち人間はなんて幸せなんだろう。
天主様にもっともっと愛と犠牲をお捧げしたいと思いました。

つい最近、プロテスタントの布教の車のスピーカーから、「イエス様を信じるものは救われる・・・」とずーっと流れていました。
その大音量のテープを聞いた人は「ああ、”宗教”だ、”宗教”が何かやっている」と失笑していました。
テープの内容は「復活されたこと」「神を信じるものは救われる」というもので、確かに間違ってはいないことでしたが、
テープを聞きながら、カトリックとどこが違うのかを考えていました。
カトリックでは、車から大音量で布教をしたりしません。
カトリックは、天主を知ろうとしない、あまりにも多くの人たちのために、
その人たちのために、その人たちのかわりに祈り、犠牲を捧げて、自分の命を捧げてまでも、
罪人の回心を聖母を通して、天主に懇願します。
回心は天主からの憐れみの恩恵であり、聖母の御手を通して与えられるものです。
天主の無い、憐れみの御母のいない、聖なる御ミサの無い、真の秘蹟の無い、真の信仰の無い、プロテスタント。
そのスピーカーから流れるテープを聞いて、「回心」はあるのだろうか?と思いました。

聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈りたまえ。
ファティマの聖母、我らのために祈りたまえ。


【報告】
Dear Fr Onoda:
今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 21人(内、子供2人)
女: 21人(内、子供3人)
計: 42人(内、子供5人)


【報告】
+アヴェ・マリア・インマクラータ!
トマス小野田神父様

小野田神父様、こんばんわ。いつも私たち霊魂のために奔走してくださって心身ともにお疲れのことと思います。いつも本当にありがとうございます。

御ミサのレポートをお送り致します。
・今日の御ミサでこれだ!と分かったこと
1つは、書簡で聖パウロは「憐れみの腑を着よ」とパウロ様は仰っており、これは「上辺だけでなく、腹の底から憐れみをもつ」ということであること。
書簡では私たちは天主様から「愛された者である、選ばれた者である」と述べられていることを考え直し、何と恵まれた有り難いことだと思いました。
しかし、その分の責任が伴うので、(堅振の時の霊魂に刻まれる印、印を受けたまま地獄へ落ちてしまった場合、地獄の更に深い場所へ行く話を思い出しました。)責任を果たせるように、更にマリア様におすがりしてお祈りしなければと思います。よく償いの行為と、ロザリオのお祈りをしようと思いました。

もう1つは、聖福音で敵が毒麦をまいたがこれは天主様のご計画の内で、しかし「毒麦は最後には集めて炉に入れられる」こと。
現代社会がすっかり忘れ去ろうとしており、カトリック教会さえもその存在を忘れさせようとしている「四終」を思い出しました。(私はノブスオルドの教会に通っていた時には「四終」という言葉さえ知りませんでした・・・)私たちは常にこれを意識すべきである事を再確認し、特に死者の月に当たって良い黙想をすることができました。

「憐れみの腑」「四終」という事を考えつつ、「ああ、天国への道はなんと遠い・・・・・・」と思っていたのですが、
聖体拝領誦の「汝らにいう、祈って願うことは、すでに得たと信じよ。そうすれば、得るであろう。」というお祈りでとても慰めを受けました。
天主様とマリア様に感謝いたします!


公教要理の時間には、聖ヨハネによる黙示録について、レオナルド・カステラニ神父様の著書を元にしたお話を伺いました。
黙示録は難解で意味がよく理解できておらず、意味を知りたいなと思いインターネット上で黙示録について検索するとオカルト的だったり終末論の要素が強調されすぎていたり・・・という検索結果や本しか発見できなかったので、これは見ない方が賢明だろう、と思いそのままにしておりました。
しかし、今回は神父様が解説してくださるということでとても嬉しかったです!

