アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
サムエルの書の上は、大聖グレゴリオによると、次のような神秘的な意味があります。「ラマタイムに一人の男がいた。」
このエルカナは、キリストの前表です。一人の人(vir unus)は、唯一の人で、比べるものも無く、聖父が喜びとする御一人子で、この名に勝る名はありません。
エルカナは、エフライムの山からの出身で、「豊饒の山」、全てを支配する山、全ての徳に豊かで秀でる山、聖母マリアからの人です。
エルカナの町は、ラマタイム(ラマタ・サフィム)で、その意味は「完成された視覚・観想」何故なら、イエズス・キリストは天主の聖父のふところの至福の観想の場から人となった天主だからです。
エルカナには妻が二人いました。キリストは、神秘的に二人の「花嫁」がありました。一人はカトリック教会(アンナ)、もう一人はユダヤの会堂(ペンニナ)です。
教会の初期には、キリストの愛と説教にもかかわらず、たいして信者の数が無く、それに引き替え、会堂には信者が多くありました。
定められたように、毎年、エルカナはいけにえを捧げるためにシロに家族で上ります。イエズス・キリストも、聖父に定められたように、預言者によって定められた時に、十字架のいけにえを捧げるために、シロ、つまり「派遣」へと、向かうのです。
カトリック教会は、ユダヤ会堂にいじめられ、会堂の不信仰と硬い心と悪意について悲しく涙します。
エルカナがアンナを慰めたように、キリストは、花嫁である教会を慰め、10戒を超えることを知らないより、イエズス・キリストの愛を持つという最高の善を持っていると言います。
教会は、アンナが望んだように、子らを天主に、天主のために生きるように、捧げることだけを望んでいます。
シロの聖所の扉の柱に近い腰掛けに座っていた祭司エリ、つまりユダヤの祭司職には、教会の態度が理解出来ません。実に、モーセの教座に座ってはいたものの、神殿の外に腰掛けていただけでした。何故なら「霊と真理において礼拝する」その真理の神殿、つまりイエズス・キリストを理解しなかったからです。
聖霊降臨に聖ペトロがイエズス・キリストの名で説教すると、会堂は聖ペトロのことを酔っていると思います。「その名(イエズス・キリストの名)で話すな!」
聖ペトロは、酔っていないことを説明し、人間よりは天主に従順であるべしとします。
そして教会は、歌で祈ります。
「私の心は主において喜ぶ。云々」と。これからは、天主の恵みで、教会が子らをたくさん生むだろう!!
実にサムエルは、その懐胎(うまずめの母)も、その出産も、その使命(大祭司に天主からの使信を伝える)も、洗者聖ヨハネの前表でした。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@フィリピンの気候にようやく慣れてきました
愛する兄弟姉妹の皆様、
サムエルの書の上は、大聖グレゴリオによると、次のような神秘的な意味があります。「ラマタイムに一人の男がいた。」
このエルカナは、キリストの前表です。一人の人(vir unus)は、唯一の人で、比べるものも無く、聖父が喜びとする御一人子で、この名に勝る名はありません。
エルカナは、エフライムの山からの出身で、「豊饒の山」、全てを支配する山、全ての徳に豊かで秀でる山、聖母マリアからの人です。
エルカナの町は、ラマタイム(ラマタ・サフィム)で、その意味は「完成された視覚・観想」何故なら、イエズス・キリストは天主の聖父のふところの至福の観想の場から人となった天主だからです。
エルカナには妻が二人いました。キリストは、神秘的に二人の「花嫁」がありました。一人はカトリック教会(アンナ)、もう一人はユダヤの会堂(ペンニナ)です。
教会の初期には、キリストの愛と説教にもかかわらず、たいして信者の数が無く、それに引き替え、会堂には信者が多くありました。
定められたように、毎年、エルカナはいけにえを捧げるためにシロに家族で上ります。イエズス・キリストも、聖父に定められたように、預言者によって定められた時に、十字架のいけにえを捧げるために、シロ、つまり「派遣」へと、向かうのです。
カトリック教会は、ユダヤ会堂にいじめられ、会堂の不信仰と硬い心と悪意について悲しく涙します。
エルカナがアンナを慰めたように、キリストは、花嫁である教会を慰め、10戒を超えることを知らないより、イエズス・キリストの愛を持つという最高の善を持っていると言います。
教会は、アンナが望んだように、子らを天主に、天主のために生きるように、捧げることだけを望んでいます。
シロの聖所の扉の柱に近い腰掛けに座っていた祭司エリ、つまりユダヤの祭司職には、教会の態度が理解出来ません。実に、モーセの教座に座ってはいたものの、神殿の外に腰掛けていただけでした。何故なら「霊と真理において礼拝する」その真理の神殿、つまりイエズス・キリストを理解しなかったからです。
聖霊降臨に聖ペトロがイエズス・キリストの名で説教すると、会堂は聖ペトロのことを酔っていると思います。「その名(イエズス・キリストの名)で話すな!」
聖ペトロは、酔っていないことを説明し、人間よりは天主に従順であるべしとします。
そして教会は、歌で祈ります。
「私の心は主において喜ぶ。云々」と。これからは、天主の恵みで、教会が子らをたくさん生むだろう!!
実にサムエルは、その懐胎(うまずめの母)も、その出産も、その使命(大祭司に天主からの使信を伝える)も、洗者聖ヨハネの前表でした。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)@フィリピンの気候にようやく慣れてきました