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ユスト高山右近 マニラにおける帰天400周年(通説2015年2月5日) 本当は、2015年2月3日

2015年02月05日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は、日本二十六聖人の殉教の日であると同時に、その祝日であり、またユスト高山右近の帰天400周年です。

 実は、正確に言うと、高山右近は2月3日にマニラで帰天したとのことです。

 『日本キリスト教歴史大事典』(教文館)の「山右近」の項の記述によると、「2月5日」となっているのですが、


 右近の臨終に立ち会った目撃者である、イエズス会のペドロ・モレホン神父(Pedro Morejón, 1562-1639)が書いた『日本におけるキリスト教に対する迫害』Relacion de la persecvcion qve vvo en la yglesia de Iaponで、数字の「3」を「5」と読み間違ってしまったとのことです。(後に、モレホン神父自身も気付き、17世紀にマニラであった山右近の公式列福調査においては、公式証言記録、文字で「tres」と記されています。)

 しかし、上智大学のイエズス会士ヨハネス・ラウレス神父(Laurentz Laures, 1891-1959)は、モレホン師の例の『日本殉教録』をもとに、『山右近の生涯』を書いて、「2月5日」を主張しました。

 「2月5日」というのは、「3」と「5」の読み間違いから始まったとのことです。

 「2月5日」というのは、日本二十六聖人の殉教の日でもあるので、それと同じ日にあたったのだという思い込みもあったのかもしれませんね。

 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)




この映画のダビングのために日本語訳を作り、録音してくださった声優の方々や、字幕を作ってくださった方々、すべての関係者の方々に感謝します。


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トリエント公会議による公教要理 祈りについて 祈りの実りと有用性 (聖ピオ十世会訳)

2015年02月05日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 「トリエント公会議の公教要理(ローマ公教要理)」 第4部 「祈り」についての部分の日本語訳(聖ピオ十世会訳)をご紹介します。

 今回は、「祈りの実りと有用性」についてです。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


§ 2 祈りの実りと有用性


5.祈りは必要なものであると同時に、きわめて有益なものでもあります。実際、祈りはたいへん快く、また甚だ豊かな実りをもたらします。司牧者は、もしこれを信徒に説明する必要がある場合、聖書ならびに教父の著作の中にこれらの実りについての詳しい記述を見出すことができます。
本編では、当代の必要に最も適った実りをいくつかとり上げるに留めます。

祈りから得ることのできる第1の実りは、私たちの祈りが天主を敬うということに存します。
なぜなら、祈りは、聖書が香物にたとえる敬神の徳の業だからです。「願わくは我が祈りが香の煙の如く御身へと立ち上らんことを!8」 祈ることをとおして私たちは自らが天主に依存する者であることを認め、天主があらゆる善(きもの)の源、かつ造り主であることを告白かつ公言し、ただ天主にのみ望みをかけ、私たちの生存および救いのための唯一の逃れ場、唯一の支えとして見なすのです。
祈りが生むこの実りは、次の章句において明らかに示されています。「艱難の日に私を呼び求めよ。[かくして]我は汝を救い、汝は我を尊ぶ。9」

祈りの生む第2の実り―――天主が祈りを聞き入れられるときに得られるこの実りは、かぎりなく有益で慰めに満ちたものですが――― は、祈りが天国を開くカギであるということです。すなわち、聖アウグスチヌスがいみじくも述べているように、「祈りはのぼり、憐れみがくだる。たとえ地がどれほど低くとも、また天がどれほど高くとも、天主は、それでも人の言葉をお聞きになる10」からです。

6.祈りの持つ力と有用性がいかに大きなものであるかは、これによって諸々の天的な賜が得られることで分かります。実際、天主が私たちに聖霊を導き手かつ助け手としてお与えになるのは、私たちの為す祈りによることに他なりません。
また、祈りによって私たちは信仰の潔白さを保ち、諸々の危険と苦難を避け、誘惑において天主の保護を受け、悪魔に対する勝利を得ます。一言で言えば、祈りは、この上なく清い喜びの源です。このため、主は「求めよ、そうすれば与えられる。それはあなたたちの喜びが完全なものとなるためである11」と仰られたのです。

