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あの町この街あるこうよ

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あきたこまちは茨城産?

2016-02-16 17:59:15 | 観光
東北旅行第2弾は、日本海周りとして最初の訪問地は小野小町ゆかりの地である湯沢市小野地区である。


 

小町は、公には生没年不詳されているが、この地元の伝説では、大同4(809)年に出羽郡の長である郡司小野氏の娘として生まれた。(古今和歌集にも出羽郡司娘と書かれている)
小野氏は遣隋使で有名な小野妹子(おののいもこ)を祖先とする貴族である。また、夜ごと井戸を通って地獄に降り、閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという小野篁(たかむら)の孫娘ともいわれる。そして歌人の小野道風とはいとことも云われるのだが。
生母は地主の娘とも言われ、小町を生んだ後体調をくずし早くして亡くなっている。
13歳の折り、父が都に戻るので、随行する。16歳で宮中に上がり、時の帝に更衣として仕える。更衣とは、帝の妻のうちで、皇后、中宮、妃、女御、更衣という順位の中で、小町は一番下の更衣の位であった。更衣は御殿は与えられず、建物内を屏風や几帳(きちょう)で間仕切りをした簡素な部屋で生活をしていた。その部屋を“町(まち)”と言われていたことから、小町と呼ばれるようになったのではないかと云われている。
仁明(にんみょう)天皇の更衣に、“小野吉子(おのの きちこ)”という女性がいたことが、「続日本後記」に記されており、この吉子こそが、小野小町だったのではという説がある。

36歳で小町は小野郷へ帰って来る。京では小町が居なくなったことで嘆き悲しむ者たちがいた。深草少将(ふかくさのしょうしょう)もそのひとりで、小町に思いを寄せ、遂に小町を追って身分を捨て、郡司代職として小野へ向かい、小町に想いを伝える。小町の返事は、百夜続けて自分の元に通い、亡き母の好きだった芍薬(しゃくやく)を植えてほしいという内容であった。
ここに少将の百夜通いがはじまるが、99本植えた後、満願の百日目は、暴風雨で川が氾濫し、橋ごと少将は流され、死んでしまった。
深草少将は、山城深草(京都市伏見区)に住んでいた少将という意味で本名は良峰宗貞(よしみねのむねさだ・姓は良岑とも)。出家して遍照(へんじょう。遍昭とも)といった。有名な六歌仙の一角に位置する男である。
彼の父は、平安京造営者・桓武天皇の皇子で、大納言まで昇進したエリート官僚である良峰(良岑)安世(やすよ)といった。

小町は少将の亡骸を二つ森に埋葬し、晩年は岩屋堂に篭もり自像を彫ったと云われており、昌泰3(900)年、享年92歳で亡くなる。
小町の伝承は、全国28都道府県に100箇所以上が伝わっており、其のほとんど確証がないので小野地区の話を中心にまとめた。

小野小町と深草少将が眠る場所とされる二ッ森

小町は平安時代前期9世紀頃の女流歌人。六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙の一人。
歌に関して秀でた人物で、特に百人一首で歌われた「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」はあまりにも有名。
歌の意味は、「桜の花の色がすっかり色あせてしまったと同じように、私の容姿もすっかり衰えてしまったなあ。桜に降る長雨を眺め、むなしく恋の思いにふけっている間に」とある。


百人一首のかるたなどで描かれる小野小町は、十二単を着て長い髪の姿の美人画で知られているが、これは鎌倉時代(13世紀)に描かれた佐竹本36歌仙の絵姿による影響によるもので、実際の小野小町は天女のような服装で宮仕えをしていたと思われている。そのために、その美しさは着物をとおしてして輝いていたといわれる。芍薬の花香る6月の第二日曜日に小町まつりが開催される。会場は小町の郷公園である。市内から選ばれた7人の小町娘が市女笠姿で登場し、小野小町が詠んだ七首の和歌を朗読し奉納する。
   
  

小町の郷公園












「秋田音頭」の歌詞にも『コラ、秋田の女ご何どしてきれ(い)だと聞くだけ野暮だんす (アーソレソレ) 小野小町の生まれ在所お前(め)はん知らねのげ』とあって、小町を秋田美人のルーツとして歌っている。
それだけではなく、姿かたちの美しさと心の美しさがひとつになって、はじめて秋田美人と云えるとのことだが、なるほど小町の母親は土地の人なのでその時代にも美人がいたかも知れぬ。だが、テーマの『秋田こまちは茨城産?』は、小町の時代からおよそ800年流れた徳川幕府が誕生したころの話となる。

関ヶ原の合戦の結果、徳川家康の天下となり、諸大名の国替えが行われた。
常陸国(現在の茨城県)の54万8000石の大名佐竹氏も20万5千石に減ぜられ秋田への国替え命じられた。その際佐竹の殿様は、腹いせとして旧領内・常陸国の美人全員を秋田に連れて行ってしまい、その後水戸に入府した殿様が佐竹氏へ抗議したところ、秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきたという。そこで、秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地のひとつ(ほかは仙台と名古屋)になったというお話し。
つい最近、ある歴史のTV番組で佐竹氏の末裔が登場、その際に美人の秋田へのこの話が出たが、否定はしなかった。但し積極的な肯定もなかった。

こうして?、色白で目がぱっちりとして鼻筋が通った秋田美人が生まれたとしたら面白いのだが。
下の写真、秋田県内に「ユタカな国へ あきたびじょん」のポスターとして使われているのだが、ここ、小町の郷「おがち」道の駅にも貼ってあった。


     

この美人の撮影は、昭和28(1953)年のことで、モデルは当時19歳、高校生三年生と云われる。
モデルの女性は、作品が発表されたのち、モデルの依頼が数多くあったのを断り、古典バレエの道を歩む。その後代議士秘書を務めたあと、日系二世の実業家と結婚し、ロスアンゼルスに住んでいる。いつも故郷を想い、たびたび桜の季節にはほぼ毎年、秋田へ里帰りしていていたとのこと。平成22(2010)年に亡くなられた。
この写真は、平成25(2013)年に秋田県広報室が作成した英文パンフレットの表紙にもなっている。

次の増田の内蔵見物に向かう。
訪れた日:2015年8月19日




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