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2011年6月17日、ウィノナで行われた叙階式でフェレー司教様がされた説教

2011年08月01日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2011年6月17日、ウィノナで行われた叙階式でフェレー司教様がされた説教を日本語に訳して下さった方がおられるので、感謝しつつ、愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


+聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン

心より敬愛する神父様方、親愛なる司祭職ならびに助祭職志願者の皆様、親愛なる神学生の皆様、そして修道女の皆様、さらに親愛なる信徒の皆様。

聖霊降臨の偉大なる玄義、即ち、至聖三位一体の第三の位格による、世界、創造、それから私たちの愛しい母なるカトリック教会誕生へのこの神妙にして驚くべき御介入を未だ観想している間‐しかも、依然としてこの祝福された時に私たちがいる間に、天主の御摂理は未来の助祭および司祭たちに私たちが叙階の秘蹟を授ける事をお許しになりました。

聖霊について語る際、私たちは非常に特別な使命を持った、創造の為に遣わされた聖三位一体中のある位格について話すことになるのです。この使命とは御自分の被造物を聖化し、彼らを聖性に至らせると共に、超自然の世界、つまり天主の世界へと高めて、この世を天国の前奏曲へと変容させる事です。もちろん、この世にあって、人生が日々苦闘であるという事は私たちも自覚しております。人生は試練の期間だからです。私たちが知る様に、地上にある公教会の名前とは戦う教会であり、それは絶えずその使命完遂の為に戦わなければならないのです。つまりそれは霊魂を救うという使命です。公教会は繰り返し悪魔とその同盟者たちの攻撃に晒されるでしょう。同様に公教会の成員たちもまた攻撃されるのです。私たちの聖主により近く、この戦いに於いて特別な任務を受けた人々であればいっそうこの攻撃に晒される事になります。

司祭と助祭たちを見る事は常に感銘を与えてくれます。何故感銘を与えるかというと、もしただ人間的な眼差しだけを以って彼らを眺めるなら、私たちは彼らを他の人々と大きく異なった存在としては見ないからです。もし私たちがこの自然の水準に留まるのであれば、私たちはスータンでさえも‐とりあえず彼らを他の人々と区別するものとしては‐見るかも知れませんが、それは相も変わらず大した区別ではありません。しかしながら、司祭と助祭の実体を正確に見るたった一つの方法とは、信仰の眼差しだけを以って見る事です。彼らが誰であるか理解し、また私たちの参列している式典<叙階式>の偉大さを理解する為には、超自然の視力を私たちは必要とします。それはどんな人間活動をも凌駕する儀式です。
親愛なる兄弟の皆様、私たちはそれほど並外れたものに居合わせているのです。天主御自身が限定された霊魂たちを全人類から選ぶでしょう。それは天主が彼らに触れて、その上から唯一彼らだけが持つ事を許されている何か‐司祭職の霊印‐を刻む事によって変容させるでありましょう霊魂たちです。助祭は間もなく司祭職に参与するでしょう。とは言いましても、もちろん司祭はそれにより高度に参与しているのですが。この霊印は、私たちが位格的結合<the Hypostatic Union:神人両性の結合>と呼んでいるもの以外の何物でもないと公教会は私たちに教えています。

 位格的結合についてお話する時、私たちは人性と神性の驚くべき結合、即ち、私たちが聖主イエズス・キリストの内に見出す一致について話すのです。位格的結合<神人両本性のキリストのペルソナにおける結合>とは、実際、ちょうどイエズスを<人間でしかなり得ない>大司祭(Priest)とするものです。

司祭とは仲介者、つまり天主と人間の間に立つ人であります。イエズスは神人両性への参与者でありますから、天主と人間の間にお立ちになっており、実際に立つ事が出来る唯一の御方です。天主に対して人間の使節である彼は、私たちを救う為に御父から遣わされた仲介者です。救霊の働きは恐ろしい現実から成りたっています。つまりそれは私たちの聖主の御受難と御死去です。生け贄にして最高司祭(Sovereign Priest)でもある私たちの聖主は、罪を償い、私たちを救い、私たちに天主の恩寵と憐れみ、罪の許し、さらに究極のところ、天国を獲得する為、御自分を生け贄としてお捧げになったのです。司祭を作り出される時の天主は、ちょうどイエズスを司祭にするもの<位格的結合>の参与者とする程の尊厳を彼らに与えようとお望みになります。司祭と、私たちの聖主イエズス・キリストである大祭司との間にあるこの一致は、一切の理解力を超えているのです!この一致は司祭を地上に於ける最重要人物、要するに、地位に於いては如何なる政治的支配者や、君主、王、あるいは大統領などよりも高位の人間にしてしまいます。後者の方々は、この世の出来事に忙しいでしょうが、司祭は永久不変の真理(with eternity)に夢中になります。

