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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰 その2

2013年07月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰」という記事の続きです。

 岩下壮一神父様は、当時の日本人が誤解していた考え、特にプロテスタントの人々がカトリックの教えを誤解して理解したことに基づいてなされていた批難に答えようと努めておられました。では、一般の人々が誤解していることとは何でしょうか。それは、たとえば、教皇という地位とその特権に関するカトリック信仰に関する誤解などです。(そのほかにも「免罪符」だとか、「聖母マリア様を拝んでいる」とか、などもあるでしょう。)

 よくある誤解は「教皇が朝起きてから夜寝るまで発言するすべての言葉が不可謬で誤りがない」というようなもので、これはカトリックの信仰ではありません。第一バチカン公会議によれば、信仰に関わることであっても、教皇が全世界のカトリックにそれを信じることを明確に強制しなければ、つまり信じなければカトリックではない、破門される、と信仰をドグマとしてはっきりと教えなければ、教皇がその教権・教導権を行使して私たちにそれを信仰箇条として信じ従うことを命じなければなりません。これは特別教導権の行使です。もちろん、教皇様が常にどこででも教え続けてきた同じ意味の同じことを(eodem sensu eademque sententia)、すなわちカトリック教会の聖伝をそのまま教えるのであれば、これは誤りがありません。これは通常普遍教導権の行使です。

 しかし、もしも特別教導権を行使したのでもなければ、通常普遍教導権を行使したのでもないならば、それは必ずしも不可謬とは限らない、これは、カトリック神学の古典的な教えです。何故なら、カトリックの古典的な神学は、教皇その人とその職務とを区別することを教えているからです。何故区別するかというと、教皇がかつて、発言したあるいは命令した言葉が、すべてがすべて不可謬で誤りがない、とは明らかに言えない場合が歴史上存在しているからです。この現実を説明するために、カトリック神学は教皇のペルソナとその役職とを区別しました。つまり、教皇は、自分の最高の権威に訴えて教導職を行使しない場合には、個人として誤謬を犯しうる、ということです。

 たとえば聖ペトロは、聖パウロから叱責を公にうける誤りを犯しました。聖パウロがアンティオキアに来たとき、聖パウロは面と向かってかれに反対しました。聖ペトロに非難するところがあったからです。聖ペトロはある人々がヤコボのほうから来るまでは、異邦人といっしょに食事していたのに、その人たちが来ると、退いて、割礼を受けた人々をはばかって異邦人を避けたからです。他のユダヤ人もかれにならって、いつわりの態度をとり、バルナバもそのいつわりにさそわれたほどでした。」しかし、それは悪い模範であって、全キリスト教会にそれを強要したのではありませんでした。

 だから、たとえば教皇リベリウスは、半アリウス派の文章にサインをし、さらには聖アタナジオを数回破門(この聖アタナジオの破門は教皇リベリオの次の書簡によって再度確認されています。DzS 141 Pro deifico および DzS 142 Quia sxio および DzS 143 Non doceo)ました。リベリウスの統治下全世界はアリウス派の異端に染まってしまったかのようでした(聖イェロニモの描写によると「全世界はうめき、自分がアリウス異端説に染まってしまったのを知り驚いた」)。

 ちょうどデカルトがアリストテレスのアナロジーの世界を否定して、この世界が精神と物体との二つしかないとそう思ったように、この世界にいろいろな程度があることを認めない態度があるようです。「教皇の発言はすべて無条件にキリストの意志を代表する、それがカトリック信仰だ」という態度です。教皇様が自分の発言をどのようなものとして発言したのかを考慮しないで、「教皇の発言だ、イエスかノーか、イエスということは教導権だ、イエスかノーか、教導権であるなら、従わなければならない」と十把ひとからげに論を進める態度です。

 そこから、次の二つの態度が生まれてくるように思います。
第一の態度は、第二バチカン公会議の改革を受け入れる方々の態度です。教皇の言ったことはすべて正しい、教会は不可謬だ、だから、どんなことでも従わなければならない。たとえ、過去の教えと矛盾すると思われても、そのように考えるおまえが間違っている、そのように考えるおまえは、教会の不可謬性、教皇の不可謬性を信じていないのだ。
 ところで、第二バチカン公会議とその後の改革は正当な教皇によって発布されたのだ。
 従って、第二バチカン公会議とその後の改革はすべて合法的なものとして受け入れなければならない、というものです。

 第二の態度は、セデヴァカンティストと言われる方々の態度です。これは、ノブス・オルドの態度に似ていますが、結論だけが違います。
教皇の言ったことはすべて正しい、教会は不可謬だ、だから、どんなことでも従わなければならない。
ところで、第二バチカン公会議とその後の改革は、客観的に見て過去の教えと矛盾する。
 従って、カトリック教会は不可謬であるから、過去の教えと矛盾することは間違っている。間違うことを強制する教権は、本当の教権ではない、従って教皇は本当の教皇ではない、というものです。

 私たちは、第一バチカン公会議の決議に従い、岩下壮一神父様のように考えます。つまり、キリストの御意志を代表する教導権を使う教皇様が、キリストを代表しようと意志しない時、それはもはや教導権ではなくなるが、しかし、だからといって教皇が教皇でなくなるわけではないのです。

 では、第二バチカン公会議以後、教皇様たちは、エキュメニズムなど誤謬を教え、新しいミサという有害なものを強要したのではないでしょうか? 第二バチカン公会議の新しい教えは決して信じなければならないと特別教導権を行使して信じなければならないと命じられたものではありませんでした。何故なら、第二バチカン公会議は司牧会議を目指したからです。新しい教義を決定するのではなく、現代人に合った表現を使って述べるということを意図したものだからです。教皇たちのエキュメニズムに関する実践の乱用がありましたが、そして残念なことにそれがなされてしまったのですが、しかし厳密には「許可」でした。残念なことアシジの集会を開き、コーランに接吻をした教皇様もいます。しかし、全カトリック信徒たちに向かって、キリストの代理者の名前によってこれを強要したのではありませんでした。ここに教導権の行使の程度の違いがあります。

 新しいミサについても、パウロ六世の使徒憲章のラテン語原文を見ると、新しいミサを強制したのではなく、ただ単に新しく導入されたものを使うことを許可するだけだったからです。厳密に法的に見ると、新しいミサは単なる「許可」に過ぎませんでした。これについては「新しいミサについての教会法上の観点からの考察」において考察されています。

 典礼の法におけるカトリック教会の不可謬性については、Arnaldo Xavier Da Silveira 著の “La Nouvelle Messe de Paul VI : Qu’en penser?”の161ページから211ページに詳しい論述があります。私たちはダ・シルヴェイラの結論に従い、パウロ六世が不可謬性を行使する意向がなかったと判断します。何故なら1969年11月19日の訓話で新しいミサの典礼様式はそれ自体で教義的決定ではないと言っているからです。

