「ボロ市」を歩いた日に、関連のある世田谷城主吉良氏にゆかりのある寺社を巡る。
吉良氏の歴史は、
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門。
足利家三代目当主義氏の四男・義継が三河国吉良荘からとって「吉良」姓を名乗った。のちに足利政権の奥州統治の要となり、奥州(武蔵)吉良氏となる。
これは、長男・長氏が「吉良」姓を名乗ったことにならったものであり、こちらは三河吉良氏と名乗り、後に赤穂浪士に登場する吉良上野介の流れである。
一時は衰退の一途をたどるが、鎌倉公方家に仕えると、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受ける。
1366(貞治5)年、吉良家が武蔵国荏原郡世田谷郷(東京都世田谷区)を与えられる。その後、成高の代に世田谷城を構える。
戦国時代に入り、成高の子頼康は、関東の覇者となった小田原北条氏と政略結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)に城を構えて、「蒔田殿」と呼ばれる。
関連 : 吉良氏の城・蒔田城を歩く
頼康は今川氏の一族堀越氏から氏朝を迎えて養子とし家督を譲るが、豊臣秀吉の小田原攻めによる小田原北條氏滅亡により、氏朝は下総国に下るが再び旧領世田谷に戻り、実相院に閑居する。
その後、氏朝の子・頼久が徳川家康に取り立てられ、家格の高さを認められ、高家旗本となり、「蒔田」姓を名乗るようになった。
江戸中期なって、元禄赤穂事件により三河吉良氏が断絶したことを契機に、「吉良」に復姓した。明治に至ると、知行地であった千葉県長生郡寺崎に移る。
出発は東急田園都市線・三軒茶屋駅
三軒茶屋駅前で、渋谷方面から来た大山道は二手に分かれる。その1条は世田谷ボロ市通りの代官屋敷前を通り、弦巻(つるまき)地域を横断して用賀駅近辺で合流する。沿道には道標やブロンズ像が置かれている。
●三軒茶屋・大山道道標 三軒茶屋2-13
江戸時代、大山街道が世田谷上町へと向かう登戸道と、二子の渡しへ向かう二子道とに分かれる三叉路に三軒の茶屋があった。
田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋で、この三軒の茶屋があったことに由来して、文化文政(1804~29)ころには既に三軒茶屋という呼称が一般的になっていた。
田園都市線・三軒茶屋駅の世田谷通り口を上がると、不動尊が乗った道標がその三叉路にたっている。1749(寛延2 )年建立、1812(文化9)年に再建されたといわれる。
道標の正面に、「左相州通大山道」側面に「右富士、登戸、世田谷通」「此方二子通」と刻んである。
●旅人の像(大山道児童遊園) 弦巻4-32
三軒茶屋で二手に分かれ、ボロ市通りを抜けた一方の大山道は、弦巻地域を横断するが、その道沿いの公園脇には「旅人の像」がある。
1985(昭和60)年、大山道児童遊園が開設され、その時に建てられた。
この道は、用賀駅近辺で再び合流する。
公園脇の道が大山道、むかしは雨ごいのために雨降り山と呼ばれる丹沢・大山に参詣する大山詣の習慣があった。
大山詣の商家の主人が一服している。隣に座って話しかけたい雰囲気をかもし出している。
●勝國寺 世田谷4-27-4
世田谷城の裏手鬼門除けとして1554(天文23)年、薬師如来を安置し、吉良氏代々の祈願所としたのが起こりと言われている。
寺伝によると、薬師如来像は、吉良頼康のもとに小田原北條氏より嫁いできた側室の持仏とされる。
石高年12石と朱印状を与えられ、赤門寺として、近在の人々の信仰を集めた。真言宗豊山派の寺院。徳川幕府もこれにならい、石高年12石と朱印状を与えた。
●代官屋敷 世田谷1-29-18
吉良氏の室町時代からの有力な家臣である大場氏は、1590(天正18)年主家が没落した後は世田谷に土着し、郷氏となる。
1633(寛永10)年に、この地が近江彦根藩世田谷領となった時、代官に任じられ、以後1871(明治4)年の廃藩置県まで代官職を世襲し、領内20カ村を支配した。今も、敷地内に十六代目の子孫の方々が生活している。
大場氏は居宅を役宅として代官の執務を行なった。現在の建物は当時世田谷村名主で世田谷宿の問屋役であった1737(元文2)年に建築。
茅葺・寄棟造の主屋および同じく茅葺・寄棟造表門(長屋門)は国指定重要文化財。敷地内に世田谷区立郷土資料館が設けられており、前の通りは、「世田谷ボロ市通り」である。
●実相院 弦巻3-29-6
鶴松山實相院、勝光院の末寺。曹洞宗。
境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。町の中の寺とは思えない風情がある。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。
勝光院の末寺。開基は、吉良左兵衛佐氏朝で開山は天永琳達大和尚、1616(元和2)年入寂。