7.その上、かぎりなく仁慈である天主が、祈りの呼びかけに答えず、またこれに応じないと考えることは到底許されません。聖書中きわめて多くの箇所がこの事実を示しています。これらの章句は、皆がたやすく引くことができるものなので、ここでは、イザヤの次の言葉を引用するにとどめます。
「そこで、あなたが呼べば、主がこたえ、あなたが請い願えば、主は、『ここにいる』と言われる。12」
そして、「彼らが請い願うより先に私はこたえ、彼らがまだ話している中に私は聞き入れる。13」

祈り求めたものを天主から得た者たちの例については、それがあまりにも数多く、またよく知られているので、ここではあえて言及しません。

8.しかしながら、時として天主に願うものが得られないということがあります。これは事実ですが、この場合、天主は私たちにとって最も利益となることをお計らいになるのです。すなわち、天主が私たちの願うものをお与えにならないのは、あるいは天主が、私たちが祈り求めるものよりも大きく、また、より価値のある恵みをお与えになるから、あるいはまた、私たちの祈りの対象となるものが必要でも有益でもなく、もし天主がこれを私たちにお与えになったならば、おそらく有害で不幸な結果を招くものとなっただろうからです。なぜなら、聖アウグスチヌスが述べているように、「天主がその仁慈において拒まれるところのものがあり、またその憤怒の中にお与えになるものがある14」からです。また他の場合には、私たちの祈りは、あまりに生ぬるく、かつぞんざいで、自分の唱えていることを、およそ考えても見ないということがあります。

9.しかるに祈りは、私たちの霊魂を天主へと上げることに他なりません。ですから、もし祈りながら天主のみに思いをはせるべき精神が、ありとあらゆる対象に流れていってしまい、また注意も信心もなく、およそ無頓着に、ただ祈りの文句を唱えるならば、このむなしい物音をどうして祈りと呼ぶことができるでしょうか。
だとすれば、天主が私たちの望みに耳を貸されないとしても、どうして驚くべきでしょう。まさに私たちの投げやりで無頓着な態度自体によって、私たちが自らの祈り求めるところのものに少しも心をかけていないこと、あるいは私たちの願うものは、私たちにとって害となることを証明しているからです。

10.反対に、熟慮を伴って熱心に祈る人は、願うことよりもはるかに優ったものを得ることができます。聖パウロはこのことをエフェゾ人への手紙15において私たちに示していますが、放蕩息子のたとえ16の中にもその証しを見出すことができます。このあわれな若者は、もし父親が自分を雇い人の一人に加えてさえくれれば充分だと感じたに違いありません。
時として天主は、ご自分の賜を豊かに、というだけでなく即座に、又私たちの願いのみならず、私たちが心に抱く単なる望みにさえ応えてお与えになることにより、ご寵遇のきわみを示されます。
これは聖書中の、例えば「天主は貧しい者の願いを聞き入れられた。17」といった章句において見受けられることです。
実に私たちの天主は、助力を必要とする者たちの心中に秘められた望みに、彼らが自らの窮状を口に出して訴える前から、すでに応じられるのです。

祈りのもたらす第3の実りは、それが全ての徳、とりわけ信徳の実践かつ増進につながるという事実に存します。もし信仰がなければ、祈り方、よくすなわち祈るにはどうしたらよいかを取りざたして何の益になるでしょうか。これこそ使徒パウロが次の言葉で述べていることに他なりません。「信じないところの者を、どうして彼ら[異教徒]は呼び求めることができるだろうか。18」
したがって、信徒がより熱心に祈れば祈るほど、天主の愛深きご配慮とみ摂理に対する大きな揺るぎない信仰を有しているということができます。
実際、このように仁慈に富んだみ摂理によって全てをお計らいになる天主が、何よりも私たちにお求めになるのは、私たちが自らに必要なもの全てについて天主に依り頼み、これら一切を願い求めることに他なりません。