もし人類の運命に関する責任担当者がいるとすれば、それは天主御自身から選ばれる司祭です。司祭は、私たちの聖主御自身の犠牲を継続すると共に、ある方は言うかも知れませんが、霊魂たちの救いに関して天主と“取引を行う”事により、日々天主の無限の御稜威の御前に立っているのです。司祭は唯一つ天主に相応しい犠牲を捧げるのです。それは人間の罪による損害を唯一償って修復する事の出来る犠牲です。天主は、御自分の賜物、罪の赦し、御聖体に於いてイエズス御自身という富を霊魂たちに与える任務を司祭にお委ねになりました。しかしながら、もう一度申し上げますが、この玄義に関する何かを私たちが理解し、それに立ち入るには、信仰が必要とされるのです。

私たちは現代の世界を見てみましょう。この信仰を見出そうと試みます。それはどこにあるでしょうか? 皆さんが公教会を御覧になる時でさえ、ちょうど説明したばかりの全玄義に対する理解力の低下にはぞっとさせる何かがあるのです。もし今日、だれにも知られていない誰かがいるとすれば、それは司祭です。公会議後に公布された公教会の公式文書でさえ、司祭が一体何なのか分からなくなりアイデンティティの危機があることに言及しているのです。結局のところ、もはや司祭は自分が誰なのか分からないという事を意味します。

どうしてそうなるのでしょうか? どこにこの問題の根源があるのですか? 親愛なる兄弟の皆様、私はそれが天主への配慮の欠如から来ていると私たちには言えると思うのです。現代人はもはや天主が誰なのか知りません。人間は自分の想像に向かって自分の神々を創り出し、その小さな頭の中であるものをでっちあげるのです。彼はもうこの客観的な天主を、つまり私たちの創造主であり、私たちの些細な俗世界の外におられ、無限にして全能、また永遠なるこの天主を、天主の御摂理を、絶えず永遠に、万物を支配し、万物に影響し、御自分の摂理に於いて誤り得ない支配者なる天主を受け入れないのです。それでも彼は、御自分の被造物たちに、その活動を通して功徳を積めるよう自由をお与えになった天主なのですから、この事は、親愛なる兄弟の皆様、人間が行おうと選ぶものは一つ残らず、善か悪のどちらかであろう事になりました。善行は報われ、悪行は罰を招くでしょう。もし私たちが天主をその地位に置けば、私たちは人間をもその地位に置かなければなりませんし、人間と天主とのこの相関関係は素晴らしいものか悲劇かのどちらかとなるでしょう。さもなければ両方です。何故なら、被造物たちが善行を成し遂げる度、彼らは天主を喜ばせるからです。ではもし被造物たちが何か悪い事を行えば、彼らは単に悪を行うのみならず、天主の掟を“破り”、天主御自信、つまり天主の御稜威をも傷つけるのです。人間行動‐特に私たちが罪と呼ぶ行動‐の恐るべき結果に対するこの理解は現代では忘れ去られています。現代人は罪が何であるか理解しておりませんし、それがもたらす結果を、特に今世と来世の両世でもたらされる最も恐ろしい結果を知らないのです。今世に於ける結果とは、死であります。死が‐死は私たち一人ひとりを待ち受けています‐存在するに至ったのは、人祖アダムとエバが犯した最初の罪‐親愛なる兄弟の皆様、たった一つの罪ですよ!‐が原因であり、その結果として全ての人間は死ぬことになっています。それでも私たちは、こう簡単に罪を看過出来るのですか? 私たちはそれを軽視出来るのですか? もはや言及される事のない結果、つまり、罪に対する最悪の結果である地獄についてはどう思いますか? 現代人たちは今ではもうそれについて言及しませんし、仮にしたところで、誰もそこにはいないと言うのです!不幸と苦痛から成るこの永遠の惨劇は恐ろしいものであります!天主との永遠の離別、これが地獄と呼ばれるのです。もし彼が正しい振る舞いもせず、また天主の掟に従わないのであれば、これは容易に人間の究極目的となる事が出来ます。人類からこの運命を取り除き、霊魂たちを地獄ではなく天国へと至らせる為に出来る事をするのが公教会の使命です。それは難しい事ではありません。要するに罪を避け、天主を傷つけないよう努め、「まあ、あまり重大事ではないよ!」とか、あるいは「天主の赦しをもらうなんてとても簡単だ」などと考えない事です。そうではありません。罪は重大なのです!