豊臣秀吉軍による小田原攻後に、九代当主氏朝は一時下総国に下ったが、再びこの地に帰り閑居した。 その閑居した旧跡が、この実相院である。
●延命山勝光院 桜1-26-35
世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格ある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。
鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、元の姿で無事戻ってきた。
勝光院は初め金谿山龍鳳寺といい、1335(建武2)年世田谷城主・治家の創建になると伝えられる。
1573(天正元)年吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称し、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
1737(元文2)年に山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、左右の腕を頭上に高く挙げた清水寺式の千手観世音菩薩坐像がある。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣の墓もある。
●世田谷城跡 豪徳寺2-14-1
世田谷城は東京都世田谷区豪徳寺及びその周辺にあった、奥州吉良氏が代々居を構えた城。
初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらい受けて、築城したことが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であった。
現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。
●豪徳寺 豪徳寺2-24-7
寺の周辺は、奥州吉良氏が居館とし、1590(天正18)年の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
1480(文明12)年、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、1584(天正12)年曹洞宗に転じる。一説には招き猫発祥の地とされる。
鷹狩の帰りに通りかかった近江彦根藩主井伊直孝に対して寺の飼い猫が手招きをしたため、直孝はここで一休みすることにした。そして寺の住職からお茶の接待を受けている最中に空模様が悪くなり雷雨になってしまう。「猫が招いてくれたおかげでずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と直孝は喜んだ。
これが縁で1633(寛永10)年井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。直孝が没すると、直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ寺の名前を豪徳寺と改めた。
桜田門外の変で暗殺された第十五代藩主・直弼もここに眠る。
●世田谷八幡宮 宮坂1-26-3
世田谷城主吉良頼康が1546(天文15)年社殿を再興させて発展させた。これが実質的な創建と考えられる。
それより以前、1091(寛治5)年、後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、滞在した。それが縁となり、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀った。
境内には土俵や力石が奉納されていて、かつては奉納相撲の勝敗によって豊作・凶作を占ったり、豊作を感謝したことで、今でも毎年秋の例祭には、東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われている。
最寄駅、東急世田谷線「宮の坂」の駅名は、この神社の脇にある宮の坂に由来している。
●今ひとつのゆかりの寺
泉澤寺 川崎市中原区上小田中7-20-5
吉良氏の菩提所として1491(延徳3)年に多摩郡烏山(現在の世田谷区烏山)に創建された浄土宗の寺院であるが、1549(天正18)年焼失したため、翌年頼康が現在の上小田中の地に移し再興した。
門前町を指定して居住者に諸税を免除し、市を開きこの地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。
関連 : 大御所様の道・中原街道を歩く 3日目
●帰りの商店街で
この先、梅ヶ丘の羽根木公園の650本の梅林を見る予定もしていたが、まだまだ鑑賞には早いようなので、手前の小田急線豪徳寺駅から帰宅する。
関連 : 世田谷ボロ市を歩く
吉良氏の歴史は、
家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の一門。
