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池上道を歩く(池上~品川宿)

2013-10-02 14:41:20 | 東京散策
池上本門寺の参拝を終えて、ここからの道は"池上道"と名を変えて品川宿へと足を進めた。
だが、池上本門寺前を流れる呑川を渡ってすぐにたっている六郷用水の地図に平間街道と書かれていたり、池上通りと並行して通る池上道には「いにしへの東海道」と刻まれた池上道に因んだ新しい石碑が道端や公園に大田区の手で置かれている。その碑には『此の道は時代により奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれていた古道です。』と書かれている。
池上を過ぎてもこの道は平間街道と呼ばれていた時代があり、新しい東海道が出来るまでは主要な道であったのだと得心した。
鶴見の熊野神社を出発するときはマイナーな道と思っていたが、そうではなかったようだ。

池上本門寺から池上道に戻って歩を進め、呑川を浄国橋で渡ると、六郷用水の案内板がたっている。
『六郷用水は多摩川の水を多摩郡和泉村(現、狛江市和泉)から取り入れ、世田谷を経て沼部、嶺を通り矢口の南北引分けて北堀(池上、新井宿方面)と南堀(蒲田、六郷方面)とに分流した』と、地図入りの解説があった。
先ほど記したが、案内板の図には平間の渡しから本門寺前を通り北上する道を平間街道と描かれている。うれしいことだ。
         
この案内板のところで平間街道は六郷用水と交差し北上する。
この道を平間街道とこれからも呼んで歩いていきたい。
平間街道は一方方向の車道としてほぼ直線で遠くまで伸びている。
右手の子母沢児童公園には先ほど紹介した「いにしへの東海道」石碑がある。棟門と云うのか、2本の門柱の上に屋根瓦が敷かれて、公園名を表示している。
この辺りは現在中央4丁目だが、旧町名は「子母沢(しもざわ)」の呼称で、公園名に古き町名が残っている。
「子母沢」というと作家・子母澤寛さんを思い浮かべるが、この地に住まわれていたのでペンネームにされたとのこと。



大森赤十字病院を右に見て、旧新井宿出土橋跡の石碑がたつ辻に着く。
         
ここにも「いにしへの東海道」石碑がたっている。隣に旧新井宿出土橋跡の石碑もたっている。
「でどばし」と読み、その橋がこの位置に架かっていたという。川の名前は内川。新井宿は明治の中ごろまで続いたこの辺りの村名である。

         
出土橋の先、真っ直ぐ伸びる平間街道
写真の前後を通る道は桜並木通りと名付けられているが、内川を暗渠にして造られた道である。それで、むかしはここに出土橋が架かっていた。

この先環七に突き当たるがその手前に春日神社が祀られている。
創建は鎌倉時代と言われ奈良の春日神社から勧請した平間街道沿いの由緒ある神社。祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)、神仏混淆(しんぶつこんこう)の春日権現とも云う。
その先、神社裏の四つ角は南品川に通じる道と平間街道が交わる大事な場所であったようだ。
 

         
武者の絵馬だが誰を意味するか不明

環七を潜った左手に根ヶ原神社がある。
由緒、創建年代は不詳。もとは神仏混淆時代、第六天社として創建したと云う。明治の神仏分離の際、面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更し、根ヶ原神社となった。社名の根ヶ原は、新編武蔵風土記稿に新井宿村の小名(こな)として記載されている根河原(ねかはら)より付けられたものと考えらる。
         
その先で平間街道は現在の池上通りと合流する。
 
平間街道と池上通りの交差点 左が平間街道より、右が池上通からの眺め

合流してすぐの大森郵便局の向かい側に善慶寺と熊野神社に通じる参道がある。

義民のもとの墓の位置に大きな灯ろうが建てられ”新井宿義民六人衆霊地参道”と金文字が入っている

法光山善慶寺は、1291(正応4)年、増田三郎右衛門が日蓮宗の聖人に帰依して開創した。
 
1678(延宝4)年、干ばつと翌年の多摩川の氾濫や洪水で疲弊した新井宿の農民たちは、領主・木原氏の年貢収奪に耐えかねて新井宿村の村役5人と百姓1人の農民代表6人で幕府に直訴することを決めた。だが事前に領主が察知することとなり、6人は捕えられて斬首の刑に処せられた。
しかし、その結果、年貢は半減されて、6人は義民として境内の墓所に葬られた。
 