今回教えていただいたことを以下にまとめました。
・黙示録は、使徒聖ヨハネがパトモス島で書いた。
・始まりの言葉 "Apo-kalypsis" とは、「ベールを取る、隠れたものを明らかに啓く」という意味。
・黙示録には様々な解釈がある。ある人は、これは詩で、つまり文学であるから誰にも理解できないという。
 またある人は、これは預言書だが難解で誰にも理解できないという。しかし、この本の著者であるカステラニ神父様は、違った見方をして、
 「これは預言書で確かに難解だ。しかし天主様は難解で理解不能なものを聖書の正典として残されることは、なさらないはずである。
 つまり、難解だが意味を理解することができるはずであり、また、意味を探し求めることに意義がある。」と述べている。
・黙示録には2つの傾向がある。1つは、「終末論に重きを置いた歴史」 もう1つは、「歴史に重きを置いた終末論」である。
・聖ヨハネは、黙示録中で計20のビジョンを見る。初めの10は「終末論に重きを置いた歴史」、後の10は「歴史に重きを置いた終末論」に分類される。
・20のビジョンは以下の通り。
 「終末論に重きを置いた歴史」に分類される初めの10
 1.7つの教会への手紙
 2.本(巻物)と子羊
 3.7つの封印
 4.選ばれた者達が印をされる
 5.7つのラッパ
 6.本(巻物)が飲み込まれる
 7.神殿が測られる
 8.2人の証人 
 9.第7のラッパ
 10.冠を被る婦人
 「歴史に重きを置いた終末論」に分類される後の10
 11.2匹の獣
 12.童貞と子羊
 13.永遠の福音
 14.刈りとる者
 15.7つのさかずき
 16.大淫婦
 17.バビロンの壊滅
 18.千年王国
 19.最後の審判
 20.凱旋のエルサレム
・「1.7つの教会」とは、「歴史の中の7つの教会の段階」である。
 1.エフェゾ:「跳躍」の意。(意味はイエズス会士ビヨ枢機卿の解釈に依る)使徒達〜ネロ帝の時代を指す。
      「ニコライ派の異端」(2:7)とは助祭ニコラウスのこと。
       エフェゾはカトリックが盛んでありつつも、異教も盛んであった。
       ニコラウスはそちらに靡き人々に悪い手本を見せてしまった。
 2.スミルナ:「没薬」の意。殉教者の時代、ネロ帝〜デオクレティアヌス帝の時代。
       「10日間の試練」とはネロ帝〜デオクレティアヌス帝の10代の皇帝を
        指しているのだろうか。
 3.ペルガモ:「巻物、羊皮紙」の意。教父・博士達の時代。聖アンブロジオや聖アウグスティヌスが出た。
 4.ティアティラ:シャルル・マーニュ〜宗教改革の時代。キリスト教文明が最高潮を迎えた時代であった。
 5.サルデス:ルネッサンス〜フランス革命を経て現代まで。
      ルネッサンスとは、フランス語"re-naissance"「新たに生まれる」の意。
      黙示録3:1には、「あなたは生きる者だと思われているが、実は死んでいる。」とある。
 6.フィラデルフィア:「兄弟愛」の意。新しいエルサレムのこと。
 7.ラオディキア:千年の福なる教会

黙示録の解説を全く見たり聞いたりしたことのない私にとっては正に目からウロコでした。この難解な書物を素晴らしく研究なさった教父達や神父様達のお力と努力は素晴らしいと思いました。
カステラニ神父様の、天主様は(理解不能な書物を残すなどという)不要なことはなさらないはずだ、これは難解だが意味を理解することができるはずであり、また、意味を探し求めることに意義がある。という姿勢も本当にカトリック的で素晴らしいと思います。「分からないものは分からないから、いいや!」や
逆にこれまでの教会が教えてきたことを超越して異端的解釈・独り善がりの解釈をしてしまうのではなく、天主様が教会を通してこれまで教えてくださった事から決して離れずに、しかし、まだ良く理解できていない事柄に対する理解を深めようと天主様の恩寵を求めつつ努力する姿勢は、聖イグナチオが仰っている「中庸」だとも思い、これが素晴らしいカトリックの教義を深めてきた方々の、そしてカトリック教会の姿勢であると思いました。学問や事象等々、何か物事に対した時に人間は正にこのようにあるべきだと思うので、それを実践し続けてきたカトリック教会は本当に素晴らしいです!!! 私はよく分からない、理解できないことがあると「いいや!」と逃げてしまうタイプなので・・・さらにより良いカトリック教会の成員となるために天主様の恩寵を望み、しかし自らもよく努力する姿勢を身に付けなければ、と思うことができました。デオグラチアス!
また、神父様もおっしゃっていましたが、聖書には1つの言葉に対してだけでも二重・三重の意味があり、これはとても人間の力で書けるものではない大変素晴らしい天主様の御言葉です。信仰指導書には聖書を「奉読する」と書かれているものも多くあると思うのですが、聖書は正に「読む」ものではなく「奉読する」べきものであると思いました。

聖母の汚れなき御心への信心が一日も早く確立されますように!
+In Mary Immaculate,


【報告】
十アヴェ・マリア・インマクラータ!

