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ローズ胡美玉さんの《楽は苦に在り》 第20章:悪いことは重なる

2011年10月10日 | カトリックとは
第20章:悪いことは重なる

 私には、5人の兄弟がいます。 最も賢かったのは3番目の兄である勵詩でした。 幼少の頃から、彼には文章や話術に独特の才能がありました。 彼が僅か15歳であった時、彼の随筆のいくつかは新聞に掲載されました。彼はその傑出した才能のために、多くの賞を受賞しました。 彼の教師の多くが、遅かれ早かれ彼が有名な詩人か作家になることを確信していると語りました。ですが、天主様には勵詩のための御自身の計画がありました。彼の生涯はとても悲惨であり、それは私の表現能力を遥かに超えていました。

 勵詩のことを考えると、いつでも私の心は痛みます。私は、前の章で姉と私が2番目の逮捕を待っていたと書きましたが、その時間はまだ来ていませんでした。勵詩は輸出入の仕事をしていたので、逮捕されました。1958年に、貿易会社の7人の上海のマネージャーは、皆同時に逮捕されました。彼は、「三反五反運動」のときに「大きな虎」であるというレッテルを貼られ、激しい批判にさらされました。

 1957年の反右派運動の間、勵詩は会合で「私の家は住めば住むほど小さくなり、バスは乗れば乗るほど大きくなる」という不注意な冗談を言いました。 共産主義政府は、彼がその言葉で共産主義を攻撃したと判断しました。殆ど裁判無しに、彼は「右派」と呼ばれ、上海市の近くの農場に労働の為に送られました。 彼の仕事は、上海市から農場までの40キロの距離を、ごみのカートを引いて歩くことでした。

 ある日、私は買い物に行っていました。 突然、見慣れた人物が私の視界に入りました。 この人は誰でしょう? 彼はぼろを纏って麦わら帽子をかぶり、肩には擦り切れた手ぬぐいをかけていました。彼の顔はほこりと汗にまみれていました。 ええ、親愛なる読者よ、それは勵詩でした。私は全く涙を抑えられず、遠くから「兄さん、兄さん!」と彼を呼ぶのを自分自身で止めることが出来ませんでした。彼は振り向いて私を一瞥すると、驚きました。 そして、彼は続けて手を振り始めました。それは、彼が私に話しかけることを許されていないことを意味しました。私は彼を見続けました。 彼は全身の力を込めてカートを引いていました。 生まれて以来、彼は2、3キログラム以上の物を一度も運んだことがありませんでした。 今、彼は2トン以上の悪臭のあるごみを運んで、長距離を歩かなければなりませんでした。 どうしてそのようなことが出来たのでしょう。

 数日後、農場から緊急の電話が来て、勵詩の胃からひどい出血があったと私たちは告げられました。そして、彼は病院に連れて行かれました。 私たち家族は、彼の命を救うために、医療費を払っても構わないと思っていました。 そこで、医師は彼に手術を施し、胃の大部分を切除しました。 それにもかかわらず、二週間後に逮捕されました。 彼のいわゆる犯罪は、企業情報を外国に暴露したことでした。 実際には、輸出入の仕事をする際に、必然的に商品の情報を交換しなければなりませんでした。

 勵詩は逮捕されたとき、2人の息子と2人の娘を残しました。 彼の妻は彼と試練を共にすることを望んでいませんでした。そして、彼らは離婚しました。姉と私は子供の世話をするべきでしたが、私たちはまだ自分自身の未来を知っていませんでした。私たちは、囚人の収容所が私たちの場となることを予想しました。そのうえ、私たちは、どうしたら母からこの悪いニュースを隠せるか考えられませんでした。2週間後の1958年9月12日、姉と私は再び逮捕されました。4人の子どもと2人の乳母を残し、家族全体は完全に破壊されました。嵐は非常に激しかったのですが、イエズス様はうたた寝をしていました。彼は天主様です。彼は、少しずつ私の問題を解決する方法を知っていました。私は、自分自身の役目をこなす他にありませんでした。