善慶寺の境内を抜けて石段を上がると、山王熊野神社がある。
鉄筋コンクリート造りの覆屋(おおいや)の中には日光東照宮造営の際に拝領した余り木で元和年間(1615~25)に造立した木造の本殿が奉られている。
平将門の乱の鎮圧のために関東に下向した藤原恒望の家来の熊野吾郎武道が、戦勝を祈願した場所だとの云い伝えもある。
もと別当寺の善慶寺の稲荷堂として祀っていたと云う。
 

 
何故か手作りの絵馬が奉納されている

しばらくは広い池上通りを北上する。
JR大森駅の西口に差し掛かる。池上通りのこの道は八景坂と云われ、かつては坂の上からの眺めが見事で、江戸近郊の名勝と謳われた。
         


駅の向かい側に天祖神社が祀られている。急な石段を登ると天祖神社の社が構えている。
創建年代は不詳。江戸時代、神明社と云われ、その名の通り祭神は天照大神を祭神とする。
享保年間(1716~35)に伊勢神宮の参詣を目的とした伊勢講をつくり伊勢皇大神宮に詣で、分霊を受けたことがはじまりとされる。
 
そのむかし(平安時代末期、1091年ころ)、八幡太郎義家(1039~1106)が奥州征伐におもむく途中、この社で戦勝の祈願をしたが、そのときに境内にあった松の木の枝に鎧を掛けたと言われる鎧掛の松の伝説がある。この松の木は安藤広重の絵になって、八景坂とともに名勝として広く世間に知られていたが、枯れてしまい、今はその痕跡もない。

階段中段に馬込文士村の住人を紹介するレリーフが掲げられている。
大正後期から昭和初期にかけて東京府荏原郡馬込村を中心に多くの文士、芸術家が暮らしていた地域を馬込文士村と呼ばれていた。現在の東京都大田区の山王、馬込、中央の一帯である。
北原白秋、川端康成、山本周五郎、宇野千代、山本有三、佐多稲子、三島由紀夫など、その他多数にのぼる。
かつて文士達が歩いた閑静な街並と、起伏に富んだ散歩道は、都市化が進んだ今でも散策のコースとなって楽しまれているそうだ。
         
大森駅を過ぎると左手に日枝神社があり、並びに圓能寺がある。
古くは山王社と呼ばれ、1677(延宝5)年から圓能寺が別当になった神社である。
 
圓能寺の境内は若草幼稚園の園庭にもなって園児が飛び跳ねていた。門も閉ざされていたので素通りとした。
この向かい側のNTTビルの裏、線路側に大森貝塚碑がたっている。
1877(明治10)年、横浜から東京に向かう汽車の窓からアメリカ人の動物学者エドワード・モースが貝塚を発見した。これが大森貝塚である。
 
         
大田区から品川区に入る。
貝塚碑の300mほど北には貝塚遺跡庭園がある。
モースは貝塚の住所や地図を明らかにしなかったため、いつの間にか大森貝塚の位置は分からなくなってしった。
1929(昭和4)年にこの地、大森貝塚遺跡庭園(品川区大井六丁目)に「大森貝塚碑」が、翌年先ほどの大田区山王一丁目に「大森貝墟碑」が建てられ、貝塚の位置をめぐる混乱が生じた。
1955(昭和30年)、両方の碑は「国指定史跡 大森貝塚」として国の史跡に指定されましたが、その後大森貝塚発掘時の明らかな文書が、東京都公文書館で発見された。そこに記された発掘地の住所「大井鹿島谷2960番地」で現在の大森貝塚遺跡庭園の位置にあたる。
 


その先すぐ右手に鹿島神社来迎院がある。
鹿島神社は、社伝によると、969(安和2)年に大井の常行寺の僧が常陸国鹿島神宮より分霊を勧請したことに始まる。同時に別当として来迎院を建立したという。
         
現在の社殿は 1931(昭和6)年に竣工。旧社殿は1862(文久2)年の造営で精巧を極めた鎌倉彫の彫刻が施されており、これを後世に伝えるため境内末社として境内右手奥に移設して現存する。
         
