2016年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話5
「“天主の憐れみ”と“謙遜”」
同時通訳:小野田圭志神父
「“天主の憐れみ”と“謙遜”」
同時通訳:小野田圭志神父
私たちは天主の属性の最も偉大なもの、つまり「天主の憐れみ」という事について理解を深めようとしました。
天主の、全ての所有者が無に施したという、その2つの状況が1つになったということを覚えて下さい。
Abyssus abyssum invocat.(詩篇41:8)深淵が深淵を呼ぶ。“Abyssus「深淵なる無限の天主」”が“Abyssus「深淵なる無」”と結びついた、という事をいつも覚えて下さい。無限の善と豊かさと美しさと、無限の無が1つになった、という事をいつも覚えて下さい。
第1の憐れみは、その天主の心から無を生み出した、無から有を生み出した、創造したという事です。創造した後には私たちを在り続けさせて、存在し続けさせて、それを保存し続けて、それが御摂理です。無に等しいような私たちをとってこれを私たちをして、天主の息子、天主の娘、聖なる子供たちとして下さった事です。何も持っていない奴隷が、天主の子供となって全てを持つ事ができるようになった。
天主の永遠の命がどうやって私たちに下さる事になったのでしょうか?どうやって?
天主様はただ配達の人を送ったのではなくて、御自身から、自ら、私たちのもとにやって来られました。色んな来方がありました。しかしその色んなやり方、来るやり方に於いて、どんなやり方で来られたでしょうか?色んなやり方がある中で、一番御自分の「憐れみ」というものをよく示す事ができるやり方で来られました。
無限の天主、誰も踏み込む事のできない天主が、ほんの小さな胎児になられました。無限の計り知れない天主が、ほぼもう目に見えない小さなものとなられた、という事を考えて下さい。天主が人となって人間の心を持ちました。この人間の至聖なる聖心に於いて、憐れみがますます光り輝きます。
何故かというと、「心がどれほど良いか、良い心を持っているか」という事は、「どれほど憐れみ深いか、どれほど愛するか」という事で計られるからです。母の、良き母の心というのは、自分の子供たちに与え、子供たちを愛するという事です。これが御自分の聖心を皆さんに見せようとした時に、理解させようとした事です。
聖マルガリタ・マリア・アラコックに現れてこう言います、「見よ、人類をこれほどまでに愛したこの聖心を見よ。」
明日は初金曜日ですから、イエズス様の聖心の連祷を唱えます。その時に、『全ての宝を秘めたるイエズスの聖心』という言葉があります。全ての宝、天と地の全ての宝と全ての徳に満ちた聖心です。
この天主の聖心は一体誰の為に鼓動を打っているのでしょうか?
このほぼ無に等しい存在の為に、鼓動を打っています。
しかし非常に恐ろしい事が起りました。皆さんの存在、天主が創られたすばらしい美しい宮殿、この宮殿は原罪によって罪によって廃墟となり、汚く汚されてしまいました。天主様が無限のものすごい贈り物をプレゼントを持ってやって来て、そのプレゼントを与えようとしてこの宮殿の前に来るのですけれども、ノックしてもドアは開かれないし、その神殿はすでに汚く汚されて、破壊されてしまっているのです。
もしも天主様が贈り物を与えようとして来て、せっかく来たのに宮殿に来てみたら、この自分の作った宮殿はもう汚く汚されて、壊れてもう入る事もできなくなっている酷い状況です。天主様は何をするべきでしょうか?