 厳密な意味で法的に義務ではなかったけれども、新しいミサが事実上「義務である」という状況にあったのは確かです。だからといって教会が不可謬権を行使していたとは言えません。何故なら、過去にも、典礼上の義務であったけれども撤回された例があるからです。たとえば、ピオ十二世の定義以前には、叙階式の典例法規の中に、聖具(カリスやパテナなど)に触れることによって司祭の刻印(カラクテル)が刻まれるということが記載されており、叙階を受ける者たちに聖具に触れさせることを司教に命じていました。

 従って私たちは、教皇様の発言をすべて教皇の発言として敬意を払います。しかし、その内容については、いったいどれほどの権威を込めて発言したのか、どれほどの教導権の行使をする意図があったのかを客観的に見ます。

 だからこそ、もし聖ピオ十世会がフランチスコ教皇を、あるいはベネディクト十六世を、ヨハネ・パウロ二世を、真の教皇と認めていつつも、司教団体主義や、信教の自由、また新しいミサなどを拒絶することができるのです。何故なら、これらの教皇たちは、キリストの後継者ではなくキリストの代理者であり、私たちは第一バチカン公会議に定められたとおり、目に見えるキリストの代理者の権限を知っているからです。

 これはちょうど、父親から悪事を命じられた場合と類比されえます。これについては九年前に「マニラのeそよ風」に記事を書いたことがあります。

 父親から悪事を命じられた場合との類比で、教皇様が誤謬を含んでいる、あるいは/かつ悪を促進することを命じられた場合、どうすれば良いでしょうか?

(1)教皇様は不可謬だ。教皇様が言うことは、全て真理であり、もしもそうでなかったとするならこれらからはそれが真理となる。ある教皇様がAはBだと言えばAはBとなる。そして次の教皇様がAはBではなくCだといえば、AはCとなることだ。カトリック信者は、現行の教皇様の言うことは、教皇様の言うことであるが故に、それが何であれ、それが真理であると信じなければならない。次の教皇様が別のことを言えば、新しい教皇様の言うことに従わなければならないことは言うまでもない。それがカトリック信者のあるべき態度だ。拒絶する権利などない。

(2) 教皇様の不可謬性とは、教皇様が罪や誤りを犯すことが出来ないと言うことではない。しかし、教皇様がEX CATHEDRAで(=教皇座から)宣言する時、すなわち、次の4つの条件を満たすとき、
(あ) 全キリスト信者の牧者として教師として,
(い) その最高の使徒伝来の権威によって
(う) 全教会が守るべき
(え) 信仰と道徳についての教義を決定する時
天主の助力によって、教皇様には不可謬性が与えられている。そのような特別な宣言は、信仰の遺産に含まれていた永遠不変で普遍の真理であるがゆえに、教皇様がそれを真理と確認することである。この真理は、何時どこでも真であり、真理であるが故に信じなければならない。教皇様の権威には喜んで従うが、もしも聖伝に矛盾することが命じられた場合、やむをえず、その悪い命令だけには従うことはできない。

(3)教皇様は不可謬だ。天主の掟に反するような悪事を説教し行動し命令するような人は、カトリック教皇ではなくなるし、教皇として認めない。

 上記の(1)の態度は新しいミサに従い、第二バチカン公会議の改革に従う人々の態度のようです。

(3)の態度は、教皇聖座空位主義と言われている態度です。

 私たちは、ルフェーブル大司教様とともに、上の(2)の態度をとり続けています。

 何故なら、私たちは教皇の不可謬権の範囲を第一バチカン公会議に従って理解しつづけるからです。カトリック教会が過去の歴史上、公会議によって、異端として排斥された教皇たちも少数ですが存在します。(例えば、教皇ニコラス一世は、洗礼の時に使う祈りの文について誤りを犯しました。教皇ホノリウスは誤謬が自由に広まるのを許し、第三コンスタンチノープル公会議は彼に破門を宣告しています。この破門は教皇聖レオ二世によって確証されています。教皇ヨハネ二十二世は自分の誤りを死ぬ直前に撤回しています。)しかしカトリック教会は一度も教皇を教皇ではなかったと宣言したことはありませんでした。

 ルフェーブル大司教様もいうように、もしも、異端説を唱えたことにより教皇ではなくなったとすると、その教皇によって任命された枢機卿たちは、本物の枢機卿ではないということになります。そうなれば有効に別の教皇を選ぶことができなくなってしまいます。そうなれば、もしもピオ十二世以後の教皇が教皇ではなかったとしたら、ピオ十二世以後の教皇たちが選んで創られた枢機卿たちは、正当な枢機卿ではなく、教皇を選ぶ権利を持たないことになります。するとカトリック教会には正当な教皇が得られる可能性がなくなってしまいます。(もちろん石ころからもアブラハムの子孫を創り出すことの天主にはなんでもできるし、死者を蘇らせることもできます。しかし天主の特別の奇跡に頼るなどというのは私たちの道ではありません。)
 ルフェーブル大司教様のいうとおり、教皇が存在していないということを主張する人々の考え方は、教会を抜け出すことのできない状況に追いやってしまいます。しかし教会の可視性の問題にとって、教皇の存在はあまりにも必要であり、天主は過去数十年の長きにわたって無かったでは済ますことのできないことだからです。

 カトリック教会は、indefectible (不可崩壊・不可破滅的)です。聖ピオ十世の公教要理によるとこうあります。
問178 カトリック教会が崩壊したり、破滅したりしてしまうことがあり得るでしょうか。
答 カトリック教会は迫害を受けることはありますが、決して崩壊したり、破滅したりしてしまうことはありません。約束されたように、キリストは世の終りまで教会と共においでになりますから、教会は世の終りまで存続します。

 私たちの主イエズス・キリストは、聖ペトロの上に自分の教会を建てました。ペトロの後継者が半世紀以上も存在しないこと、そしてその後継者を得る手段が天主の直接介入する奇跡以外には存在しないこと、などはカトリック教会の不可崩壊性(indefectibility)に反していると思われます。

 教皇がいなくなってしまい、教皇を選ぶ正当な枢機卿がいなくなってしまったのなら、いったい誰が私たちに将来の教皇がどこにいるかを教えてくれるのでしょうか? もはや正統な枢機卿たちが存在していないとしたら、いったいどうやって教皇を選ぶのでしょうか? 私たちはここに離教的な精神を見いだします。私たちの聖ピオ十世会はこのような考え方に入るのを絶対的に拒否します。

 私たちはローマに、ペトロの後継者に固執し続けることを望み、それと同時に、歴代の教皇たちへの忠実さ故に、第二バチカン公会議以後のリベラリズムを拒否します。

【パウロ四世の大勅令】
(3)の態度をとる人の中には、パウロ四世の1559年2月16日の大勅令クム・エクス・アポストラートゥス(Cum ex Apostolatus)を持ち出すかもしれません。これは異端者が、教皇職を含めて、教会の職務に就くことができないということを述べた勅令です。

