床屋さんって、古くはアラビアンナイトで出てくるように、ササン朝ペルシャの時代(日本で言えば卑弥呼の時代)からある由緒ある職業である。その昔から、床屋のおしゃべりは、多くの客を魅了して来たに違いない。一方、僕は、床屋で会話をするのは苦手である。どれくらい切るのかの質問に始まり、どこか痒いところはないかなどの初歩的な質問に対して、非常にいい加減な返答をしてしまう。きっと、外見にこだわるのは、かっこ悪いと信じてるところがあるからだろう。
しかしながらである。日本の床屋って、どうして客の頭を七三(しちさん)に分けたがるのかね?外国では、客の個性を尊重して切る前の髪形のそのままの形で短くしてくれる。一目で客の髪型を記憶してそのままの形に仕上げる外国の床屋職人の仕事を見ると、さすがはプロフェッショナルと感心するばかりである。これに対し、日本の床屋は、切る前の髪形がウルフカットであろうが、ちょん髷やモヒカン狩りであろうが、仕上げはきっちり七三(しちさん)にと決めてかかっているとしか思えない。最近は、いろいろな髪型が流行っており、七三(しちさん)分けはごく少数派と思う。まして、髪型をセットする床屋自身さえ、七三(しちさん)に分けてる人は皆無であり、かっこいい髪型に決めている・・・ように見える。
僕は、小さい頃から額がかなり広く、一見、若ハゲに見えてそれで劣等感に苛まれてきた。少しでも、額を狭く見せるための努力を数十年に渡って繰り返し、現在の髪型に至っている。
だから、日本の床屋が、僕の頭をまじめな銀行員風に仕上げてあげよう勝手に思い込むのは、はなはだ迷惑な話である。小さい頃から、床屋からの帰り道では必ず、きっちりと七三(しちさん)に分けられた髪をわざとくしゃくしゃにしていた。
『バーバー(2001) THE MAN WHO WASN'T THERE 』の舞台は米国カリフォルニア州のサンタ・ローザ Santa Rosa, CA という小さな町、1949 年の夏のことである。この町の床屋で、エド・クレイン(ビリー・ボブ・ソーントン)は、義弟の店長の片腕として、ずっと床屋の人生を送ってきた。エドは、普通の床屋と違い無口で余り喋らず、ストーリーはエドのナレーションで進行していく。
画面はモノトーンで、彼の話す悲惨な話がじんわりと伝わってくる。エドは、一見、ダンディーでニヒルに見えるが、でも実は情けないダメ男である。そんな彼がふとした事からどんどん坂を転がり落ちていく。本当はちょっとだけ人生を変えたかっただけなのに・・・。
床屋と言う職業に飽き飽きしていて、違った人生にしたかった彼の願望がひしひしと伝わってくる。実際、世の中で自分の人生に満足している人は少ないだろう。だから、この映画は観ていて、人生があまりにも簡単に狂い始める様子に恐怖を覚えると同時に、この映画の予期せぬ結末には、アラビアンナイトに出てくるような数奇な運命は、ひょっとしたら自分の身にも起こり得る話と思ってしまう。
さて、劇中、エドのタバコをふかす姿が印象的であるが、タバコをやめた身からすれば、タバコを吸う姿が格好よかったのはこの映画の設定であるハンフリー・ボガード等が活躍してた時代までで、昔日の思いが強い。
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