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Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主の御受難 -肉体と霊魂の苦しみ-

2016年03月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間の聖月曜日となりました。主の御受難について黙想することにいたしましょう。

2005年の「十字架の道行」での黙想です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2005年3月20日午後 十字架の道行
小野田神父


今日はこうやって皆さんと一緒に、イエズス様の歩まれた『十字架の道行』ができるのを嬉しく思います。このすばらしいお祈りと黙想が、四旬節中だけではなく、いつでも頻繁に唱えたり黙想したりすることができれば、何と良いことでしょうか。
『道行』を始める前に、少し背景を解説したいと思います。皆さんもお祈りの時にはこれらのポイントを押さえながら黙想するようになさって下さい。そして、イエズス様はすべての苦しみと艱難とを私達のために受け取って下さった、これはすべて私のためだったということをよく考えるようになさって下さい。そしてこの『十字架の道行』の時に、できれば、イエズス様の御苦しみに同情する涙、私達の罪を痛悔する涙を求めることに致しましょう。

まず、肉体の受けた苦しみを黙想します。

十字架というのは皆さんもご存じのとおり、古代においては最も痛々しく残酷な刑であると考えられました。
イギリスでカトリックが迫害された宗教改革の時代があって、カトリック信者が紐で十字架に付けられ吊るされたのですけれども、手と足はロープで縛られただけだったそうです。それでも、何時間と十字架に架かった後ではもう信者達は死んだようにぐったりとしてしまったということです。実際このように張り付けられるだけでも、ものすごい残酷な拷問なのだそうです。


イエズス様はロープで付けられたのではなく、釘を打たれました。
よく、イエズス様の御絵などには手の平に釘の痕がありますけれども、ラテン語の「手(manus)」という言葉の範囲には手の付け根も含まれるそうです。おそらく医学的にも、聖骸布のイエズス様もそうなのですけれども、手の平に釘を刺したのでは体の重みを皮膚が支えきれずに張り裂けて体が落ちてしまうので、手首のちょうど骨の間を釘刺したと言われています。聖骸布もそうなっています。
しかもここはちょうど神経の集まっているところですので、よく膝をポンと叩くと下の足がピクンとするように、ちょうど同じような手を動かす神経が手首の中に入っているそうです。それなので、ここを異物が貫き通すということは、ものすごい神経の痛みや痺れを催すということです。そしてこの両手に釘打たれたことによって神経は拷問状態になっていました。

聖ユスティヌスによると、古代には十字架に、座るようなところがあったのだそうです。体の重みを支えることができないので。聖ユスティヌスによると、イエズス様の十字架にもちょっと出っ張ったところがあって、それで体を支えたみたいです。
ところが聖十字架の聖遺物には、また古代の教父達の証言によれば、イエズス様の身体を支えた足は、足台がなかったのだそうです。イエズス様は直接、十字架に足台なく釘付けられたそうです。ですから体の重みは足の釘にかかってしまって、これはとてつもない痛みを足に与えていました。

ちょうど皆さんもこのような姿勢をとってしばらくいると感じると思いますが、血の流れが良くなくて、手からの血は体に流れ、そして息をするのも、肺を動かすためには肋骨を上下させなければならないので、それも動きにくくなって血液の循環が非常に悪くなったということと、あと、息をするのが非常に困難になったということで、窒息感をイエズス様は味わったに違いありません。
そのような状態になると、医学的には頭に上がる血圧が高まるのだそうです。それで体がむくんでしまって、おそらくそれによってイエズス様の茨の冠はますます痛みを増加させたと考えられます。

イエズス様はその時、服を着ていたわけではなく裸でしたので、冷たい風にそのまま晒されていました。今、3月でも少し外を歩けば寒いのですけれども、ちょうどイエズス様が十字架に架けられた12時から3時の間は太陽が光を失っていましたから、おそらく風は冷たく、イエズス様を温めるものは何もなく、全身は傷を負っていましたからその傷による熱と寒さによって、発熱した時に感じるような悪寒を全身に感じられたはずです。
さらにイエズス様は体中から血を流しておられましたから、水分は失っていました。そのために非常に鋭い喉の渇きを感じられたはずです。
前日から一睡もさせてもらえなかったので疲労は極度に達し、気絶する直前であったと思われます。

イエズス様はこうやって釘付けにさせられました。

私達のために釘付けにされたイエズス様をどうぞもう一度よくご覧になって下さい。これは私達を愛するがために釘付けにさせられ、そして私達を愛するためにご自分の御血をすべて流されました。

もし私達がイエズス様の御受難、肉体の苦しみをよく考えれば考えるほど、イエズス様の愛に感動せずにはいられなくなります。イエズス様のこの苦しみを考えれば考えるほど、私達が完全な罪の痛悔、今後罪を犯さないというこの痛悔を持たずにはいられなくなります。
そしてイエズス様が私達を愛するがためにこのような極度の痛みを甘受されたのならば、私達も十字架をイエズス・キリスト様のために甘受せずにはいられなくなります。イエズス様の十字架の苦しみを考えれば考えるほど、そのことを私達の心に刻み付ければ刻み付けるほど、もはや私達はこの世の罪深い喜びや楽しみのために罪を犯すことはできなくなってしまいます。


では、イエズス様の受けた肉体の苦しみの次に、イエズス様の受けた屈辱を考えてみます。

日本民族は非常に誇り高い民族ですから、たとえ私達はいかなる苦しみを負おうとも、肉体の困難を負おうとも、名誉を傷付けられることは非常に嫌います。私達は自分の名誉に関しては非常に敏感ですが、イエズス様は私達よりもはるかに名誉のある方です。そしてこのイエズス様がどれほどの屈辱を味わったかを少し黙想します。

イエズス様の血は天主の御血で非常に高貴な血が流れています。マリア様の御胎内にいらっしゃる間から、その罪の汚れない血が流れていました。しかしイエズス様が鞭打たれ血を流される時に、この罪のない血は罪に汚れたこの地に滴り落ちたのでした。イエズス様はこの地を浄めるために、この屈辱を受け入れたのでした。

それよりももっとイエズス様の屈辱だったのは、この十字架の死というのはあまりにも残酷であって、ローマ市民、ローマの一般自由民は、ローマ人の特権として、いかなる罪を犯したとしても、どんなにものすごい悪をしでかしたとしても、十字架の刑だけは受けることがありませんでした。自由民だからです。
十字架に付けられるのは奴隷以外にはありませんでした。それほど残酷で凶暴な刑でした。
イエズス様は、この世を創られ、この世に太陽を光らせ、私達に雨を降らせ、そして食べ物を与える大恩人であるにも拘らず、私達からものを盗んで人を殺す極悪人として十字架に付けられたのでした。奴隷として十字架に付けられたのでした。

イエズス様が受けた屈辱は、自分の身を守るべき、最もプライバシーを守る、最も敏感なプライバシーを守るはずの衣服さえも剥ぎ取られてしまったということです。しかもこれは更衣室で剥ぎ取られたのではなく、皆の前で公然と辱めを受けて衣服を剥ぎ取られたのでした。

そればかりではありませんでした。イエズス様はありとあらゆる冒涜の言葉を聞きました。野次を飛ばされました。嘲りを受けました。しかもありとあらゆる階級の人々から。通りがかりの人から、司祭長から、あるいはローマ兵から、一緒に十字架に付けられた左にいた盗賊からも言われました。

まず、左にいた盗賊は「お前は本当に天主の子ならば十字架から下りてみろ。そして俺たちを救ってみろ」と言いました。
道を通った人も言いました。今日もマテオ(枝の主日の聖福音:マテオ26ノ36-75、27ノ1-60)で読んだのですけれども、「なんだ、お前は天主の神殿を壊して三日で建て直せると言った者ではないか。それなら自分を救ってみろ。お前が天主の子なら十字架から下りてみろ」と。

「ここから下りてみろ」という言葉は、これはイエズス様は、実はこれと同じことを四十日間を過ごした砂漠で悪魔から聞いたのでした。悪魔は神殿の高いところに連れて行って、「もしお前が天主の子なら、ここから身を投げてみろ。そうしたら天主はあなたの足が傷付かないように支えるだろう」と。実際、「十字架から下りてみろ」と言う声は、非常に悪魔的な声だったのです。