 これについて、三点の困難な点を指摘します。

 第一には、「異端者」ということの定義です。異端者には、二種類あります。どのような名前をつけて分類するにしても、その意味するところを理解することが大切です。一つの種類は、本当の(formal)異端者です。本当の異端者とは、教会の教えていることに反対していると知りつつ敢えて異端説を主張する人のことです。第二の種類は、内容だけの(material)異端者、その気が無かった異端者、善意の異端者です。これは、教会の教えがそうであるとはよく知らずに、あるいは誤解して、異端説を信じ・主張する人のことです。たとえば、マリア様の無原罪の御孕りのドグマや教皇の不可謬性のドグマが発表されない以前、天啓の一部ではあったにもかかわらずそれを否定していた人の場合です。後者は、たとえ知らなかったとはいえ、信仰の真理を否定していたことになります。

 聖パウロがティトに「異説を立てる者は、一度か二度いましめてのち、それから遠ざかれ」と言うように、カトリック教会の教会法は私たちの主イエズス・キリストの命令に従って、異端者が本当の異端者となるためには、教会法に従った「警告」が必要です。パウロ四世の大勅令が適用されるためにも、その対象の人が、「形相的な」と言われる本当の異端者でなければなりません。第二バチカン公会議以後の教皇たちにいったい誰がその警告を出すことができるのでしょうか?

 第二には、1917年の教会法の発布によって、この大勅令は廃止されたと考えられています。何故なら、同じ教会法の第六条には、1917年の教会法において採用されなかった法は、明らかに神法である場合を除き、すべて廃止されたと見なされるとあるからです。パウロ四世の大勅令は、その一部だけが採用されたに過ぎません (can. 1888.4 および 2314.1)。しかも教皇についての場合は言及がありません。
第1888条4項:「いかなる職務であれ、その事実(異端)自体(ipso facto)により、そしてもし被告が聖職者である場合には、同法規4項により容認される暗黙の辞任によって、いかなる宣告がなくとも空位となり. . . 公式にカトリック信仰から離脱する」。

 第三に、教皇ヨハネ23世とパウロ6世の選出に有効であった教皇選出に関する法律は1945年12月8日に教皇ピオ12世(†1958)が制定したものです。それによれば「いかなる枢機卿であれ、どのような破門宣告、聖職停止、あるいはどのような種類の禁止令、または他の如何なる障害という口実あるいは理由により教皇の積極的かつ消極的選出(教皇選挙有権者と次期教皇候補)から除外され得ない。これにより私は単に上述した選出の目的のためにこのような非難を一時的に差し控える。」とあります。カトリック教会は、ピオ十二世の下で、異端者により無効に統治されるよりも、その異端者により有効に統治される方が自らにとってよりよいと判断したのです。こうやって、知らずにある無効な選出をしてしまうとか、あるいは、選出した“教皇“は真の教皇ではなかったという危険を避けたのでした。何故なら、真の教皇ではない「教皇」によって指名される司教達は各自が受け持つ司教区を統治する真の権利を持たないであろうし、彼が認める法律のどれも公教会を拘束することなく、そして特に彼によって指名される枢機卿達は将来の教皇の有効な選抜者ではないことになるからです。また、この隠れた破門制裁の事実が最終的に明るみに出るとき結果として生じる大混乱は想像を出来ないでしょう。そこで例え密かな異端者あるいは背教者であっても、もし教皇として選出されているならば、地上の普遍的教会に完全な教会法的権利をもってペトロの座に昇るであろう事を認めることにより、教会法はこの破滅的状況を予見し退避したのでした。

(続く)

 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



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キリストの代理者である教皇のみが、普遍的教会を統治する至高の権力を持つという私たちの信仰

2013年06月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 明日6月29日は、使徒聖ペトロとパウロの祝日です。今年、新しい「ペトロの後継者」を選ぶ選挙が行われましたが、それは、誰も思いもしていなかったベネディクト十六世の辞任があったからです。今年は驚くべき事がたくさんありましたが、新しく選ばれた教皇様も私たちのほとんどにとって全くの意外の方でした。私たちは、教皇様のために祈り続けましょう。

 私たちは、天主様の御恵みによって、カトリック、すなわち、まことのキリスト者となりました。カトリック教会にとって、真のキリストの教会に属する私たちにとって、ペトロの後継者はとても大切です。何故なら、イエズス・キリストは使徒聖ペトロの上に御自分の唯一の教会を建てたからです。

 初代から「ペトロを中心とする使徒団は、全教団に対して宣教と統率の実権を握ってい」(岩下壮一『カトリックの信仰』講談社学術文庫 838ページ)ました。使徒行録によると、聖都イエルサレムにおける最初のキリスト信者たちの集まりは、「神秘的な信仰の感激に燃えた一分派ではなく、その中には最初から永続的の組織のあったことが看取され」「可視的の聖職制度であり、信仰の規定があり、特有の秘蹟を備えていた」(上掲書 838ページ)からです。

 パウロも、誰がキリストの神秘体に属し誰が属していなかったかよく知っていました。パウロは信徒に向かっては天主の権威をもって臨みます。教会内の秩序と正当信仰を守るためには、破門すらも躊躇しません。しかしそのパウロも、教会「外にある者は裁かない」と言います。「初代教会は主観的な体験論者の集団ではなかった」(上掲書 901ページ)のです。

 岩下壮一神父の言うように、「カトリック信者の信仰意識においては、神、キリスト、教会は三位一体であって、そこに何らの背反も矛盾も有り得ない。教権か聖霊かというがごとき背反は、どこにも存在し得ない。彼にとっては、教会はキリストであり、その能力たる教権は、すなわち聖霊の働きそのものである。しかし彼のこの信仰はリヴァイヴァル式の感情昂奮の裡に感得したものではなく、冷静なる思慮の後の沈着なる決断の結果であるから、事後の自ら顧みて、その信仰内容を抽象的に分析することも可能である。彼は教会において、人間的な、従って不完全な要素のあることを知る。これあるがゆえに彼は信者であって、直感者ではないのである。彼が信者となったのは、教会がまとえる不完全な人間的な衣装の裏に、キリストを認めたからである。教権がその認めたるキリストを意志を代表する限りにおいて(代表しなくなった瞬間それは教権ではなくなる)、その命令が聖者によって彼にまで伝達さるると、小人によって下さるるとは、あえて問うところではないのである。彼の信仰は、むしろ後の場合においてその貧しき働きを為すのである。彼は目に見ゆるキリストの代理者の権限を知っている。彼はいつもニューマン枢機卿と共に "To my conscience first, and then to the Pope" と言いうるのである。教権は地獄の門がこれに勝ち得ざるほど強きものであると共に、彼の正しき良心をも、自然法をも、聖伝をも、冒し得ぬ底のものである。それは群小教会の小法王においてしばしば見るがごとき、独裁者の主観的見解を容るるに由なきものである。」(上掲書 698ページ)