11.無論、天主は私たちが祈ることも、望むこともなしに、私たちに全てをお与えになることができます。事実、天主は理性を欠く動物に対してこのようにおふるまいになるのであり、その生存に必要なもの全てをこれにお与えになります。
しかるに、この上なく善き父である天主は、その子らから祈り求められることをお望みになります。すなわち天主は、私たちが毎日その御名をふさわしく呼び求めることによって、日々私たちの祈りがより強い信頼をもってご自分へと立ち上ることを欲されます。すなわち天主は、祈り願うものを得ることをとおして、私たちがご自分の私たちに対するかぎりない仁慈を日々ますます認め、かつこれを高らかに公言することを望まれるのです。

祈りはまた、愛徳をも増進します。
実際、天主を私たちがこの地上で享受することのできるすべての事物とすべての利益の源と認めるとき、私たちは、私たちの心が抱き得る限りの愛を尽くして天主に寄りすがるのです。人の間の愛情は会話、訪問、頻繁なつき合いをとおして深まり、熱のこもったものとなるのが常ですが、天主に対する愛においてもこれと同様です。敬虔な人が、その慈しみを乞うべく天主と語り、天主に祈る頻度を増すごとに、自らの中に、深くしみ通る喜びが募るのを覚え、同時に、心を尽くして天主を愛し、仕えるよう促されます。
したがって、天主が私たちに祈ることを義務付けられるのは、私たちが主に、より大きな熱心をもって私たちの望むものを願うために他なりません。また、これは聖アウグスチヌスが述べているように、「私たちが自らの願望の強さと、不撓不屈とによって、以前には、私たちの乾ききって、狭量ばった心が受けるに値しなかった著しい恵みを得るに値する者となることができるため19」でもあります。

天主はまた、私たちが、もし天からの恩寵の助力がなければ、自らの力によってでは全く、何一つできないという、このきわめて重要な真理を理解し、いわば体得することをお望みになります。このことを深く悟ってこそ、初めて人は心を尽くして祈りに励むようになるからです。

祈りはまた、私たちの自然本性の最も危険な敵に対するきわめて強力な武器でもあります。「悪魔とその攻撃に対して、祈りによって戦おう20」と、聖ヒラリオは述べています。

祈りが私たちに得させてくれるもう一つの貴い実りは、人祖の罪に由来する[霊的・道徳的]堕落と、そこから生ずる種々の無秩序な欲情にも関わらず、天主は、私たちが思いをご自分に上げることをおゆるしになる、ということです。
しかるに、天主がこれをおゆるしになるのは、私たちが祈り、かつ祈りの実りに値する者となるよう励むことをとおして、自らの意志から諸々の罪悪を切り捨て、これを一切の汚れから浄めることができるために他なりません。

最後に、祈りは、聖ヒェロニモの教えるように、天主の怒りを抑え、せき止めます。
天主がご自分の民を罰そうとされたとき、モーゼの祈りによって止められましたが、この際天主は、「私の思うようにさせよ21」と仰せられました。実際、御陵みいつを害された天主の怒りを静め、過ちを犯した者を罰そうとなさるときにその御手をさし止め、憤りをお表しになるのを思い止めさせるのに、敬虔な者の祈りほど効果のあるものはありません。

脚注
8 詩編140 2節
9 詩編
10 聖アウグスチヌス 説教226 典礼節について(de Tempore)
11 ヨハネによる福音書16章24節
12 イザヤ書 58章9節
13 イザヤ 65章24節
14 聖アウグスチヌス 説教33 「天主の御言葉について」
15 エフェゾ人への手紙 3章20節
16 ルカによる福音 15章
17 詩編9 17節
18 ローマ人への手紙 10章14節
19 聖アウグスチヌス 書簡121 8章
20 聖ヒラリオ 詩編63の注解
21 出エジプト記 32章10節

(c) 聖ピオ十世会日本






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