「無からあなたを創った時に、憐れみをもう既に見せたのではないでしょうか?この美しい宮殿を建てたのは一体誰ですか?私ですよ。美しい花と美しい装飾品であなたを飾って、この美しい美徳で飾ったのは才能で飾ったのは私ですよ。でも私があげたあなたに与えた全てのものを、ただ壊して、破壊して、濫用していただけなのです。私の愛をただ馬鹿にして笑って、毎日毎日馬鹿にするだけでした。私の心をもう与える事ができません。もしも最初に忠実である事ができないなら、2回目はもうチャンスがありません。この美しい宮殿はすでに屈辱されました。もう私の目に入らないで下さい。」
天主様はこうは言いませんでした。
天主様はこの悪に、この闇に向かい合います。天主様が自分の永遠の命をこの無に等しい被造物に与える為に、悲劇は起こります。天主様はこの世を贖う為に血を流す、流血の悲劇のドラマを今から行います。
憐れみに満ちた天主の御旨においては決心が立てられています、「悪魔はこの宮殿を破壊した。しかし私はそれを回復させよう、建て直そう。」
この世の中に天主が人となって来られた時に、イエズス様の聖心は鼓動を打ち始めます。天主様はこの破壊された宮殿の中に入ります。この閉ざされた門を強くたたいて、このドアが開けられるように求めています。私たちの冷たい石のような心にドンドンとノックします。
しかし、その開かれた冷たい門から、汚らしい水がドクドクと流れて来ます。私たちの心の奥からは、汚物が激流のようにドロドロドロと流れて来て、イエズス様のきれいな聖心を押し潰します。イエズス様はその汚い罪の杯を飲み干し、そしてその罪の結果を全てこの肩に背負います。
例えば人間の心をきれいな心をとって、それを千回、一万回、何十万回もそれを押し潰してしまったと考えてみて下さい。私たちがイエズス様にやったことはそれです。
イエズス様の聖心の憐れみは何をしているでしょうか?私たちの全ての汚物、汚らしいものを自分のものとして取って下ってくださいます。恐ろしい御受難によって、私たちの汚く壊れた霊魂を、また美しく建て直しました。
イエズス様は私たちの負債を全て支払いました。私が当然受けなければならない罰をイエズス様が全て受けられました。イエズス様は自分の可能な限り私たちを愛し尽くしました。
天主様の憐れみは終わりがありません。たとえ罪であっても、それは天主の憐れみの障害ではありません。その罪を打ち砕いても憐れみを与えます。
イエズス様の憐れみは、その完璧な従順によって、私たちの不従順と反抗を癒します。私たちの貞潔に背く罪も、イエズス様の体と頭とこの肉体が全て破壊し尽くされる事によって癒します。私たちの死も、御自分が最もひどい最悪の死を受ける事によって癒します。
ここに天主様の憐れみの全ての段階が、全てのリストがあります。
皆さん、私たちは今憐れみの聖年の中にいます。この憐れみの聖年を宣言された当局からは残念ながら、この「本当の天主の憐れみ、憐れみとは何か」というこの今私が申し上げた事についての一言の言及もありませんでした。天主様イエズス様がこの世の全ての悪、汚れ、汚物を自分に受け取った後には、1つ望んでいる事は、御自分の憐れみを全ての人に、「どのような罪人であれ、どのような極悪人であれ、全ての人々に自分の憐れみを示したい」という事です。
では私たちの救いの救霊の一番の障害は何でしょうか?
私たちの罪ではありません。私たちの弱さでもありません。私たちの性格でもありません。怒りっぽい事でもありません。問題は、「私たちが天主の憐れみを望まない事」です。
私たちはこう言わなければなりません、「私たちは誰も、天主の憐れみを十分に受け取ろうとしていない」と。
私たちが想像を超えたよりもはるかにもっと、もっと、もっと、もっと、イエズス様は憐れみを与えたいと願っています。
イエズス様がもっと下さろうとしている時、良きキリスト信者とはどのようにあるべきでしょうか?
良きキリスト信者というのはこうです、こうあるべきです。イエズス様に許可を与えて、「はい、憐れみを下さい」と憐れみを受け取ることです。
もしも皆さんが1億円私に下さるとしたら、もちろん私は、皆さんが私に1億円を下さる事を許可します。
しかしその反対に、もしも私が皆さんにこう言ったとしましょう。
「お金をくれる前に、私の足に接吻して下さい。私の服も洗ってください。2時間くらい待ってくれませんか。もっと別のことが、他にやる事があるからです。そのあとで、1億円もらってあげましょう」と。もしもそんなことを言ったら、皆さんは怒って、それならあげません、もういい!とおっしゃることでしょう。
実はこれが私たちのやっている事です。私たちがいつもやっている事はイエズス様の聖心に、「私の罪を赦しても良いですよ。私の汚物を取っても良いですよ。」
これはオーバーではありません。
時にはこうも言います、「でもイエズス様、でも全部汚物は取らないで下さい。ちょっとだけ残しておいて下さい。私は汚物が好きなんです。」「1億円も私に与えないで下さい、1億円もいりません。ただ千円だけ下さい、千円。」
私たちはイエズス様の贈り物をいつも制限しているのです。だから天主様は涙を流しています、悲しいのです。
聖マルガリタ・マリア・アラコックにイエズス様は仰って、「見よ、人類をこれほどまでに愛する聖心を。しかしこの返答として私の受けるのは、冷淡と、無関心と、冒瀆だけだ」と。
ではすると、一体誰に、一体どこに、イエズス様が全てを与え尽くす事ができるかという事が分かりますね?
