Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー その1

2011年08月24日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 こんにちは! ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビューを日本語に翻訳して下さった方がおられるので、感謝しつつこれを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


 イタリア語の原文は次で読むことが出来ます。
Intervista a don Davide Pagliarani

 フランス語の翻訳は次にあります。
Entretien avec M. l’abbé Pagliarani à propos des entretiens théologiques

 英語版は、次にあります。
Interview with Fr. Davide Pagliarani

ダヴィデ・パリャラーニ(Davide Pagliarani)神父様とのインタビュー


ローマとの教義に関する会談の結果と聖伝主義者たちの動揺についての初期評価

 ダヴィデ・パリャラーニ神父(聖ピオ十世会イタリア管区長)とのインタビューは、2011年6月26日、(ローマ近郊の)アルバーノ・ラツィアーレ(Albano Laziale)に於いてマルコ・ボンジ(Marco Bongi)氏により主催された。

 聖ピオ十世会によるローマとの神学討論、カトリック聖伝主義界の文化的現況、さらに指導文書ウニヴェルセ・エクレジエについての簡潔な論説について、マルコ・ボンジ氏の依頼に対して聖ピオ十世会イタリア管区長から聞き入れられたインタビューである。

______________________

マルコ・ボンジ:聖ピオ十世会とローマの間で行われた神学上の会談も終わりに近づいていますが、たとえ未だ公式な発表が一切出されていなかったにしても、幾つかの漏洩情報に基づいて、この会談は失敗したと確信している評論家たちが十分に存在します。この件について何か仰って頂けますか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父:この会談を失敗と見做すのは、先入観に基づいた間違いであると私は思います。この結論は、恐らく本来この会談それ自体が持っていた目的とは無縁な事柄をそれに期待した人々により引き出されたものです。

 会談の目的は、具体的な合意に達する事では決してなく、むしろ双方の教義上の立場を記録した、明確で完全な書類を編纂し、さらにそれを教皇様と聖ピオ十世会総長に提出する事でした。二つの委員会が根気よく働いてくれた事により、基本的には討論事項の全題目に触れているのですから、この会談を失敗と見做すべきであると主張する方の根拠が私には分かりません。

 もしも次のようなことが起こっていたのならば、この会談は失敗だったでしょう‐これは背理法(reductio ad absurdum)ですが、‐例えば、もし仮に、聖ピオ十世会の代表者たちが会の主張と正確に一致しない報告書を作成したとすれば、例えばですよ、もし仮に司教団体主義や信教の自由は、そもそも聖伝とは完全に一致する現代社会への適合なのだと、聖ピオ十世会の代表らが言ったのだとすれば、です。<訳者注:つまり、聖ピオ十世会が今まで主張してきたことを否定するような対談をしなければ、この会談が失敗に終わったとは言えないが、そうやって対談を失敗に終わらせるのなら、どうして今まで対談をしたいと主張してきたのか、もしもそうであるならわざわざそのような対談をする必要も無かったことになる、聖ピオ十世会がローマとの対談を望んでいてそれが実現した今になって、いままで主張していたことと反対を述べるなどと信じるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。従って、この対談は失敗だったと言うことはあり得ない。> たとえこの対話の内容について公にされたわけではなく何らかの沈黙が維持されましたが、そのような会談の失敗という結果に至る危険は全くないと言えると思います。

 公教会と聖伝の善の為に、聖ピオ十世会がこのような信仰の証をすることの大切さと、いま何が失われつつあり危険に晒されているのかということの重要性とを十分に把握していない人は、不可避的に別の観点に見合う判断を練り上げるでしょう。

 神父様のお考えでは、どのような観点が間違った判断へと導くことになるとお考えですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: 私のつまらない考えでは、何らか異分子的な聖伝主義者の領域が存在し、様々な理由から、それが聖ピオ十世会の状況が教会法的に正常化されるようなことを期待しています。

1)もちろん、普遍教会のために建設的な反響を期待する方々がいます。しかしながら、私が思うにはこのような人々は誠実で何ら幻想を抱いていないのですが、私は、この種の友人たちに、聖ピオ十世会には一日で公教会を変える使命もカリスマもないことを言いたいと思います。聖ピオ十世会は、単に、公教会が自分の聖伝をそのまま完全に取り戻すことが出来るように協力する事だけを意図しています。ですから、もし公教会の他の全ての事業同様に、教会法上の正常化があろうとなかろうと、躓きの石であり逆らいの印であり続けるなら、公教会の善の為にゆっくりと働き続ける事は出来るでしょう。教会法上の正常化は、御摂理が機が熟していると判断する時にのみ実現することでしょう。さらに‐現時点での‐合法化が仮にあったとしても、だからといって、緊急事態が突然なくなるとは思いません。緊急状態は公教会内に存在し続けますし、まさにこの緊急状態のために、今まで聖ピオ十世会そのものの活動が正当化されて来たのですから。