こうやってイエズス様は釘で手足を貫かれたばかりでなく、鋭い毒のような言葉をもって突き刺されたのでした。

大司祭達も同じことを言います。大司祭達は通りがかりの人よりももっと言い方が残酷なのです。なぜかと言うと通りがかりの人達はイエズス様に向かって「おい、お前が天主の子なら十字架から下りてみろ、そして自分を救ってみろ」と話しかけたのですが、大司祭達はイエズス様を見ようともせずに「彼は多くの人を救った。だからもし天主が彼を望むならば天主を来させよ、そして彼を救えば良い」と三人称で言っているのでした。

「もし彼が下りたら私達は信じよう」と言いますが、でもこれは、まったく心にもない発言でした。
なぜならイエズス様が十字架に付けられたその数日前に、イエズス様はラザロを命令によって死から甦らせたこともありました。
そしてこの十字架に付けられた三日後にはイエズス様ご自身が、ご自分の力によって墓から甦るのです。

しかしそれを見ても彼等は信じようとしませんでした。もし本当にイエズス様が十字架から下りたら一体彼等は何をしたでしょうか。
ある教父はこう言います。おそらく彼等はイエズス様に近寄って、自分の拳でイエズス様を殴り殺してしまっただろうと。天主が彼を救えば良い、彼は自分で十字架を下りれば良い、そうしたら私達は信じよう…、まったくの嘘、まったくの偽善に過ぎませんでした。

なぜでしょうか。この司祭長達ユデア人にとって、実は聖金曜日の午後3時というのは、ちょうどその時から旧約のいけにえである子羊を屠らなければならない時間でした。しかしそれを、その重大な義務をほっぽらかしてイエズス様のほうに来て野次を飛ばしていたのでした。実際、旧約の過ぎ去るべき前表の子羊よりも、この司祭長達は本当の天主の子羊の屠りのために十字架のところに来ていたのです。
そして彼等は十字架の神秘というものを全然わかっていませんでした。十字架が私達を救うことができるということを理解できなかったのです。これは私達にも、キリストに学ぶ者にもあてはまることなのです。

私達がもし苦しみや十字架に遭うと、どうやってそれを受けるでしょうか。

もしかしたら私達は友達から笑われ、「ああ、なんだお前はラテン語のミサに与っているのか。聖伝のミサに与っているのか」などと嘲りや嘲笑を受けるかも知れません。あるいは私達がカトリックの信仰を持つがために、この世の人達は私達を理解できないかも知れません。「なぜあなたの家庭には子供がそんなに多いのですか。お金もないくせに。責任を考えなさい、責任を取りなさい」「あなたはどうして流行を追わないのですか。今の流行はミニスカートです」「あなたはなぜ十字架の印をするのですか」…。

そのような嘲りと笑いが来る時、もしかしたら私達は「ああ、このような十字架から下りて、皆と一緒に、友達になりたい。そして自分をここから救いたい」という誘惑に駆られるかも知れません。
しかし私達が十字架から下りたそのとたんに、私達を今まで嘲笑った人達は却って私達を殴り殺してしまうかも知れません。その流行によって、悪い模範によって、道徳によって。

私達は新しい奇蹟、新しいイエズス様への奇蹟を求めるのではなく、イエズス様の行いに倣わなければなりません。

イエズス様がどうやって彼等の嘲りと冒涜に反応したかと言うと、それは十字架に留まることでした。

彼等は言うかも知れません。「お前が十字架から下りたら、私達は信じよう」「あなたがそのような十字架から下りたら私もカトリックになろう」と。
つまり、もし私達がイエズス・キリストの十字架を語らなかったら、私達がもしこの肉と罪を十字架に付けて新しい命を生きなければならないということを語らなかったら。私達が自分に死ななければならない、天主に生きなければならないということを語らなかったら。あるいは私達が自己犠牲をしなければならないという十字架の言葉を語らなかったら、彼等はカトリックになると言うかも知れません。
「十字架から下りてみろ、そうしたら私達もあなたを信じる」

でもそうなってしまっては、それはイエズス様の福音ではないのです。
なぜならばイエズス様は十字架にそのまま残ることによって、十字架の上でそのままご自分の命を捧げることを通して、そして御復活によって死を滅ぼすことによって、本当の十字架の意味を私達に教えて下さったからです。

キリストの答えはこうです。「私達は十字架に留まらなければならない。そしてそれによって新しい命へと行かなければならない」

ではイエズス様は、霊魂にはどのような苦しみを受けたでしょうか。

イエズス様はまず、天と地から打ち捨てられたという感じがしました。それを実感しました。

まずイエルザレム入城の時に、歓迎してくれたイエルザレムの住民達は却ってイエズス様を「十字架に付けよ」と言うほうに回りました。市民から捨てられました。また、イエズス様が最も愛していた弟子達からも打ち捨てられました。ヨルダン川で洗礼を受けた時には天が開いて、天から御父の声が聞こえました。しかし今回は、十字架の上ではそのような天からの声も聞こえません。

四十日の砂漠での断食、あるいはゲツセマニの園での祈りの時には、その後に天使達がイエズス様を慰めに現れました。が、十字架の上ではそのような天使達もありません。一人、右にいた盗賊が回心した以外、全世界はイエズス様に叛乱しているようです。

私達はこのようなイエズス様に、少なくとも私達がここにいるということを申し上げましょう。私達は金輪際、イエズス様を悲しませるような罪を犯すことあるまじ、少なくとも私達は小さな遷膳の決心と痛悔の念をもって、イエズス様をお慰め致しましょう。

イエズス様の霊魂の悲しみのもう一つは、聖書が成就しないのではないかという恐れがあったことです。
それは、イエズス様が服を剥ぎ取られてしまった時に、彼等はそれを最初、裂こうとしたからです。しかし実際にイエズス様が着ていた服が継ぎ目のないものだったので、彼等はさいころを振って分けることにしました。そして彼等ローマの兵士達はさいころに従ってそれを分配したのでした。
教父達によると私達はここから一つローマ兵に倣わなければならないことがあると言われます。イエズス様の着ていた継ぎ目のない服というのは、愛徳のシンボルだと言います。愛は一つにまとめるからです。

ところで誰かが亡くなった時に、その相続問題で兄弟姉妹親族の者が、非常に争うのではないでしょうか。残念ながらサンティ神父様が亡くなった時にもその遺品の配分のために揉め事がフィリピンであったようです。

しかし、私達はこの継ぎ目のない衣という愛徳を、決して遺産相続のために切り取ってしまってはなりません。ちぎってしまってはなりません。

では、イエズス様の十字架の道行を黙想する前に、今からする前に、イエズス様が亡くなった、御死去の直前と直後に何が起こったか、ちょっとだけかいつまんでみることにします。
なぜならばこの『十字架の道行』には、そのことがパッと通り過ぎるだけだからです。

まず、イエズス様が亡くなる直前には、太陽が光を失いました。
この、太陽が光を失ったということは、これは普通の自然現象ではありませんでした。なぜかと言うと、日蝕が起こるのは新月の時であって、満月の時は日蝕が起こり得ないからです。でもちょうどこの聖金曜日は満月の時でしたから、本来ならば日蝕は起き得ない日でした。
しかし全自然はイエズス様の御死去を弔うために、そしてそれに同情するために光を失ったのでした。

イエズス様がクリスマスにお生まれになった時には、夜は光で輝かされ、光で充ち満ちた夜となりました。しかしイエズス様が死を迎えたこの聖金曜日には全地上は光を失い暗闇に包まれてしまったのでした。
十字架でのこの苦しみが終わったその時に、天主の正義は満足されたので、そして罪の赦しが完成されたので、もう一度太陽は輝きを取り戻します。

イエズス様が亡くなった時には、まず、神殿の幕が二つに、上から下まで裂けました。この神殿の幕は、至聖所と普通の所を分けていた頃で、この至聖所には司祭だけが入ることができるものでした。

なぜ神殿の幕が裂けてしまったのでしょうか。
これは旧約時代が終わりを告げた、旧約のいけにえがもう意味を為さなくなったということを意味しています。そしてモイゼの細かい規定は廃止され、新しいイエズス・キリストの新約の時代が始まりを告げたのでした。
またちょうどこの旧約時代には、大司祭達が何か不正義や天主に対する冒涜や、憤りなどがあると自分の祭服を二つにちぎって怒ったという記事がよくありますけれども、イエルザレムの神殿も、天主の子が不正義によって殺されたということで、自ら祭服である神殿の幕を二つに引き裂いてしまったのでした。これが第一に起こったことでした。