遂にイエズス様が、御自分の与えようとした御恵みの全てを完璧に与える事ができる、この心にだけはイエズス様は全てを100%与える事ができるのです。何故かというとこの心は、イエズス様の贈り物を100%受けるように開いているからです。
それがマリア様です。だからですからマリア様は聖母は、天主様の最高の御恵みを全て受けた方です。これが聖母の無原罪の御宿りの正しい理解のやり方です。何故かというとマリア様は、無原罪の、原罪の汚れなき宿った方ですから、全て受ける事ができたからです。
聖トマス・アクィナスはこの点が理解できませんでした。2つの意見を提示して、マリア様が原罪を持って懐胎されたという意見に傾いているように思われます。何故かというとその理由は、「全ての人間は贖わなければならないから。そしてマリア様さえも贖われていなければならないから」という事です。もしも、「イエズス・キリストの贖いの業を必要としない」と言う人間がいたとしたら、それは異端者です。「原罪を除去する為にイエズス・キリストの贖いが必ず必要だ」という、キリスト以外の方法を、聖トマス・アクィナスは見出す事ができませんでした。
聖トマス・アクィナスはこの点に於いて正しいのです。つまり、「マリア様も、原罪を赦される為に、イエズス・キリストの贖いの御業を必要としていた」という事です。しかしマリア様の贖いは、更にもっと崇高なやり方で行われました。マリア様は天主様から与えられた特別のやり方によって贖われたからです。
ドグマの定義の文によればこうあります、「将来の人類の贖いの御業を見て通して、人類の贖い主は、マリアはその体内に宿るその創造を受けたその瞬間に、贖いの実りをすでに適用を受けて、天主はマリアの霊魂が原罪の汚れによって汚されるのを許さなかった。何故ならば、イエズス・キリストは後に彼女の為に、十字架の上で亡くなるから。」永遠の天主は、たとえ時に於いてイエズス・キリストがまだ死んでいなくても、そしてその実りが、その結果の功徳がなされていなかったとしても、そのそれを既に永遠のうちに見て、その結果をマリア様に適用させたからです。
ではマリア様が無原罪の御宿りであり、原罪の汚れから逃れたという事は一体何故でしょうか?マリア様の美徳だったでしょうか?
いいえ。ただ単に、天主の憐れみでした。マリア様がそれほどまでいと清く、そして無原罪であったとしても、汚れのない方であったとしても、それは天主の憐れみの最大の表れの結果です。
例えばこれはイメージですけれども、マリア様の霊魂が創られて、この創造されてそしてこの母の胎内に宿ろうとするその瞬間、霊魂がこう宿ろうとするその瞬間、イエズス様がその前に現れて、原罪の汚れがその霊魂を触るその瞬間、イエズス様の御受難がそれをストップさせたとでも言えるでしょうか。
皆さん話しが複雑になってきたので、皆さん確かにフンフン、フンフンと納得して下さっています。(^^;)
多くの人がこの無原罪の御宿りという事をよく理解していないので、皆さんが理解する事は非常に大切です。ですから別の例を挙げます。
多くの人は、「マリア様は贖いを必要としていなかった」と考えていますが、これは誤解です、これは異端です。幼きイエズスの聖テレジアはこういう素晴らしい例を挙げています。幼きイエズスの聖テレジアはこう言います、「天主は二重の、2つのやり方で私たちを罪から救う事ができる。」
第1のやり方は普通のやり方です。1つは、子供がよちよち歩きでこの汚い汚物の中にドターン!と倒れてしまって、うわ~ん!と言った時に、天主様の憐れみで、それをきれいにして下さるというやり方です。
それが強烈に倒れれば倒れるほど、また深くズブズブと中に潜ってしまえばしまうほど、そこから取り出してしまう天主様の憐れみはますます輝きます。ものすごい大きな罪人が回心する時に、より多くの天主の憐れみが輝きます。マリア・マグダレナ、放蕩息子、ザケオ、良き盗賊のディスマス、聖アウグスティノ、罪と誤謬に深く浸かっている人が回心する事です。これが天主の大きな憐れみです。
でも別の憐れみの表れ方があります。子供がかけっこをしています。お父さんが、その子供がかけっこをしているの見て、「あっ前に躓く何か石ころがある」というのを見ると、「もしもあれだと、それに躓いて転んで大ケガをする!」子供が走っている所に向かってお父さんも走って、案の定、子供はこの石に躓いて「あぁ~っ!」と泥の中にもう突っ込むか、という時に、お父さんがその子供を抱きかかえて、そして立たせてあげる。子供は汚く汚れませんでした。何の傷も受けません。何の罪も。
でもどちらが、どこに、より大きな憐れみがあるでしょうか?泥の中に倒れてしまったのを可哀相に思って助け出すのも憐れみですが、それが無いように防いだ、というのはより大きな憐れみです。そのような霊魂は、「あぁ天主様、あなたは本当に憐れみ深くて、私がそのようにあまりにも弱いので、そのように罪を犯す事さえもお許しになりませんでした。」
