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鎌倉七口を辿る その2

2012-05-18 13:58:23 | 鎌倉巡り
鎌倉七口を辿る その2
 朝比奈切通(朝夷奈切通)

                

国史跡 朝夷奈切通は
鎌倉時代初期の武将・朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたことから朝比奈の名がついたと、伝説ではいわれる。
鎌倉幕府は、1240(仁治元)年六浦津との重要交通路(六浦道)として、路改修を議定、翌年4月より工事にかかった。
執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせたという。
当時の六浦は塩の産地であり、安房・上総・下総等の関東地方をはじめ、海外(唐)からの物資集散の港であった。舟で運ばれた各地の物資は、この切通を越え鎌倉に入り、六浦港の政治的・経済的価値は倍増した。
また、鎌倉防衛上必要な防御施設として、路の左右に平場や切岸の跡とみられるものが残されている。
鎌倉市境の南側には、熊野神社があるが、これは鎌倉の艮(うしとら・鬼門)の守りとして祀られたと伝えられている。
鎌倉七口の中、最も高く嶮岨(けんそ・けわしいこと)な路である。
と、横浜市の案内板に書かれている。


鎌倉駅から京急バスの金沢八景行きに乗り朝比奈峠を越え20分余り「朝比奈」で降りる。
鎌倉発は1時間に2本なく、後で分かったのであるが、金沢八景からは神奈中バスもあり本数も多いとのことだ。
ここは横浜市金沢区。今回の朝比奈切通への道は横浜市から鎌倉市に入る道を辿る。

朝比奈切通の入口はバス道路(環状4号線)を少々戻った左手にある。
「朝夷奈切通」の石柱を右に見て坂を上ると、すぐに庚申塔や石地蔵などの石仏群が迎えてくれる。
        
横須賀横浜道路を潜って先に進む。すぐそばには朝比奈のインターもある。
ひっきりなしに車が高速で走る音が聞こえてくる。
小切通、やぐら群を過ぎると熊野神社に続く分岐道に出る。ウグイスの鳴き声が聞こえる。この切通しの道が終わるまで、ここかしこでウグイスの鳴き声を聞いた。
              
              
熊野神社に立寄るため熊野神社の石柱がある左手の参道を進む。右手の山側には小さなやぐら群がある。
鎌倉付近では、山腹をくりぬいた穴を「やぐら」と呼んでおり、鎌倉時代から室町時代における上層階級の墳墓とされる。
              
4~5分で熊野神社に着く。鳥居を潜り石段を上って拝殿に向かう。今回の鎌倉切通散策の安全を祈願する。賽銭箱が見つからない。奥の本殿に参拝したがここでも見つからない。
 
熊野神社は源頼朝が鎌倉に幕府を開くと朝比奈の開削にあたり、守護神として祀ったとある。
本殿の奥には横井戸がある。説明によると、昭和初期に権現山の水脈を見つけ井戸を掘り、この水で礼大祭の湯立神楽や日々参拝の手水に使用しているとのこと。
                  
再び切通の道を辿る。ごつごつした岩がうまる坂を上ると大切通にさしかかる。ここは横浜と鎌倉の市境でもある。この辺りが朝比奈切通の頂点のようだ。
          
その先を下ってゆくと左手に人工的に削ったような石壁に子供の大きさほどの仏像一体が掘られている。横浜側から来ると見過ごすような位置である。仏像に名はついていないのだろうか。
         
鎌倉市に入ると湧水が多いようで坂道を濡らしている。そしてこのあと湧水はせせらぎが聞こえるほどの小川となって流れてゆく。そして太刀洗川、滑川と名を変えてゆく。
              
              
              
この切通を開削・補修工事の際に亡くなった人への供養なのだろうか、道の脇には南無阿弥陀仏・道造供養塔や石地蔵が祀られている。
              
              
この切通も終りとなり、三郎の滝、朝比奈切通碑に辿り着く。これで4つ目の鎌倉切通散策が終わった。
                  
              

このあとは、太刀洗水を通り、寺社巡りながら鎌倉駅まで辿る。


太刀洗水
鎌倉幕府初期時代の御家人、梶原景時がこの近くにあった上総介広常(かずさのすけひろつね・正式名称は平広常)の屋敷に押し入り広常を斬った際の血刀をこの水で洗ったという伝説の場所である。この水は江戸時代より鎌倉五名水のひとつに数えられている。
上総介広常は、頼朝の父義朝時代からの従者で、謀反を起こしたということで頼朝が梶原景時を討手に命じたという。
                   