第二に起こったのは、地震があったことでした。地が震ったことでした。

第三に起こったのは、岩が裂けたことでした。

第四に起こったのは、墓が開いたことでした。そして墓が開いて復活の後に死者達は蘇ってイエズス・キリストが天主であることを証言したのであります。
イエズス・キリスト様がリンボに下って、古聖所にいる霊魂達を天国に引き上げるまでは、彼等は甦ることがありませんでした。しかしイエズス様の御復活の後には、彼等は暫くの間、もう一度生命が与えられたのでした。

これらのことを見て特に神殿の幕が裂けたこと、あるいは地震、あるいは岩が裂けたこと、墓が開いたことなどで、聖母はイエズス・キリストが真に天主の子であったということをますますはっきりと確信したのでした。

しかし多くの人にとっては、このような奇蹟はまったくの無駄でした。彼等はそれを見ても一つも心を動かしませんでした。そしてもう一度同じように、あたかも何事もなかったかのように罪の生活を続け、偽善の生活を続けたばかりでした。

天主は私達に時として自然の災害、不幸、死、隣人の死、あるいは地震や戦争や飢饉、津波などを私達に送ってそれを徴として、私達に痛悔するようにと呼びかけているのですけれども、残念なことに多くの人達はそれに「ああ、びっくりした」としても、もう一度罪の生活に戻って行くのです。

しかしその多くの無関心の中にも回心したローマ兵はいました。
たとえばイエズス様を見ていたローマの兵はこう言いました。「実に彼は天主の子であった。実に彼は義人であった」そして彼は罪を痛悔しつつ家に帰って行ったとあります。
実際、このローマの兵、聖伝によるとロンジウスという名前だそうですが、片目は実は失明していたそうですけれども、イエズス様の脇に槍を刺したその時に、そこから出る水と血を浴びて、それによってもう一度目が見えるようになった、そして霊魂ももう一度目が見えるようになった。そしてキリスト教信者になったと言われています。

では私達も天主様に立ち戻らなければなりません。

太陽はそのために暗まなければなりません。
これはどういうことかと言うと、教父達によれば、私達がまだこの世の罪に対する楽しみを明るい日で見ているうちは罪を改心できないから、何らか私達はこの地上の罪への愛着を暗闇に葬り去らなければならない、もはやこの世の罪深い楽しみや喜びは私達にとって闇の彼方へと追いやらなければならない、その意味で、太陽は光を失わなければならない。
その次に地震が起こったように、私達は心から罪に対する恐れと嫌悪感を抱かなければならない。
イエズス様が亡くなった時に岩が割れたように、私達の堅い岩のような心も割れて改心しなければならない。
墓が開いたように、私達は心を開いて告白して罪を改心しなければならない。

そしてイエズス・キリストと共に新しい生命に復活しなければなりません。

ではこれから、一緒に『十字架の道行』を唱えましょう。

本来なら『十字架の道行』の御絵があると良いのですけれども、今日はこの行列用十字架を先頭に、少しこの周りを回りましょう。
祈祷書をお持ちの方は107ページです。

ヨイトカツゲの唄

2016年03月09日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 最近、ふと「ヨイトマケの唄」の替え歌を作りました。「十字架ヨイトマケの唄」、「ヨイトカツゲの唄」です。

 この唄は、退職された高校の物理の先生が、30年以上も前に同窓会か何かで歌ってくださったときに初めて聞きました。その後、忘れていたのですが、数日前、ソウルで夜、誰かが道で、韓国の御通夜のようなときに歌うような節で演歌のような歌を歌っていたのが聞こえてきました。その時、そのメロディーからふと「ヨイトマケ」という言葉が浮かんできました。私は物理が大好きで、その先生が退職されるのはとても残念でした。何でも田舎のご両親の農家の後を継がなければならないとのことでした。先生の歌ってくれた歌も、先生らしい汗水流して一生懸命働く歌でした。苦労して育ててくれた母に感謝する歌でした。

 今、インターネットで検索すると、この歌は以前は「放送禁止」となっていたそうです。「土方」「ヤクザ」などが差別語に当たるとされたからだそうです。

 YouTubeの動画の中でも、島津亜矢さんのものは、歌唱力もあり感動的です。そこで、ふと、替え歌「ヨイトカツゲの唄」が頭に浮かんできました。そこで、それを愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。島津亜矢さんが、歌っていると想像して、お聞きください。

 皆さんも、イエズス様に捧げる替え歌がありましたら、ご紹介ください。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


ヨイトカツゲの唄

"御父のためなら エンヤコラ
マリアさまのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに エンヤコラ"

今も聞こえる ヨイトカツゲの唄
今も聞こえる あのかけ声が
仕事の合間の ひるやすみ
ロザリオつまぐり 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
救い主の あの唄が
憐れみの天主の あの唄が

仕事場で、学校で、
つらい思いして 親切をして
理解されずに 意地悪されて
くやし涙に くれながら
泣いて行ったその 教会で
イエズスさまの 十字架を見た
イエズスさまの 道行きを見た

茨のかむりで 泥にまみれて
日に灼けながら 御血を流して
罪人にまじって 十字架を担ぎ
天にむかって 声をあげて
力の限りに 祈ってた
イエズスさまの 十字架を見た
イエズスさまの 道行きを見た

愚痴を言おう 恨みをいおうと
息をはずませ 教会にきたが
イエズスさまの姿 見たときに
泣いた涙も 忘れはて
帰って行ったよ 自分の持ち場に
我慢するよと 云いながら
忍耐するよと 云いながら

今から二〇〇〇年前の カルワリオ
人の罪の償いに むち打たれ
頭にゃ茨の冠 かぶせられ
罪の赦しを 祈りつつ
十字架の上で 亡くなった
イエズスさまのおかげで 救われる
イエズスさまのおかげで 救われる

何度か僕も 罪を犯したが
やくざな道は ふまずにすんだ
どんなきれいな 言葉よりも
どんな立派な 本よりも
僕をはげまし 慰めた
イエズスさまの十字架こそ 世界一
イエズスさまの十字架こそ 世の希望

今も聞こえる ヨイトカツゲの唄
今も聞こえる あの子守唄
"御父のためなら エンヤコラ
霊魂のためなら エンヤコラ!"

https://www.youtube.com/watch?v=agcAWUaUjLg

聖ヨゼフのノベナを始めましょう

2016年03月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日、3月1日から聖ヨゼフに対するノベナをはじめましょう。私たちのノベナは、次の二つの祈りを毎日のロザリオに九日間付け加えることにあります。

(1)ロザリオの祈り
(2)大天使聖ミカエルにする祈り
(3)聖ヨゼフに向かう祈り
(4)三月なので聖ヨゼフの連祷【ここまではいつもの3月のロザリオの祈りの通り】

(5)聖ヨゼフへのメモラーレ(聖ヨゼフの御保護を求むる祈)

 童貞マリアの極めて貞潔なる浄配よ、御(おん)助けを求め、あえて御取次を願える者、一人として棄てられしこと、いにしえより今にいたるまで、世に聞えざるを思い給え。われ御身の力にまったき信頼を置きて走(は)せ来(きた)り御身の御保護を請い求め奉る。ああ贖い主の守護者よ、わが卑しき祈りを軽んじ給わず、寛大にこれを聴き給え、これを聴き容れ給え。アーメン。

(6)聖ヨゼフに対する奉献の祈り

 聖ヨゼフよ、我は御身の名誉に我が身を奉献し、御身に捧げ奉る。そは御身が常に我が父、我が保護者、かつ救いの道における我が道案内たらんがためなり。
 我がために、心の清さと内的生活を愛する心を与え給え。御身の模範に従い、天主のより大いなる栄光のために、イエズスの至聖なる聖心と聖母の汚れなき御心との一致のうちに、我が全ての行動をなさしめ給え。
 おお、至福なる聖ヨゼフよ、我がために祈り給え。我をして御身の聖なる死の平和と喜びに与るものとならしめ給え。アメン。

(7)召命を求める呼祷【これもいつもの通りです。】
主よ、我らに司祭を与え給え
主よ、我らに聖なる司祭を与え給え
主よ、我らに多くの聖なる司祭を与え給え
主よ、我らに多くの聖なる修道者の召命を与え給え
主よ、我らに多くの聖なる家族を与え給え
聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え
聖ピオ十世、我らのために祈り給え
聖フランシスコ・ザベリオ、我らのために祈り給え
日本の尊き殉教者、我らのために祈り給え


Let us start the novenas in honor of Saint Joseph. I propose that our novena consists to add to our usual Rosary, two prayers to Saint Joseph: Memorare of Saint Joseph and Act of Consecration to Saint Joseph.