これはマリア様に起こった事を理解する為の、非常に遠くにあるそんな影のような例えです。原罪の汚れがマリア様の霊魂に触れてそれを汚そうとするその瞬間、天主がそれをマリア様の霊魂を取って抱えて、原罪の汚れから汚されるのを防いだ、とでも言いましょうか。
天主様の全ての聖心にある愛は皆さんに与えられました。ですから皆さん一人ひとり天主の憐れみをご存知のはずです。「私は天主の憐れみを永遠に歌おう。おぉ、憐れみの天主、御身は私を創造して下さいました。憐れみ、天主の憐れみは私を創り、私を保存し、私を導き、御摂理によって守ってくれます。憐れみのイエズスは私を浄め、守り、助けてくれます。イエズス様の聖心は憐れみは、私の霊魂を聖化し、天国を開いてくれます。」
同じ事をマリア様も言います。でもまた別の、全く別のやり方で仰います。何故かというとマリア様は、天主様の憐れみを全て、完璧に、与えられるがままに受け取るからです。「でも」とか、「しかし」とか、制限は無いからです。
マリア様が天主の憐れみにそれほどまで深く開かれて、それを全て受ける事ができたのは、1つの条件がありました。それは、「私たちが何でもない『無』であるという事を自覚する事」です。
「天主が無限の御方であり、無限の善であり、全知全能である、最高の方である」という事を自覚するだけでは足りません。それだけではなく、「私たちが無であり、もう天主がなければ何でもない」という事を自覚しなければなりません。何故かというと、私たちの中に何か天主以外のものを、別のものがあれば、天主はその中に入る事ができないからです。
私は先ほど申し上げました、「天主様の憐れみは私たちの中に入る事ができない。」何故かというと、私たちの中に障害物があるからです。私たちの中に、自分の事だけでいっぱいであるからです。私たちの心の中には汚物だらけなのにもかかわらず、その汚物を私たちの良い特徴だと考えています。
ミサのカリスを見て下さい。このカリスの中に汚いものとか何かゴミを入れたとします。貴重な液体をその中に入れる事ができません。ミサの時にはそのワインを注ぐ前に、司祭はちゃんとそれをきれいにして、ゴミの1つもないように確かめてから入れます。イエズス様の御血が入る為には、このカリスは清く、その中には何もゴミが入ってはいけません。
これがマリア様と私たちの違いです。憐れみを受ける為には、条件はただ1つです。私たちの弱さではありません。私たちの悪い性格でもありません。私たちのファンタジーや幻想でもありません。私たちがちょっと頭が狂っている事ではありません。私たちの中で欠けているのは「謙遜」です。
この御謙遜こそが、マリア様の中に憐れみのその激流が降り注いだその原因です。謙遜だけが、天主様のその偉大な憐れみの恵みを全て制限なく受け入れる事ができるようにさせる条件です。マリア様は御自分の事からすっかり目を逸らしていました。マリア様は自分の弱さについて嘆く時間がありませんでした。他人の弱さがどうのこうのと、ゴシップにおしゃべりをする時間はありませんでした。御自分がどれほど小さいのか、と考える時間さえもありませんでした。マリア様は天主様の事だけを考えていました。ですから全てを受ける事ができたのです。
天主の最高の属性は「憐れみ」だとすれば、被造物の最高の属性は「謙遜」であるべきです。
「憐れみ」というのは、天主としてのその基礎にある属性です。
「謙遜」というのは、私たちの霊性とこの全ての聖徳の基礎に、土台となるべきものです。
天主の憐れみは、他の天主の属性の父親のような基礎です。
謙遜は全ての徳の母となるべき徳です。
天主は能動的な原因であって、全ての原因の根源です。
聖人になるには2つの事が要求されます。天主の方からは「無限の憐れみ」が。霊魂からは「謙遜」が。
私たちの問題はこれです。いつも私たちは自分の事だけを考えて、「私はこんなに悪い、こんなに悪い、こんなに悪い、こんなに悪い」と思うことです。
では私たちの痛悔というのはどうでしょうか?「私は怒っている。そんなにそれを一生懸命直そうとするのですが、それができない。」「神父様、私は何で昔から同じ罪ばかりを犯して、あぁもう何でもありません。」「私は本当にもう何をやっても駄目で、天国に行けないかもしれません。」
そう仰る必要はありません。天主様はその事をよく知っていますし、私もよく知っていますし、皆さんもよく知っていますから、別に言わなくても分かっています。
私たちが言わなければならない事は、ただ謙遜であるという事です。
私たちは無です。でも、天主様は偉大です。それを認めることです。
では今から休憩を入れます。今からですね、皆さんが聞いた事のないようなやり方で、「マリア様の御謙遜」という事について話をしたいと思います。
それはそのこのお話しの後に、皆さんがマリア様のように御謙遜になる為です。
では休んで下さい、15分間休憩です。