十二所神社
光触寺の境内に祀られていた熊野十二所権現社が前身とされ、江戸時代末、1838(天保9)年に村民の呼びかけによって、現在の地に社殿が建立されてと伝えられる。
明治初めの神仏分離によって「十二所(じゅうにそ)神社」と改名された。



光触寺
光触寺(こうそくじ)は、もと真言宗の寺であったが時宗の開祖、一遍上人を開山に迎え時宗に改め念仏道場として栄えた。
境内の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)は六浦の塩売りが朝比奈峠を越えて鎌倉に来るたびこの地蔵に塩を御供えしていたといい、いつも帰りにはその塩がなくなっていたことからその名の由来となった。
   
                 


明王院
鎌倉幕府四代将軍、藤原頼経が将軍の祈祷寺として1235(嘉禎元)年に建立した。
幕府の鬼門除け祈祷寺として本尊の五大明王がそれぞれ堂に祀られていたことから、古くから五大堂と呼ばれていた。
鎌倉幕府西医大の危機である、元寇の時も明王院で異国降伏の法要が行われた記録があるという。



浄妙寺
源頼朝が伊豆挙兵した以来の重臣、足利義兼(あしかがよしかね)が高僧、退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を開山として建立した。
鎌倉五山の禅宗の寺で、室町時代は境内に23の塔頭を持つ大寺院であった。現在は総門、本堂、客殿、庫裏が残っている。


浄妙寺には、足利貞氏の墓がある。貞氏は、鎌倉時代後期から末期にかけての鎌倉幕府の御家人で、室町幕府初代将軍・足利尊氏(高氏)の父。
              

茶室・喜泉庵と枯山水の庭は1991(平成3)年に復元された。
              


鎌足稲荷神社
浄妙寺の裏山にあるこの神社には、鎌倉の地名の由来ともされる藤原鎌足の「鎌槍伝説」がある。
645(大化元)年の大化の改新で活躍した藤原鎌足が、鹿島神宮に参詣する折に、由比の里(鎌倉)に宿泊した。その夜、夢に現れた老人から「あなたに授けた鎌槍をこの地に奉納しなさい」といわれ、白狐に案内されるまま浄妙寺の裏山にお護りの鎌槍を埋め、祠を営み祀ったという。この「鎌槍」から「鎌倉」という地名が生まれたという説がある。
        


報国寺
臨済宗建長寺派の寺院で、1334(建武元)年に建立。孟宗竹の竹林が有名で竹の寺と呼ばれている。また20種余の苔が生息している。
 




杉本寺
鎌倉最古の天台宗の寺で、鎌倉幕府が開かれる500年以上前の734(天平6)年、行基によって開山。行基はそれより3年前、東国を旅していた際に「この地に観音様を置こう」と決め、自ら観音像を彫って安置した。
その後、聖武天皇の妃、光明皇后(こうみょうこうごう)が夢の中で「財宝を寄付し、東国の治安を正し、人々を救いなさい。」というお告げにより、本堂を建立したといわれる。
本尊は十一面観音三体で、本尊の手前にも頼朝が寄進した十一面観音が祀られている。

また、仁王門があり、阿形、吽形(うんぎょう)の2体の金剛力士像が警護している。
             

この地には杉本城があったので、城跡にも行きたかったが、寺の方に尋ねると今は辿る道もなくなっているとのことで残念である。
杉本城は、三浦義明の長男・杉本吉宗によって築かれた。六浦道を抑える要衝で、杉本寺の上にあった。
南北朝時代、朝夷奈切通から鎌倉に入った北畠顕家(きたばたけあきいえ)によって落城した。北畠顕家は南北朝時代の公家・武将であり、「風林火山」の旗印を武田信玄よりも先に使ったとされる。


鎌倉宮
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王を祭神とし、1869(明治2)年、明治天皇が、建武の中興に尽くし若くして命を奪われた護良親王の遺志を後世にと創設した。別名大塔の宮と呼ばれている。



覚園寺
鎌倉宮の鳥居の前を左に800m進むと、 正面に見えてくるのが覚園寺の山門である。
覚園寺(かくおんじ)は鷲峯山真言院覚園寺(じゅうぶせんしんごんいんかくおんじ)と号する。 古義真言宗。吾妻鏡に1218(建保6)年、源実朝が鶴岡に参拝した折り、 随行した北条義時が夢の中に薬師十二神将の戌神(いぬがみ)のお告げがあり、この地に薬師堂を建立した。
この薬師堂が現在の覚園寺になったのは、北条貞時が1296(永仁4)年に心慧上人を開山としたことによる。 境内には薬師堂、愛染堂、地蔵堂などがある。