(1) Rosary
(2) Prayer to Saint Michael.
(3) Prayer to Saint Joseph (as usual)
(4) Litany of Saint Joseph (as usual because of March)
(5) Memorare of Saint Joseph
Remember, O most chaste spouse of the Virgin Mary, that never was it known that anyone who implored your help and sought your intercession were left unassisted. Full of confidence in your power I fly unto you and beg your protection. Despise not O Guardian of the Redeemer my humble supplication, but in your bounty, hear and answer me. Amen.
(6) Act of Consecration to St. Joseph
O dearest St. Joseph, I consecrate myself to your honor and give myself to you, that you may always be my father, my protector and my guide in the way of salvation. Obtain for me a greater purity of heart and fervent love of the interior life. After your example may I do all my actions for the greater glory of God, in union with the Divine Heart of Jesus and the Immaculate Heart of Mary. O Blessed St. Joseph, pray for me, that I may share in the peace and joy of your holy death. Amen.

(7) Ejaculatory prayers asking holy vocations (as usual).
V. Lord grant us Priests.
R. Lord grant us Priests.
V. Lord grant us many Holy Priests.
R. Lord grant us many Holy Priests.
V. Lord grant us many Holy Priests and Religious Vocations.
R. Lord grant us many Holy Priests and Religious Vocations.
V. Lord grant us many holy families.
R. Lord grant us many holy families.
Immaculate heart of Mary, pray for us.
Saint Pius X, pray for us.
Saint Francis Xavier, pray for us.
Holy martyrs of Japan, pray for us.

聖ヨゼフに対するノヴェナは、聖ピオ十世会日本のウェブ・サイトにも掲載されています。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【再掲】預言者シメオンの役を勤めた福者ヘンリコ・スソー

2016年02月02日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、
預言者シメオンの役を勤めた福者ヘンリコ・スソー(Blessed Henry Suso, Heinrich Seuse, (Henricus Suso) [1295-1366]の話を再掲します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 驚くべき苦業とセラフィン的愛によって有名なドミニコ会員福者ヘンリコ・スソーは、聖母の潔めを次の方法で頌栄(しょうえい)していた。

 潔めの祝日の前三日間は、霊的に三本のロウソクを準備した。つまり(1)聖母の童貞としての汚れなき清さ、(2)聖母の底の無き深き謙遜、(3)聖母の母としての尊厳を尊敬し、毎日三回「マグニフィカト(Magnificat)」を唱え、これをロウソクとした。その祝日の夜明けに、信者等が聖堂に集まる前に、中央祭壇の前に跪いて聖母の御生涯を黙想し、聖母が幼きイエズスを抱き聖殿に奉献するのを観想した。

 聖母がエルサレムの外門に来られると、ヘンリコは立ちあがって、天主を愛する多くの霊魂たちと共に聖母を迎えに行った。聖堂の入り口へ行き、丁度そこに聖母が御子を携えて聖堂に入ろうとするのに出会ったかのようにして、聖母の名誉のために歌うので暫く停ってそれを聞いて下さいとお願いし、心の中で霊的に「インヴィオラタ」の讃辞を歌って申し上げ「ただ御身のみ汚れなき者としてとどまり給えり(Quae sola inviolata permansisti)」と云う句に達すると聖母に向って「哀れな罪に満ちた者(自分のこと)を憐れんで下さい」と願った。それから立上って、霊的に灯ったロウソクを手にして聖母のお伴をして祭壇の方へ進んだ。

Inviolata, integra et casta es, Maria,
Quae es effecta fulgida coeli porta.
O Mater alma Christi carissima:
Suscipe pia laudum praeconia.
Te nunc flagitant devota corda et ora:
Nostra ut pura pectora sint et corpora,
Tua per precata dulcisona:
Nobis concedas veniam per saecula.
O benigna! O Regina! O Maria!
Quae sola inviolata permansisti.

マリアよ、御身は汚れなき者、終生童貞、そして操正しき方なり:
御身は輝く天の門とされ給うた。
おお、いとも愛すべきキリストの慈悲深き御母:
われらの敬虔なる賛美の称讃を受け給え。
今われらの熱心な心と舌は御身を求め奉る:
われらの心と身体が純潔であらんことを。
御身の甘美なる響きの祈りによりて
とこしえにわれらに赦しを与え給え。
おお、愛すべき御者よ、おお、元后よ、おお、マリアよ。
ただ御身のみ汚れなき者としてとどまり給えり。


 聖母が自分の心にともされた天主の光と愛のこの炎が決して消されることがないように願いつつ、この神秘的行列にお伴する諸聖人に向って、自分と一緒に「アドルナ・タラムム(Adorna thalamum tuum)」を歌った。この「アドルナ・タラムム」は、御浄めの祝日にミサの前に、ロウソクの行列をしながら歌うグレゴリオ聖歌である。

Adorna thalamum tuum, Sion, et suscipe Regem Christum:
amplectere Mariam, quae est coelestis porta:
ipsa enim portat Regem gloriae novi luminis.
Subsistit Virgo adducens manibus Filium ante luciferum genitum:
quem accipiens Simeon in ulnas suas praedicavit populis Dominum eum,
esse vitae et mortis, et Salvatorem mundi.

シオンよ、汝の花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ:
天の門なるマリアを抱擁せよ。
マリアは実に、新しき光の栄光の王を運び給い、
明けの明星の上る前に生み給いし御子を手にしつつおとめにとどまり給う。
その御子をシメオンは両腕の抱え人々に予告せり、
この聖子は生と死の主にして、世の救い主なり、と。

 祭壇に到着して、マリアが御子をシメオンに渡す時、ヘンリコは聖母の前に跪き、その美しい御子を自分にも見せて頂き、そして彼を抱き、その御手足に接吻し、暫く自分の欲しい儘にする事を許されるよう願った。聖母はそれを許されるので、ヘンリコは愛と悦びに心躍り、イエズスを抱いて自分の心に押し当て幾度も抱擁するのであった。そして万物の創造主が、天上に於いて美しく大いなる光栄に満ち給うのに、地上に於いては弱く貧しくあり給う玄義を考えて恍惚とするのであった。最後に、讃辞と嘆声と感謝の中に御子を御母に返し、その祝日中、御子からも御母からも眼を放さないようにしていた。


【これは、渡辺 吉徳 (著)「ロザリオの信心 」(1980年)に掲載されている記事に、加筆編集したものです。】




理解するとは、どういうことか。分かる、理解する、ということのいろいろな意味

2016年01月29日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

 理解するとは、どういうことでしょうか。
 よく考えると、分かる、理解する、ということはいろいろな意味があると分かります。

 私たちは、自分が見聞きするいろいろな体験や現象やデータを分析して、そこに法則を見いだしたり、関係を見いだしたり、何らかの意味を見いだして「理解」しようともします。犬や猫やその他の動物は、現象を体験するかもしれませんが、それを理論化したり、体系化したりすることはありません。

 たとえば、私たちの周りにはいろいろな自然現象があります。人間は、気圧の配置や風や雲の動きなどを観測して、天気予報をしたりします。動物は、気圧や気温の変化や電磁波などを微妙に感じ取って本能的に行動するかもしれませんが、理由を説明したり、推理したり、例証したりはできません。

 古代ギリシアのアルキメデスは、お風呂に入った時、水があふれる出てそれと同時に自分の体が軽くなったことに気がつき「浮力の原理」を発見しました。アルキメデスは、重さが同じ純金と合金の不純の王冠は空中では天秤で釣り合いがとれているのに、水の中ではそうならない、密度が違うからだ、だから、純金とそうでないものとを見分けることができるということに気がつきました。


 岐阜県の神岡鉱山跡にある有名な実験装置カミオカンデ(KamiokaNDE)は、神岡鉱山の地下1000メートルに、可能な限り純水に近い水が3,000トン溜められています。新しいスーパーカミオカンデには50,000トンの超純粋が蓄えられています。陽子が崩壊する時に、いろいろな粒子が放出されるますが、その中にニュートリノがあります。普通、ニュートリノは地球を貫通してすり抜けてしまいます。しかし、まれにニュートリノは蓄えられた水の中の電子に衝突することがあります。ニュートリノにぶつかると電子からチェレンコフ光という青白い光が出ます。カミオカンデは、このチェレンコフ光を光電子増倍管で検出します。カミオカンデは、大マゼラン星雲でおきた超新星爆発によって発生したニュートリノを世界で初めて検出しました。
 また「大統一理論」という物理学の理論が正しいとすると論理的に陽子崩壊がカミオカンデで観測されるはずです。しかし、カミオカンデでも、スーパーカミオカンデでも、今のところ陽子崩壊は観測されていません。この意味を理解しようと、人々はいろいろな説明をしたり、解釈をしたりしています。