ですから私たちがそれを理解すれば、日々この劇的状況に、そうです、つまり人間の永遠の運命にさらされた司祭の役割を私たちはより多く理解します。天国を開き、罪、即ち悪魔の鉤爪に拘束された霊魂たちを開放する為の権能はまさにこの司祭に与えられたのです。だからこそ、私たちは司祭たちを頂いており、その結果として私たちは救われ天国に行く事が出来るのです。もし司祭たちがいなかったならば、私たちに災いあれ!より多くの司祭たちを与える事を以って天主が与え下さった賜物の価値を十分に正しく評価する事は私たちには出来ません!天主に感謝すべきです。おお、そうです!私たちの聖主の犠牲を継続し、赦しや天主の御憐れみを請い、罪の代償を支払って霊魂たちに天主の恩寵をお与えになっている十字架上のイエズスの様に持ち堪える事になるでありましょうより多くの司祭たちを私たちに与えてくださる事に対し心から天主に感謝致しましょう。

この業全ては聖霊と共に成し遂げられますので(ちょうど今日は、聖霊降臨後の四季の金曜日です)、司祭たちについて話す時、私たちは聖霊と司祭と助祭の間の非常に特殊な関係について話しましょう。もしこの関係を最高度に見る事が出来る叙階があるとしましたら、それは助祭のそれに於いてだと私は考えます。この秘蹟それ自体の形相に於いて、司教は助祭の頭に按手しながら「Accipe Spiritum Sanctum 聖霊を受けよ」「Ad robur 強められん事を」「Ad resistendum diabolo 悪魔に(そしてその誘惑に)抵抗せんが為に」と言うのです。それは公教会の知覚力です。助祭を作り出す時、公教会は悪魔に抵抗し、その誘惑と戦う為に聖霊の助けを求めます。これこそ公教会の信仰であって、人々が今日口にする事ではありません。さらにそれは、「Emitte ignis 火を遣わし給え」 聖霊の賜物、つまり聖霊の七重の賜物を遣わして、彼らの内に配し給えという、助祭が助祭となる根拠である形相、さらに助祭がそれによって助祭となるこの形相そのものの内に留まるのです。

親愛なる兄弟の皆様、この働きを目撃する事は印象的です。私たちはこの賜物が彼ら一人ひとりに入り、彼らを変容させると共に、堕天使たちとの超人的戦闘に向けて霊的に彼らを強化しておられるのは、至聖三位一体の第三の位格に在す天主御自身である事を熟考しなければなりません。司祭に対しても同様であり、そこでは聖霊について言及されています。何故なら、この聖化の業は聖霊の業だからです。それでは今申し上げた天主の業について、そしてどれだけ私たちのすぐ近くに天主がおられるかについての、より正しくそしてより深い理解を諸天使と聖なる童貞聖マリアが私たちに与えて下さるようお願い致しましょう。


ところで、親愛なる兄弟の皆様、皆様は間違いなく司祭会の現状について何かお聞きになりたいかと思います。私たちがどこに位置しているのか? 何が起きているのか? それは全くの晴天か、全くの曇りであるとお伝えした方が良いのかも知れないのですが、それがどの様なものかをお伝えするより仕方がありません。私たちには雲と太陽があるのです!これは私たちが、二十年間も、絶えず矛盾と直面して来た限りにおいてそうです。

既に二年前の2009年ですが、私は国務聖省長官であるベルトーネ枢機卿閣下との面会を要求しましたが、その理由は私たちが様々な矛盾から生じる困難と前々から直面していたからです。「矛盾」という言葉はオーバーな言い方ではありません。どういう意味でしょうか? それは私たちがローマから矛盾したメッセージを受けている、つまりある者はこれと言い、またある者はあれ言うという事が起きているのです。それは単なる意見の相違ではなく矛盾です。

もちろん私たちはそれについて検討し、何故そうなるのかと自問します。どこからそれはやって来るのでしょうか? 私たちの理解では、全教会同様、ローマにも異なる風潮が存在します。分かり易くする為、彼らのことを進歩主義者と保守主義者と呼びましょう。私たちと親しく、司祭会が育成されるよう喜んで取り計らって下さる特定の聖職者たちが存在します。しかし一方で私たちを嫌う方々も存在しているのです。またこの表現は私たちに対する彼らの態度を唯一つ正確に説明します。彼らは私たちを嫌っていて、ローマにいるのです。問題は彼らから来る時もあれば、他の方々から来る時もあります。

