参道を100mほど進み右手に山王社と稲荷社の小さな祠がある。
その先300mほどゆるやかな坂を上ると「六道の辻」にぶつかる。周辺は今も農地になっているが、山王社はその農地を開墾するにあたり安全祈願等のために祀ったものである。
社の貼られた沿革によると、
『創建はさだかではないが、江戸時代の初期、慶安年間(1648~52)より承応年間(1652~55)頃、徳川家康(1543~1616)の家来で旗本石川六左衛門は自らの石高を補う為、瀬野(現在の瀬谷)と和泉の間に荒地を見つけ石川家の役所(名主)上矢部村(現在の戸塚区上矢部町)の佐藤家の郎党数名(佐藤一族)が第一陣として入植させ和泉境より開墾をはじめる。まず心のより処として佐藤家の割り当てた処に山王社の祠を建て工事の完成、五穀の豊饒、家内安全等を日夜祈念したと思われる。
その後石川家の領地から石井、広瀬、山中の一族また上矢部の付近から岩崎、小川等が続々と入植し畑の耕地が出来上がったのが元禄年間(1688~1704)頃、当時の宮沢の中心に村社として神明社を奉戴される。
山王稲荷社は宮沢村の最古のお社です。先祖の方々のご苦労が忍ばれます。
明治の新政府の方針で神仏の資産没収を免れる為、佐藤家の名義にしたので難を免れた。』
(注:慶安年間~承応年間時代の将軍は三代家光と四代家綱
また、沿革の内容が少々変更されている)
山王社 稲荷社
横浜市名木古木「アカアガシ」 樹齢170年
例祭は昭和初期までは湯花神楽が奉納されており、開墾と湯花神楽の話は瀬谷の民話に『宮沢の開墾と湯花神楽』という題で残されている。
《民話・宮沢の開墾と湯花神楽》(『瀬谷の史跡巡り』より)
江戸時代の初めのことです。上矢部村に石川と名乗る武士がいました。あるとき、三軒の家に対して新しい土地の開墾を命じました。
その開墾は大事な仕事で、皆は朝は暗いうちに起きて木を伐り倒し、根を掘り起し、夜は月や星の光をたよりに草を刈り取って一所懸命働きました。
こうした作業の甲斐もあって、いつか田畑も増え、分家も十数軒になりました。そこで、人々はこの土地に農耕の神を祭り、春には豊作を願う神楽を奉納することとなりました。
これが、宮沢山王社の湯花神楽です。開墾の当時をしのんで、氏子たちは、山王様の境内に、切った野芝を積み重ねてかまどを作り、大釜を乗せてお湯を沸きたぎらせます。やがて、あたりに湯気がもうもうとたちこめるなか、神の使いとなった神主が天狗の面をつけて、のしのしと現れます。
いよいよ神主が、四方から幸運の矢を放つ頃になると、神事も最高潮に達し、熱湯の湯気をくぐりぬけてくるその矢を拾って、この年の幸運に恵まれようと夢中になったということです。
この神事も、今は見ることができなくなりました。
【参考】阿久和・熊野神社の湯花神楽
宮沢村の村社として山王稲荷社からおよそ300m北に神明社を鎮座した。
神明社
訪れた日:2020.03.16