 八ヶ岳南麓天文台の天文台長、串田嘉男氏によると、FM電波を利用した流星のモニター観測中に、地震活動に先行して、FM電波観測のデータに独特の変動が出現することを観測しました。特に、1995年の兵庫県南部地震前に顕著な変動が観測されたそうです。
通常は届かないFM放送局電波が、地震発生前に震源上空で散乱変化が生じ、通常と比較して、受信強度変化等が観測される現象であろうと、串田氏は理解しました。さらに、前兆変動の時間的変化には一定の時間比率が認められると解釈しました。その解釈が正しければ、地震の発生時期を推定することができると理解しました。
【私の意見としては、たとえそのような現象が実際に関連して起こっていたとしても、地震という現象は、FM電波のみならず、いろいろな自然現象に影響を及ぼすものでしょうから、FM電波の変動現象のみでは全てを説明できないと思います。FM電波の変動現象は、おそらく重要な要素の一つであるかもしれませんが、それ以外の要素も考慮しなければならないのではないか、と思います。たとえて言うと、ちょうど、聖書はキリスト教の教えを知る大切な源泉の一つですが、それだけで全ては説明できない、ということに似ていると思います。】


 旧正月に、中国では「福」という文字を飾る慣習があります。この「福」文字はよくひっくり返っています。頭が下になって足が上を向いています。日本人の感覚では、福を否定しているような感じがします。なぜ、上と下が逆なのか?迷信深い中国人にとって、これは縁起が悪いのではないか?とも思います。

 しかし、中国語では「福が倒れた」を「福倒了」と言って、「福が到達した、福がやって来た」つまり「福到了」につながる言葉遊び(ダジャレ)なのだそうです。縁起がよいとされます。


 フランス語が分かる方は、次のフランス語の「詩」を読むと、まぁ何となく意味が分かるような感じがします。Eh! dites-le, dites-le というのは、「さぁ、それを言いなさい、それを言いなさい」という意味ですし。

Eh! dites-le, dites-le,
De quatre et méfie de le.
Haine de caoutchouc me Douvres de mou.
Le lit le dos que l'a fait de
Tous s'y sèchent à c'port
Et de digérant, ohé! Ouida, ce pou.

 しかし、単語の一つ一つの意味を超えて、もしも、上がマザーグースの有名な次の歌の「フランス語訳」だと知ったら、なぁんだと「納得」するのではないでしょうか。

Hey, diddle diddle,
The cat and the fiddle
The cow jumped over the moon.
The little dog laughed
To see such a sport
And the dish ran away with the spoon.


 ここまでは、前口上です。
 以上のことで、何を言いたかったというと、先日の1月17日(主日)に、東京で聖伝のミサで

御聖体は、神道の御神体や仏教秘仏などのようなシンボルでも偶像でもなく、真に私たちを創造された天主ご自身である、だから、有り難く伏し拝むどころでは足りない、体は跪いて、精神を込めて心から、私たちを全てを捧げて、愛の礼拝をしなければならない、それが、御聖体の本来の意味だ、

という内容を申し上げました。しかし、なぜそのような表現を使ったのか、聖伝のミサに参加された方々にとっては、意味がわからなかったと思います。

 それは、その前日に東京カテドラルの「せきぐち」の12月号を読んでびっくりした方から、その記事をいただいたからです。私も記事を読んでびっくりしました。何故なら、小田武彦神父の指導による待降節黙想会で、「聖体は、神道の御神体や仏教の秘仏のように、ありがたく伏し拝む対象ではない」と主張しているからです。


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


去年受けた「枝」についてのご連絡

2016年01月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

連絡が非常に遅れてしまい、行き届かなかったのですけれども、去年受けた「枝」をお持ちの方は、

大阪は今回の1月の御ミサで、東京は2月の最初の御ミサの時にどうぞ私のほうへお戻し下さい。

今回、間に合わない方は、もしよろしければ次の機会にお持ち下さい。
 
2月10日は『灰の水曜日』です。

大阪では夕方の5時半から御ミサがあります。どうぞ御ミサに預かりにいらしてください。

日本の教会の掟によれば『灰の水曜日』は21歳から59歳までの健康な成人信者は大小斎を守らなければなりません。

また、14歳以上のすべての健康な信者は小斎を守らなければなりません。この大小斎の義務もどうぞ捧げるようになさって下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


2016年の聖伝典礼カレンダーのお知らせ

2015年12月12日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
 アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日はグァダルーペの聖母の祝日ですね。

 今年も、日本語版の2016年の聖伝典礼カレンダーをご用意いたしました。お待たせいたしました。
 テーマは、2017年のファティマ100周年の準備の年として、日本の誇る尊き殉教者について黙想するために、「日本の尊き殉教者」記念版です。
 この日本には、聖母の子供として、聖母の道具・下僕(しもべ)として、聖母の騎士として、天主の御心をお喜ばせしようと尽くし、天に駆け上っていった百万の殉教したキリシタンたちがいます。この殉教者の心を私たちが2016年、日々、私たちのものとすることができるように、聖母にお祈りすることにいたしましょう。
 今年も大阪の信徒会長のご協力をいただきました。心より感謝いたします。

 大阪は明日13日(主)の御ミサから、東京は27(主)の御ミサからご提供できます。
 この日本語版は、今年は限定70部だけの印刷となります。制作費で一冊800円となります。よろしくご理解をお願いいたします。

 よき待降節をお過ごしください。
 天主様の祝福が豊かにありますように!
 トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2016年のカレンダーに寄せて

アヴェ・マリア・インマクラータ!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 2016年のカレンダーを大きな喜びを持って愛する兄弟姉妹の皆様のお手元にお届けいたします。この地上での歳月は、瞬く間に過ぎ去って、もはやファチマ100周年の一年前となりました。
 このことは、この地上の生活がごく短いもので、私たちが天国に行くためにこの世を巡礼している身に過ぎないということを思い出してくれます。私たちは天国への旅路を歩く旅人で、最終の故郷は天の至福の命です。一度は罪によって失われた、この永遠の命を受けることができるように、天主は私たちに御一人子を救い主としてくださいました。私たちが地獄の火に永久に焼かれないように、天主は人となって十字架の苦しみを受けました。私たちは、イエズス・キリストの贖いの業に協力して、自分の霊魂と、多くの霊魂たちとを天国に導くように招かれています。ファチマの聖母はこの祈りを教えてくれました。「ああ、イエズスよ、我らの罪を赦し給え。我らを地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主の御憐れみをもっとも必要とする霊魂を天国に導き給え。」ファチマの聖母のことを考えると、聖母が私たちの救霊を熱烈に心配し配慮し祈る愛の母であることがわかります。

 天主御父は、救い主イエズス・キリストを、聖母を通してのみ私たちにくださいました。天主御子は、聖母の胎内を通してのみ、私たちのもとに来ることをお望みになり、聖母のもとに30年間従順に暮らすことが、御父に対する最高の賛美であることをよくご存じで、それを実践しました。天主聖霊は、聖母においてのみ御子の御人性を形成することを望みました。聖母が聖寵に満たされ、聖霊のみ旨のみを忠実に果たしたからです。天主三位一体は、私たちにイエズス・キリストとそのすべてのお恵みを聖母を通してのみ、お与えになる永遠の御計画をお持ちです。

 私たちの先祖のキリシタンたちは、上の二つの点をよく知っていました。聖フランシスコ・ザビエルが聖母の被昇天に日本に到着してカトリック信仰を宣教したその日から、日本では聖母に対する信心が特にさかんで、聖母の御影や、ロザリオ、聖母像などがたくさん発掘されています。天国への旅人であることを自覚していたキリシタンたちは、カトリック信仰のために殉教することさえ厭いませんでした。

