あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

桜花の下 玉川上水緑道を歩く

2015-04-26 11:02:50 | 東京散策
玉川上水は、急増する江戸の人口に、神田上水では足りなくなったため、多摩の羽村から四谷までの全長43kmが1653(承応2)年、玉川兄弟が工事を請け負い、わずか8カ月で築いた。
四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)に付設された「水番所(水番屋)」からは、石樋、木樋による地下の配水管によって、江戸城や大名屋敷をはじめ庶民へと江戸市中に給水をした。
その玉川上水路を桜が咲く季節に、多摩都市モノレールの駅「玉川上水」から歩く。
玉川上水駅は、西武鉄道の拝島線の接続駅となっている。
 
玉川上水は、地下道をくぐって南側に進む。「自転車はおりて通りましょう。」と大きな注意書きが目立つ。こんなに幾重にもガードされていれば、自転車も降りざるを得ないだろう。と思っているそばから若い女性が乗った自転車がそばをすりぬけていった。
 
あとでわかったのだが、この地下道は電車だけではなく、玉川上水をもくぐっていた。車専用の地下道には「玉川上水立体」と名がしっかりと記されていた。
 
駅前の清願院橋の上・下流には、今が見ごろの桜が咲いていた。
左岸を歩く。すぐに都の水道局小平監視所にあたる。
 
ここは表流水中に含まれる土砂やゴミの沈殿・除去及び水質監視を行っている。
その先で道はふたつに分れる。左手は野火止用水をたどる「雑木林のみち・野火止コース」である。

野火止用水は、小平監視所から埼玉県新座市を通り新河岸川(志木市)に続く用水路である。主に飲料水や生活用水として利用され、後に田用水としても利用されるようになった。
用水が流れる川越藩では農民や家臣を多数入植させ、大規模な新田開発を行った。野火止用水の開削によって人々の生活が豊かになったことを信綱に感謝し、野火止用水を信綱の官途(かんと・かんど=官吏としての仕事や地位)名乗りである「伊豆守」にあやかって伊豆殿堀と呼ぶようになった。8km余の野火止用水を歩く散策コースもある。
右側の玉川上水沿いの道を行く。右手に「清流の復活」の碑がたっている。
 
ここには上水の流れの際まで望める唯一の場所もある。
降りると、当時の建設大臣・扇千景さんの筆によるものだろう「甦る水」の文字が書かれている碑がたっている。現在は、玉川上水の取水所の下流にある多摩川上流水再生センターで処理した水がここまで運ばれ、昔の清流の姿を取り戻していると解説されている。
 
出発点から3つ目の橋「西中島橋」の先に小川分水が右手に現れる。
   
小川分水は、玉川上水完成2年後に開削された分水であり、開削当初の分水口は次の小川橋付近であった。
その後この地から分水され、明治初期には先ほどの野火止用水に分水口・新堀用水が設けられ、ここまで暗渠で流れて来る(上右)。
 
車道も兼ねている「小川橋(上右)」でしばらくは玉川上水から離れ、800mほど南西にある「川越道緑地古民家園」に向かう。
 
古民家は、幕末の上層農家で、6つの部屋からなる六間型という民家である。奥の間は、武家屋敷の様式に匹敵する欄間や建具となっている。立川市の有形文化財に指定されている。
                 
次は、150m南の「砂川八番組馬頭観世音」に行く。
全長2.3mの馬頭観世音文字塔は立川一の大きさとか、1840(嘉永元)年に建立された。文字塔の脇には朽ちた石像も並ぶ。
 
砂川八番組呼ばれているが、近くを走る五日市街道・都道7号線沿いには西から一番から十番までn地名があり、この順に開発が進められたという。現代では、砂川七番に新しい交通手段であるモノレールの駅がある。
ここからは、五日市街道を東に進む。沿道には桃の花や桜が咲いている。
 
砂川十番組に「出羽三山供養塔」と地蔵が祀られている。
      
出羽三山供養塔は1826(寛政9)年建立。地蔵は寛保年間(1741~43)年建立、本来「右ハ府中・左ハ江戸」と刻まれていた「地蔵道標」であったのだが、昭和20年代に盗まれたため再建したという。バチ当たりもいたものだ。寛保年間は徳川八代将軍吉宗の時代。
             
五日市街道を800mほど東に進むと、国分寺高校北交差点にある「妙法禅寺」に着く。
五日市街道沿いには薬医門形式の門が構えられており、敷地内には市指定重宝の「川崎・伊奈両代官謝思塔」が建立されている。薬医門のいわれは、矢の攻撃を食い止める「矢食い(やぐい)」からきたとも言われている。 また、医者の門として 門の脇に木戸を つけ、扉を閉めても四六時中患者が出入りできるようにしていたもと言わる。
    
謝恩塔は、1722(享保7)年に始まった武蔵野開発にあたって功績があった代官に感謝して建立したものである。農民は開発初期に窮乏し餓死者が続出したほどであったため、代官が様々な施策によって農民を救った。
次は、交差点を渡って、「鳳林院」へ。
   