「そもそも宗教生活の神髄は、神の無限の権威の前に謙遜に跪くにある」(上掲書 637ページ)からです。

 聖書でさえ、教会の権威の前に跪くが故に成立するものです。「彼にとって教会はまた真理である。そのドグマは教会が教うるがゆえに信仰され、聖書は教会が保証するがゆえに神の言として受け容れられる」(上掲書 700ページ)

「彼の信仰は、教皇において全体の頭たるキリストを見る。・・・さればカトリック信者は、聖公会の人などが法王に名誉的優位(Primacy of honour)を譲ってもいいなどという妥協案を提出するときに、その浅見を笑わざるを得ないのである。もしも教皇がキリストの目に見える代理者ではないのなら、彼は何者でもない。いくら教皇領を擁していても三重冠を戴いてバチカン宮裡に蟠踞していたも、彼は一介の平信徒と撰ぶところがないのである。しかるにPrimacy of honourなどとは、それこそ偶像崇拝で、異教復興である。カトリック信者は身を教皇に売るのでもなく、その奴隷になるのでもなく、彼の代表すると信じるキリストの権威に服するのである。」(上掲書 702 - 703ページ ただし一部「法王」は「教皇」に訂正した。)

 それ故にこそ私たちは、日ごとに、「主は御摂理によりて主のしもべなるフランシスコを教会の牧者として、これを司らしめ給えり。願わくは教皇の上に御慈悲を垂れ、その教訓と模範とによりて、すべての信者をますます善徳に進ましめ、委ねられたる群れと共に、永遠の生命に至るを得しめ給え」と祈るのです。日本のミッションでは、この20年間、常に欠かさず聖伝のミサの後で教皇様のために祈りを一緒に捧げていまし、これからもそうし続けます。

 【以上のことは、岩下壮一神父の『カトリックの信仰』を引用しつつ、18年前にナイスについて文章を書いたことがありました、また8年前には「弱い人間性をおびた教導権」を述べて引用したことがありますが、その繰り返しです。』

 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様も、正に、この態度を取っていました。ローマの神学校で勉強し、特にル・フロック神父様から歴代の教皇たちの回勅を学び、ピオ十二世教皇の教皇使節として長年働き、ローマを愛し続けてきた大司教だったからです。ルフェーブル大司教様のローマへの信仰と愛とは、例えば有名な1974年の宣言にも現れています。
「私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、すなわちカトリック信仰の保護者でありこの信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、知恵と真理の師であるローマによりすがる。」

 パウロ六世から受けた否定的な態度にも関わらず、ルフェーブル大司教様は、1977年に司教聖別30周年に際してエコンで「天主からの三つの偉大な贈り物」というテーマの説教をしています。すなわち、教皇様、聖母マリア様、御聖体の三つです。ルフェーブル大司教様は、このお説教の中で、私たちは教会の危機に囲まれつつも、ただ目を閉じて、私たちのカトリックとしての義務を忠実に果たすことを説きました。使徒信経を信じ、天主の十戒を守り、山上の垂訓を黙想し、光を待ち望むこと。にがにがしさもなく、乱暴にならず、祈り、苦しみ、試練を受け入れる。天主が私たちに送り給う全ての十字架を忍従する。教皇職に信頼すること。ペトロの後継者としてのペトロの後継者に信頼し続けること。

 何故なら、ルフェーブル大司教様は私たちにローマ・カトリックであることを教えてくれているからです。そして、カトリックの古典的教えを繰り返しつつ、教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することを教えてくれたからです。この教皇”その人”(ペルソナ)と教皇の”役職”を区別することについては、以前既に述べたことがありした。私たちはそれを今日も繰り返して言います。

 私たちカトリック信徒にとって、従順とは極めて大切です。私たちは、私たちの主イエズス・キリストに従うために、その代理者に従うのだからです。

 私たちの力の範囲を超える現実の状況は、私たちが望まないにもかかわらず、50年前に良いこと賞賛されていたことが、今では「禁止され」「処罰され」「破門され」るべきこととなっており、50年前に禁止され、処罰され、破門されるべきことが賞賛され、祝福されている、これが故に、ルフェーブル大司教様も、私たちカトリック信者も、苦しんでいるのです。

 しかし、カトリック教会は、私たちの主イエズス・キリストの真の教会です。私たちの母親です。これ以外に私たちには別の教会はありませんし、この世には別の母親はありません。教皇様は私たちの父親です。私たちの力の及ぶ限り、私たちの家族であるこのカトリック教会のために祈り、苦しみを捧げます。家族は父親を抜きにして救うことが出来ません。私たちは公会議でもなければ、天主の御摂理でもありません。しかし、天主様は私たちの祈りを、教皇様を助けたいという祈りを聞き入れて下さると信じています。

 聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教の遺志を受け継いで、教皇様のために祈り闘っています。だからこそ昨年の総会では、カトリック教会が、私たちの主イエズス・キリストご自身がそう望んだ君主制的組織であること、このことにより地上におけるキリストの代理者たる教皇のみが、普遍的教会を統治する至高権力を持つこと、また、私たちの主イエズス・キリストが自然的及び超自然的秩序双方の創造主であり、全人類と社会全体とが服従すべきイエズス・キリストは普遍的王権をもっていることに対する信仰を宣言しました。第二バチカン公会議の司教団体制に反対するのは、それが聖伝に反し、唯一教皇だけが持つ最高の権力を、それが否定するからです。

 私たちは、私たちのカトリック生活において、私たちの御旗にこの言葉を書き込みます。「教皇様への愛、教皇職の防御、カトリック教会のための犠牲、教皇職を守るための祈りと犠牲」と。カトリック教会の本当の刷新は、聖伝へのたち戻りは、頭からでなければ起こりえません。私たち聖伝は、不当にも、公式に正当な地位を与えられていませんが、私たちは教皇様のためにカトリック教会のために祈り、犠牲を捧げることによって霊的に戦い続けます。私たちの日々の義務をよく果たすことによって、祈りと償いによって、カトリック教会のために多くの貢献が出来ると知っています。教皇様のために祈りましょう!