足利家三代目当主義氏の四男・義継が三河国吉良荘からとって「吉良」姓を名乗った。のちに足利政権の奥州統治の要となり、奥州(武蔵)吉良氏となる。
これは、長男・長氏が「吉良」姓を名乗ったことにならったものであり、こちらは三河吉良氏と名乗り、後に赤穂浪士に登場する吉良上野介の流れである。
一時は衰退の一途をたどるが、鎌倉公方家に仕えると、公方と同じ足利氏の流れを汲む家として「鎌倉公方の御一家」という別格の扱いを受ける。
1366(貞治5)年、吉良家が武蔵国荏原郡世田谷郷(東京都世田谷区)を与えられる。その後、成高の代に世田谷城を構える。
戦国時代に入り、成高の子頼康は、関東の覇者となった小田原北条氏と政略結婚し、武蔵国久良岐郡蒔田(神奈川県横浜市南区)に城を構えて、「蒔田殿」と呼ばれる。
関連 : 吉良氏の城・蒔田城を歩く
頼康は今川氏の一族堀越氏から氏朝を迎えて養子とし家督を譲るが、豊臣秀吉の小田原攻めによる小田原北條氏滅亡により、氏朝は下総国に下るが再び旧領世田谷に戻り、実相院に閑居する。
その後、氏朝の子・頼久が徳川家康に取り立てられ、家格の高さを認められ、高家旗本となり、「蒔田」姓を名乗るようになった。
江戸中期なって、元禄赤穂事件により三河吉良氏が断絶したことを契機に、「吉良」に復姓した。明治に至ると、知行地であった千葉県長生郡寺崎に移る。
出発は東急田園都市線・三軒茶屋駅
三軒茶屋駅前で、渋谷方面から来た大山道は二手に分かれる。その1条は世田谷ボロ市通りの代官屋敷前を通り、弦巻(つるまき)地域を横断して用賀駅近辺で合流する。沿道には道標やブロンズ像が置かれている。
●三軒茶屋・大山道道標 三軒茶屋2-13
江戸時代、大山街道が世田谷上町へと向かう登戸道と、二子の渡しへ向かう二子道とに分かれる三叉路に三軒の茶屋があった。
田中屋、信楽(後に石橋楼)、角屋で、この三軒の茶屋があったことに由来して、文化文政(1804~29)ころには既に三軒茶屋という呼称が一般的になっていた。
田園都市線・三軒茶屋駅の世田谷通り口を上がると、不動尊が乗った道標がその三叉路にたっている。1749(寛延2 )年建立、1812(文化9)年に再建されたといわれる。
道標の正面に、「左相州通大山道」側面に「右富士、登戸、世田谷通」「此方二子通」と刻んである。
●旅人の像(大山道児童遊園) 弦巻4-32
三軒茶屋で二手に分かれ、ボロ市通りを抜けた一方の大山道は、弦巻地域を横断するが、その道沿いの公園脇には「旅人の像」がある。
1985(昭和60)年、大山道児童遊園が開設され、その時に建てられた。
この道は、用賀駅近辺で再び合流する。
公園脇の道が大山道、むかしは雨ごいのために雨降り山と呼ばれる丹沢・大山に参詣する大山詣の習慣があった。
大山詣の商家の主人が一服している。隣に座って話しかけたい雰囲気をかもし出している。
三軒茶屋駅から大山道を歩いて駒留八幡神社へ向かう。
●駒留八幡神社 上馬5-35-3
永禄年間(1558~70)世田谷城主の吉良頼康の側室・常盤はありもしない不義の疑いを受け、子どもを身籠もったまま自害した。頼康は死産した子どもを駒留八幡宮に祀り、若宮八幡と称した。
また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされる。
創建は、鎌倉時代後期、1308(徳治3)年この辺りの領主北条左近太郎入道成願により、八幡大神を勧請した。この時、成願は自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。
●駒留八幡神社 上馬5-35-3
永禄年間(1558~70)世田谷城主の吉良頼康の側室・常盤はありもしない不義の疑いを受け、子どもを身籠もったまま自害した。頼康は死産した子どもを駒留八幡宮に祀り、若宮八幡と称した。
また、常盤を弁財天として厳島神社に祀ったとされる。
創建は、鎌倉時代後期、1308(徳治3)年この辺りの領主北条左近太郎入道成願により、八幡大神を勧請した。この時、成願は自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。
側室・常磐のサギ草伝説:百花物語
●勝國寺 世田谷4-27-4
世田谷城の裏手鬼門除けとして1554(天文23)年、薬師如来を安置し、吉良氏代々の祈願所としたのが起こりと言われている。
寺伝によると、薬師如来像は、吉良頼康のもとに小田原北條氏より嫁いできた側室の持仏とされる。
石高年12石と朱印状を与えられ、赤門寺として、近在の人々の信仰を集めた。真言宗豊山派の寺院。徳川幕府もこれにならい、石高年12石と朱印状を与えた。
●代官屋敷 世田谷1-29-18
吉良氏の室町時代からの有力な家臣である大場氏は、1590(天正18)年主家が没落した後は世田谷に土着し、郷氏となる。
1633(寛永10)年に、この地が近江彦根藩世田谷領となった時、代官に任じられ、以後1871(明治4)年の廃藩置県まで代官職を世襲し、領内20カ村を支配した。今も、敷地内に十六代目の子孫の方々が生活している。