門を入ると左手に馬頭観音と庚申塔。馬頭観音は道標も兼ねており「是より八王子・ふちう道」と。そして何故か樽型の毘沙門堂も。毘沙門天は村の鎮守という。
1722(享保7)年、この辺り一帯の新田開発(野中新田)と一寺建立の願を幕府(徳川八代将軍吉宗の頃)に提出し許可を得たが、新田開発の権利金(冥加金)が納められず窮地にたった。しかし江戸の穀物商の援助で新田開発が行われ、鳳林院も創建できたという。新田開発には大金が必要で、一説には250両(3,000万前後)だとか。
玉川上水の緑道に戻り、8つ目の「いこい橋」から再スタート。
 
 
緑道脇には引き続き新堀用水が流れている。また、上水公園はみごとに桜が咲いていた。
創価学園専用の「栄光橋」をくぐる。創価学園は小学校から高校まで玉川上水の両側に校舎がある。新堀用水を渡る橋も「希望の橋」と命名している。ふたつの橋ともいかにも学校関係らしいネーミングだ。
  
新堀用水に架かる橋にも名が付いているようで、「あざみはし」なんて可愛いネーミングなのでパチリ。ついでに個人のお宅の石橋も絵になるようなのでパチリ。
次は「水車橋」、「新小川橋」が架かっている。
 
その先に青空ギャラリーがあったのでのぞいた。
 
1両編成で走る「多摩湖線」。30分間隔で運行、「桜堤駅」という名の駅があったと掲示されている。調べると、多摩湖線は1928(昭和3)年に開業、1940(昭和15)年に武蔵野鉄道と合併、その後西武鉄道に吸収される。当時はやたらと駅が多い鉄道だったようで、桜堤駅は1945(昭和20)年に休止、その後廃液となった。「電車を降りなくても花見が出来ます」と小金井桜が見物出来る駅だったようだ。
西武国分寺線の踏切を渡る。「鷹の台駅」が見える。西武多摩湖線はこの先1.8km東。
 
渡ってすぐ左の「小平市立中央公園」でひと休み。
 
 
ここも桜がきれいである。
 
「木もれ日の径・新堀用水」の立杭をみる。道幅が少々広いのかベンチも見かける。
ここから商大橋の間をかつてラーバーズレーン(恋人たちの小径)と呼ばれたことも。学生がいてベンチがあればこう呼ばれるかな。
「九右衛門橋」を通過、素掘りの玉川上水が続く。
 
JR武蔵野線が地下を走る「玉川上水立坑(たてこう)」に至る。
   
「新堀用水・鎌倉橋エリア」と刻まれた大きな石が置かれている(下右)。このエリアは津田塾大から鎌倉橋間100mほどを指しているようだ。先ほどの「木もれ日の径」も中央公園の脇の通りわずかのエリアを指すようだ。このほか小平市では色々な愛称をエリアに付けている。
 
鎌倉橋から玉川上水を少々外れる。「上鈴木神社」。
この神社に「南天櫻」がある。染井吉野の木に南天が宿り木のように寄生しており、そのご利益についての解説板が立てられている。
   
この稲荷神社は鈴木新田のなかに祀られている。1723(享保8)年勧請。
「小松橋」を過ぎる。ようやく小金井桜の大木が植わっている用水沿いに到達する。
   
桜は老木で花がまばらであり、落胆感がでる。老木の桜並木が続く。「商大橋」も過ぎる。
商大橋のたもとに小金井桜の解説板がたっている。
 
この解説によると、玉川上水が完成した時の堤には、杉と松が植えられていた。それが、70年後徳川八代将軍吉宗の時代に大岡忠相の命により、大和の吉野山と常陸から桜の苗種を取り寄せ6kmにわたり植えた。
当初は花見客は少なかったが、およそ60年後紀行文、案内記などを通じて関東随一の桜の名所と知れ渡った。
 
        
「桜橋」に着く。この電車が「西武多摩湖線」である。その次が「八左衛門橋」。脇道にそれると緑道は進めないので、一路玉川上水沿いを歩く。
 
緑道わきに石仏が祀られている。謂れは分らない。
 
「山屋橋」、「喜平橋」。
   
「喜平橋」の五差路のひとつに「喜平町桜通り」があって、みごとな咲で、桜の本家が負けている。
      
ここから若木だが咲方の良い右岸を歩く。
 
「小桜橋」、奥は小平第三小学校。左岸の桜の花が淋しい。それに引き換え、右岸は見事に咲いている。こちらに移動して正解だ。
 
「茜屋橋」。創設の橋は、材木を3本架け渡しただけであった。このあたりは染料の茜草が栽培されて、その元締めを「茜屋」と呼んでいたことから橋の名がついた。ここからは桜の花がデザインされているフェンスが続く。
 
「貫井橋」。
そして「小金井橋」、少なくともここまでは歩きたいと考えていた。橋のたもとに小金井桜の石碑と説明がたっている。 
       
1924(大正13)年、奈良県の吉野、茨城県の桜川そしてここ小金井の桜が名勝と指定された。小金井の桜は若葉の色、花の色、大きさ、早咲き・遅咲きなど1本1本異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地だという。
下の絵は1826(文政9)年小金井橋付近を描いたもの。
 


明治30年代の小金井橋の花見風景色彩写真


一昨年前の桜の季節に玉川上水取水口の羽村を訪れた。桜の季節には引き続き玉川上水を歩こうと計画はしていたが、昨年は「皇居の桜」見物があって、小金井の桜は1年遅れとなった。

訪れた日:3月31日





最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。