 そこで、ファチマ100周年への準備として、日本の誇る尊き殉教者について黙想することを提案します。
 ファチマの聖母は、私たちに罪びとの回心のために祈りと償いを捧げるように要求されています。私たちが聖母に倣って、日々、利己主義や自己中心に死に、罪に死に、天主に生きることができるように。私たちのやりたいことではなく、天主のみ旨を果たすことができるように。「我は主の使い女なり、仰せのごとく我になれかし」と。罪の汚れのない聖母、インマクラータなる聖母の御生涯は、ただ純粋な天主に対する愛の生活でした。

 この日本には、聖母の子供として、聖母の道具・下僕(しもべ)として、聖母の騎士として、天主の御心をお喜ばせしようと尽くし、天に駆け上っていった百万の殉教したキリシタンたちがいます。この殉教者の心を私たちが2016年、日々、私たちのものとすることができるように、聖母に祈りましょう。

 ファチマ100周年の準備として、また、聖ピオ十世会秋田巡礼10周年記念として、2016年は特別に、秋田の外にも殉教の地である長崎の地に詣でることを計画しております。このカレンダーが巡礼の準備と、巡礼後の決心とに役立つものとなることを祈ります。私たちが地上にしばらくの間だけいるちっぽけな巡礼者であることをいつも私たちが自覚しますように。

 聖伝のミサに与る私たちの数も、取るに足らないものですが、2015年前のクリスマスに私たちのために生まれたイエズス・キリストを礼拝しに来た人々の数も取るに足りませんでした。天主の御一人子が救い主として生まれたのは、ベトレヘムの馬小屋でした。世間の人々は、教会の建物もない私たちをあざ笑うかもしれません。数の少なさを軽蔑するかもしれません。かつて日本のキリシタンたちも、バテレンの蔑称であざ笑いを受けていました。私たちは、私たちの霊魂を救うために捧げてくださったイエズス・キリストと聖母とに合わせて、私たちの受ける嘲りを多くの人々の回心と救霊とのためにお捧げいたしましょう。

 2016年は、さらに、1716年4月28日に フランス サン=ローラン=シュル=セーヴルで霊魂を天主に返した聖ルイ・マリ・グリニョン・ド・モンフォールの帰天300年周年でもあります。私たちに聖母の真の信心を説明してくださった偉大な聖母の奴隷です。

 聖ピオ十世会アジア管区では、2016年8月13日から9ヶ月に亘ってファチマ100周年のノベナが開始されます。
《原罪の汚れなく宿り給いし聖マリアよ、御身に寄り頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身に寄り頼まぬ全ての人々のため、ことに、フリーメーソンのため、また、御身に依頼された人々のために、祈り給え。》

 2015年12月12日、グァダルーペの聖母の祝日にて トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ベネディクト十六世引退教皇:ひざまづくことができないことは、悪魔的であることの本質として見られている

2015年11月15日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

砂漠の隠遁士であった大修道院長アポロによると、悪魔にはひざがありません。イエズス・キリストの聖名の前でひざをかがめることができないことは、悪魔の本質です。

「ひざまづくことができないことは、悪魔的であることの本質として見られている」
“inability to kneel is seen as the very essence of the diabolical” (ベネディクト十六世『典礼の精神』)

「ひざまづくことをもはやしなくなった信仰や典礼は、その中核が病んでいることになる。ひざまづきが失われたところではそれが再発見されなければならない。それは私たちの祈りにおいて、私たちが、使徒たちと殉教者らと繋がるため、全宇宙(コスモス)とイエズス・キリストご自身との一致において繋がるためである。」
"a faith or a liturgy no longer familiar with kneeling would be sick at the core. Where it has been lost, kneeling must be rediscovered, so that, in our prayer, we remain in fellowship with the apostles and martyrs, in fellowship with the whole cosmos, indeed in union with Jesus Christ Himself." (ベネディクト十六世『典礼の精神』)

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会 9月13日主日の大阪での聖伝のミサ報告と ロバート・モーリノ司教様の謝罪

2015年09月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2015年9月13日の大阪における聖伝のミサの報告をご紹介します。

 ところで、つい最近、アメリカ、ウィスコンシン州マディソンのロバート・モーリノ司教様(His Excellency Bishop Robert C. Morlino)が、聖ピオ十世会に反対する発言をしたことに対してお詫びをしました。司教様は、インタビューに答えて、聖ピオ十世会は「善意の内に行動しようとしている極めて良い人々」からなる「一つの別の司祭会」(“another priestly society” made up of “very fine people trying to act in good faith”)であると描写し、聖ピオ十世会は、カトリック教会の一部であると誠実に認めています。





 ロバート・モーリノ司教様が聖伝を守る司教だというわけではありません。時々、聖伝のミサを捧げておられるそうですが。少なくとも誠実な司教様です。この、聖ピオ十世会がカトリックであること、カトリック教会の一部であること、をはっきり認めたその事実に、感謝します。何故なら、事実であり、真理を認めることは善だからです。

 ベネディクト十六世教皇様は、かつてこう書きました
「時として、私たちの生きている社会は、少なくとも一つのグループを必要としているように思えますそれにはいかなる寛容も与えられないグループ、これに反対しては平然と憎しみ投げつけることが出来るグループを。そして、誰であれこのグループに敢えて接近するなら、---- 今回は、それは教皇でした ---- その近づいた人も寛容の権利を失い、彼もまた憎しみとともに、畏れも遠慮もなく取り扱われうるのです。」

 ベネディクト十六世隠退教皇様、私にも次のように言うことを許して下さい。

 隠退教皇聖下、私も、聖ピオ十世会の一員として、その憎しみと不寛容をひしひしと体験してきました。とりわけ一部のカトリックの人々から。この身で体験しました。

 隠退教皇聖下、現代、私たちの生きているこの社会が、いかなる寛容も与えられてはならないものは、カトリックの聖伝です。誰であれ彼らに敢えて近づこうとするものがいるとするなら、どんな人でさえも寛容を受ける権利をまったく失ってしまうようなこと、それは、カトリック教会の昔のままの信仰です。カトリック教会の聖伝の信仰です。

 愛する兄弟姉妹の皆様、ではご報告を紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

9月の主日の御ミサの報告をお送りいたします。

9月13日(日)聖霊降臨後第16主日の歌ミサには17人が、
9月14日(月)聖十字架の称賛の歌ミサには12人が御ミサに与る御恵みを頂きました。デオグラチアス!

13日の主日には御ミサの前に「マリア様の御名」について霊的講話がありました。
講話では、「乙女の名前はマリアであった」という福音書の一節を説明したクレルヴォ―の聖ベルナルドの美しいお説教や、どうしてマリア様は私達を助けて下さるのか?どうして私達はマリア様に依り頼む必要があるのか?また、聖ヨゼフ様のマリア様の御名に対する大きな愛をお話頂きました。
イエズス様が「こどもの様にならなければ天の国には入れぬ」とおっしゃった時の、「こども」とはどんな事なのか、この講話を聞いてよくわかりました。

御ミサでのお説教では詩篇に出てくる「新しい歌」の意味を黙想いたしました。
レネー神父様が仰るように、「私達もキリストにおいて、キリストと共に、キリストによって、御父への賛美を聖霊の燃える火の中で歌い」、「この天の聖歌隊に入ることが認められ」「天国で聖母と共にその歌を歌う事のできる恩寵を」マリア様がとりなしてくださるよう願いたいと思います。

14日は、早朝6時半からの御ミサであったにも関わらず、レネー神父様の御意向で、信徒もそう願っていましたが、「聖十字架の称賛」の歌ミサを捧げることが出来ました。
奉献時には聖歌隊の方々が「Stabat Mater」を、ご聖体拝領時には聖木曜日の聖務日課の一節「O Crux Ave」(Plestrina)をポリフォニーで歌ってくださいました。
東京から来られた方もいらっしゃいましたし、車で朝4時に出発して早朝6時半の御ミサに与られた方もいらっしゃいました。
主日のミサのなのに与られた方が少なかったので残念でした。体調がよくなかったり、御病気で御ミサに与ることができない兄弟姉妹の方々が多くいらっしゃったので残念でしたが、コルベ神父様がニエポカラヌフの病気の修道士の方々の事を「宝」と呼ばれたように、私達も病気や高齢を祈りと共に捧げてくださる兄弟姉妹を「私達の宝」としてこれらの方々の為にも御ミサに与りました。

レネー神父様の素晴らしいお説教を翻訳してくださる方々に感謝しつつお説教のアップをお待ちしています。ひとりでも多くの方々がこのお説教を読んで(聞いて)くださり、多くの御恵みを分かち合ってくださることを願います。

【お便り】
+ Ave Maria Immaculata!