大場氏は居宅を役宅として代官の執務を行なった。現在の建物は当時世田谷村名主で世田谷宿の問屋役であった1737(元文2)年に建築。
茅葺・寄棟造の主屋および同じく茅葺・寄棟造表門(長屋門)は国指定重要文化財。敷地内に世田谷区立郷土資料館が設けられており、前の通りは、「世田谷ボロ市通り」である。
●実相院 弦巻3-29-6
鶴松山實相院、勝光院の末寺。曹洞宗。
境内には木々がうっそうと茂り、森閑としている。町の中の寺とは思えない風情がある。代官屋敷のちょうど裏手あたりになるが、この辺は江戸時代の世田谷の中心だったところだ。
勝光院の末寺。開基は、吉良左兵衛佐氏朝で開山は天永琳達大和尚、1616(元和2)年入寂。
豊臣秀吉軍による小田原攻後に、九代当主氏朝は一時下総国に下ったが、再びこの地に帰り閑居した。 その閑居した旧跡が、この実相院である。
もっと詳しく:弦巻・実相院
●延命山勝光院 桜1-26-35
世田谷城主吉良家の菩提寺。江戸期には家康から御朱印寺領30石を与えられた格式の高い寺で、境内には風格ある庭木も見られる。とくに美しいのは竹林で、竹垣とあいまって品のよい雰囲気をかもし出している。
鐘楼の梵鐘は、戦争中応召されたが、鋳つぶされず、元の姿で無事戻ってきた。
勝光院は初め金谿山龍鳳寺といい、1335(建武2)年世田谷城主・治家の創建になると伝えられる。
1573(天正元)年吉良氏朝が天永琳達を中興開山として、父頼康の院号により興善山勝光院と改称し、臨済宗から曹洞宗に改宗した。
1737(元文2)年に山号を延命山に改めている。
当寺には、本尊虚空蔵菩薩坐像のほか、左右の腕を頭上に高く挙げた清水寺式の千手観世音菩薩坐像がある。墓地には、吉良氏歴代の墓のほか、幕臣の墓もある。
●世田谷城跡 豪徳寺2-14-1
世田谷城は東京都世田谷区豪徳寺及びその周辺にあった、奥州吉良氏が代々居を構えた城。
初代吉良氏が南北朝のころ、関東管領足利基氏から戦の手柄により武蔵国世田谷領をもらい受けて、築城したことが始まりといわれる。平城で、三方を塀で囲んだ防備の堅固な城であった。
現在はわずかに小高い台地の中に枯山水風の谷や小川があり、緑の茂る公園となっている。
●豪徳寺 豪徳寺2-24-7
寺の周辺は、奥州吉良氏が居館とし、1590(天正18)年の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
1480(文明12)年、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院のために「弘徳院」と称する庵を結んだ。当初は臨済宗に属していたが、1584(天正12)年曹洞宗に転じる。一説には招き猫発祥の地とされる。
鷹狩の帰りに通りかかった近江彦根藩主井伊直孝に対して寺の飼い猫が手招きをしたため、直孝はここで一休みすることにした。そして寺の住職からお茶の接待を受けている最中に空模様が悪くなり雷雨になってしまう。「猫が招いてくれたおかげでずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と直孝は喜んだ。
これが縁で1633(寛永10)年井伊家の菩提寺として伽藍を創建し整備した。直孝が没すると、直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ寺の名前を豪徳寺と改めた。
桜田門外の変で暗殺された第十五代藩主・直弼もここに眠る。
もっと詳しく:豪徳寺
●世田谷八幡宮 宮坂1-26-3
世田谷城主吉良頼康が1546(天文15)年社殿を再興させて発展させた。これが実質的な創建と考えられる。
それより以前、1091(寛治5)年、後三年の役(1083〜87)の帰途、源義家がこの宮の坂の地で豪雨に会い、滞在した。それが縁となり、豊前国の宇佐八幡宮の分霊をこの地に勧請し祀った。
境内には土俵や力石が奉納されていて、かつては奉納相撲の勝敗によって豊作・凶作を占ったり、豊作を感謝したことで、今でも毎年秋の例祭には、東京農業大学相撲部による奉納相撲が行われている。
最寄駅、東急世田谷線「宮の坂」の駅名は、この神社の脇にある宮の坂に由来している。
●今ひとつのゆかりの寺
泉澤寺 川崎市中原区上小田中7-20-5
吉良氏の菩提所として1491(延徳3)年に多摩郡烏山(現在の世田谷区烏山)に創建された浄土宗の寺院であるが、1549(天正18)年焼失したため、翌年頼康が現在の上小田中の地に移し再興した。
門前町を指定して居住者に諸税を免除し、市を開きこの地の繁栄を図った。夏の泉沢寺の市は冬の世田谷ボロ市と並び広く知られていた。
関連 : 大御所様の道・中原街道を歩く 3日目
●帰りの商店街で
この先、梅ヶ丘の羽根木公園の650本の梅林を見る予定もしていたが、まだまだ鑑賞には早いようなので、手前の小田急線豪徳寺駅から帰宅する。
関連 : 世田谷ボロ市を歩く