今回も御ミサに与ることができまして感謝でした。
10月のミサでは、聖伝のごミサは まるで天国のようだと気づかされ、ミサの美しさと天国への憧れで気持ちがいっぱいになりました。ところが、いつ間にかその心のなかにはこの世のことがいっぱい満ちてしまって、苦しさに気づいた時には、自分ではもうどうすることもできないかのように、お手上げみたいになりました。そんななさけない状態で 聖霊降臨後第25主日の御ミサに与らせていただきました。
そして、ちょうどそのような私の霊魂を癒し慰め励ましてくださるかのようなこの日のお説教でした。
「どれほど多く天のことをかんがえたことか?」との問いかけには本当に地上のことだけ自分のことだけになってしまっておりました、と答えざるを得ないような者です。
けれど この世にはそして教会の中にさえも 敵が毒を撒いたのであり最後には毒麦は毒麦として集められ焼かれ、良い麦は集めて蔵に納められるのだから、選ばれたものとして聖なるものとして天主様から愛されたものとして特別のお恵みを受けたものとして「憐れみの腹わたを着よ! 謙遜 慎み 忍耐を着よ!」 と 励ましていただきました。
私は 選ばれ愛された者と言われる資格もなくただ惨めで恥ずかしい事ばかりの者ですが、天主様の恩寵をいただきましたことの感謝とともに「あなたの聖なる家族を守ってください!」と嘆願し祈らねばならないと勇気づけられました。
そして ご受難と復活を遂げ、私たちのために天国を獲得してくださったイエズス様への愛をもってその天国をもっといつも思い起こすようにしましょうとのお話しに ハッといたしました。
ここにいる私は 良い麦畑に憩っているかのように感じられ、聖なる平安が漂うごミサに与ることのできる幸せに感謝したしました。「私が悪い麦であっても 聖なるミサ聖祭の功徳と ここにいる皆様の祈りとにより いくらかでも良いものとされますように。」

帰宅し眠りに入るまで 「天国のことをもっとしばしば思いますように」、「ジャシンタのように自分のなされる悪を思うのではなくそれを罪の償いとして喜んで犠牲を煉獄の霊魂のためにお捧げすることのできますように」との2つを自分自身に言い聞かせました。この2つを心の留めて、ロザリオ十字軍を続けられたらと思います。 (私の場合 自分がにうっかりしていて周りの人に悪いことをしてしまっていると気づかされることの方が多いものです。)

公教要理では、黙示録の講話でした。1956年に Leonardo Castellani 神父さまの書かれたものを 元にした お話しということで、
聖ヨハネが見た20の幻視のなかで、特に7つという数字を用いた幻視について詳しく説明していただきました。
黙示録には7つという数字がいろいろなところにつかわれてます。
お話しのなかで、特に サルデスの教会の時期が、ルネサンスからフランス革命を経て 現代まで続いている時代を象徴した部分ですという説明が、印象深かったです。
新しく生まれる renaissanceは、
re(もう一度) + naissance(生まれる)
この時代について 「生きてると言いながら実は死んでいる、生き返ったと言いながら、実は古代の異教のものの生き返りで実は死んでいる」、との説明が特に心に留まりました。
帰宅して聖書の黙示録を開いて読みました。そうしたらサルデスの教会へ書き送られた言葉が活き活きとしたものとなってきました。
人間がルネサンス以降 神の方へ向かうのをやめようとし始め、人間性を重視する文明を築こうとし、政治においても神から付与された政権というものを捨て、ついには第二次世界大戦から第二バチカン公会議まで至ってきているいま、古い宗教に縛られた古い生き方を捨てさり、人間として生きることを目指しているかのように自分ではそう思っている今の人たちは、実はキリストの死と復活によって新しい命をいただいたことを捨て、古代の異教バビロンの死の生活をする死んだ者達に過ぎないと、言っているかのように思えてきました。
目を覚まして、死んでいるに過ぎない人間中心の生き方から 「どのように教えを受け、どのように聞いたかを思い起こして、それを守りなさい。そして 悔い改めなさい。」(黙示録3:3 )の助言を真摯に受け入れなければ、キリストによって得られた勝利の白い衣は着れない、というところは、聖伝の伝統的なカトリックの教えを守りなさいと言っているかのように思われてしまいました。人間中心の今の生き方は バビロンの時代のようなものなのでしょう。そして この部分が現代に当てはまる時期であるとのCastellani神父様の考察は なかなか鋭いのかなと 感じます。
 イエズス様がマリア・マルガリタ・アラコックにご出現されて聖心の信心が打ち立てられた過程を思い出したり、マリア様のファチマでのご出現でマリア様の御心の信心を通してイエズス様の聖心の信心へと向かうことをお望みになられたのも、この人間中心の生き方をあらため 私たちが本来そうであるようにつくられたところのイエズス様を心の中心に王として生きるようにとの 天主様のお計らいなのだろうとを思いうかべた次第です。

次回の黙示録の講話も楽しみにです。

今月は 小野田神父様が主日の御ミサを続けて三回捧げてくださるご予定で、またすぐに御ミサに与れると思うと 大変嬉しいです。本当にありがとうございます。

感想を書くことで 自分自身のなかで 信仰を確認する作業ができるようです。手元から流れいったかもしれないものを ちゃんと抱きとめ しっかり言葉にして大切にすることができるようです。
神父様、いつも大変ありがとうございます。

デオグラチアス!



聖ピオ十世会日本のお説教・講話がここに掲載されています。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】