霊的旅路
彼には、自分自身の子らに 与えることを夢見た、霊的かつ司牧的訓令集の執筆に必要な余暇など決してなかったこともあり、己が人生の夕べになって、『神学大全にみる聖トマス・アクイナスに従う霊的旅路』を彼らに贈る事で彼は満足した。ただこの神学大全だけが、それが持つ統合的な体系と宝玉のような金言にちりばめまれ、 “私たちの聖主イエズス・キリストの司祭職という遺産を救う事”を可能にすると彼には思われた。大司教が賞賛したのは聖トマスだ。しかし、近年の神学者の2名、エマヌエル神父とカルメル神父をも高く評価した。
「彼らは現代が生んだ二大霊的著述家です。彼らは深くトマス主義者であり、彼らの解き明かす霊性に堅固な基盤を与えてくれるのです。これがリベルマンのように、聖スルピスの影響を受けている他の著述家たちとの違いです。後者の著述家たちでは、感傷主義や、主意主義【voluntarism:意思的なものを知性的なものよりも上位におく立場】、あるいは平和主義に陥ってしまう危険があります。それだからこそ、聖職者たちは危機の時がやって来ると、すでに倒れる準備が出来ていた、つまり彼らには強固な霊性が不足していたのです 。」
大司教は、聖トマスから以下の“原理と基礎”を獲得した。人間は a Deo ad Deum、つまり人間は天主に由来し、天主のために天主に向かっているのである。 人間は、究極目的でもある自己の起源に帰らなければならない。あらゆる秩序とは、必然的に究極なるものを包含する、すなわち究極である。人間は“静的ではなく動的な秩序によって” 秩序付けられている。
「諸々の事物の内に秩序を据え、それに究極を付与すること、つまりある事物は他の事物のためにあると定めること、これは至高なる知性【天主‐訳者】に固有に属しています。人間は天主に向かって定められています。人間は tendere in Deum 天主に向かわなければなりません。ですから私たちは基礎的真理に基づいた強固な霊性を人々に供給しましょう。」
この観点から見ると、現代世界憲章【Gaudium et Spes】の公会議の教えは怪物のように思える。これは、天主ではなくて人間を、地上にあるものの「中心かつ頂点」(現代世界憲章第12節§1)とし、全ての“社会制度の原理及び究極目的”(現代世界憲章第25節§1)とした。そうではない。その正反対だ。
大司教は“愛徳の放散を実現させる[天主への]究極の帰結(finalisation)という原理こそが、私たちのあらゆる活動を動かす元になるだろう”と言明した。
そこから、「霊性における自由主義」という根本的な誤謬が、公共の秩序の中におけるのと同じように、浸入してしまった。「それは、たとえ神法を害し天主の愛の君臨を害したとしても、自由の目的と限度を無視しようとしています。」
しかし、キリスト教的個人生活と社会は “理性的被造物の天主への帰還”に成り立ち、この帰還は単に天主の掟に対する従順の問題だけではない。恩寵もまた不可欠となるのだ。ただ単なる掟を守るだけの道徳よりももっと現実的でもっと人を高める道徳だ。超自然徳や聖霊の賜物の道徳である。霊的戦いで織り成された道徳であり、それと真っ向から対立するものとは、自然主義という最も恐るべき誤謬である、例えば、パウロ6世の自然主義なのである。
かつてこの教皇は“現世秩序の自律”を宣言し、“この世はある意味で、自己充足している”と考えていなかっただろうか? ルフェーブル大司教はすぐさま反撃し、セペール枢機卿宛に手紙を送って、
「これは世界に関するこの不正確かつ不完全な描写」であり、超自然の秩序とは任意の選択問題ではないこと【つまり聖寵は、我々人間に必ず無ければならないこと‐訳者】を忘却し、人間本性の堕落の状態が無視されていることを抗議した。これへの答えは、ヴィヨ枢機卿が電話で伝言を送り、ルフェーブル大司教がローマを去らなければならないこと、二度と戻って来てはならないという命令だった。大司教は回答した。「私をそうさせる為に、スイス衛兵一大隊でも派遣して下さい!」
大司教の男らしい道徳の霊的戦いはそこまでに至った。しかしながら、この戦いは、聖トマスが言うように、“我々が天主に至る為に通らなければならない小道”であるキリストなくしては不可能なのである。
