Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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1990年9月6日、スイスのエコンにて ルフェーブル大司教様の講話 その4

2012年07月07日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

 1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話を日本語に訳して下さった方があります。遅ればせながらご参考にご紹介いたします。日本語に訳して下さった方には、心から感謝いたします。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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1990年9月6日、スイスのエコンにてルフェーブル大司教様が
聖ピオ十世司祭兄弟会の司祭たちにされた講話 その4

<>和訳者補足

【SSPXアメリカ管区サイトの掲載文】





 皆さんを強めるために、そして善き天主の恩寵を以ってこの戦いを続けるという自覚を持つために、幾つかの考察を差し上げたいと思います。

 その理由は、もし善き天主が私たちと共にいなければ、私たちはもはや存在しないからです。司祭兄弟会が消滅してもおかしくない機会が少なくとも四回か五回がありました。そして天主のお陰によって、私たちは毎回存続させられたのです。取り分け、四司教聖別の為に、司祭兄弟会は消滅するに違いないと人々は何回も私たちに予言しました! 不吉な預言者たち全員どころか、私たちの側近たちからさえこう言われました「大司教様、司教聖別を絶対にしてはなりません。そんな事をすれば司祭兄弟会の終わりです。」

 とんでもない、善き天主は御自分の戦いが終わる事しか御望みになっていないのです。それが全てなのです。

 この戦いはその殉教者を獲得しました。それは革命の殉教者であって、十九世紀と二十世紀の全迫害期間に亘って精神的に殉教した全ての人々です。聖ピオ十世は、迫害される数多くの司教たちや、収用された女子修道院、国境の彼方へと追放された修道士たち、そしてその他多くの問題によりこの殉教を体験されました。ではこの殉教は全て無駄となってしまうのでしょうか?この犠牲者と殉教者たちを非難する事になる戦いは、役に立たない偽りの戦いとなるでしょう。それは考えられません。

 私たちはこの流れに嵌り込んでいるのですから、善き天主に感謝しましょう。私たちは迫害されています。それは明らかです。私たちは唯一破門された者であり、また唯一迫害されている者です。・・・

 それでは何が起こるのでしょうか?私には分かりません。エリアでしょうか?私は今朝この事を再び聖書で読みました:「エリアが地上に戻り、全てを元通りにするだろう」、Omnia restituet. どうか彼が直ぐ来てくれますように!

 人間的に言えば、私は今のところ合意する可能性を見出しません。昨日私は「もしもローマが、御会の四司教を承認して、他の司教たちの裁治権から完全に免れるとしたら?」と言われました。

 先ず彼らがこの様な事柄を受け入れるとは考えられませんし、彼らにこれを申し出しをさせてみるべきでしょう。この困難の核心とは、まさに聖伝主義者の一司教を私たちに与えるのがいやだ、という事です。

 彼らとしては聖座の意に適うプロフィールを持つ司教しか望んでいません。『プロフィール』、皆さんにはこれが意味するものが分かります。彼らは、一名の聖伝主義者の司教を私たちに与える事となれば、自分たちが聖伝主義の牙城を築き上げてしまう事を熟知しています。ただ彼らはそれを望んでいませんし、他に差し出す聖伝主義者の司教をもはや持ち合わせていないのです。

 聖ペトロ会が、自分たちは我々と同種の議定書に署名したという時、それは本当ではありません。私たちの議定書は一名の聖伝主義者の司教とローマ委員会に送る二名の委員を想定していましたから。

 一方、他の会の方ですが、彼らは<同種の議定書に著名したと言いながら>一名の司教も、またローマ委員会に送る委員たちももらっていません。結局、ローマはこれ<二つの要求>を議定書から削除しました。何があろうとローマはそれを望まなかったからです。

 来たる11月1日には司祭兄弟会の二十周年記念を祝うでしょう。そしてこの司祭兄弟会こそが、信仰を守ってそれを保つ為に善き天主が御望みになるものであるカトリック教会の真理と、カトリック教会に於いて救われ得るものとを象徴していると私は確信しました。この事はまた、総長様を取り巻き、説教をし、司祭職<叙階の秘蹟>と堅振の恩寵を授けながら、信仰の保存者の必要な役割を果たしている司教たちにも恩寵となるでしょう。これは掛け替えのない事柄であって、私たちはそれを絶対に必要としています。

 以上の事全ては非常に慰めになりますので、私たちは善き天主に感謝する事と、何時か私たちの行なっている事が認められる為に、忍耐の内に働く事は可能だと私は思っています。ガニョン(Gagnon)枢機卿閣下の視察訪問は大した成果をもたらさなかったとはいえ、それでもこの訪問は私たちが存在する事や、司祭兄弟会を通して善が行われている事を証明したのです。彼らは明白に言おうと望まなかったにせよ、司祭兄弟会は信仰にとって掛け替えのない霊的力を象徴していると認める事を余儀なくされています。またこの力に彼らは喜びを感じるでしょうし、そう願いますが、自分たちが聖伝の信仰を再度見出す時、嬉しい事にそれを用いるでしょう。

