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あの町この街あるこうよ

歴史散策まち歩きの記録
たまに丹沢・大倉尾根を登る

愛宕古道街道灯しと千灯供養

2016-08-29 16:42:42 | 京都


愛宕古道街道灯し
             清涼寺                               愛宕神社・一の鳥居(嵯峨鳥居本)
嵐山の渡月橋から北に1kmほどの清涼寺から赤鳥居が建つ嵯峨鳥居本を竹製の灯篭を並べ「愛宕古道街道灯し(あたごふるみちかいどうとぼし)」というイベントがあだし野念仏寺の千灯供養に合わせて8月23~25日の日程で20年前から行われている。
               
初日の行事なのか八体地蔵尊から平野屋の前の愛宕神社・一の鳥居までの500m余りをひょっとこ踊りと子供たちの提灯行列が行われた。

スタート付近に祀られている八体地蔵尊






おさなごのひょっとこ踊りが可愛らしい








最終地の愛宕神社・一の鳥居

 
近くの嵯峨美大生がデザインした手刷りのTシャツ

竹灯篭




    







あだし野念佛寺・千灯供養
2年ぶりのお参りとなった。前回は近くの福知山では冠水被害を受けたほどの豪雨の夜であった。こんな雨でも行うのかと訪ねると仏事だから開催すると答えられたことを覚えている。
今年は『○○暑い日』の夕刻であった。









毎年地蔵盆の夕刻、念佛寺の境内に祀られた多くの無縁仏にろうそくを供える行事である。この地域は古くは風葬の地であって死者の供養のために石仏が祀られていた。その石仏も時代の変化によって埋没されたが、明治の中頃になってまとめられ、千灯供養がはじめられた。

訪れた日:2016.8.23

義経の聖地・鞍馬山から川床・貴船へ

2014-09-09 17:48:21 | 京都
京都旅行の最終日、朝7時前にホテルをチェックアウト、市バス、京阪、叡山電車を乗り継いで、鞍馬駅に着いたのは9時前であった。
今回載った電車の内、この路線だけが、プリペイド型電子マネー(ICカード)使えず、市バスも利用できる関西エリア特有の磁気カードで支払った。磁気カードとは、以前JRが発行していたカードと同じで、使用明細がカードの裏に磁気で記載され形式だ。
鞍馬駅に降り立った観光客は4組7人であった。ひとつ手前の貴船口では、川床の料亭従業員だろう、若い女性が数人下りた。
駅前の店は時間が早かったので、皆閉まっていた。
すぐに鞍馬山の三門、仁王門に着く。
          

 
右手はケーブル駅、左の参道を歩いて由岐神社に向かう。
この神社は、もとは鞍馬寺の鎮守社であった。10月22日に行われる「鞍馬の火祭り」はこの神社の祭礼である。
 

          

由岐神社の先、四脚門までを九十九折(つづらおり)と呼ばれ、清少納言の『枕草子』に「近うて遠きもの、くらまのつづらおりといふ道 」と書かれているそうだ。
また、愛と光と力の像「いのち」が参道脇にたっている。
四脚門はもともとは、仁王門の脇にあった、勅使門であった。
 

 

四脚門を過ぎて石段を上がりきると鞍馬寺金堂となる。鞍馬山は霊山として知られ、密教による山岳修験の場として栄えた。
鞍馬山の古名を暗部山と呼ぶ説がある。暗い場所を意味する「暗部(くらぶ・闇部)」が転じて「鞍馬」になったとか。
中腹に770(宝亀元)年、毘沙門天を本尊とした鞍馬寺が創建された。また、天狗と出合う、牛若丸(後の源義経)修行の地として有名である。
          

奥の院に向かう道筋に霊宝殿があり、毘沙門天三像が安置されているので、拝観する予定であったが、生憎の月曜休館日であった。調べが足りなかった。
でも、有難いことにTVK「京都 国宝浪漫」の番組で鞍馬寺の放送が昨日あって、鞍馬寺の国宝・毘沙門天三尊像を拝見できた。ラッキーなことで、その上、境内の紹介があって、大変参考になり、このブログを加筆した。
 
 
 

「義経公背比石」辺りが参道の頂上である。義経16歳、奥州平泉に下る際に、名残を惜しんで背丈を比べた高さ120cmの石である。
これを過ぎると参道は大きく下り、僧正ヶ谷不動堂近くの義経堂に至る。牛若丸と鞍馬天狗が出会い、その後壇ノ浦の合戦などで見られた、不思議なほどのジャンプ力を修練したところといわれる。
   
          
義経堂には幼名「遮那王尊」として祀られている。
その先は、地面が堅く、木の根がむき出しとなる「木の根道」が続き、「奥の院・魔王殿」に辿る。金星から降り立った魔王が祀られているとも伝えられる。
剃髪の青年が瞑想していた。
 

 

ここを過ぎると貴船の西門まで下りの連続である。その途中で1頭の雌鹿に出会った。丹沢では珍しくないが、鞍馬山ではどうだろうか。
 

          

