大御所様の道・中原街道
わが町を東西の直線で横断している道、神奈川県道45号線、中原街道。
中原街道は、東京都と神奈川県を斜めに縦断する直線的な道路で、古代から中世にかけて使われた奥州道で
はないかと云われている。小田原北条氏時代は、関東の各支城に連絡する軍用道として使われ「相州道」とも
呼ばれていた。のちに1590(天正18)年、徳川家康が関東へ支配替えになり江戸城の入城する際、平塚の中原を経る中原街道を利用したと云われ、家康が整備した道。
一度、全線を歩いて見たいと思っていたが、今回6回に分けて歩いて見た。
順路は、
千代田区桜田門(江戸城外桜田門)-虎ノ門(江戸城虎ノ門)-港区芝-港区三田(三田・功運町)-港区高輪(高輪・二本榎猿町・白金台町)-品川区大崎-品川区中延-大田区南千束-川崎市中原区小杉御殿町(小杉御殿)-横浜市都筑区佐江戸(佐江戸の辻)-横浜市瀬谷区瀬谷(瀬谷宿)-藤沢市用田(用田の辻)-高座郡寒川町一之宮(一之宮)-平塚市田村(田村の宿)-平塚市四之宮-平塚市中原(中原御殿)-平塚市平塚(平塚宿篋方見附)-中郡大磯町化粧坂(大磯宿化粧坂一里塚)である。
中原街道 1日目
中原街道完歩を目指す初日。
スタートは中原街道当初の起点である江戸城外桜田門とした。
スタートの江戸城桜田門外より霞が関方面を見る
桜田門交差点、奥のレンガの建物は法務省
桜田門は、井伊大老暗殺で有名だが1590(天正18)年、徳川家康が関東入国した当時は、小田原街道の始点として小田原口(門)と呼ばれていた。また品川口・桜田口・桜田土橋・品川土橋・芝口土橋と多くの別称があ
り、いずれも小田原に向かう中原街道の起点でもあった。古来この付近一帯を桜田郷といっていたことから、三の丸桜田門(現在の桔梗門)に対応して外桜田門と名付けられた。
右手は警視庁。左手は赤レンガの法務省。1888(明治21)年、ドイツの建築家の手によって7年をかけて竣工した、当時は司法省の建物。関東大震災では絶えたが、東京大空襲では壁と床を残して焼失してしまった。それを平成になって復元したという。
霞ヶ関二丁目の交差点の脇に「霞ヶ関跡」の案内標識傍示杭がある。
ネットによると、案内標識は警視庁前だ、総務省前にあると様々、お陰でこの1ブロックを1周してしまった。
「霞が関跡」の傍示杭
「霞が関跡」の傍示杭のある霞が関一丁目交差点
案内によると、この辺りは、江戸時代、霞ヶ関と呼ばれ、武家屋敷が建ち並んでいました。そして、その名は代々受け継がれ、現在では中央官庁街の代名詞になっている。
霞ヶ関は、武蔵国(現在の東京都・埼玉県・神奈川県の一部)の中にあったといわれているが、正確な場所は分かっていない。今のところ、霞ヶ関のあったとされる場所として、千代田区・多摩市・狭山市が考えられている。名前の由来については、『武蔵野地名考』に「この場所から雲や霞の向うに景色を眺めることができるため」と記されている。とある。
「霞が関の由来」案内板
現在の外務省ビルは黒田氏邸宅跡にあたり、第二次大戦の戦火に遭うまで江戸時代からの長屋塀が残り、面影を留めていた。
官庁街は丁度出勤時間と重なっていたため桜田門から虎ノ門の間は公務員と思われる人々の波の中に埋もれて歩いて行く。
虎ノ門交差点では工事が行われており、虎ノ門の碑や地下鉄の階段に虎のブロンズがあるようだが見当たらぬまま金毘羅宮に進む。
金毘羅宮は案内板によると、丸亀藩の京極貴和が讃岐の金毘羅大神を、1660(万治3)年、三田の江戸藩邸内に邸内社として勘請、その後1679(延宝7)年に藩邸の移転と共に現在地に移った。
銅の鳥居と本殿
鳥居の青竜と玄武
こんぴら人気が高まった文化年間に京極家では毎月10日に限り一般の参詣を許し、大変賑わったといわれる。
銅の鳥居は、1821(文政4)年の銘があり、左の円柱に青竜と玄武、右の円柱に朱雀、白虎の四霊獣が取り付けられている珍しいものだ。江戸庶民の信仰を反映した派手な鳥居は、当時の人々の宗教的、文過程活動の実態を示す貴重なものだという。