 ローマで状況が悪化すればするほど、私たちはいっそう熱心に祈ります。私たちは何度もロザリオの十字軍を起こして祈りを呼びかけました。個人個人でも、家族でも、共同体でも、私たちの教会ではローマのために、教皇様のために祈り続けています。ルフェーブル大司教に倣って、天主様が私たちに教皇様を与えてくださっていることを感謝します。教皇職というのは、この地上のどのような権威よりも上にあるのですから。教皇職というのは、超自然のレベルの権威なのですから、私たちは多く祈らなければなりません。

 たとえ、見かけ上は、教皇様に反対するかのように見えても(例えば現今のエキュメニズムや司教団体主義などを私たちが実践することができないので、あるいはその近代主義に賛同することが出来ないので)、私たちは常に教皇様のその役職に対する愛と尊敬を持ち続けています。私たちの、見かけ上の反対は、できるだけ教皇様を善意に解釈しようとする、苦しみと悲しみと涙に満ちたものです。教皇様は私たちの父親であるからです。

 大変デリケートな立場に私たちはいますが、聖母の汚れなき御心が私たちを助けてくれると信じています。ファティマの聖母マリアさまは幼いヤチンタに教皇様のヴィジョンを見せて諭してくれました。ヤチンタはフランチスコとルチアとにこう言います。「かわいそうな教皇様、私たちは教皇様のためにたくさん祈らなければなりません!」 願わくは、教皇様が一刻も早く聖伝に立ち戻りますように! カトリック教会を、その聖伝に立ち戻らせますように! 永遠のローマがその光を取り戻しますように! 聖母の汚れなき御心よ、教皇様のために祈り給え!教皇様を助け給え! 聖ピオ十世会は、天主様から贈られる全ての十字架と苦しみを捧げます。教皇様を守り給え!

 東欧管区のシュテーリン神父様が聖アンブロジオが聖モニカに言った言葉を私たちの状況に置き換えていみじくもこう言っていますが、正にその通りだと思います。「そのためにこれほど多くの涙を流した父は、使徒継承のカトリック聖伝に立ち戻らないことはあり得ない」と。

 聖ペトロとパウロ、我らのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、教皇フランシスコのために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、聖ピオ十世会のために祈り給え!
 聖ペトロとパウロ、日本のために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:節制

2013年06月26日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二 十 一 日
節     制

(一)聖人方がいづれも口を揃えて云うていられる如く、天主と一致するためには、祈りの外にいつも五官をつつしみ、その慾を抑(おさ)えることが極めて必要である。慾(よく)を抑(おさ)えることは、天主と全く一致する完(かん)徳(とく)の土台となるものである。
 マリアはこのことをよく御存知であった。それ故(ゆえ)、謙遜(けんそん)をも愛されたのである。彼女は常に最も末(すえ)の席につくことを望(のぞ)まれて、いつも人の目に立たず、軽んぜられることを喜び給うた。従って貧窮(ひんきゅう)をも愛された。
 聖母は天主の外(ほか)、何をも持つことを望まれなかった。すべての地上の物から心を離して、三人の博士達のもたらした宝をも自分の富(とみ)とし給わなかった。
かかる方であるから、叉、賞讃(しょうさん)や名誉をうけるような所えは、決しておいでにならなかった。そして恥辱(ちじょく)や軽蔑(けいべつ)をうけるような所へはきっとおいでになった。御子がエルザレムへ入って人々の歓迎をうけ給うた時には、聖母の御姿は見えなかったが、十字架につけられ辱(はずかし)められ給うた時には、その下(もと)に佇(たたず)んでいられたでわないか。故(ゆえ)にわれらも御母に倣(なら)い、愛着の心や、慾(よく)念(ねん)を抑(おさ)える節制(せっせい)の業(わざ)を始めよう。
キリストはわれらに「人もしわが跡(あと)につきて来たらんと欲(ほっ)せば、己を捨て己(おのれ)が十字架(じゅうじか)をとりてわれに従(したが)うべし」と仰(おお)せられた。この御言葉(みことば)を守ろうとする者は必ず五官(ごかん)の慾(よく)を制(せい)し、己(おのれ)を愛する心を抑(おさ)えねばならない。

〔二〕かようの犠牲は我等の死ぬ迄つづく。なぜならば生きている限り慾はたえず起(お)こり,我等はそれを抑(おさ)える事こそ出来るが、消す事は絶対に出来ないからである。
 聖マリアは一生涯の間、かくの如き犠牲を捧げられた。即ち常に目、耳、口、等を謹(つつし)み叉,身も心も天主に捧(ささ)げ、唯(ただ)、天主に仕(つか)える事より外(ほか)は何も望(のぞ)まれなかった。
 我等も犠牲を払わなければならぬ。今日、押さえる事が出来なかった慾は明日も引き続き押さえんと努(つと)めなければならぬ。
かくして天主のお助けを願いたゆまず励むならば、ついには多くの慾と戦っても、常に勝利を得るようになるであろう。
 聖マリアに依(よ)って常に慾(よく)を制(せい)する恵(めぐみ)を与えられん為に「めでたし」三度唱(とな)えん。


祈 願 せ ん

 主イエズス・キリストよ、主は四十日の間、荒野(あれの)に止まり断食に依(よ)りて我等に肉(にく)身(しん)の慾に打ち勝つべき模範(もはん)を示し給えり、願わくはわれは聖母の御伝達(おとりつぎ)により肉(にく)身(しん)の邪(じゃ)慾(よく)、食(しょく)慾(よく)を制(おさ)え精神を益々堅固(けんご)にし、遂には光栄ある勝利に達するよう聖寵(せいちょう)を与え給わん事を。 アメン。


聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:潔白

2013年06月25日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖母の汚れなき御心への奉献の更新準備のために、8月22日まで聖母マリアさまの黙想をすることを提案します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖母月中の祈祷



 我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

二  十  日
潔白

(一)潔白(けっぱく)については二通りあって、一つは肉体上、他の一つは霊魂上の潔白である。
この二つの潔白については、聖マリアが最も立派な手本を我等に示された。
肉身上の潔白は、みだらな行為は勿論(もちろん)、すべてのみだらな言葉や考えをさえも退(しりぞ)けることである。
 マリアは幼き時より、清き心をもって、愛する天主に自分の潔白を捧げられた。
イエズスの母は高き位(くらい)よりも童貞(どうてい)を重く見られた。白き百合(ゆり)の如く匂(かぐ)はしきその御心はいつも潔白であったので、童(どう)貞女(ていじょ)の元后(げんこう)と申し上げるようになったのである。
 聖マリアは始終祈りを以て五官をつつしんでいられたから、極(ご)く軽いみだらな考えも、その心に浮かぶ事がなかった。常に清い心を望んでいる我々は是非,聖マリアを我等の代願者と撰ばなければならぬ。
聖人達は如何にこの潔白の徳を、ほめたたえられたであろうか。聖アタナジオ曰(いわ)く「ああ宝石の如くうるはしき潔白よ、如何に汝を尊ぶ者の少なくして汝をすつる者の多きや!汝は予言者のよろこび、使徒(しと)の名誉、諸天使の生命にして、諸聖人の冠(かんむり)なり」と。

〔二〕霊魂上の潔白(けっぱく)は,すべての考えと行為(おこない)とを、唯(ただ)、天主のみ愛し之に仕(つか)えるために自身の霊肉(れいにく)をささげる事である。
 この第二の潔白についても聖マリアは我々の立派な御手本である。
天主に仕(つか)える為、マリアは幼き時にエルザレムの聖(せい)殿(でん)に入りて己を全(まった)く天主に捧げられた。
天主に仕える為に、聖殿に入りて御子キリストを聖(おん)父(ちち)天主に捧げ、叉、天主に仕える為、十字架の下(もと)に立って御子の御苦しみと、御自分の御苦しみとを捧げられたのである。
すべての行為(おこない)と言葉、考えにも、それによって始終(しじゅう)、天主に仕えようと考えていられた。
唯(ただ)、天主の誉(ほま)れのみ思われて万事(ばんじ)に霊魂(れいこん)上の潔白を守られた。我々も天主に仕(つか)える為に始終(しじゅう)、悪を避(さ)け善(ぜん)を行い,決して己(おのれ)が名誉や快楽(かいらく)を探し求めてはならぬ。