 

         
来迎院山門前には数々の供養塔が3つの堂内に納められている。
江戸時代に盛んに行われた念仏講の供養塔で、いずれも江戸初期の供養塔である。この場所はもともと来迎院の境内であったが、道路工事によって分断された。


南無阿弥陀仏と彫られた笠塔婆型の塔と1656(明暦2)年、1659(万治2)年の地蔵菩薩像

品川歴史館の角を曲って池上通りに出る。
ここから西大井にある池上本門寺道標を探しに回る予定だったが時間も押しているので真っ直ぐ大井町駅に向かう。
 
大井三ツ俣の交差点を歩道橋で渡る。むかしは三ツ俣に分れていたのだろうが今は複雑に分れている。
歩道橋を下りると昔ながらの商店街に感じる通りとなる。
左手に地蔵の堂が祀られている。
縁起が幟旗が邪魔をして読めないのだが、鎮座している仏像は古く仏教伝来の時代までさかのぼる十一面観音菩薩像で身代わり地蔵とも云われているそうだ。
あとで知ったことだが、向かい側は以前、直木賞作家・村松友視さんが書いた小説、時代屋の女房の舞台となった骨董店「時代屋」があった場所だという。今は駐車場になっている。
時代屋の女房と云えば映画では夏目雅子さんがパラソルをくるくる回しながら歩道橋を歩いて螺旋階段を下りてくるシーンがある。それがこの歩道橋である。彼女は美人でしたね。

螺旋階段の奥 フェンスの囲まれた駐車場が骨董店「時代屋」だった
私も彼女と同じようにその歩道橋を歩いて大井三ツ又商店街に入った。
この商店街を抜けると大井町駅前の踏切に差し掛かる。ここがむかしの池上通りだとか。
 
ここで駅沿いに大きくえぐれて道を巻て歩く予定だったのだが、コンビニのセブンイレブンに差し掛かるはずが、それは、コンビニはコンビニでもローソンだった。自分の位置が解らなくなった。そのまま歩いて都道420号の交差点に着いた。池上通りを歩いていることが解っていたが、本来はむかしの池上道を歩く筈であった。この交差点で道を正せばよかったのだが、どうせ京浜第一国道に合流するのだからとそのまま進んだ。
エトワール女子高で道を修正して斜めに路地を入った。ようやく池上道に戻った。この池上道のパスした道のりがあとの悔やみとなった。
品川銀座通りを歩く。
  
すぐ左手に東関森(とうかんもり)稲荷神社があり、その先右手には、馬頭観音像。
東関森稲荷神社は、「新編武蔵風土記稿」にはこの辺りに稲荷森稲荷、熊野神社が書かれており、その後熊野神社に稲荷森稲荷が合祀されたようだ。稲荷森稲荷とは稲荷社も変わった社名である。「稲荷森」は「とうかもり」と呼ばれようだ。
 

続いて海蔵寺がある。
海蔵寺は、1298(永仁6)年、藤沢遊行寺の上人が創建。江戸時代には数多くの無縁仏を供養し投込寺とも呼ばれた。品川宿で死亡した人や、鈴ヶ森刑場で処刑された人、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も葬られていて、1691(元禄4)年から1765(明和2)年に至るまでの74年間でもその数7万余人と云われている。
 
 
第一京浜に合流して、目黒川を渡る。

品川神社である。
 

富士塚の登り口                         浅間神社
ここに来ると品川宿の中心に到着した感じである。
階段を上がって左手に浅間神社、そして拝殿へと参る。その後境内端の包丁塚を撮る。これがサプライズであった。
         