トマス小野田圭志神父様
 童貞聖マリアの聖なる御名の祝日おめでとうございます!
 私のためにお祈りをありがとうございます。
 今月はマリア様のすべての祝日(8日聖母のご誕生、12日マリア様の聖名、15日聖母の7つの御苦しみ、24日贖虜の聖母)と29日大天使聖ミカエルの祝日が偶然にも休みに当たりました。休みには平日よりさらにロザリオの祈りと主のご受難の黙想をしています。
 祝日に仕事が休みになったのは、時が近いのでよく準備をするようにとマリア様が特に祈りに招いてくださっているのだと思います。

 私が与ることのできなかった8月15日や16日のごミサの様子や、シュテーリン神父様の講話をCredidimus Caritatiで視聴できますのでとても嬉しく思います。
 また年間を通して東京や大阪でのごミサやお説教の様子をお知らせくださることを感謝いたします。
 初土曜日の信心について、シュテーリン神父様のお話しに勇気づけられました。私は毎回ごミサに与ることができませんので、告解もご聖体拝領もできず、初土曜日の信心を、本当の意味で行うことができないと思っていました。しかし、毎日罪を痛悔し霊的聖体拝領をします。それによってマリア様への信心を果たすことができるとお聞きして、とても喜んでいます。
 もはや自分が生きるのではなく、マリア様ご自身に生きていただき、一瞬一瞬十字架のイエズス様と一致して生きたいと希望しています。主と聖母のご光栄と自他の救霊のために。

 私は8月15日聖母被昇天の大祝日に無原罪聖母の騎士とならせていただいて以来、毎日幾度となく奉献文を唱えています。残された生涯をマリア様の勝利のために使い尽くしたいです。私のためにお祈りください。



明日の9月14 日の大阪でのミサは、午前6 時半から

2015年09月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!


愛する兄弟姉妹の皆様

明日、9月14日月曜日の大阪でのミサ聖祭は、都合上、午前6時半からの開始となりました。よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

明日の東京でのミサ聖祭は午後1 時半です

2015年09月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

明日の東京でのミサ聖祭は、午後1時半からです。お間違いのないように注意願います。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

7月5日の東京でのミサ聖祭は、午後1時半です

2015年07月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

明日、7月5日の東京でのミサ聖祭の開始は、午後(!!)1時30分です。
よろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!!
トマス小野田圭志神父

天使からお告げを受けた聖母のお答え 悲しみの聖母マリア Ecce ancilla Domini! Fiat!

2015年06月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちがロザリオを祈るとき、天使祝詞を繰り返し唱えます。天使の挨拶の言葉です。

ヤン・ヘンリック・デ・ロセン(Jan Henryk de Rosen, 1891 - 1982)は、ワルシャワ生まれのポーランド人画家で、アルメニアのリヴィウ(Lviv)の司教座聖堂の壁画を多く描きました。その壁画の一つが「お告げ」です。天使が聖母マリアにお告げをしているのが前面に描かれ、背景にはカルワリオが重なり、顔は隠れてはっきりとは分からないけれどもイエズス・キリストが十字架を担いで歩み、その後を聖母マリアが嘆いている姿が見えます。この御影の背後には深い聖母神学があります。



アルメニアのリヴィウ(Lviv)の司教座聖堂




年によっては、3月25日(お告げの祝日)が聖金曜日に当たるときもあります。たとえば、1921年、1932年、2005年がそうでした。来年の2016年もそうです。お告げと御受難は、切り離せません。聖母マリア様のカルワリオはすでにお告げの時から始まっていました。我が子の苦しみの将来を知っていた母として、聖母マリアは、悲しみに満ちた母となりました。

今から2016年前(紀元前第1年)の3月25日に、天使ガブリエルは、ガリラヤのナザレトという町の、ダヴィド家のヨゼフといいなづけである、マリアという童貞女のもとに、天主からつかわされました。

天使はマリアのところに来てこう言います。
「あなたに挨拶します、恩寵にみちたお方!」
「主はあなたとともにおいでになります。あなたは女の中で祝福された方です」

天使は、マリアがこれをきいて心乱れているのに気がつきます。天使は、童貞マリアは謙遜の故に心乱れたことを知っているので、その小ささ故に、その謙遜に故に、恩寵を得たと説明します。
「おそれるな、マリア!あなたは天主のみ前に恩寵を得たのです。」
「あなたはみごもって子を生むでしょう。その子をイエズスと名づけなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子といわれます。また、かれは、主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家をおさめ、その国は終ることがありません。」

聖ガブリエルは童貞マリアの貞潔の誓願も尊重されることを保証します。
「聖霊があなたにくだり、いと高きものの力のかげがあなたをおおうのです。ですから、生まれるみ子は聖なるお方で、天主の子といわれます。あなたの親族のエリザベットも、老人ながらみごもったではありませんか。うまずめといわれた人なのに、もう六ケ月目です。天主には、おできにならないことはありません。」

童貞マリアは、メシアに関する預言を知っていました。
救い主は、この世を贖うために恐るべき犠牲を捧げなければならないことを。
救い主の母となることは、すなわち、屈辱と悲しみと茨の道を歩まなければならないことだ、と。
贖いの業に協力する前に、贖いの業がどれほどの苦しみを求めるかを童貞マリアが知らなかったはずはありません。
むしろ、童貞マリアの功徳をいや増すため、「騙された」「裏切られた」という不平を避けるため、天主は童貞マリアに特別の光を与え、救い主の母となる使命と責任について、童貞マリアに深い理解をさせていたはずです。
贖いの計画の中に入ると言うことは、苦しみの中に入ることだ、と。
十字架に付けられる子供の母親となることに同意しますか、と。

もしも、メシアの母となることが純粋な栄光と名誉と喜びだけであったなら、童貞マリアは天使に喜びの歌を歌っていたことでしょう。もしそうだったなら、天使のお告げにたいして「私の魂は主をあがめ、私の精神は、救い主である天主によって喜びおどっています」と喜び答えていたことでしょう。

しかし、マリアはこう答えています。
「私は主のはしためです。あなたのおことばのとおりになりますように!」
Ecce ancilla Domini. Fiat! 「み旨のままに!Fiat!」

童貞マリアの「我になれかし fiat! 」は、キリストがこの世に来るために必要でした。しかし無原罪の童貞女は、全く自由でした。拒否も可能でした。もしも童貞マリアが「イヤだ」と言ったとしたら、童貞マリアは苦しみから逃れることが出来たでしょうが、同時に、私たちには救い主はあり得ませんでした。
人類の贖いが無原罪の童貞女の答え一つに掛かっていました。

救い主がこの世に来られるための道具として無原罪のマリアは答えます。
「私は主のはしためです。Ecce ancilla Domini. 」
無原罪の童貞女は受け入れます。天主への愛と、私たち人類への愛のために、童貞マリアは、贖い主の母となること、悲しみの母となることに同意します。
「Ecce ancilla Domini.」Ecce! ご覧下さい!ここにおります。

聖パウロはヘブレオ人への手紙の中でこう書いています。
「キリストは世に入るとき --- ingrediente mundum --- 言われた。『あなたは生贄も供え物も望まれず --- hostiam et oblationem noluisti --- 、(...) そこで私は、"私について巻物に書きしるされてあるとおり、天主よ、私はあなたのみ旨をおこなうために来る Tunc dixi: ecce venio ut faciam voluntatem tuam" と言った』」(ヘブレオ10章)と。
Ecce! ご覧下さい!ここにおります。御身の御旨を行うために!
イエズス・キリストは、聖父の御旨の通り童貞女の胎内に宿り、将来世界中の御聖櫃のうちにいけにえ(ホスチア)として留まり給う「修行」をしたかのようです。