○ 聖マリアによりて、この二通りの潔白(けっぱく)の徳を我等に与えられんために
「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

主、イエズス・キリスト、主は「幸福なる哉(かな)、心の潔(ぎよ)き人、彼等は天主を見(み)奉(たてまつ)るべければなり」と曰(のたま)えり。
願わくは我等が最も潔(ぎよ)き童貞マリアの御伝達(おんとりつぎ)によりて、すべての不浄(ふじょう)より免(のが)れ、完全に潔白(けっぱく)を保(たも)ち、遂に天主を見(み)奉(たてまつ)るよう、聖寵(せいちょう)をゆたかにあたえ給え。   
アメン。

聖母の汚れなき御心への奉献更新のため:信徳

2013年06月16日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
聖母月中の祈祷


我等主の御前(みまえ)に出で、主の御母マリアの尊敬によりて、主を讃美(さんび)し奉つらんとす。主よ願わくは我等の心を浄(きよ)め、すべての無益なる思いより遠ざけしめ、我が智恵を照らし、意志をば堅固(けんご)ならしめ給わんことを、我等の主イエズス・キリストによりて、アメン
 最も尊むべき天主の御母童貞聖マリアよ、我等は御身につくすべき尊敬と愛とを現さんがために此処に集(つど)いきたれり。
 我等は全能の天主が御身(おんみ)にかくも高き御位(みくらい)と御光栄(みさかえ)とを下し給えることを喜び、且つ主が御身(おんみ)の御心(みこころ)に最も深きいつくしみを与え、御身(おんみ)を我等の母と定め給いしによりて主を讃美し奉(たてまつ)る。
 我等はこの月を聖母の月として今日一日をもまた御身の尊敬のために捧(ささ)げ奉(たてまつ)る。
いつくしみ深き聖母よ、我等は御身(おんみ)を御子イエズスの御前(みまえ)における代祷者(だいとうしゃ)として撰(えら)び奉(たてまつ)る。
 今新たに我等が身も心も御身(おんみ)に献げ、我等が悲しみも喜びも生命(いのち)、死もすべて主の御旨(みむね)にかなうよう御身(おんみ)に任(まか)せ奉る。願わくは我等の御母たることを示し給へ。我等は叉、聖会と教皇、及びすべての聖職者並びに生けると死せる親族友達の為に祈り奉る。願わくは我等が讃美(さんび)と祈りとをもって御身の御心(みこころ)を喜ばせ奉らんとするを顧(かえり)み給え。
 我等はこの聖(とうと)き月において、すべての公教信者が特に御身(おんみ)にさゝぐる其の祈りに我等の祈りを合わせ、且(か)つ天国において、天の元后(げんこう)なる御身(おんみ)を永遠に讃美(さんび)する諸々(もろもろ)の天使と共に御身を讃(たた)えまつらん。
 されば我等をして死に至るまで生涯(しょうがい)忠実に主に仕(つか)え、死後天堂(てんどう)において諸天使(しょてんし)諸聖人(しょせいじん)と共に御身(おんみ)を愛し御身(おんみ)に感謝し、御身(おんみ)と共に主を永遠に讃美(さんび)するをうるの最上の幸福をえせしめ給わんとを特に願い奉る。アメン

十  一  日
信徳

(一)マリアは信(しん)徳(とく)に就いて最も立派な手本を示された。聖イレネオの云われた如く、エワがその不信仰に依(よ)ってかけた損害を皆、償(つぐ)のわれた。
 聖マリアは大天使ガブリエルの御告(おんつ)げを固く信じて、御子キリストがベトレヘムの貧しい洞穴(ほらあな)に御誕生なされた時も、叉,其の後ヘロデ王の怒りを免(まぬが)れる為に、エジプトに逃れられた時も、この幼子(おさなご)が天地万物(ばんぶつ)の造(づく)り主にまします事を確信して居られた。
御子キリストの十字架上の御死去にあづかった時、弟子等の信仰は無くなったけれど、聖マリアは、イエズス・キリストが天主の御独子(おんひとりご)でまします事を一刻(いっこく)もうたがわれなかった。
聖母は十字架の傍(かたわ)らに立っていられた時こそ、一番立派にその信仰を現されたのである。故(ゆえ)に聖母を信者の母と唱(とな)えるのは尤(もっと)もな事である。
 我等は何とかして厚い信仰を持たなければならぬ。
信仰が無ければ、天主の聖(み)旨(むね)にかなわない。しかし信仰は天主の御恵(おんめぐ)みであるから、信仰の強められん事を熱心に天主に願わなければならない。

(二)聖アルフオンゾは「我等信者は聖マリアのように殊に行為(おこない)によって信仰を厚くしなければならぬ」といわれた。
 義人(ぎじん)は信仰によって活(い)く、とは聖書の言葉であるが、即ち信仰の教える通りなんでも事を行うという意味である。
 たとえば信仰はこの世の総(すべ)ての物は、はかないと教えているから、これらの物に溺(おぼ)れないようにせねばならぬ。
 叉、信仰は,天主が唯(ただ)、謙遜(けんそん)の人、心の清き人にその御恵(おんめぐ)みを与えると教えているから、出来るだけこの二つの徳を積(つ)もう。
遂に信仰は艱難(かんなん)の時、叉、誘惑(ゆうわく)の時に、唯(ただ)、天主のみ彼等を助け給うと教えるから、万事を天主の御摂理(みせつり)にまかせよう。
 かくの如く信仰の教えに従(したが)い、悪を避(さ)け善を行うと、遂(つい)に我等の目的地なる天国に達する事が出来るに相違(そうい)ない。

 ○ 聖マリアに依りて厚き信仰を与えられんが為「めでたし」三度唱(とな)えん。

祈 願 せ ん

あゝ、聖母よ,汝(なんじ)は常に信仰によりて生(い)き、万事(ばんじ)、主の御旨(みむね)にかなうよう努(つと)め給えり。
我も御手本(みてほん)にならいて、洗礼(せんれい)の時に賜(たまわ)りし超(ちょう)自然の生命(せいめい)を益々(ますます)強め、信仰生活を以て多くの功(いさを)を積(づ)み得(え)るよう、我の為に祈り給え。アメン。


