お内裏様(だいりさま)と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした ねえさまに
よく似た官女(かんじょ)の 白い顔
と、童謡「うれしいひなまつり」で歌われているが、本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛一対を指しており、歌詞の男雛をお内裏様というのは誤りのようだ。
そして、「関東雛」と「京雛」では男雛と女雛の並ぶ位置は逆となる。
その理由は、内裏雛は宮中での天皇の並びを模したもので、日本古来「左が上位」とする考え方(日の出の方角=左が上座、日没の方角=右が下座とする)から、人形が座る位置からみて、お内裏様が左、お雛様は右であった。ところが、明治の文明開化で日本も西洋式に習い、大正天皇が即位式で右に立ったことから、以降はそれが皇室の伝統となり現在に至ったといわれる。
しかし、「京雛」は伝統を重んじ旧来のままとなっていることから「関東雛」と「京雛」では並ぶ位置は逆となっている。
ひな壇の三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形は供揃いという。
おとぎ話を題材にした人形が一緒にひな壇に飾られていた。
3月3日は季節の節目である五節句のひとつ、上巳(じょうし・じょうみ)の節句であり、桃の花が咲く季節で桃の節句といわれる。
桃の節句の起源は平安時代より前のようで、京の貴族階級の子女が、天皇の御所を模した御殿や飾り付けで遊んで健康と厄除を願ったことが始まりとされている。
平安時代になり、川へ紙で作った人形を流す「流し雛」も生じ、上巳の節句(穢れ払い・けがれはらい)として雛人形が「災厄よけ」の守り雛として祀られる風習となった。
しかしながら、当時は男女別ない行事であったが、江戸時代ごろから、豪華な雛人形は女の子に属するものとされ、5月5日の端午の節句(菖蒲の節句)は武道・武勇を重んじる「尚武(しょうぶ)」にかけて男の子の節句とされるようになった。
「流し雛」の風習は鳥取県の用瀬町(千代川)、奈良県五條市(吉野川)や兵庫県たつの市(揖保川)、近くは埼玉県岩槻市(岩槻城址公園菖蒲池)などで今でも行われている。
また、残りの五節句は1月7日の人日(じんじつ)の節句(別称七草の節句)、7月7日の七夕(たたばた・しちせき)の節句と9月9日の重陽(ちょうよう)の節句(菊の節句)である。
9月9日はともかく四節句は今でも私たちの生活のなかで長い歴史を持って生きている。