虎ノ門三丁目を左に入り愛宕神社に向かう。
出世の石段
正面の男坂といわれる階段を上った。86段あるそうで上がり終わって下を眺めるとその急勾配にあらためて驚く。角度は40度というのだが、講談「寛永三馬術 誉れの梅花 愛宕山」でおなじみの讃岐丸亀藩の家臣、間垣平九郎が三代家光の命を受けて上がった石段である。どこかのTV局がこの石段を馬で上がる挑戦をし、見事上がり切った映像を見たことがある。
間垣平九郎
また、井伊直弼を襲撃した水戸浪士の結集の場や、西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城会談の場でもあった。
西郷隆盛と勝海舟
境内には、小舟を浮かべた池がありなかなか風情のある神社である。
本殿
NHK放送博物館を左に見て、工事中の仮階段のようなパイプで造られた細い階段を下って天徳寺へ向かう。
天徳寺には秩父産緑泥片岩製の弥陀種子板碑がある。
板碑は鎌倉時代から戦国時代にかけて、鎌倉武士の所領地・出生地などで造られた板状の石造物で、本来は先祖の供養など民間信仰によって立てられた塔婆の一種。
弥陀種子板碑
次の目的地「雁木坂」を探すために脇道に入ると露天のエスカレーターがあったので珍しいと思いカメラに移す。この辺りは旧道が残っているようだ。
雁木坂
階段なのになんで坂なのとびっくり。普通、坂はスロープなのでは。案内によると階段になった坂を一般に雁木坂というそうだ。千代田区神田駿河台に同名の坂があるそうで、そこは現在スロープになっているが、昔はやはり木製の階段状の坂であったといわれる。
この辺りから中原街道の両脇の道や街道そのものが坂となり、案内の傍示杭が目につくようになる。
狸穴坂、榎坂、土器坂、雁木坂、永井坂と飯倉交差点付近は坂が多い
飯倉交差点の先が土器(かわらけ)坂となり中原街道(桜田通り)は下ってゆく。
交差点右手にノアビルが建っている。焼け焦げたようなレンガと漆黒の円筒ビルが独特の存在を示している。
土器坂を進んでいくと左手に東京タワーが見えて来る。
東京タワーの真下に心光教院がある。
表門は江戸・享保期の建築だそうで、登録文化財になっている。この門を入ってすぐのところに、「お竹如来」のお堂がある。
朱の表門左手の白いお堂にお竹如来が安置
お堂には、お竹如来像及び流し板を祀ってある。寛永年間、江戸大伝馬町の名主の下女のお竹は、生まれつき慈しみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの上、隅にたまったものを食料にしていたという。信仰は厚く常に念仏を怠らず大往生を遂げたという。この話を聞いた五代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金蘭の布に包まれた立派な箱に、お竹さんが当時使った流し板を納めて、増上寺別院であった心光院に寄進され、その功徳を顕彰されたというもの。
お竹如来
倹約の神様のようだ。なお、境内には宝篋印塔や蓮の蕾を持った如意輪観音の石像などもある
。
東京タワーの敷地を通って増上寺へ向かう。
1958(昭和33)年に建てられ東京の観光名所になっていたが、最近ではムサシの東京スカイツリーに人気を奪われている。この日も平日とはいえ駐車場には観光バスがマバラであった。
そのタワーの足元に「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像」がある。現在、TBSTVで放映中の「南極大陸タロジロの真実」原作の「南極大陸」人気にあやかって、この記念像に観光客が沢山訪れてもらいたいと思う。
通りの向うの公園に如意輪観音がお堂に祀られていた。
増上寺は浄土宗大本山で徳川家の菩提寺でもある。丁度、徳川霊廟と三解脱門の公開があったので拝観した。