西門を出ると貴船川が流れており、一気に涼しさを感じた。ここまで、ゆっくる歩いて1時間余の行程だった。天候不順で湿度が高く、汗びっしょり。秋に訪れたら紅葉で素晴らしいのだろうに。

貴船川沿いの道をやや上ると左手に貴船神社・本宮がある。鞍馬寺は、参拝客をほとんど見かけなかったが、神社境内は若き女性で一杯だ。それもその筈、ここは縁結びの神社である。
創建は不明だが、1300年前には既に社があったといわれる。土地の名は「きぶね」であるが、神社は「きふね」ということだ。それは、水の神様だけあって『濁らない』ということだ。
古くは「黄布禰」と記したが、「黄船」「木船」「木生嶺」「気生根」などの表記が見られる。1871(明治4)年、「貴船」で統一された。
          

           
平安時代初期の嵯峨天皇(786~842)時代、日照りが続き農作物に被害が出たので降雨の祈願をするために勅使を遣わされた。以後もしばしば祈願のため、日照りが続くと「黒馬」を、長雨には「白馬」を献上することで雨乞い・雨止みの祈願をされた。このことが「絵馬」の発祥という。
          
 

          

下の石庭は、全て貴船川の石で石組みされて、船の形をしている。
玉依姫が、浪速の沖から水源地を求めて、黄色の船に乗ってこの地に来られたとの伝承に因んでいる。
  
やや早いが、石垣に秋の花、秋海棠(しゅうかいどう)が咲き始めている。鮮やかなピンク色をしている。

神社を後に貴船川沿いの道を歩く。道沿いには川床を配した料亭が数軒並んでいて、川床に配膳している光景が見える。
  

          

           
川床は、京都盆地の蒸し暑さより5~10度涼しいという。
はじまりは、鴨川の川床よりは新しく大正時代になって、暑さしのぎに茶店が貴船川に床机(しょうぎ・=折りたたみしこ簡易腰掛)を置いたことが起こりだという。


化野の念仏寺の千灯供養

2014-09-07 09:51:38 | 京都
この地は、東の鳥辺野(とりべの)、北の蓮台野(れんだいの)とともに、西の化野は平安から鎌倉時代にかけて風葬の地であったといわれる。それらの土地に放置されたままの無名の遺骸を、弘法大師(空海)が埋葬し、弔ったことが化野念仏寺の始まりともされる。明治中頃になって、周辺の墓石や石仏を1カ所に集めて、無縁仏を供養するようになったのが千灯供養のはじまりという。賽の河原を模した「西院(さい)の河原」と名付けた、石塔や石仏およそ8,000体の無縁仏に無数のロウソクをともして供養する。これが宗教行事である千灯供養である。
法要は、僧侶によるスピードある般若心経の読経で始まった。東日本大震災で犠牲にあわれて方々、そして平成26年8月豪雨災害のよって各地で亡くなられた方々も含めた法要が行われた。また、西院の河原に祀られた多くの石仏も、さかのぼれば縁のあるものと思って、ろうそくを供えよという。



僧侶が西院の河原を巡って供養が開始された

















画像は明るく撮れているが現地のムードを出すために編集した

化野念仏寺千灯供養といえば、フジTV「赤い霊柩車」のプロローグで片平なぎささんが葬儀について語るシーンに使われている。
それと同じ、幻想的なろうそくの明かりの中に立つ。思ってもみなかったことだった。これで、初回番組当初の若きなぎささんのような浴衣姿の女性のシルエット写真が撮影できれば、いうことなしだったのだが、時折強く降る天の中では、浴衣姿はおろか、傘を持っての撮影ではどうにもならない。新聞には、前日は降雨であったものの傘をささない浴衣姿の家族の写真が載っていた。雨の確立70%の予報だったはずなのだが。
それに引き換え、今日は本降り。ホテルに戻ってテレビで知ったのだが、京都市の周辺、京都府福知山市や大阪府池田市で豪雨が降ったことを報じ、直ぐ近くなのに降りが違うことに驚いた。福知山市にあっては、その前の週の週末も被害にあっているところだ。
ただ、2日目のこの日は、長い間西院の河原の1ヵ所に佇む、姉妹なのか親子なのか、ひとつの傘にはいったふたり連れの女性が印象的だった。ここは賽の河原、霊界との接点であり、亡くなられた人たちを泣き悲しんで供養する場所。おふた方もそんな思いでいたのであろう。
いつもは2000人が献火来場しているそうだが、雨のため半分もいないようだ。
同じ京都の寺院でも他のお寺と異なる独特の雰囲気がこの念仏寺にあるようだ。特に2日間の地蔵盆であっては、なおのこと。
 

