この付近一帯を治めていた吉良氏は、中世後期の室町時代には、この蒔田の地で「蒔田御所」と称せられた館を構え、足利将軍家の一族として諸侯から一目置かれる存在で「蒔田御所」「蒔田殿」などと呼ばれていた。
その後、戦国時代には小田原北条氏三代当主・氏康の娘婿となり小田原北条氏と姻戚関係を持った。
●丘陵城郭
蒔田城のあった場所は、現在の横浜英和学院校地で、城の形は土塁や空濠をめぐらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものである。
本丸は学院の礼拝堂辺りで、その南に天守台があったとされる。
●馬場谷
蒔田の森公園一帯は当時、蒔田城の馬場があったと云われ馬場の森、馬場谷(ばばやつ)と呼ばれていた。
■蒔田の森公園
かつての馬場谷、蒔田の森公園は、森家が所有していた宅地跡(0.6ha=1,815坪)を横浜市に1997(平成9)年に寄贈したもの。
■辰巳の門
鎌倉時代からここに、森家の表門「辰巳門」が設置されていた。
門は4本の柱とかやぶきの屋根で構成。
第二次大戦時に焼失し、礎石のみが残っている。
●吉良氏の菩提寺・勝国寺
寺の由来は、
1479(文明11)年に吉良政忠が父の供養のため開基建立したとある。開山は武蔵国一帯に禅風を挙楊した天永琳達大和尚。元禄時代には、諸堂伽藍、鐘楼等を配していた時代もある。
寺の解説では、「吉良政忠一族の墓」と書かれている吉良家供養塔の五輪塔は4基あり、最も大きなものは高さ102cm。
開基の政忠のものとおもわれる1基には、正面に「祖師西来」、台石に「政忠塔」、裏面に「照岳道旭大居士」「文亀二年六月十七日」と刻まれている。
●1569(永禄12)年 武田信玄蒔田城を攻める
武田信玄が小田原を攻撃する際は、同時に蒔田城も攻撃した。
では、信玄は何処からどのように攻め入ったか、3つの資料を結び合わせてそのルートを推測する。
■資料1
江戸に攻め入った武田信玄が、品川を焼いて一転敷いて小田原を襲う構えを見せた。
北条方は六郷の橋を焼き落として甲州勢を通さず(小田原記)。
■資料2
武田信玄の小田原攻めの際の記録に、『矢口の渡しを船にて稲毛の平間という所に渡り』とある。
■資料3
本隊は相模川沿いに南下して小田原城を直撃し、支隊は多摩川沿いに川崎から横浜市港北区方面に進撃してきた。
蒔田城の吉良勢は大挙して駿河方面に出撃しており、蒔田城は守備の手薄な城になった。
それを知った青木城の軍勢が蒔田城に籠り、武田勢の攻撃を防いだという。
この3つの資料に出てくる品川、平間、川崎から横浜市港北区のポイントを結び合わせるルートとして先日散策した平間街道(池上道)を利用したことが無理のない考えだろう。
今回蒔田城を訪れたのは、横浜市のある資料館の主催で行われたの歴史散歩の一環である。その中で武田軍の蒔田城攻めの説明は出なかったが、渡された資料を4つ目の資料とすると、
■資料4
武田信玄が小田原城を侵攻した際、片倉・観太寺(かんだいじ・現神奈川区)の筋違いにある帷子(かたびら・現保土ヶ谷区)と言う場所を通過した。(小田原記)
4つ目の資料にある帷子は、平間の渡しから平間街道がふたつに分れ、その一方の終点にあたる。
そこで、4つ目の資料によって武田信玄をはじめとする武田軍は平間街道を利用した事は確実となった。
何を云いたいかと云うと川崎の工場のベッドタウンでもある変哲のないわが町・平間も歴史をひもとけばすごい歴史があることを云いたい。
そしてわが家の前の道を甲冑の音を立ててそのむかし兵士が侵攻したことを創造するのも楽しい一刻になる。
ここで資料に出てくる『小田原記』とは、小田原北条氏の台頭から滅亡に至る五代の歴史、すなわち鎌倉幕府滅亡の1333(元弘3)年頃から1590(天正8)年までを隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物語で作者は不詳である。
その後の蒔田の吉良家は1590(天正18)年の豊臣秀吉小田原征伐の戦いで小田原北條氏が滅亡した以後、下総に逃げて、のちに徳川家に仕え、世田谷に1,120石を与えられた。
そして、代が変わると吉良を蒔田姓に改めため、吉良氏は廃姓となる。
●歴史散歩コース
歩いて学ぶ・歴史散歩の今回のテーマは『海辺の地・蒔田周辺を歩く』と称し、サブテーマが『蒔田湊の可能性と吉良氏の存在を探る』である。
■《コース》
吉野駅――吉野橋(中村川)――日枝神社――大岡川――蒔田公園――井戸ヶ谷橋――井戸ヶ谷井戸ヶ谷事件碑・庚申道標――杉山神社――蒔田の森公園――勝国寺――蒔田伊勢山公園――子(ね)の神神社――宝生寺――天神橋(解散)
その後、戦国時代には小田原北条氏三代当主・氏康の娘婿となり小田原北条氏と姻戚関係を持った。