 聖なる童貞に祈りましょう。そして全ての国で私たちが赴く各々の巡礼地では、沢山の召命を頂く為に司祭兄弟会を助けに来てくださるようファティマの聖母にお願いしましょう。私たちはもう少し召命を頂かなければなりません。私たちの神学校は一杯ではないですから。しかし天主の恩寵があれば、これは実現するだろうと私は考えています。ご拝聴いただきありがとうございました。幸福で聖なる死を迎えられるよう私は皆さんにお祈りをお願い致します。今の私にはこれ以外すべき事がないからです。

(了)


【参考資料】ルフェーブル大司教様の言葉から

質問:ある人々は言います:「そうですね、ただルフェーブル大司教様はローマとの合意に受け入れるべきでしたね。というのも、いったん聖ピオ十世会が認められ、聖職停止が解除されるなら、彼は公教会の内側でもっと効果的に活動する事が出来たからです。しかし彼は今教会の外側にいます。」

ルフェーブル大司教様:こういう事は、言うのは簡単です。公教会の内側に留まる為、あるいは公教会の内側に身を置く為にそう言うのは簡単なのです‐それはどういう意味でしょうか?第一に、どの教会について私たちは話しているのでしょうか?もし貴方が「公会議の教会」について話しているとすれば、二十年もの間カトリック教会を望むと言う理由から公会議と戦って来た私たちは、恐らく、この「公会議の教会」に、それをカトリックにする為に戻らなければならない事になります。それは全くの幻覚です。長上たちを作り上げるのは配下の者ではなく、長上たちが配下の者を作り上げるのですから。

 全ローマ聖省の間で、そして進歩主義者である全世界の司教方の間で、私は完全に圧倒されている事になるでしょう。何も出来ずにいるでしょう。私には信徒も神学生も守る事が出来なかったかも知れないのです。ローマは私にこう言ったでしょう「大丈夫、私たちは叙階式執行の為に、これこれの司教様を貴方に差し上げるつもりです。ただ貴方の神学生たちは、これこれ教区からやって来る教授たちを受け入れなければなりません。」考えられません。聖ペトロ会に於いて、彼らはアウスブルグ教区から来る教授たちを迎えています。これらの教授たちは誰なのでしょうか?彼らは何を教えるのでしょう?


 質問:信仰宣言を含んでいる忠誠の誓いを準備したラッツィンガー枢機卿の指令書についてどうお考えですか?

 ルフェーブル大司教:先ず第一に、信仰宣言 Credo があり、これは少しも問題を提起していません。Credo は無傷のまま残されています。ですから、第一部と第二部は、どちらとも何一つ問題を提起しません。それは神学的観点から良く知られた事ですし。非常に有害なのは第三部です。それが実際に意味するものは、現代世界の司教たちが持つ考えを並べ立てています。さらに、序文には、公会議の精神ゆえにこの第三部が加えられた事がはっきりと示されています。それは公会議と、いわゆる現代の教導権に言及しておりますが、後者は、もちろん公会議の信奉者たちの教導権のことです。誤謬を免れようとするが為に、「この教導権が聖伝との完全な一致にある限りに於いて . . . 」と彼らは付け足さなければならなかったのです。

 そのままでは、この第三部の形式は危険です。それは、私たちが合意に至る事が出来ないこれらの人々の心の状態を明確に示しています。ある人々がそうした様に、この忠誠の誓いを公会議の結果として廃止された反近代主義の宣誓の再開として紹介するのは完全に馬鹿げていますし、それは間違っています。

 全ての毒はこの第三部にあります。ローマに再合同してしまった人々に、この信仰宣言に署名して、司教たちとの完全な合意を言明せざるを得なくする為にわざわざ作成されたように思えます。まるでアリウス主義の時代に「これで、アリウス主義者である全司教たちの考える事に同意しているのです。」と言われたかのようです。

 いいえ、私は誇張などしていません。それは序文の中ではっきり表現されています。これは純然たる詐欺です。この様に、ローマ当局者たちは議定書の本文の修正をするつもりがないのではないかと自問する人がいるかも知れません。例の議定書は私たちにとって満足の行くものではないにせよ、その教義的宣言の第三箇条に於いて余りに私たちに有利であるかのように見えます。というのは、それは公会議に服従するという義務を十分表明していないからです。

 ですから、当局者は失われた足場を取り戻しているのだと考えます。彼らは恐らくこれらの文書が、叙階を控えた聖ペトロ会の神学生たちと司祭たちから署名される事を望んでいるのです。そしてその時、彼らは「公会議の教会」に合流するという公式な行為をするよう強いられている事に気づくでしょう。

