あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

佃から深川に

2014-03-02 12:40:47 | 東京散策
佃から相生橋で隅田川を渡って、深川にはいる。

明治丸(東京海洋大学)
         
橋を渡り終えると3本マストの帆船が見える。
今回の散策の楽しみのひとつ、明治丸の見学である。
火曜と木曜日には見学できるはずなのに、門は閉じられていて、こんな大きな看板が貼られてあった。こんなこと聞いていないよと言っても仕方はない。
                     
明治丸と聞いても認識はなかった。調べると大きな功績(航跡)があった。
排水量およそ1,000t、全長およそ70mの明治丸は、イギリスで明治の初めに製造された動力付き帆船で、洋式灯台の建設に伴う測量やメンテナンスのための灯台巡視の業務を行った。しかし、当時の日本国内における最優秀船であったため、他にも様々な業務を行っている。
 
そのひとつとして、イギリスとの間で小笠原諸島の領有問題が生じたため、政府調査団を乗せて横浜港を出航し、イギリス国軍艦より2日早く着き、調査を進められたため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたとされている。
小笠原諸島は本土から1,000km南方にあり、このことがあって、日本の領土・領海を広く確保できたのではなかろうかと思ってしまう。また、小笠原諸島がイギリス領であったならば歴史は大きく変わっていただろう。明治丸の速力の感謝。
今ひとつは、天皇の乗る御召し船としての役目もあった。
明治天皇が北海道・東北地方への巡幸に供された際、帰途に明治丸を利用された。そして横浜に7月20日寄稿した。1941年、この日が『海の記念日』に制定された。現在では、『海の日』として祝日になっている。
1996(平成8)年から祝日となったのだが、祝日に制定する運動を何故か丹沢の山小屋のオヤジがしている。そしてはじめての祝日には何故だか、富士登山をした。不思議な人だ。
因みに現在、8月11日を『山の日』に制定する法案が国会に出されるようだ。
残念だが明治丸の見学は、また後日。

奥羽御巡幸図会  中央が明治丸

東京海洋大学
日本の国立大学では唯一の海洋の研究・教育のみに特化した大学である。
2003(平成15)年に共に120年以上の歴史を持つ東京商船大学と東京水産大学が統合し開学した。
ここ、越中島キャンパスは海洋工学部が置かれ、船舶職員の養成と東日本で唯一ロジスティクスの分野の教育と研究を行っている。ほかに、品川キャンパスがある。
         
沿道には明治中期に建てられたレンガ造りの建物がフェンス越しに見える。
          
   当時東洋一の天体望遠鏡を備えた第一観測台(左)                子午線望遠鏡を備えた第二観測台

徳壽神社と於芳神社
明治丸の見学時間の穴埋めに、本来は東に向く予定だったが、西に方向転換して、2社に参拝した。
個人の屋敷内神社に少々規模を大きくしたような神社である。
徳壽神社  江東区永代2-18-2
永代2丁目に祀られている小さなお稲荷で、富岡八幡宮の飛地境内社である。
この徳寿神社は、この地に高津家(鰹節のにんべん)の長屋があり、その掘割りに稲荷大神のご神像が流れ着き、長屋の人達によりお祀りされるようになったのが創祀と伝えられている。
永代2丁目町会の有志よって、尊ばれ信仰され、維持運営されていたが、神社の土地所有者である高津伊兵衛氏が徳寿神社の境内地及び建物を当神社に奉納し、地域の人々のために貢献したいとの申し出があり、富岡八幡宮の飛地境内社となった。
 
於芳(おほう)稲荷神社  江東区永代2-22-4 
祭神は、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)、その他由来等不明。
       

深川不動尊  江東区富岡1-17-13
1703(元禄16)年に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、1881(明治14)年不動堂が完成した。
境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがある。
この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として江戸情緒を色濃く残す深川の中心街で、納め不動(12月28日)や毎月28日の縁日では参詣者で賑わい、多くの露店が並び盛況を呈している。
 

       
芭蕉旅立乃図 奥の細道100霊場第一番所

         