この日、TV東京の夕方の番組で「お祭直前!旧東海道品川宿めぐり」と云う品川宿を歩く放送があった。
品川宿にはこれで3回目となるのだが、なぜか3回が3回ともTV放送と係わるサプライズがある。
初回は、区の歴史散策で東海七福神を回った時のことである。
七福神を回り終えて午後はフリーとなったので他の寺社等を回った。その中で高村智恵子終焉の地があることを知り、回ったのだが場所が解らず、足も棒となり諦めて帰った。
その日の夜、サスペンスドラマで智恵子の生誕の地が出てきたのである。終焉の地を巡って生誕の地がでてくるとは。
その終焉の地だが、今回、大井町から道を間違えず予定の道を歩いて入れば、辿り着いたようだ。そんなおまけもあった。
2度目は品川宿を八つ山橋から入ったのだが、同じようにその日のテレ朝の「雄三のゆうゆう散歩」で品川宿散策の放送があり、八つ山橋からはいっていた。
2度あることは3度あるで、3度目の今回、女優のいとうまい子さんが品川宿を南から入ったのである。
その上、品川神社で出したクイズがまたサプライズであった。品川神社に富士塚があるが、神社の境内に置かれているもうひとつの塚は『A筆塚 B包丁塚 C布団塚』のうちどれかと云うものだ。
それが、境内に上がって拝殿の後に私が撮った唯一の写真がクイズの答えとなるなんて、サプライズですネ。
品川神社も3度目なので写真も撮る必要がなかったのだが、たまたま写した包丁塚の写真だったのだが。
偶然もこんなに重なるとは。マー、4度目はないだろうね。
品川神社の参道を下りて、商店街を入って行く。
おいらん道中のお祭のポスターが貼ってある。明日のことだ。TVで知ったのだが品川宿北の入口・八つ山を出発して2時間かけけこの京急新馬場駅近くの商店街に着くそうだ。
そういえば、前回も荏原神社のお祭を週末に控え提灯が並ぶ商店街を写したことを思い出す。これも偶然。

この後は、正徳寺の赤レンガの路地を通り、養願寺、一心寺、法禅寺、善福寺に参る。一心寺は門が閉まっていた。こんなこともあるのかな。
         
 
         
 
それと、おやすみ所を使って街道関連の古本を扱っている街道文庫の店がこの夏に移転していた。
本の量からして手狭な店だったのでさもありなんである。街道書籍のみを扱っていることでTVなどのマスコミに取り上げられた店である。店主は散策のガイドも務める人なので気さくな方である。鎌倉街道の本を求めて前回窺った。
           
京急の踏切に差し掛かる。相互乗り入れになって聞いたことがない印旛沼○○行きの電車が通り過ぎた。
 
踏切を渡った右手に『従是南 品川宿 地内』と書かれた木製の柱がたっている。
振り返って、これより南に、北宿・南・、新宿にわかれた品川宿がある。日本橋を起った旅人の最初の宿場町である。
         
八つ山橋に着く。
 
今回の散策もあとひとつの神社のみとなった。イチョウ並木の第一京浜を品川駅目指して進む。
イチョウの木の下には銀杏が落ちている。品川駅前に神社があったのかと思うほど意外な場所に高山神社がある。裏はプリンスホテルの高層ビルがそびえたっている。
高山稲荷神社は京都伏見稲荷大社の分霊を祭祀している。
往時の文献によれば今からおおよそ500年前、この地に神社の建立を勧請建立したと記されている。
当時高輪の地形は小高い丘陵で社殿は二百数十段の石段の山峰に位置する山上の神社。故に高山神社と称されたと伝えられている。 現在の社殿前方、品川駅一帯は見晴らすかぎり海辺がつづき遠く房総方面より往き来する舟の目標となったものと記されている。
明治初期、境内からの眺望は目を見張るものがあったと思われ、明治天皇が京都より江戸への遷都に際に、休息・野立をなされたと伝えられている。
1923(大正12)年の関東大震災ののち、国道の拡張に伴い境内を失い参道も現在の位置になった。





JRと京急の品川駅

平間街道を2回に分けて歩いたのだが、冒頭にも書いたが、徳川様の東海道が出来る前はこの道がメインであったのだから決してマイナーな散策ではなかった。ただ、平間の渡しまでの沿道にはこの道の証が塚越の御嶽神社の道標だけなのは淋しい。
それと、この道は鎌倉街道下道と云う方もおられる。勉強不足で平間街道がそうだとは解らぬが鎌倉街道と鎌倉街道をつなぐバイパス道であることは感じた。
東海道の確立した道とは違い、その時代に生きた人々の生活の中で、便利さを求めて道が変化して行ったし、時代によって道の呼称も様々に変化していったのかもしれない。




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