イエズス・キリストは、この世に来るときに、人となるその瞬間に、ecce! ご覧下さい!ここにおります、と言います。しかし、この言葉は、童貞マリアがあらかじめ「Ecce! ご覧下さい!ここにおります」と言ったから可能になったのでした。言い換えれば、無原罪の童貞女が ecce! と言ったその瞬間、それと同時に、救い主が ecce! と言ったのでした。救い主が人間となりいけにえとなるために童貞女の ecce! fiat! が必要でした。この言葉は、御受難の言葉にこだまします。
イエズス・キリストはナザレトで聖母と共に30年間の隠れた生活を送ります。人間の傲慢の罪を償うために。ウィリアム・ホルマン・ハント(William Holman Hunt, 1827年 - 1910年)は、有名な「死の影」という絵を描いています。イエズスは仕事の手を休めて、両手を挙げて祈って(背伸びをして?)います。私たちの主の影が壁に映っています。壁には水平に道具掛けがあって大工道具がぶら下がっています。私たちの主の影は、将来の十字架を予告すると同時に、ご自分の生活が十字架の生活であることを物語っています。聖母マリアは、その影をご覧になっています。二人とも、 ecce! fiat! と言っているかのようです。
聖母がイエズスをご覧になるときはいつも、いつでも、十字架の影をご覧になっていたことでしょう。ヘロデの迫害の時も、罪無き幼子たちは殺害されましたが、全く罪の無い幼子イエズスは聖母に抱かれて、危険を逃れました。聖母は、イエズスの全生涯にわたって、十字架を、逆らいの印を、イエズスに見いだすでしょう。





33年後、聖木曜日に、救い主はゲッセマニでこの言葉「み旨のままに!Fiat!」を祈りながら繰り返します。
「私の父よ、できれば、このさかずきを、私からとり去ってください。しかし私の思うままではなく、み旨のままに!」と。
「私の父よ、このさかずきを私が飲まずにはすごせないものなら、何とぞ、み旨のままに!」(マテオ26章)

同じく33年後、聖金曜日に、ポンシオ・ピラトはこう宣言するでしょう。Ecce homo! この人を見よ!と。おそらく聖母は、その様子をご覧になって、こう仰っていたことでしょう。
「おお、我が子よ! 私を悲しませないように、将来何が起こるかについておまえは、私にあまり語らなかったね。おまえが十二歳のとき、私はこう尋ねたことがありますね。"私の子よ、なぜこんなことをしたのですか。ご覧、お父さんと私とは心配して捜していたのですよ" と。私はもうそうは尋ねません。おまえは、聖父のことに従事すべきなのだから。おまえの言葉をいつも考えていました。おまえが受けるべき苦しみについて私に話してくれなくても、私は全て理解していました。おまえがいつも私に話してくれた時が来ましたね。この世を救うために、苦しみが必要だと。母の苦しみも必要なのだから、私の苦しみも捧げます。Ecce ancilla Domini! 主の使い女がここにおります。」
お告げの時の ecce! のこだまは、続いて響かなければなりませんでした。Ecce homo! この人を見よ!Ecce ancilla!

私たちのために食されるパンとなった救い主をミサの最中に御聖櫃から取り出して、司祭はこう言うでしょう。Ecce Agnus Dei! 天主の子羊を見よ!と。聖母マリアが私たちに下さることを同意したイエズスを見よ!と。それならば、私たちもこう言わなければなりません。Ecce servus Tuus! 御身のしもべをご覧下さい!と。





「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章)天主聖父について言えたことは、童貞マリアの愛についても言えるでしょう。聖父がおん独子をお与えになるほど、この世を愛されたように、童貞マリアも御一人子をいけにえとして捧げるほど私たちを愛した、と。童貞マリアが「はい、御旨のままに!」と言ったとき、聖子イエズスはいけにえとなり、私たち人類は救われます。もしも童貞マリアが「イヤだ」と言ったのなら、聖子は苦しみから逃れるけれども私たちは永遠の破滅に留まります。

童貞マリアは、言います。「み旨のままに!Fiat!」 天主は誰かを道具として必要としております。ここに主の道具、奴隷がおります。自己犠牲、奉仕が必要ですか? ここに私がおります。天主のお望みのままお使い下さい。私は受け入れます。同意します。何とぞ御旨のままに!」「Ecce ancilla Domini. 主のはしためをご覧下さい、ここにおります。」

Ecce Agnus Dei! 天主の子羊を見よ!ならば、私たちもこう言わなければなりません。Ecce servus Tuus! 御身のしもべをご覧下さい!と。

ナザレトの聖母の家があった場所に建てられた「お告げの教会」の聖母の部屋の場所には、こう書かれています。Verbum caro hic factum est. 御言葉はここで人となり給うた、と。











キリストの全生涯は、十字架と殉教でした。(Tota vita Christi crux fuit et martyrium.)キリストの母の全生涯も、そうでした。悲しみの剣は聖母の心を突き刺し、聖母は、血を流さずに十字架に付けられ、十字架に付けられた聖子を聖父に捧げたのです。イエズスが母の優しい両の腕から、十字架の水平に伸びた木の腕に至るときまで。
それなのに、私たちは、休みと歓喜を求めるのでしょうか?(et tu tibi quaeris requiem et gaudium?)

以上は、イエズス会士ラウル・プリュス神父の The Little Book of the Blessed Virgin Mary に息吹を得て書きました。

私たちがロザリオを唱えるとき、天使祝詞を唱えるとき、この神秘をいつも黙想することが出来ますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


アイルランドの国民投票と同性愛とアイルランドの事実上の背教

2015年05月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 アイルランドでは5月22日に国民投票があり、同性結合(homosexual union)の"合法"化が問われました。それによると、賛成が62・07%、反対が37・93%。となりました。国全体の投票率は60%を超えたそうです。

 アイルランドの国民がそう投票しようとも、しかし、天に復讐を叫ぶ罪は4つあります。それは、故意の殺人、同性愛(sodomy)、貧しいものの圧迫、労働者に正当な賃金を支払わないこと、です。これらは、自然に反し、天主の怒りを特別に呼び起こすものです。
故意の殺人は、天主のみが命の主であることに反します。
同性愛は、人類の永続のために与えられた自然本能に反します。
貧しいものの圧迫は、人間の心に与えられた憐れみに反します。
労働者に正当な賃金を支払わないことは、私的財産の保存の社会的本能に反します。

 アイルランドは、悲しいことに、同性の結合(厳密な意味で「結婚」と呼ぶことが出来ないので「結合」と呼びます)が、底辺から法律化された最初の国となりました。マスメディアは、LGBT 推進のキャンペーンをしていました(LGBTとは、レズビアン(Lesbian)ゲイ(Gay)バイセクシュアル(Bisexual)トランスジェンダー(Transgender)の頭字語から取った略語)。

 首都ダブリンのマルティン大司教(Archbishop Diamund Martin)は、投票の後、青年の90%がカトリック学校で勉強していながら、青年達が賛成していたことを指摘し、もっと深い現象【背教】があると指摘しています。
 問題は、福音とカトリック聖伝とカトリック信仰を宣教する代わりに、教会の敵との共通点と妥協点を探し出そうとしていたことです。

 ベネディクト十六世が2010年3月18日付けで書いた、アイルランドのカトリック信徒たちへの手紙にあるように、カトリック教会は「聖徳と愛徳と超越的な智恵との理想に立ち戻ら」なければなりません。カトリック教会は、自らの聖伝に戻らなければなりません。カトリックの教えと価値との伝統的な支持 "traditional adherence to Catholic teaching and values" に戻らなければなりません。

 アイルランドのように、もはやカトリックは名前だけになってしまったかのようです。

 来るローマでのシノドスは、まさに「同性愛」は「離婚」を取り上げ、革新的な高位聖職者たちはすでにローマに集ってシノドスの作戦会議をしているとのことです。シノドスが「第二バチカン公会議」その2にならないように、祈ります。

 主よ、我らを憐れみ給え!
 聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


CONSOLATOR OPTIME 最善の慰め主よ CONSOLATRIX AFFLICTORUM 憂き人の慰めよ

2015年05月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖霊降臨の主日のミサの続誦(Sequentia)は「聖霊来たり給え」(VENI, Sancte Spiritus)と始まります。

VENI, Sancte Spiritus,
et emitte caelitus
lucis tuae radium.

Veni, pater pauperum,
veni, dator munerum
veni, lumen cordium.

Consolator optime,
dulcis hospes animae,
dulce refrigerium.

ここで聖霊は "Consolator optime" 最善の慰め主よ!と呼びかけられています。ところで、聖母マリアさまは、聖母の連祷の中で、CONSOLATRIX afflictorum (憂(う)き人の慰め)と呼ばれています。
聖母マリア様は、苦しみが何かをよくご存じです。私たちの最高の母である聖母マリアは、私たちが慰めをどれほど必要とするかよくご存じです。聖母マリアは、私たちに超自然の天主様からの慰めを与えてくれます。
聖霊と聖母マリアとの「慰め」の役割は、正に一つです。




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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