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牛込の獅子舞

2013-10-15 21:10:42 | 神奈川民俗芸能
神奈川県・横浜市指定無形無形民俗文化財
牛込の獅子舞


先週の川崎市宮前区菅生の初山獅子舞に引き続き、今週は横浜市青葉区に祀られている驚神社の牛込の獅子舞を見物に行った。

         

牛込とは、現在の横浜市青葉区美しが丘、あざみ野や新石川と言った地域の旧名で、江戸時代にさかのぼると、武蔵国都筑郡石川村で小字に牛込の地名がある。
その石川村は徳川二代将軍・秀忠の正室・江姫の化粧料地となっている。江姫が亡くなった時は、石川村など化粧料地の村々から、江姫の棺を担ぐ人々が結集したと云う。その後は芝・増上寺の御霊屋領(みたまやりよう・徳川家の菩提を弔うための費用を賄うための領地)になった。
旧石川村の金剛山満願寺(青葉区あざみ野4-27)には、江姫と、夫・秀忠の位牌が安置されている。

驚神社の由緒によると、創立は不詳だが奈良時代に造られたとの伝承があり、石川牧の鎮守と云われる。その当時のこの地域は、一定地域の農民が共同で使用した秣(まぐさ)を刈り取る草地であって、御料牧場もあり、朝廷に献上する馬を飼育していて、馬が大事にされていた。
秣場は、1939(昭和14)年、横浜市に合併当時まで残っており、直線コースで200mぐらいの競馬場もあって、第2次世界大戦前まで草競馬も盛んに行われていたとも云われる。
神社前の道は鎌倉街道にあたり、鎌倉時代には、源頼朝の名馬・するすみと畠山重忠の名馬・三日月もこの石川村から献上されたと伝えられる。
石川村は、名馬が生産された場所から「馬を敬う」の二字を合成して「驚」となったという社名の由来もある。
漢字と云うものはうまくできているなとつくづく思うが、逆に「驚」には、「馬を敬う」意味合いが全くないことも不思議である。
話は逸れるが「峠」と云う漢字、これは日本(大和国)で生まれた文字だが、漢字の造り方も意味合いもそのものズバリだと思う。こんな漢字も造られているのだから不思議だ。漢字は中国からの伝来ばかりではなく、日本で想像した文字もあった。
         
      
そういった歴史を背景の地域に、牛込の獅子舞が神社に奉納されている。
神社にたてられている市教育委員会の説明によると、
『この獅子舞は関東・東北・信越地方に分布する一人立ち三頭獅子舞の横浜における代表的な存在。約300年前、元禄年間の悪疫流行の際に始まると伝えられている。
獅子頭は三個で、剣角(けんかく)と巻角(まきつの)を持つ雄獅子二個と宝珠(ほうじゅ)を戴く雌獅子一個である。鶏の羽で飾り、赤い布が垂れている。
獅子の舞手三人は裁著(たつつげ)・白足袋・草履履きで締太鼓を胸につけ、バチを打ちながら舞う。その他に、はい追い(幣負い)、ササラ子、万灯持、小万灯持などの役目が加わる。
この他にホラ貝三人、笛数人、歌上げ数人は大人で古老があたる。
当日は獅子宿で支度をして、道行きの曲に合わせて神社まで練って行き、神前に祭詞を述べてから曲に合わせ三角形になったり、一列になったり、また円形になって舞う。』
とある。





舞は道行(みちゆき)からはじまる。
幣負い(へいおい)が大万灯を従え参道の階段を上がり境内に入る。
『ヨイヤサノ、コレハイサ、ドッコイサ』の掛け声をかけながら拝殿前まで進む。
祝詞(のりと)を奉上すると三匹の獅子舞い開始される。
 
         
五穀成就、天下泰平、悪霊・疾病退散を願って舞う。
前半は岡崎、入庭(いりは)、御舞(みまい)、舞つめと、笛によって各曲が流れて三匹の獅子と幣負いが舞う。
         
         
         
         
         
間に休憩が入り後半は、歌も交る。
『わが国でわが国で、雨が降る気で雲が立つ。おいとま申していざ帰られる。おいとま申していざ帰られる。』で最後の舞となり、ホラ貝の音を合図に終わる。
         
         
         
         


牛込の幣負いは天狗の面を以前は被ったが最近は持つようになった

舞終えると祭神に向かって礼をしたあと、ホラ貝に導かれながら、大万灯持ち、小万灯持ち、ササラ子、笛方、獅子、笛方たちの順で列をなして、ゆっくりと屋台が立ち並ぶ細い参道を降って、神社前の鎌倉街道へと出てゆく。



舞に合わせて演奏するササラ摺であるが、簓と書くが、風流系の獅子舞などで使用する楽器のこと。
ここで使用しているササラは、先を細く割ったササラ竹と、のこぎりの歯のような刻みをつけた棒のササラ子とをこすりあわせて音を出す棒ザサラ(摺ザサラ)タイプである。 余談であるが、富山のこきりこ節で使用されるのは、板を連ねたビンザサラと云われる。また、北海道の冬の風物詩でもあるササラ電車もこれを応用したものだ。
  
         

神社下の通り、鎌倉街道では保木、平川、荏子田、船頭、宮元の各谷戸から旧村社に大太鼓、お神輿、お囃子連が繰り出している(獅子舞終了前には終わっている)。



         
         
          

牛込の獅子舞は、丘陵を隔てた川崎市宮前区菅生神社の初山の獅子舞と芸態や歌詞が酷似しており、18世紀中頃に移入されたと推定さているが、印象は全く別の獅子舞と受けた。
それは、牛込獅子舞にはササラ摺、大万灯や小万灯が加わって、土俵のないところで舞うと云う相違点もあるが、画像を比べると判るのだが、役目の多さの違いだけではなく、全体の色彩の鮮やかさと云う視覚に訴え華美な印象を大きく受けたことによる違いが大きい。
初山の獅子舞の移入の時期が元禄時代と云う時代背景で大きく変わったのではないかと素人ながら感じた牛込の獅子舞である。
ただ、舞の形は初山の獅子舞よりも単調と感じ、雌獅子をめぐって2匹の雄獅子が争う絡みもこの舞にも表現されているとのことだが、それは感じ得なかった。


牛込の獅子舞は、新石川の驚神社で日曜日に、その前日の土曜日には驚神社から1km北西に祀られている神明社の宵宮で神前に奉納される。
更に400mほど先に江姫と夫・秀忠の位牌が安置されている満願寺もある。
         


                           関連 : 初山の獅子舞