昨年の9月に起きた一つの例を皆様に挙げさせて下さい。ある修道会に属しておられ、その後で司祭会に入会したばかりだった一司祭が、一通の手紙を元長上から受け取りました。彼は自分がもはやこの修道会の会員ではなく、破門されていると伝えられました。この手紙には、ローマの修道会聖省が発行した確認書が同封されており、こう言明してあったのです:「確かにこの神父様は、もはや御修道会の会員ではありません。彼はルフェーブル大司教の形相的離教に合流する事により信仰を失い、破門されているからです。」これが昨年9月の手紙だったのです!

そういう訳で、私はローマへ行って、エクレジア・デイ委員会長官にこれは一体どう言う事なのかと尋ねました。彼は私がこの手紙から読み出しているところだった一節を読み終わらせる事さえも許さずこう言われたのです:「もう知っておりますよ。私ども‐教理聖省‐は、修道会聖省にはそのような発言権がないと説明しておきました。この資格を持っていない彼らの判断は修正しなければなりません。」それから彼は「この手紙をどう処理するのか貴方がやる事とはこうですよ」と言葉を続け、あたかもそれを投げ捨てるかの様なしぐさをしました。それが彼のした身振りです!言い換えるなら、それを取ってゴミ箱に入れなさいというものでした。このようにローマの一当局<教理聖省>が、別のローマ当局<修道会聖省>の下した決定を投げ捨てるよう私に要求しているのです。矛盾ではありませんか? 彼は次の様に言いながら続けました:「貴方はローマから来るもの全てが教皇様から来るのではないという事をそちらの司祭や信徒方に説明すべきですよ!」私は「それは無理な話です。どうして閣下は、信徒や司祭たちがそんな判断を下せる事をお望みになるのですか? ローマから来るものは教皇から来るのです!そうでなければ、私の気に入るものは教皇から来て、気に入らないものは教皇から来ていないと彼らは言うかも知れません!」と彼に申し上げました。

この様な例によって、親愛なる兄弟の皆様、皆様はローマには深刻な問題があることを理解すべきです。もしある当局が「ローマから来るもの全てが教皇から来るのではない事に気付け」と言うとするなら、ではそれは一体何処から来るのでしょうか? どうすればそれが起こり得るのですか? ローマ、つまりバチカンは教皇様の片腕であるはずです。この事実は、もはや教皇が監督しておられない事を意味します。

親愛なる兄弟の皆様、私が矛盾についてお話する場合、ローマには、私たちが公教会の外にあり、破門されているどころか信仰を失った者であって、異端者であるとさえ見做すある種の方々がいるという事を私は言おうとしているのです。しかし非常に分かり易く、私たちの事をカトリックとして受け入れて下さる方々もいます。デ・ガラレッタ司教様と本会司祭たちが教義討論の為にローマへ行く時には、聖ペトロ大聖堂で御ミサを捧げます。どうすれば皆様には、同時に両方の態度を取れるのですか? この矛盾が如何に強烈か皆様にはお分かりになりますか? 

親愛なる兄弟の皆様、ですから、私たちが非常に慎重になっている事を皆様は理解する事が出来ます。何れにせよ、太陽が現れればそれを歓迎し、雲が迫ればそれから身を守る術を十分に心得ているとは言え、私たちはこの混乱に身を投じる気は御座いません。