境内の薬師堂裏に鎌倉十井のひとつ、棟立ノ井(むねたてのい)がある。 井戸の形が家の棟の形をしていることからこの名がついたといわれている。 また、屋根の形から破風の井(はふうのい)ともいわれている。
現在は山崩れのために土中に埋もれてよく確認できないそうだ。
              
棟立ノ井はこの先にあるという。鑑賞は時間が決められて1日6回受け付けている。


荏柄天神社
古くは荏柄山天満宮とも称し、菅原道真を祀り、福岡の太宰府天満宮、京都の北野天満宮とともに日本三大天神のひとつと数えられている。
荏柄天神社は、源頼朝が鎌倉に入る以前からある古社で、1104(長治元)年の創建と伝わる。鎌倉幕府の鬼門の守護神でもあり、中世より足利、北条、豊臣、徳川の各氏によっても守られ、寄進を受けて近世に至っている。
本殿は、1622(元和8)年の鶴岡八幡宮の造営の際、古い社を貰い受け、移築し社殿にしたということで鎌倉最古の木造建築物とされている(国指定文化財)。
荏柄の社号は、当地「荏草郷(えがやごう)」が転じて「えがら」となり「荏柄」と表記されたと考えられている。



源頼朝の墓
頼朝は1180(治承4)年、平家打倒のため挙兵、1185(元暦2)年に平家を滅ぼした。鎌倉幕府を大蔵(現在の雪ノ下三丁目付近)に開いて武家政治寺の基礎を築いた。以降、江戸時代が終わるまで700年にわたり、武家による政権が続いた。
頼朝は、1199(建久10)年に53歳で没すると、自身の持仏堂であった法華堂に葬られ、墓所として信仰された。法華堂はその後廃絶したが、この丘一帯がその跡である。
現在建っている塔は、後に島津藩主・島津重豪(しげひで)が整備したものとされる。
と鎌倉市の案内板に書かれている。
島津重豪は、島津氏第二十五代の当主で薩摩藩第八代藩主である。島津家に伝わる史料では、初代当主忠久(鎌倉幕府御家人)は頼朝の落胤(らくいん・隠し子)であるといわれている。そのため子孫の重豪が1779(安永8)年に墓を建てたということのようだ。しかし忠久落胤説は史実ではないということが現在歴史家の定説になっているとのこと。


また、頼朝が葬られたという法華堂も、現在の墓下に祀られている白旗神社に建てられていたと白旗神社の由緒に書かれている。法華堂はどちらにあったのだろう。
白旗神社は明治維新の神仏分離によって法華堂から改められ、源頼朝を祭神にして祀られている。
                  


腹切りやぐらと宝戒寺
新田義貞の鎌倉攻めにより、最後の執権・北条高時をはじめ北条一族870余名が宝戒寺の南東にある腹切りやぐらで自害したと伝えられる。

宝戒寺は、滅亡した北条氏の霊を弔うため、また諸行道場として、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条氏の屋敷があったとされる地に寺を1335(建武2)年、建立させた。



紅葉やぐら
紅葉やぐらは、1935(昭和10)年に発見され、五輪塔や納骨、それに海蔵寺十六井と全く同じものが出土されている。その時代考証から北条執権ゆかりの納骨とされる。
海蔵寺十六井とは、やぐら内に4個ずつ4列に16個の丸い穴で、清水をたたえている。弘法大師が掘ったとされる。
                  


鎌倉七口も今回で四つ巡った。七口の感想は全てを巡ってからにするが、これなで鎌倉巡りは大仏と八幡宮程度に過ぎなかったが、今回の巡った竹藪と苔の美しい報国寺と十二面観音が祀られている杉本寺は印象深い。
杉本寺本尊の十一面観音三尊をほのかな明かりで格子越しに拝むと心が大きくなったような気がしてまた訪れたいと思う。

次回は、名越切通と七口には数えられていないが、釈迦堂切通を辿る予定である。


                関 連 : 鎌倉七口を辿る その1 
                      : 鎌倉七口を辿る その3   
                       : 鎌倉七口を辿る その4

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