●丘陵城郭
蒔田城のあった場所は、現在の横浜英和学院校地で、城の形は土塁や空濠をめぐらした簡単なもので、丘陵城郭と呼ばれるものである。
本丸は学院の礼拝堂辺りで、その南に天守台があったとされる。
横浜英和学院に続く坂 学院の西手は大岡川が流れ、遠くまで見渡せる要害の地の感触
●馬場谷
蒔田の森公園一帯は当時、蒔田城の馬場があったと云われ馬場の森、馬場谷(ばばやつ)と呼ばれていた。
左の画像では奥が 右の画像では左手が城であった
■蒔田の森公園
かつての馬場谷、蒔田の森公園は、森家が所有していた宅地跡(0.6ha=1,815坪)を横浜市に1997(平成9)年に寄贈したもの。
■辰巳の門
鎌倉時代からここに、森家の表門「辰巳門」が設置されていた。
門は4本の柱とかやぶきの屋根で構成。
第二次大戦時に焼失し、礎石のみが残っている。
《註:宅地の広さは様々のデータがあったので横浜市南区の数字を使用 所有の森家については不明》
●吉良氏の菩提寺・勝国寺
寺の由来は、
1479(文明11)年に吉良政忠が父の供養のため開基建立したとある。開山は武蔵国一帯に禅風を挙楊した天永琳達大和尚。元禄時代には、諸堂伽藍、鐘楼等を配していた時代もある。
寺の解説では、「吉良政忠一族の墓」と書かれている吉良家供養塔の五輪塔は4基あり、最も大きなものは高さ102cm。
開基の政忠のものとおもわれる1基には、正面に「祖師西来」、台石に「政忠塔」、裏面に「照岳道旭大居士」「文亀二年六月十七日」と刻まれている。
●1569(永禄12)年 武田信玄蒔田城を攻める
武田信玄が小田原を攻撃する際は、同時に蒔田城も攻撃した。
では、信玄は何処からどのように攻め入ったか、3つの資料を結び合わせてそのルートを推測する。
■資料1
江戸に攻め入った武田信玄が、品川を焼いて一転敷いて小田原を襲う構えを見せた。
北条方は六郷の橋を焼き落として甲州勢を通さず(小田原記)。
■資料2
武田信玄の小田原攻めの際の記録に、『矢口の渡しを船にて稲毛の平間という所に渡り』とある。
(川崎市発行川崎市地名辞書)
■資料3
本隊は相模川沿いに南下して小田原城を直撃し、支隊は多摩川沿いに川崎から横浜市港北区方面に進撃してきた。
蒔田城の吉良勢は大挙して駿河方面に出撃しており、蒔田城は守備の手薄な城になった。
それを知った青木城の軍勢が蒔田城に籠り、武田勢の攻撃を防いだという。
(横浜の戦国武士たち)
この3つの資料に出てくる品川、平間、川崎から横浜市港北区のポイントを結び合わせるルートとして先日散策した平間街道(池上道)を利用したことが無理のない考えだろう。
今回蒔田城を訪れたのは、横浜市のある資料館の主催で行われたの歴史散歩の一環である。その中で武田軍の蒔田城攻めの説明は出なかったが、渡された資料を4つ目の資料とすると、
■資料4
武田信玄が小田原城を侵攻した際、片倉・観太寺(かんだいじ・現神奈川区)の筋違いにある帷子(かたびら・現保土ヶ谷区)と言う場所を通過した。(小田原記)
4つ目の資料にある帷子は、平間の渡しから平間街道がふたつに分れ、その一方の終点にあたる。
そこで、4つ目の資料によって武田信玄をはじめとする武田軍は平間街道を利用した事は確実となった。
何を云いたいかと云うと川崎の工場のベッドタウンでもある変哲のないわが町・平間も歴史をひもとけばすごい歴史があることを云いたい。
そしてわが家の前の道を甲冑の音を立ててそのむかし兵士が侵攻したことを創造するのも楽しい一刻になる。
ここで資料に出てくる『小田原記』とは、小田原北条氏の台頭から滅亡に至る五代の歴史、すなわち鎌倉幕府滅亡の1333(元弘3)年頃から1590(天正8)年までを隣接諸大名との関係を中心に記述した軍記物語で作者は不詳である。
その後の蒔田の吉良家は1590(天正18)年の豊臣秀吉小田原征伐の戦いで小田原北條氏が滅亡した以後、下総に逃げて、のちに徳川家に仕え、世田谷に1,120石を与えられた。
そして、代が変わると吉良を蒔田姓に改めため、吉良氏は廃姓となる。
関連 : 平間街道を歩く
●歴史散歩コース
歩いて学ぶ・歴史散歩の今回のテーマは『海辺の地・蒔田周辺を歩く』と称し、サブテーマが『蒔田湊の可能性と吉良氏の存在を探る』である。
■《コース》
吉野駅――吉野橋(中村川)――日枝神社――大岡川――蒔田公園――井戸ヶ谷橋――井戸ヶ谷井戸ヶ谷事件碑・庚申道標――杉山神社――蒔田の森公園――勝国寺――蒔田伊勢山公園――子(ね)の神神社――宝生寺――天神橋(解散)
中村川 日枝神社 堰神社境内の石仏
大岡川分岐 蒔田公園の保育園児 新設の井戸ヶ谷橋
井戸ヶ谷事件碑と庚申道標 杉山神社 横浜中心部夜景スポットの蒔田伊勢山公園
子之神社 蒔田村と堀之内村の境道 宝生寺