一体誰が聖座で勝利するのでしょうか? 教皇様が善をなそうとすると、邪魔をされてしまうか麻痺させられてしまうという事実を明らかにする例が非常に数多くあります。ドイツに一つしかないトラピスト会の大修道院長司祭は、単にトリエントミサへの帰還のみならず、第二バチカン以前の修道会会則と憲章を回復させる事が出来るようある教皇様に許可を願いました。この教皇は彼にその許可を与えると、その実行を可能にする為、彼が以前の会則に従う事が出来るよう、現代的会則を用いるベネディクト会連盟(the Benedictine Federation)から彼を外しました。教皇様は彼のいる大修道院を直々に御自身の管轄下に置いたのです。六ヶ月後、この大修道院長はローマにいる友人に電話をかけて現状を尋ねました。彼は先ず「私の方は何の変わりもありません」と言いました。するとこの友人は「教皇様にもう一度手紙を書いて下さい。ただし今回は私宛にそれを郵送するのです。そうすれば私の方で個人的にそれを教皇様のところへお持ちしますから。」と答え、実際彼はそうしました。彼はこの手紙を持って行き、例の大修道院に対して何が起きているのかと教皇聖下に尋ねたのです。教皇様は酷く驚かれて「六ヶ月も前に私はこの許可を与えましたよ!」と説明されました。ある調査が行われ、何者かが‐私たちはそれが誰だったのか正確に知っています‐この手紙を国務聖省事務室の引き出しに入れたという事を彼らは知ったのです。今回は‐私に直接この話をお教えて下さったので、噂は全く存在しません‐この友人が教皇聖下に「この手紙の中にコンチェッソ(Concesso:承認済み)とお書き下さい。そうして下されば私が責任を持ってそれをお引き受けするつもりです。そしてこの知らせを大修道院に持って行きます。」と言いました。こうする事により、彼らは教皇様の決定に関する知らせを伝える為に国務聖省を頭越しにしたのです。これはほんの一例にしか過ぎません。

教皇様御自身がその行動をどれだけ制限されているかを説明するには、トリエントミサに関する最近の文書<ウニヴェルセ・エクレジエ(Universae Ecclesiae)>を御覧になって下さい。これはまたしてもローマに存在する反対勢力の見事な一例です。


一方では、この文書を用いて、問題のミサを至る所に広め、全ての霊魂がこの古いミサに留まらず、昔ながらの秘蹟授与の様式に接近するのを可能にしてあげたいという要望があるのは非常に明らかです。ですからあらゆる典礼関係の本が自由に使えるよう置かれています。ところが、同時に不思議な規定が存在するのです。第一の規定とは、とても驚くのですが、現代の神学生たちは旧典礼の使用を許されないというものです。エクレジア・デイ委員会の下にいる神学生たちのみ、旧典礼に従って叙階される事が許されているのです。それではどうして古い叙階様式を備え持つ司教用定式書<の使用>は、司教たちの自由に任せられると書かれているのでしょうか? 

ただしさらに酷い事があると言っておきます。一方で、皆様は古いミサを全世界の霊魂たちの自由に任せて欲しいという要望をお持ちです。とはいえ、この恩恵を被りたいと望む者は、新しいミサに反対する団体と関係を持つ事も、当団体関係者を援助する事さえもしてはならないと書いてある第19項を皆様はご存知です。まあ古いミサを望む方々の95パーセントは新しいミサに反対しているのですよ!どうして私たちは古いミサを望むのですか? もし私たちが新しいものに満足していれば、古いものについて考えさえしないでしょう!新しいミサの有効性又は正当性に反対する方々は古いミサを奪われてしまいます。彼らに残るのは、無です、無ですよ!もはやこれは和解行為ではなく、戦争行為なのです!

このような不一致がどうして一つの文書内で起こり得るのかを説明するたった一つの方法とは、はっきり申し上げますとバチカン自体の内部にある前述した不一致と私は考えております。それぞれの党派<保守・進歩主義者>が何かを得ようと試みます。そして、もちろんのこと、私たちはこの混乱の真ん中にいるのです。

その結果、皆様はありとあらゆる噂を耳にします。まったく起こり得るものから起こり得ないものまでの全てです!親愛なる兄弟たちよ、どうかこれらの噂を追いかけないで下さい。もし何か知っていれば、私たちが皆様にお伝えするつもりですから。私たちは決して何かを隠しませんでしたし、私たちを取り巻く現状を隠す理由は全くありません。もし私たちが何かを皆様にお伝えしないなら、それは何も起きていないからです。一部の方々は何かが起ころうとしていると言います。いいえ、これは真実ではありません!真実は、レヴァダ(Levada)枢機卿が私をローマに御呼び出しになられ、それは9月の中頃になるだろうという事です。それが私の知るたった一つの事です。それは私たちがローマと行った討論についてです。一連の討論の後、「これらの文書はより高位にある当局に提出されるだろう。」という事が話されました。以上が正確な発言です。将来について私の知るたった一つの事です。それ以外の事はでっちあげです。ですからどうか一連の噂を追いかけないで下さい。

