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八戸義経伝説を訪ねて

2016-03-20 14:22:53 | 観光
                 〈平泉・義経堂 2014.9.28〉
義経は、平泉・高館で自害せず、密かに脱出したと云う伝説が東北各地に広がっている。
その中で今回旅した八戸市を中心に青森の義経伝説を探った。

脱出後、義経一行は岩手県久慈市の侍浜(さむらいはま)から海路で北に向かった。
義経一行の青森での第一歩は、この神社の近くである現在の種差海岸上陸したと伝えられる。
1.熊野神社
同神社は、種差海岸から数百メートル山手にはいったところである。
 

種差海岸上陸後、義経が一時かくまわれていた場所が大字白銀町字源治囲内(げんじかこいない)という地名で残っている。
そこから一行は新井田川を遡り現在館越山と呼ばれている地に移動する。そこに館を建て1年余住んだ後、高館に移動する。
高館に引っ越したことで、住んでいたところの地名は「高越」と呼ばれ、次の「高館」の地名は、先の館越山より高くて見晴らしがよい場所であった意味でそう呼ばれている。
2.小田(こだ)八幡宮
この神社は高館山の麓に位置する。
義経が写経したと云われている大般若経が保存されており、京都から持参していた毘沙門天を安置する毘沙門堂を建てたと云われている。毘沙門天は北方を守護する軍神である。
入り口の楼門には義経ゆかりの笹竜胆と源氏車の紋がはめ込まれている。
また、義経がこの周辺に田んぼを段々に開いたことから、「小田(こだ)」と命名されたといわれている。
 

          

 

 
高館付近に義経が暮らしたのは、4年ほどと推測される。

3.おがみ神社
義経は正妻・北の方(京都の公家、久我(こが)大臣の娘)を伴ってここまで逃げ延びて来たのだが、元久2年(1205)にその正妻が亡くなった。亡骸を当時京ケ崎と呼ばれていた地に葬ったと云われていて、その地が現在はおがみ神社になっている。同社にはその正妻・北の方が使用したと云われている手鏡が保管されている。また、義経北行伝説を記した「類家稲荷大明神縁起」が伝えられている。
          

 

 

4.長者山新羅神社
義経が藤原秀衡死後、脱出先を探るため、家臣の板橋長治を八戸に派遣したと云われている。その板橋は、市中心部の小高い丘に居を構えたと云われており、当時は長治山と呼ばれていた。そこに、長者山新羅神社(ちょうじゃさんしんらじんじゃ)が建立されている。
周辺には、板橋長治にちなんだ「板橋」という地名や、米の糠を捨てた場所ということから名づけられた「糠塚(ぬかづか)」という地名が残されている。
 

 

5.藤ヶ森稲荷神社
京都の稲荷神社を日頃信心していた義経は、家来の常陸坊を京都へ派遣し、藤ヶ森稲荷神社を勧請し、自ら神事を執り行ったと云われる。
 

八戸市にはそのほか多くの義経伝説が残っている。
6.三八城神社の弁慶石
三八城(みやぎ)神社には力自慢の弁慶の足跡が刻まれていると云われいる「弁慶石」が現存している。また、現在は行方不明であるが、「義経石」と云われる石もあったと。
「弁慶石」とは、一目惚れしたオナツという娘と巡って弁慶が、村の若者と力比べをした時に放り投げた岩と云われている。

7.帽子屋敷
義経が、藤ヶ森稲荷神社に来た際に、烏帽子を掛けたといわれたことから、その一帯が帽子屋敷と命名されている(現在の類家2丁目付近)。なお、現在は芭蕉堂公園になっている。

8.矢止めの清水
義経が、高館からどこまで遠くへ矢を放つことができるか弁慶に命じたところ、4km先の馬淵川を越えて刺さり、その矢を抜くと水が湧き出たことから、そこを矢止めの清水と云われている。

9.ほたる崎
高館に住んでいた義経が、蛍が飛び交う姿に興味を持ち、現在の八太郎山の東端を「ほたる崎」と名付けたと云われている。

義経主従一行八戸から蝦夷地に向かうため県内を点々ととしており、義経伝説は続いてゆく。
その後の義経一行は各地に残る言伝えから、現在の国道4号線沿いを北上したようで、青森市では貴船神社、善知鳥神社に立ち寄ったと云われている。
10.貴船神社
大同2年(807)、坂上田村麿の勧請と云われるが、義経伝説では、義経が蝦夷地へ渡海する時に、家来の鷲尾経春が京都鞍馬の貴船明神を勧請し、その無事を祈ったとも伝える。また、義経を慕って河内の国から追いかけてきた浄瑠璃姫は、この地・野内で義経と再会する。しかし、長旅の疲れから病に倒れたため義経は家臣の鷲尾三郎経春に看病を命じ、この地を後にしたと伝えられる。
この伝説が刻まれた石碑が、以前は山頂の公園に建っていたという。



義経は貴船神社に渡海の安全祈願をした後、善知鳥村(うとうむら)に向かう。善知鳥村は青森市の古名。
11.善知鳥神社
善知鳥村附近一帯は広々とした原野だったので、義経は七戸通平沼(現在の六ヶ所村平沼)から供をしていた橋本与兵衛に、この地に留まって開拓するよう告げた。与兵衛はその通りここに留まり、荒野を開拓してその地を支配し、この地を橋本と名付けた(青森市の中心部)。義経が隠れ住んだ土蔵も以前はあったと云われる。
善知鳥神社は、貴船神社同様、大同2年(807)、坂上田村麿の勧請。義経はこの神社にも参拝したと云う。





12.十三湊
当時は奥州藤原氏三代目秀衡の弟である秀栄が、十三湊の有力豪族安東氏の養子となって治めており、義経はそこに立ち寄った。
十三湊は奥州平泉の北の玄関港だったとも云われる。

               十三湖を望む・・この辺りに中世から近世にかけて天然の良港・十三湊があった

一行は津軽半島の突端、竜飛岬に向かう。
13.義経寺
津軽半島の突端までやって来た義経一行は、ここから渡海しようとしたが海は荒れ狂い、不可能であった。そこで海を静めるために義経は、母の常盤御前から授けられた正観音像を三日三晩祈り続けると、満願の朝、白髪の翁が現れ3頭の白い竜馬を授けると話す。そして一行は、その竜のごとき馬に乗って北海道へ飛び渡ったという。3頭の馬が、3つの岩の馬屋(厩)につながれていたことから、この地を三厩(みんまや)と呼ぶようになり、津軽半島の突端から義経一行が北海道目指して飛んでいったので、その地を竜飛岬と名がつけられた。





義経関連の碑と村名の記念碑


地名の起源ともなる伝説の三頭の龍馬がつながれていた厩岩(まやいし)

蝦夷へ渡った義経一行はその後、大陸へ渡り、チンギス・ハーンになったという伝説へとつながっていく。
その蝦夷地では、日高地方の平取(びらとり)町の小高い丘に、義経神社が建立されている。
御神体は「ハンガンカムイ」、つまりは義経である。その設立は江戸時代にさかのぼるようだ。
義経がこの地を訪れ、アイヌ民族に農耕や舟の作り方、海上の操法、機織りの技術を指導したと伝えられている。
義経伝説は一本の線で平泉から蝦夷地までつながっている。しかも地名まで残っている。
そうなると平泉で亡くなったのは、影武者だったのかと思いたくもなる。

訪れた日:2015.8.22、24



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