「西国の果てまで響く芝の鐘」実に大きい
増上寺の隣には、現在プリンスホテルの所有地になっているようだが、旧台徳天院霊廟惣門がある。
惣門を潜ると開けた公園になっていて東京タワーの絶景が見られる。
台徳天院霊廟惣門は、徳川二代将軍秀忠の霊廟の門であり、東京大空襲の被害に遭うまではこの一帯は秀忠とお江の霊廟であった。
港区平和の灯(ひ)
その先は徳川家康を祀る芝東照宮がある。
芝東照宮は当初、増上寺境内に勘請されたが、明治初期の信教分離で、増上寺から分かれ東照宮と称し安国殿に祀られていた御神体(家康の等身大の寿像)を安置した。
中原街道(桜田通り)を少々外れていたので赤羽交差点まで戻る。
東麻布一丁目のキューバ大使館の向かいに飯倉公園がある。そこには赤羽接遇があった。
幕末に於ける外人のための宿舎兼応接所があった。2階建て2棟の建物は黒の表門を持ち、高い黒板塀で囲まれていた。オランダ商館付きの医師・シーボルト父子も滞在したという。
先を進む
慶応義塾大学の北側にイタリア大使館がある。ここは旧伊予松山藩・松平隠岐守(54万石)の中屋敷があった。そこには沢庵和尚が設計したという庭園が今も残っており、NHKTVの「ブラタモリ」でも紹介されたことがある。
また、元禄赤穂事件では大石主税以下浪士10名を預かった藩でもある。
桜田通りは三田二丁目の交差点を右折するが、中原街道は直進し、ひとつ先の三田三丁目の斜めの道を進む。
二本榎通りとなる。ゆるい上り坂となっている。これが聖坂(ひじりざか)である。
聖坂の由来は、古代中世の通行路で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)の宿所があったためという。古奥州街道であり、江戸時代は坂ではなくここも階段状になっていたという。
聖坂の途中、右手に亀塚稲荷神社の祠がある。ここに港区最古の1266(文久3)年の弥陀種子板碑がある。
弥陀種子板碑
その先右手に済海寺がある。最初のフランス公使館跡である。1859(安政6)年から1870(明治3)年までフランス公使館として使用されていた。
亀塚公園、三田台公園と公園が続く。東京都は人口が多いからかも知れぬが、小さな公園が各所にある感じである。
亀塚公園付近は江戸時代、上野沼田藩土岐家の下屋敷で、明治維新後は皇族華頂宮邸となった。華頂宮が廃屋となった後は一時、内大臣官邸になっていた。
また、平安時代、菅原孝標女(たかすえのむすめ)(1008(寛弘5)年~1059(康平2)年以降)が著した「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されていると紹介されている。
この地の伝説を刻んだ亀山碑
公園の右奥に進んで行くと亀塚公園ビオトープ カントウタンポポ保全地区というエリアがあった。ビオトープとはドイツ語で野生生物の生息空間という意味で、ここではカントウタンポポ、シロバナタンポポの保護、育成を行っているようだ。
今年の春、街路樹の脇に咲くカントウタンポポを見つけたが、その花に比べると排気ガスもない良い環境で花開いてここのタンポポがうらやましい限りだ。
三田台公園には伊皿子貝塚と竪穴住居の復元模型がある。竪穴住居は4千年前の縄文式時代後期の頃のようだ。
竪穴住居の中は当時の家族の暮らしが眺められる
両公園とも災害用なのか井戸ポンプが設備されていた。
亀塚公園の井戸ポンプ
聖坂を上り切る途中の右手に幽霊坂がある。
三田の幽霊坂と呼ばれ、坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたようだが、有礼坂の説もあるという。後の有礼坂の由来は明治時代、この辺りに文部大臣・森有礼(ありのり)の屋敷があって殊に因む。但し、後者は定説ではなく、単純に幽霊がもつ負のイメージを嫌って、地域にゆかりがある人物名にこじつけたと考えるのが自然であるとの解説もある。