数年後、私たちが知っていたヨーロッパはもはや存在しなくなる

2013年05月28日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 4年前の記事で、あるビデオをご紹介しましたが、正義と平和評議会の議長であるピーター・タークソン枢機卿Peter Cardinal Turkson)が、昨年の10月にシノドスに集まる教父たちにこの"Muslism demographics"のビデオを上映したそうです。そのことを導入に、ロベルト・デ・マテイ教授がこのビデオを紹介しています。

 このビデオによると、一つの文化が25年間維持するために、出生率(fertility rate)は、2.11でなければならない。日本は1.39

 もしもこれよりも少なければ、その文化は衰退する。歴史的に見て、出生率が1.9以下に下がってしまった場合、それから立ち戻った例は存在しない。

 出生率が1.3まで落ちてしまった場合、その文明を前の状態に戻すのは不可能である。
何故なら、そのためには80年から100年の時間が必要だからだ。その間、その同じ文化を維持することを可能にする経済モデルは存在していないからだ。人口が減少すれば、文化も縮小する。
 2007年の統計によると、フランスでは出生率が1.8であった。
 イギリスは、1.6だった。
 ギリシア、1.3。
 ドイツ、 1.3。
 イタリア、1.2。
 スペイン、1.1。
 数年後、私たちが知っていたヨーロッパはもはや存在しなくなる。



【参考資料】
2012年1月1日付けの国別の出生率

数年間の出生率の推移グラフ(日本)

国立社会保障・人口問題研究所が発行する「人口問題研究」の推計によると、西暦3000年に日本の人口は14人となる

少子化が進めば 1000 年後の 5 月 5 日のこどもの日は来ない。

「少子化が進めば1000年後の5月5日のこどもの日は来ない」-リアルタイムで少子化の状況がわかる子ども人口時計を公表-

東北大学経済学研究科の吉田研究室(加齢経済学)では、平成24年こどもの日にちなんで、経済学研究科内の情報システムスタッフと共同で、リアルタイムで日本の少子化の状況がわかる「子ども人口時計」をオープンソースソフトウェアで制作し、インターネットを通じて公表した。

(1)平成24年5月5日現在の日本の推定子ども数は1,662万人で、去年に比べて約30万人の減少、10年前に比べて155万人(福岡市の総人口相当)も減少している

(2)「子ども人口時計」を見ると、およそ100秒に1人の速さで子どもが減少していることがわかる。日本の少子化が急速に進行しつつあり、一刻も早く効果的な対策を打ち出す必要があることが強く印象付けられる。

(3) 「子ども人口時計」を使って将来を推定すると、およそ36万5000日後には日本の子ども数は1人なってしまうであろう。これは西暦3011年の5 月にあたる。したがって、「3012年の5月5日のこどもの日は来ない」ということができる。

日本の子ども人口時計

日本の子供の数の推定グラフ
子供の数の推定グラフ


子どもの人口1649万人、32年連続減、過去最少(総務省2013/5/4)

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「少子化対策は妊娠中絶問題から」 自民・野田総務会長

野田聖子・自民党総務会長
 年間20万人が妊娠中絶しているとされるが、少子化対策をやるのであればそこからやっていかないと。参院選後に党内の人口減少社会対策特別委員会で検討してもらうつもりだ。堕胎を禁止するだけじゃなくて、禁止する代わりに例えば養子縁組(をあっせんするため)の法律をつくって、生まれた子供を社会で育てていける環境整備をしなきゃいけない。(佐賀県武雄市で記者団に)
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 このまま行くとヨーロッパと同じように、数年後、私たちが知っていた日本はもはや存在しなくなる、と言わなければならなくなってしまいます。

 聖ヨゼフよ、日本のために祈り給え!
 聖ヨゼフよ、日本の若い人々のために祈り給え!
 聖ヨゼフよ、我らのために祈り給え!

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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秋田の巡礼が終わって

2013年05月14日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

次のようなメッセージを巡礼者の方からいただきました。感謝します。

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小野田神父様、いろいろありがとうございました。

《巡礼の去りし面影葉桜に》

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今回、共に巡礼に来られたクチュール神父様やダニエルス神父様、フィリピンやマレーシア、シンガポール、ニュージーランド、オーストラリアなどからの巡礼者の方々に感謝します。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

2013年5月の日本での聖伝のミサで受けたお恵み

2013年05月13日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 天主様に感謝します! 2013年5月の日本での聖伝のミサでは私たちは多くの恵みを受けました。大阪のミサ聖祭については、次のようなご報告をいただきましたのでご紹介いたします。

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アヴェ・マリア!

このたびはダニエルス神父様も大阪においでくださり御ミサを一日に2回ずつ与ることが出来、大変幸福でした。天主様のお恵みに感謝致します!
お忙しいスケジュールの中、来日してくださった神父様方に、感謝致します!
10日金曜日は、15人。11日土曜日は20名の方がミサに与るお恵みを頂きました。聖伝の御ミサに初めて与ったかたが、お二人いらっしゃいました。

土曜日は、御ミサの後、ダニエルス神父様の公教要理では、「正義」についてのお話では、天主様に対する人の果たすべき態度、宗教の徳をわかりやすく説明していただきました。
ミサを通して人は天主様に対して正義の徳を帰すことが出来ることがよくわかりました。

ご報告まで

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 昨日の東京のミサについては次のような報告をいただきました。

Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数と献金額/支払額は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 16人(内、子供0人)
女: 18人(内、子供0人)
計: 34人(内、子供0人)

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 ミサの後には、午後2時半からダニエルス神父様は「悪の問題」についてお話し下さいました。午後4時頃から第二晩課をグレゴリオ聖歌で歌って終わりました。

 今朝は6名の方々が早朝のミサ聖祭に与るお恵みを受けました。天主様に感謝!

 来月は6月16日の主日を中心としてミサ聖祭があります。日本での聖ピオ十世会のミサ聖祭は、後ろから数えて3番目の主日を中心にミッションを行うことになりました。 お間違えのないようによろしくお願いいたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


天主様に感謝します

2013年05月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日は、夕方のリクリエーションの時間には1931年(昭和6年)に戦前の日本で制作された『日本26聖人』の映画を皆で涙しながら観賞しました。

第七回目の聖ピオ十世会秋田巡礼は、幸福のうちに終了しました。ちょうどロザリオのアヴェ・マリアの珠の数々のように53名の巡礼者が参加しました。

秋田の聖母にさようならば、としばしのお別れをして帰路につきました。天主様に感謝します!

素晴らしい秋田巡礼を準備してくださいました多くの方々に感謝します。

来年は、マリア様の涙の回数のように101名の巡礼者の方々が参加することを期待します!来年もまた巡礼者の方々とお会いすることを楽しみにしております。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

秋田巡礼、第四日目

2013年05月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今年は、49名の巡礼者の方々がこの巡礼に参加しました。貸切りバスは補助席を使っても満席で、秋田巡礼のためにトヨタのクラウンを購入した方がいらして助かりました!!