深川龍神
龍神は農耕儀礼との結びつきが深く、水を司る神として古来より多くの人々に崇められてきた。龍神の霊験は顕著で、農業や水産業が豊かになることを祈り勧請された。
              
開運出世稲荷
成田山新勝寺境内に御座す「成田山開運出世稲荷」のご分霊を勧請奉祀している。開運成就のご利益があるとされる。総檜造り檜皮葺きの社殿。
         

富岡八幡宮  住所:江東区富岡1-20
富岡八幡と言えば江戸三大祭のひとつ「深川八幡祭り」3年に一度(8月中旬)本祭りが催され、50台余りの神輿に水をかけながら練り歩く連合渡御は勇壮無比で、あでやかな辰巳芸者の手小舞や粋な鳶若頭衆の木遣りが、江戸情緒を盛り上げる。
八幡宮は1627(寛永4)年、当時永代島と呼ばれていた現在地の砂州一帯を埋め立て、御神託により創建した。
6万余坪を有し、「深川の八幡様」と親しまれ、深川っこの信仰を集めている。
境内には、「深川力持碑」「木場の角乗り碑」をはじめ「横綱力士碑」「力持碑」など、深川にまつわる多くの石碑等があり、昔をしのばせる。
         

 
建久年間(1190~98)に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(横浜市金沢区富岡)の直系分社であるのだが、由来には一言も触れてはいない。逆に違いを出すかのように参道の鳥居に掲げられている扁額には「富ヶ岡」と書かれている。
                
七渡弁天社神社・粟島神社
富岡八幡宮の敷地内にある神社。
御祭神は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、八幡宮創建以前に鎮座し、八幡様の地主神。また、社殿には女性の守り神である少彦名命(すくなひこなのみこと)を祀る粟島神社が合祀されている。
 


参道脇に祀られている庚申塔

末社・花本社
御祭神は松尾芭蕉命で、寛政年間(1789~1800)、当時の俳人有志により建立された。
「花本(はなのもと)」は、西行の「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌にちなんだものともいわれるそうで、1843(天保14)年、芭蕉百五十回忌に「花本大明神」の号が贈られた。
  
                   一番左手が祖霊社と合祀されている花本社
伊能忠敬像
忠敬は近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えていたが、約200年前の1800(寛政12)年、早朝に富岡八幡宮に参拝して暇夷地(北海道)測量の旅に出かけた。その後も、遠国に出かける都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事成功を祈念した。
銅像は、背景の大きな黒御影石に刻まれた伊能日本図のあとに、55歳の忠敬先生が、杖先方位盤を手に力強く測量への第一歩を踏み出した姿である。
忠敬が制作した日本図は、非常に正確なものであり、50年後の明治維新以降は、政府に引き継がれて、近代地図の原図として尊重され、大々的に利用された。
しかも、この大仕事は、佐原の商家の主人として事業に成功したあと、49歳で隠居して江戸に出てから本格的に勉強して、始めたもの。中高年の鑑と言うべき人物であると、先頃のEテレ「知恵泉」での伊能忠敬の放送を見てそう思った。
           
銅像の隣に、国土地理院で新地球座標系による国家基準点(三等三角点)が設置されている。
            
横綱碑
歴代の横綱力士と強豪大関・雷電爲右エ門を顕彰している。十二代横綱陣幕久五郎が発起人となって、1900(明治33)年に完成。碑の裏面には、初代明石志賀之助以降の横綱力士と、「無類力士」として雷電の名が並ぶ。現在一般的な歴代横綱表は、この碑に基く。
         