以上全ては、親愛なる兄弟の皆様、戦いが継続中である事を証明します。もし言わせて頂けるのなら、今日二つの危険が存在しているのです。一つ目は、全て申し分なく、全ては完全で、戦いは終わったのだという幻想の下にあります。しかしながら、それは恐ろしい幻想です。親愛なる兄弟の皆様、私には約束する事が出来ます。もしローマが、最終的に司祭会が持つ教会法上の立場を修正する時には<カトリック信仰防衛の>戦いが始まるでしょう。そしてそれは終わる事はないのです!しかし未だその時は来ておりません。どれだけ待つのですか? 分かりません、私には皆目見当がつきません!私たちは、公教会には危機が存在するといい続けるつもりです。時にそれは本当に失望させます。と言いますのも、ローマでは、全て申し分ないという印象を彼らが与えるので、翌日には私たちの方から、そんな事はありませんと彼らに意思を伝えるからです。「しかし宜しいですか、(誤謬を広めているのは)司祭たちなのですよ、司教たちなのですよ、そしてカトリック系大学なのです。それらは異端に満ちています!」これが教理聖省長官からの言葉です。


以上は2009年の6月に、教理聖省長官が私たちに伝えて下さった事です!もし彼らが、至るところ異端だらけだと言う事が出来るなら、実にそれは何かある事を意味します!つまり彼らは、公教会の現状が深刻である事に気付いているのです。しかし同時に彼らは、まるで全てが申し分ないかのように行動するのです<ここに矛盾が存在する>。それはがっかりさせるのに加え混乱を招いてしまいます。ですが、親愛なる兄弟の皆様、これが現状なのです。

ですからこれら全ての幻想に巻き込まれないで下さい。ただ同時に、失望が皆様を動かすままにしてはいけません。この戦いが長いというのは本当ですが、私たちはそれを変える事が出来るのです。悪魔は悪魔のまま留まりますから、私たちは彼と平和を実現するつもりはありません。この戦いは天主がお望みになるだけ続く事になりますが、私たちはこの戦いに必要はもの全てを持っています。それはつまり、天主の恩寵と支えです。私たちが捧げているトリエントミサは、キリスト教精神を私たちの内側で育んでいるところです。それはキリストの精神、つまり世俗に関わらない事や、現世の所有物を適度に用いる事、さらに最も重要なのは地上ではない事を私たちに教えてくれる精神です。最も重要なのは天主、天国、つまり私たちの永遠の運命です。

親愛なる兄弟の皆様、私が皆様をこのロザリオ十字軍に招集するとすれば、それは皆様が今述べた罠、即ち、幻想と失望の両方からの脱出を手伝う為です。祝された童貞マリアに私たちを結合してくれるこのバラの鎖を使った、この祈りの間、私たちは間違いなく彼女の御保護の下にありますし、正しい戦いを戦っているのです。彼女は私たちを導いて下さるでしょう!恐れないで下さい、善き御母はその子らを見捨てる事はないのです。寛大であって下さい、これらの祈りに心から物惜しみをしないで下さい。人間的な手段を通じて公教会に望ましい形勢を期待する事など出来ません。そうです、私たちは超自然の手段を用いてそれを期待するのであって、まさに祈りが私たちの持つ最強手段の一つです。

ですから親愛なる兄弟の皆様、私はロザリオを祈るよう、それも適切に祈るよう皆様をお招き致します。祈りの量は、皆様の祈り方が示す質ほどに重要ではありません。童貞マリアが聖ドミニコにロザリオを持って来られたのは何故でしょうか? 何が彼女の目的だったのでしょうか? それは私たちの聖主と祝された童貞マリアの生涯に起きた様々な出来事の考察による観想の内に、信徒たちを天主に結びつける為でした。これがロザリオの目的です。ですからロザリオとは、ただ15連<3環>、あるいは数環を唱える事なのではなく、それはむしろ旋律の様であり、聖主イエズス・キリストと祝された童貞マリアに結びつける<15>玄義の考察に於いて私たちを助けてくれる背景音楽です。ですから適切に祈ろうではありませんか!適切に祈られるロザリオは‐私たちは確信しています‐とても、とても強力なものです。ファティマのルチア修道女<シスター・ルチア>は、祝された童貞マリアはロザリオがあらゆる問題の解決策となるよう、この祈りに格別の有効性を付与されたと敢えて言っています。

親愛なる兄弟の皆様、この式典を継続するに当たりまして、祝された童貞マリアの御保護と聖霊の御保護の下に自らを置きましょう。またこの聖霊が世界を燃え立たせると共に、その愛徳の炎をますますこれらの司祭及び助祭たちの心に預け、今度はこの彼らが世界と、愛徳の不屈の炎と、そして天主に対する愛と、天主を愛するが故の隣人への愛を燃え立たせて下さるようお願い致しましょう。アーメン。



--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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