今日の主日は助祭、副助祭のある荘厳ミサが9時からプラザ・クリプトンの会場で始まります。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父

秋田の聖母への巡礼第三日目

2013年05月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

秋田の聖母のもとに、聖ピオ十世会は第7回目の巡礼をしております。今年は司祭が3名が参加しております。たくさんのお祈りを捧げています。

天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父

天主様に感謝!

2013年04月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御復活のソウルでの主日のミサは、50名以上が与ったとのことです。天主様に感謝します。

さて、今日の大阪での聖伝の御ミサは、次のような報告をいただきました。感謝します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田神父@マニラ

――――――――――――
アベマリア!

今日4月1日の朝8時半からの御ミサには、12人が与かりました。今日は、信徒三人が、レネ神父様を京都巡礼にお連れしています(^0^)/こちらは、桜満開で良いお天気です。デオグラチアス!

日本での初めての御復活の聖伝ミサの報告

2013年04月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

大阪での、聖ピオ十世会としては初めての日本での、復活祭の聖伝の御ミサの御報告をいただきました。ご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田神父@マニラ
――――――――――――――

アベ・マリア!
御復活、おめでとうございます!!!
日本で御復活の御ミサには、38か、39人の人がに預かるおめぐみを頂きまた。デオグラチアス!御ミサの後、神父様を囲んでの小さなパ-ティを致しました。
韓国からハ-ドなスケジュールの中日本に来て下さったレネ-神父様に感謝します。小野田神父様も、素晴らしい御復活節をお過ごし下さいませm(__)m
童貞マリア喜び給えアレルヤ!!!

私たちの主イエズスキリストの御復活おめでとうございます

2013年03月31日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

私たちの主イエズス・キリストの御復活のお慶びを申し上げます。

天主様の祝福が愛する兄弟姉妹の皆様の上に豊かにありますように!!

トマス小野田神父

日本の持つ最高の富 : 聖ヨゼフよ、我らのために祈り給え!

2013年03月01日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 日本の持つ最高の富は、日本人自身だと思います。
 日本が生み出すことの出来る製品は素晴らしいと思います。コンピュータや自動車や空気清浄機や日本の農産物なども、素晴らしいと思います。

 しかし、自然のレベルで、日本の生み出すことの出来る最高の富は、自動車でもなく空気清浄機でもなく、それらよりも貴重な日本人です。

 日本は、いえ、どこの国でも、子供がたくさん生まれれば生まれるほど豊かになります。国力の元は人口だからです。子供たちが多いことこそが、国家の本当の活力です。多くの良い子供たちのお母さんやお父さんとなることは、私たちにとってどれほど大きな幸福でしょうか!

 超自然のレベルでも、生まれる子供たちを人工的に制限すると言うことは、罪を犯すことです。天主が私たちに送って下さる賜物の中で、子宝よりも美しい賜物はないからです。だから、子供の多い家庭を築くことができるのは、子供の多い家庭とは、カトリック教会の栄光です。子供の多い家庭は、教会の喜びです。教会の繁栄です。何故なら、子供が多ければ多いほどそれだけ天国に行く人々の数が増えると言うことだからです。

 私たちは、世俗の精神に流されず、婚姻生活を大切にしなければなりません。ルフェーブル大司教様の言葉を聞いて下さい。

「私たちはキリスト教世界を再創造しなければなりません。愛する兄弟の皆様、それはあなたたちです。あなたたちこそが地の塩であり、世の光です。私たちの主イエズス・キリストはあなたたちにこそこう言われるのです。「私の血潮の実りを失うなかれ、私のいけにえを捨て去るなかれ」と。・・・
 世俗的な考えに引き流されないようにしましょう。私たちをして罪へとそして地獄へと流すこの世で流行っている思潮に流されないように。もしも私たちが天国に行こうと望むなら、私たちは私たちの主イエズス・キリストに従わなければなりません。私たちは自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストの後に従い、十字架において、苦しみにおいて、いけにえにおいて私たちの主に倣わなければなりません。
 婚姻の秘跡による結婚は、私たちの主イエズス・キリストにおける結婚であり、イエズス・キリストの御血における婚姻です。彼らは私たちの主イエズス・キリストの聖寵の元に結ばれるのです。願わくは彼らが婚姻の偉大さを理解し、純潔と貞潔と祈りと考察とによってふさわしく婚姻の準備をするように。願わくは彼らがこの世を騒がす全ての情念・欲情によって流されないように。真の理想を追求する青年達の十字軍です。
 またキリスト教家庭の十字軍を起こすべきです。ここにいるキリスト教家族たちよ、あなたたちの家庭をイエズス・キリストの聖心に奉献して下さい。聖母の汚れ無き御心に奉献しなさい。家族で祈りなさい。おお、皆さんの家族の中でどれ程多くの家庭がいつも家族で祈っているかを知っています。しかしもっともっと多くの家庭が熱心に一緒に祈るようにしなさい。私たちの主イエズス・キリストがあなたたちの家庭を本当に統治しますように!
 お願いです。子供達があなたたちの家庭に来ることを妨げる全てを遠ざけて下さい。天主様があなたたちの家庭になしたもう賜物中で、沢山の子供達より美しい賜物はありません。子宝にみちた家庭を築いて下さい。子供の多い家庭とは、カトリック教会の栄光です。カナダでも、オランダでも、スイスでも、フランスでもそうでした。世界中どこでも子供の多い家庭は、教会の喜びであり教会の繁栄でした。
 子供が多ければ多いほどそれだけ天国に行く人々の数が増えると言うことです。お願いです。天主様の賜物を制限しないで下さい。家庭を崩壊させ健康を害し家族を壊し離婚へと挑発させるおぞましいスローガンに耳を貸さないで下さい。・・・
 あなたたちの子供達がむしろ貧しい方が、罪を犯すよりもましです。皆さんの子供達がこの世が持つ見せかけの科学から遠ざかっている方がましです。それよりも、彼らがよい子供達であるように、キリスト教的な子供達であるように、カトリックの子供達であり、聖なる宗教を愛する子供達、祈り働くことを愛する子供達であるように、天主様がお作りになった大自然を愛する子供達であるように。」


 多くの若い青年たちが、天主の御助けによって、この聖なる使命を果たす力を得ることが出来ますように! 多くの青年達が、世俗的な考えに引き流されずに、私たちの主イエズス・キリストに従わう道を選びますように!
 多くの青年達が、苦しみにおいて、いけにえにおいて、私たちの主に倣いますように! 多くの日本の若い人々たちが、婚姻の偉大さを理解し、婚姻の真の理想を追求しますように! 多くの日本の方々が、天主のお恵みによって、子宝にみちた家庭を築く勇気を持ちますように!

 このことが出来るように、カトリック教会の聖職者達が若い人々に対して、犠牲といけにえの精神の模範を示すことが出来ますように!

 聖ヨゼフよ、日本のために祈り給え!
 聖ヨゼフよ、日本の若い人々のために祈り給え!
 聖ヨゼフよ、我らのために祈り給え!

 愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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