彼には、自分自身の子らに 与えることを夢見た、霊的かつ司牧的訓令集の執筆に必要な余暇など決してなかったこともあり、己が人生の夕べになって、『神学大全にみる聖トマス・アクイナスに従う霊的旅路』を彼らに贈る事で彼は満足した。ただこの神学大全だけが、それが持つ統合的な体系と宝玉のような金言にちりばめまれ、 “私たちの聖主イエズス・キリストの司祭職という遺産を救う事”を可能にすると彼には思われた。大司教が賞賛したのは聖トマスだ。しかし、近年の神学者の2名、エマヌエル神父とカルメル神父をも高く評価した。
「彼らは現代が生んだ二大霊的著述家です。彼らは深くトマス主義者であり、彼らの解き明かす霊性に堅固な基盤を与えてくれるのです。これがリベルマンのように、聖スルピスの影響を受けている他の著述家たちとの違いです。後者の著述家たちでは、感傷主義や、主意主義【voluntarism:意思的なものを知性的なものよりも上位におく立場】、あるいは平和主義に陥ってしまう危険があります。それだからこそ、聖職者たちは危機の時がやって来ると、すでに倒れる準備が出来ていた、つまり彼らには強固な霊性が不足していたのです 。」
大司教は、聖トマスから以下の“原理と基礎”を獲得した。人間は a Deo ad Deum、つまり人間は天主に由来し、天主のために天主に向かっているのである。 人間は、究極目的でもある自己の起源に帰らなければならない。あらゆる秩序とは、必然的に究極なるものを包含する、すなわち究極である。人間は“静的ではなく動的な秩序によって” 秩序付けられている。
「諸々の事物の内に秩序を据え、それに究極を付与すること、つまりある事物は他の事物のためにあると定めること、これは至高なる知性【天主‐訳者】に固有に属しています。人間は天主に向かって定められています。人間は tendere in Deum 天主に向かわなければなりません。ですから私たちは基礎的真理に基づいた強固な霊性を人々に供給しましょう。」
この観点から見ると、現代世界憲章【Gaudium et Spes】の公会議の教えは怪物のように思える。これは、天主ではなくて人間を、地上にあるものの「中心かつ頂点」(現代世界憲章第12節§1)とし、全ての“社会制度の原理及び究極目的”(現代世界憲章第25節§1)とした。そうではない。その正反対だ。
大司教は“愛徳の放散を実現させる[天主への]究極の帰結(finalisation)という原理こそが、私たちのあらゆる活動を動かす元になるだろう”と言明した。
そこから、「霊性における自由主義」という根本的な誤謬が、公共の秩序の中におけるのと同じように、浸入してしまった。「それは、たとえ神法を害し天主の愛の君臨を害したとしても、自由の目的と限度を無視しようとしています。」
しかし、キリスト教的個人生活と社会は “理性的被造物の天主への帰還”に成り立ち、この帰還は単に天主の掟に対する従順の問題だけではない。恩寵もまた不可欠となるのだ。ただ単なる掟を守るだけの道徳よりももっと現実的でもっと人を高める道徳だ。超自然徳や聖霊の賜物の道徳である。霊的戦いで織り成された道徳であり、それと真っ向から対立するものとは、自然主義という最も恐るべき誤謬である、例えば、パウロ6世の自然主義なのである。
かつてこの教皇は“現世秩序の自律”を宣言し、“この世はある意味で、自己充足している”と考えていなかっただろうか? ルフェーブル大司教はすぐさま反撃し、セペール枢機卿宛に手紙を送って、
「これは世界に関するこの不正確かつ不完全な描写」であり、超自然の秩序とは任意の選択問題ではないこと【つまり聖寵は、我々人間に必ず無ければならないこと‐訳者】を忘却し、人間本性の堕落の状態が無視されていることを抗議した。これへの答えは、ヴィヨ枢機卿が電話で伝言を送り、ルフェーブル大司教がローマを去らなければならないこと、二度と戻って来てはならないという命令だった。大司教は回答した。「私をそうさせる為に、スイス衛兵一大隊でも派遣して下さい!」
大司教の男らしい道徳の霊的戦いはそこまでに至った。しかしながら、この戦いは、聖トマスが言うように、“我々が天主に至る為に通らなければならない小道”であるキリストなくしては不可能なのである。