この辺りは何故かお寺が多い。地図をみると20余を数える。
その先、左手に伊皿子坂と右手に魚籃坂の交差点となる。
いよいよ、本日のハイライト、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士が切腹をした場所と墓がある泉岳寺へと向かう。
案内板には「大石良雄外十六人忠烈の跡」と書かれている。
その場所は赤色系を配した都営のアパートを進んだ正面にあった。入口には「大石良雄等自刃ノ跡」碑がたっている。
都営高輪住宅の入口に碑がある
ここは、旧肥後熊本藩(54万石)細川越中守下屋敷である。
大石内蔵助外16人は当藩に御預けとなった。藩主細川綱利は、大藩の威力と識見を以って優遇した。
1703(元禄16)年、幕府より切腹の沙汰が下った。
赤穂義士自刃の場所は団地の外れとはいえ、静かなところであった。自刃跡がこれほど立派に保存されているとは思わなかった。
次は、中原街道からは外れるが赤穂浪士が眠る泉岳寺へと向かった。
スリランカ大使館先を左折、一部高輪学園の塀に囲まれた細い路地を曲がりくねって泉岳寺へ進んでいった。
この路地を利用しなかったら中原街道(二本榎通り)からは、とんでもない距離を迂回しなければならない。
早速、大石良雄の像が迎えてくれる。
泉岳寺
曹洞宗のお寺で元は外桜田にあったものを大火で焼失後三代家光が5大名に再建の命じ、その中に浅野家も入っておりそれ以来の縁となっている。
再び中原街道(二本榎通り)を進む。
道筋に"とらや"を見つける
承教寺
コミカルな狛犬が可愛い
参道入口に「二本榎の碑」がある。
二本榎の由来が書かれた立て札も一緒にたっている。
それによると、品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいたが、そこにある寺に大木の榎が2本あって、旅人のよき目印になっていたそうだ。
誰いうとなくこの榎を「二本榎」と呼ぶようになった。それがそのまま「二本榎」の地名になったということだ。
仁王門の脇を通って境内に入ると、本堂の左手に英一蝶(はなぶさいっちょう)の墓がある。
一蝶は、江戸中期の絵師、英派の始祖。1698(元禄11年)『当世百人一首』や『朝妻舟』などが将軍綱吉を風刺したものとした12年間三宅島に配流となった。赦免の報を聞いた時に、蝶が花に戯れる様子を見て「一蝶」と号するようになった。軽妙洒脱な筆致で江戸庶民や都市風俗を描くことを得意とした。73歳で没。
承教寺の先の交差点に、高輪消防署二本榎出張所と高輪警察署がある。
消防署はクリーム色の磁器タイルで覆われていて3階建てで、建設当初の昭和8年では、周囲に高い建物がなかったことから、東京湾が一望できたという。3階から上は円筒形の望楼となっており1971(昭和46)年までは使用されていたという。「東京都選定歴史的建造物」に指定されている。
消防署と警察署の道を桂坂という。昔、蔦葛(つたかづら)がはびこっていた(桂は当て字)。かつらをかぶった僧侶が品川からの帰途急死したからともいう。
坂には花壇が造られて「桂坂を花いっぱいにする会」が運動を行っているようだ。
その交差点を進んで行くと、
ゆうれい地蔵の光福寺がある。
その先に味の素研修センターは創業者の鈴木三郎助の屋敷だったそうだ。
創業者の屋敷門
約3~4万冊の食に関する蔵書を閲覧することができ、2階には食のミニ博物館があるそうで、江戸時代からの絵や食に関する資料が陳列されている。手続きをすれば誰でも無料で入館できるそうだ。
高輪三丁目の交差点前に衆議院高輪議員宿舎がある。取り壊しが決まっていて人のいる気配がしない。
第1日目はここで終了して品川駅に向かう。
主な参考資料:平塚市博物館史編さん 平塚市史資料叢書4 中原街道抄
亀井俊夫氏著 中原街道
HP百街道一歩の中原街道