                  
また、歴代の大関力士を顕彰する大関力士碑も建っている。
         

旧弾正橋(八幡橋)とその付近
八幡橋(はちまんばし)は、富岡神社の東にある八幡堀遊歩道にかかる人のみが渡る橋。鉄を主材料として造った鉄橋としては日本最古のものと言われ、国の重要文化財に指定されている。名称は橋の西の富岡八幡宮に因む。
元は現在の中央区宝町の楓川(もみじがわ)に架橋されていた弾正橋(だんじょうばし)であった。 
付近に島田弾正屋敷があったため、弾正橋と称された。当時、馬場先門から本所や深川を結ぶ主要路であったので、文明開化のシンボル的存在の鉄橋であった。
楓川は、日本橋川の兜町付近(現在の江戸橋ジャンクション付近)から南へ分流し京橋川・桜川合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)に至る河川であったが埋め立てられ、現在は首都高速都心環状線がその跡を通る。
その弾正橋も1912(大正2)年に、北側に新しい弾正橋が架橋されたため、「元弾正橋」と改称され、さらに1923(大正12)年の関東大震災後には、震災復興計画によって廃橋となる。しかし、その由緒を惜しんで現在地に移設される。当時、橋下は八幡堀という河川であったが、埋め立てられ、現在のような人道陸橋となった。
ピンの接合部には、菊の紋形の花弁装飾が施されている。
         

         
その八幡橋の西寄りに造りは新しいのだが、昭和の香りがする家が3棟建っている。ここに来たとたん、空気が変わった感じがした。表札が掛かっているが、建てた方はどんな人なのだろうか。
  

         

             

江戸三十三間堂  江東区富岡2-11 
「江戸三十三間堂」が最初に建てられたのは、浅草で、現東本願寺北西付近であった。
その後、1698(元禄11)年に発生した大火(勅額火事)で焼失し1701(元禄14)年、深川の富岡八幡宮東側に再建される。 この三十三間堂も1885(安政2)年の安政大地震でその約三分の一を失い、その後、倒壊部分は再建されぬまま、結局、1872(明治5)年に堂を有する東普門院の廃寺とともに壊されてしまう。
三十三間堂が建っていた場所は、深川数矢町といった。数矢町は明治2年起立の町で、町名は「三十三間堂が射手数矢を演じたる地なるを以って町になづくという」に因んでいる。
         

         
                    広重・名所江戸百景 第69景 深川三十三間堂

         
付近(富岡神社北)には、名残として江東区立数矢小学校がある。
         

新田橋
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かる江東区5丁目と6丁目を結ぶ人道橋である。
大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院を開業していた新田医師が妻の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、地元住民の協力でここに橋を架けた。
当初は「新船橋」と名付けられたが、人望が厚く「木場の赤ひげ先生」的な存在で、亡くなった後も地域の人から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになった。
映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は、静かに見守り続けてきた。
2000(平成12)年護岸整備により、現在の橋に架け替えられたが、架かっていた橋は八幡堀遊歩道に保存されている。
         

         

         

洲崎神社  江東区木場6-13-13
桂昌院(徳川五代将軍綱吉の生母)が崇敬した江戸城中紅葉山の弁財天を、護持院(現護国寺)隆力の進言により1700(元禄13)年に遷座して創建、当地が海岸に浮かぶ弁財天であったことから、文人墨客の参詣を集めていたという。
また、1791(寛政3)年に押し寄せた津波により、当地周辺は多数の死者行方不明者を出し、江戸幕府は当地を東北、平久橋の袂を西南とした一帯を買い上げ、居住禁止区域とした際の波除碑(津波警告の碑)が残されている。



波除碑




トイレの壁面に歌川広重の「東都名所 洲崎雪晴」の模写が描かれている


深川に関する話題
歌麿の肉筆画「深川の雪」がこのほど発見されたと、日曜日のNHKニュースで報道された。
だからなんだと云うことではないが、私が散策する地名がその度にTVや新聞で近日的な時間で話題となることが、不思議だ。
                
「深川の雪」は享和年間(1801~04)から文化年間(1804~18)年に描かれ、「品川の月」、「吉原の花」の三大作といわれ、いずれも遊郭の様子が描かれている。
「深川の雪」は火鉢を囲む人たち、奥の座敷で芸者遊びをする人たち、通い夜具と思われる大きな風呂敷包みを背負った人たちなどが描かれている。
この肉筆画は、一時パリに渡ったがその後日本に戻ってきた。1948(昭和23)年、銀座松坂屋で展示されたのち行方不明になった。
NHKニュースでは何処で見つかったか迄は報道されなかったが、箱根の美術館で公開されると云う。
資料:栃木市教育委員会


『深川』はまだまだつづく。
芭蕉や鬼平、天才剣士・居眠り磐音が登場する。



                         関 連 : 佃・月島を歩く

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