 勵詩は禁固15年の判決を下されました。遠くて非常に未開の領域である清海徳令哈農場に、彼は送られました。 最低気温は零下35度で、彼はおよそ20年を過ごしました。彼が末期の胃癌にかかっていたとき、収容所の役人は勵詩を上海に戻しました。ほとんどの人々は、人がどこにいようが共産主義者は監視する権力を持っていたことを知っていました。 上海は大きく忙しい都市でした。それは労働改造所と全く異なっていました。 それにもかかわらず、警察官は全くいませんでしたが、共産主義者は周囲に様々な組織とグループを持っていました。 例えば、町内の組織はすべての居住者により構成されていました。 共産主義者は、家族か隣人を含んで互いに監視するよう皆に求めました。もし、人が共産党に報告するならば、共産主義者への忠誠を示したことになり、そして彼らは報酬を与えられました。 1970年代には、勵詩は再び隣人の標的となりました。

 彼らは、勵詩が死につつあることをとてもよく知っていました。 彼らは私たちの家に来続け、彼が批判闘争を聞いている数時間を立ち続けるよう無理強いしました。死の前日には、彼を蹴ったり、引っ張ったりしました。彼らが去った後、彼は多量の血を吐き出し、病院に送られて救急治療を受けましたが、翌日に亡くなりました。 運よく、私の姪が、亡くなる前に洗礼を授けました。洗礼名はヨゼフでした。勵詩が亡くなったのは1976年7月19日でした。

 数年後、上海の法廷は、裁判官が勵詩に誤まった判決を下していたと宣言した通知書を送って来ました。彼は何も間違ったことをしておらず、また多くの外貨を自分の国にもたらしましたが、その時には彼の人生は終わっていました。彼の死後に間違った刑罰を認めることが、何の役に立つのでしょうか?

 天主様に感謝。そして、天主様の賢明の御恵みにより、私は洗礼者聖ヨハネの死について、何度も黙想しました。 私が聖ヨハネの血なまぐさい死を想像する度に、私の心は震えました。私は何度か天主様に尋ねました。「あなたは全能の天主様です。あなたはラザロを蘇らせました。あなたは未亡人の息子を生き返らせました。なぜ、あなたの聖人であるいとこが首をはねられるのをお許しになるのでしょうか?」 私は天主様の御意志を決して理解することが出来ません。ある日、自分の推理、知識、そして理解がどれ程限られているかに気が付くまでの長年の間、それは心の中で全くの謎でした。私はこの世に関して多くの疑問がありました。 私は、全ての謎を理解出来たのではありませんし、全人類を理解出来たのでもありませんでした。私たちは只の小さい砂粒です。天国に着いて初めて、私たちは、天主様の御意志を完全に理解します。聖ヨハネは天主様の御摂理に協力しました。今日、私たちは、祭壇で聖ヨハネを崇敬します。私の兄勵詩は哀れな罪人でした。天主様は、義にして慈悲深くいらっしゃいます。天国で彼を受け入れたというしるしを私に見せて下さるよう頼みつつ、私はより頻繁に天主様に祈らなければなりません。

 デオ・グラチアス!勵詩の息子は、父親の遺骨をカリフォルニアに運んで来ました。そして、それは近くのフォレストローン共同墓地に埋葬されました。彼の妻、4人の子供と私たち姉妹は、時々彼の墓を訪問することが出来ます。私たちは祈りを通して、彼にある贖宥を得られました。 いつか、私たちが天国で永遠に一緒となり、天主様を褒め称えると私は信じています。

 33年後の現在、私の甥フランシスコ胡運羚 (勵詩の息子)は、自分の父の傍で眠りについています。妻と息子を残して、彼もまた胃癌で亡くなりました。幸いにも、彼は死ぬ前にゴンザレス神父様によって洗礼を授かりました。 私が自分の本の中国語版を書いていた時、誰が私の甥がとても若くして亡くなると知ったでしょう? 天主様の御摂理の前では、私たち人間はとても小さいものです。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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