 議定書とは違って、これらの新しい文書の中には、公会議と公会議派の全司教への服従が存在しているのです。それが彼らの精神であり、誰も彼らを変える事はないでしょう。


 質問:ヨハネ・パウロ二世は、オーストリアとそれ以外の国で聖伝主義者と見做される方々を司教に任命されました。彼らが聖伝主義者と見做される理由は、フランス人神学者たちの援護を受けたドイツ人神学者たちが、この司教任命を巡って教皇様を批判し、非難している事から伺えます。それから、最近の事ですが、ラッツィンガー枢機卿様は、忠誠の誓いとそれに先立つ信仰宣言の付いた指令書を発行されました。私たちはこれにある種の改善と、より聖伝に近い形式への回帰という印を見る事は出来ないのでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:私はそれが聖伝への回帰であると考えていません。ちょうど戦闘中の兵士たちが少しばかり前に進み過ぎている時に、誰かが彼らを引き止めているようなものであって、彼らは第二バチカンの推進力に軽くブレーキを掛けているところなのです。何故なら、公会議の支持者たちは余りにも進行し過ぎているからです。その上、これらの神学者たちが苛立つなんていうのはお門違いです。この司教たち‐表向きは保守的である司教様たち‐は、例外なく公会議と公会議後の刷新、そしてエキュメニズムやカリスマ運動に協力的です。


 質問:それでは、これまでル・バルー<聖伝系聖ベネディクト修道会の支部修道院>や、聖ヴィンセント・フェリエ兄弟会(the Fraternity of St. Vincent Ferrer)、それから聖ペトロ会に対しある程度の寛容さを示しておられるラッツィンガー、マイヤー両枢機卿方により特徴付けられるローマの態度についてはどう考えたら宜しいのでしょうか?他の聖伝グループを取り戻す手段を使い果たすまで彼らは連絡を取り続ける、それから次に、いったんこのゲームが終わったら、ローマと和解した聖伝グループは、公会議への服従を要求されるという二重の計略なのでしょうか?それとも、私たちは彼らが改善すると信用すべきでしょうか?

 ルフェーブル大司教様:貴方がお話されている事は、<ローマの寛大さが>例外的で束の間のものでしかない事を私たちに示す印が沢山あります。これらの印は、世界中の全司祭に当てはまる一般規則ではありません。それは例外的な特権であり、限定された幾つかの事例に於いて(in precise cases)与えられるものです。例えば、フォンゴンボーの大修道院、又はジュック(Jouques)の女子修道会、あるいはその他の修道院に与えられたものがそれなのですがそれは例の特典(the Indult)に基づいています‐彼らはそれを言いません‐。ところでこの特典は例外です。それは何時でも撤回され得るのです。特典というものは、一般規則を強めます。この事例に於ける一般規則とは新しいミサと新典礼ですが。ですから、特典とはこれらの共同体に対して設けられる例外なのです。

 ロンドンでの一例があります。そこの枢機卿大司教様(the Cardinal archbishop)は、私たちの信徒たちを取り込む為に、この英国首都にある聖ピオ十世会の教会周辺で三つの<聖伝>ミサを開始しました。「私は六ヶ月間それを試しにやっています」と彼は言いました。もし私たちの信徒が司祭会のミサ中央施設<会場>から立ち去り始める事になれば、彼はこの実験を続けるでしょうね。その反対に、もしこの信徒たちが私たちと一緒に留まるとすれば、彼はこの実験を止めるでしょう。それからもしこれらの御ミサが廃止されるとなれば、聖伝典礼に対する味覚を取り戻したこの信徒たちは、おそらく私たちのところにやって来るでしょう。

 パリのリュスティジェ枢機卿様は、私たちのもとから去った司祭たちに教会堂を提供する事を考えておりますが、新しいミサもまたこれらの教会堂で捧げられるよう命ずると考えられます。ローマでラッツィンガー枢機卿様とした討論期間中、私たちが合意に向かって進もうとしている時に、彼は私に教えてくれました。もしパリの聖ニコラ・デュ・シャルドネ教会に於ける旧典礼使用に許可が与えられたら、新しいミサもなければならないでしょうと。それは完全明快でしたし、彼らの心の状態<新旧典礼の共存>をくっきり見せてくれました。彼らが、新しいミサを諦める可能性などありません。その反対です。それは分かりきっています。ですから、譲歩に見えなくもないものも、実際には、私たちを出来るだけ大人数の信徒たちから引き離す為の策略なのです。これが展望であって、その中で彼らは常にもっともっと聖伝に譲歩して与えようとするでしょう、それどころかきわめて遠いとことまで譲歩さえするでしょう。それが策略以外の何ものでもなく、公会議派の司教や近代主義のローマの掌中に身を委ねる事は危険であると、私たちは断固信徒たちに納得させる必要があります。それは私たちの信徒を脅かしている最大の危険なのです。二十年間も、私たちが公会議の誤謬を避けようと努めて来たとすれば、それは、まさか、これらの誤謬を表明する人々の掌中に私たちの身を委ねる為ではありませんでした。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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