2)もう一方で、全く反対側の対極線にいるですが、少しブルジョア的な意味に於いて「保守主義者」と表現したいと思うグループが幾つか存在します。この人々は、この会談を同意に達するための試みの会談であると想定し、これは失敗に終わったと言いたくてたまらないのです。上手く隠し切れていない彼らの意向とは、聖ピオ十世会が聖伝を具現化しているが、そのような聖伝は公教会内部で市民権を獲得することは絶対にあり得ないと、出来るだけ速く証明する事です。この焦りは、公教会の未来のためへの自己を忘れる愛、或いは教義の純潔さを守るための愛によるというよりはむしろ、固有の意味での聖伝--- 保守主義、あるいは新保守主義的な立場の薄っぺらさではなく--- が持っているかもしれないインパクト(影響力)を本当に恐れているからです。


現実に、この反応はこれらの立場にある矛盾と内的弱さに、ゆっくりとますます気づいていること‐そうだとはっきり認められる事はありませんが‐を明らかにしているのです。

3)ですが、何よりも先ず、この事(異分子的な聖伝主義者らが聖ピオ十世会の教会法的に正常化を期待すること)は、聖ピオ十世会の戦いを自分のものにしようと望まず、あるいはこの戦いに伴う重荷や様々な結果を引き受けることを望まないけれども、教会法による聖ピオ十世会の正常化からは何らかの利益を期待してはいるグループや立場が存在していることを示していると思えます。

 実際、変化に富んでいる聖伝主義の群島には、大勢の“評論家たち”が存在しています。彼らは、聖ピオ十世会の考え方について、本質的な意見の相違を表明しながらも、私たちのことにおける日々の進展を最大の関心を持って見守っているのです。それは、自分たちのことをそれと同一視する修道会とか、又は自分たちが深く関わっている地元の状況とかにとって、建設的な反響を期待しているからです。聖ピオ十世会の将来に関する最も取るに足りない噂が自然発生する度に、これらの評論家たちが経験する動悸に私は感銘を受けています。ですが、この現象は簡単に説明出来るものでしょう。

何故ですか?

ダヴィデ・パリャラーニ神父: 今お話ししたのは、自分たちの将来の状況について、基本的に失望していて或る不安定さを感じている信徒或いは司祭たちについてのことです。

 彼らは自分たちの信じた(ローマが彼らにした)約束の大部分が殆ど守られも、実行されもしていないと理解しています。

 彼らは、第一にスンモールム・ポンティフィクムによって、それから次にウニヴェルセ・エクレジエに基づいて、トリエント典礼に完全な市民権と自由が与えられ、実質的に守られる事を期待しましたが、これは穏やかに実現しないだろうと理解しているのです。特に司教様たちとの関係上、無理だと。

 従って‐そして残念ながら‐たとえこれらのグループが聖ピオ十世会の話の結果に興味を持っていたとしても、この会談を支える教義的原理のためでも、この会談が公教会そのものに対して持ち得る影響のためでもなく、ただむしろ功利主義的な観点から興味を持っているのです。つまり聖ピオ十世会は、今や失うものは何もない司祭たちの突破用歩兵大隊として見られています。もしも聖ピオ十世会が、自分のためにかなり重要なものを獲得するなら、他の司祭たちも懇願出来る教会法上の前例を作り上げるだろう、と。

 この態度は道徳的に議論の余地があり、おそらくはやや利己主義的です。しかし二つの利点を持ち合わせています:

 先ず第一に、これは、聖ピオ十世会の立場が、結果としては何か興味深いものを生じさせる事の出来る唯一の信じるに値する立場である事を、そして、自分たちの意思に反して、ついにはその事実に言及する羽目になる人々が多く存在している事を、逆説的に証明してくれます。

 二番目の利点とは、もしも教義のことに優先権---この優先権は公教会が自分の聖伝の回復を可能にする為なのですが---が与えられていなければ、不確実な計算と不安定な結果から作り上げられる外交的な観点へと必然的に滑り込み、悲劇的に失望的な結果を見るだけという危険を冒す事になるだろうと、立証してくれています。

 もしもバチカンが聖ピオ十世会に、聖座直属の属人教区(Ordinariate)として組織されるという機会を提供すると想定した場合、その提案はどのように受け止められるとお考えですか?

 それは<カトリック的>原理と優先権、そして何よりも先ず聖ピオ十世会の長上方が常に御自分たちのインスピレーションをそこから引き出して来られた超自然の賢明を基礎にして、平静に考慮されるでしょう。

(続く)


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】