帰りは嵐山線で四条大宮に出た。電車が丁度太秦を過ぎた辺りで、この中吊り広告が目に入った。    
          
「五万回切られた男」東映撮影所所属の下積みの彼にとってはこの映画は大きな勲章のようなもので、50年間映画界に存在したことは尊敬する。
同じ東映の下ずみ俳優グループに「ピラニア軍団」のなる集団がいたこと覚えている。福本清三さんの「太秦ライムライト」にも出演している、小林念侍さんもメンバーであった。他に川谷卓三、室田日出男さんらがいて、東映時代劇やのやくざ映画の切られ役・殺され役に出演していた。同じ仕事だった福本さんは下戸だったため参画しなかったという。
この「ピラニア軍団」なる集団の発起人がTVの十津川警部役の渡瀬恒彦さんというから意外な人が束ねていた。その当時、既に彼はやくざ映画の主役を張っているのだから意外である。大物が何故という感じだが、
それから余談だが、全米テニス大会で決勝進出し、今話題となっているプロテニスの錦織圭選手。彼の母親と渡瀬さんが「はとこ」だという。渡さんの祖母と錦織選手の曾祖父が兄弟だという、意外な関係を知った。
太秦撮影所前を通過したので、加筆した。


愛宕古道街道灯し

2014-09-06 14:11:22 | 京都
今回の京都旅行のメインは、あだしの念仏寺の千灯供養の献灯に参加して、帰りは行灯(あんどん)が灯す愛宕街道を歩き、嵐山まで戻ろうかと計画した。だが、その計画には「雨」は含まれていなかった。
雨は愛宕街道沿いにたつ嵯峨薬師寺で「送り地蔵盆」の法要が、始まる前から降り出していた。一時は強くなった時もあったが、経木(水塔婆)の送り火が終わるころには傘も不要になる状態だった。
これならと、愛宕街道を念仏寺向けて歩いた。沿道には軒下にしまい込まれた複数の行灯を見かける。
雨は、残念ながら念仏寺に着いた時には本降りに変わった。係の女性に実施の可否を問い合わせたが、雨でも行うとのこと。聞くだけヤボだった。仏教行事なのだからよほどがない限り決行だろう。
時間がたっぷりあったので鳥居本(とりいもと・=旧化野)地区の伝統的建造物群保存地区歩く。

嵯峨鳥居本地区重要伝統的建造物群保存地区
この辺りの町並みは愛宕神社の門前町として発展したもので、一の鳥近い上地区には、古い茅葺き屋根の農家風の民家が、念仏寺辺りから南側は町家風民家が並ぶ下地区である。
上地区
          

          

          

下地区
          

   

          
  
『前火付盗賊改方・長谷川平蔵が京都愛宕山頂から下りて一ノ鳥居ぎわの茶屋「平野や」で酒食をとり、「めずらしく酔った」と参道を化野へ向かう・・・』
「平野屋」が鬼平犯科帳・兇剣に実名で登場していると京都紹介する夕刊に載っていた。400年の歴史を持つ店なので、事実はともかく小説の鬼平は京都のこの店まで出張って、酒食をとってもおかしくないだろう。
          

化野念仏寺千灯供養
 

  

愛宕古道街道灯し
愛宕古道街道灯し(あたごふるみちかいどうとぼし)。
「とぼし」とは京都言葉で明かりを点けたり、火を灯したりすることを、「とぼす」という。
化野念仏寺の千灯供養に合わせて、「愛宕古道街道灯し」は愛宕神社一之鳥居から清凉寺までの約1.5km愛宕街道沿いにで8月23~25日に催されている。
1996年に始まったもので、名付け親は、茶屋平野屋の大女将だそうだ。大覚寺のわきに建つ「寂庵(じゃくあん)」の尼僧、作家でもある瀬戸内寂聴さんも点灯式に参加したことがあるようだ。
500個とも800個ともいわれる大小様々な行灯は地元の小~高校生や、京都嵯峨芸術大学の学生の手によって作られている。
          

          

 
この日は地蔵盆 カラフルな衣装を身にまとった沿道の地蔵尊

          

 

          

 

          

     

          
          
 

                           

和紙を通したほのかな明かりが古い家並みと相まって、情緒的な優しさを醸し出してくれる。
今回は残念ながら悪天候のため全ての灯篭にあかりが灯されていなかったが、街道は人出が少なくて、行灯の明るさが、ほのかな温かみあり、これが京都の情緒だと感じた。雨もまたよし。ただし、豪雨でなければだが。
嵐山から京福嵐山線で四条に戻る。

京洛の六地蔵めぐり

2014-09-03 17:09:18 | 京都
京都で地蔵尊信仰は古くから盛んで、町のいたるところに地蔵尊が祀られている。
そして、地蔵尊の行事といえば、「地蔵盆」と「六地蔵めぐり」。京都人にとってこれは仏教行事というよりも生活に混ざりこんだ民間信仰の色合いが強い行事と思われているようだ。
「六地蔵めぐり」は、8月22日、23日の両日に、都の旧街道入口6ヵ所にあるお地蔵さんを巡拝して、家内安全、無病息災を祈願することである。各寺で授与された6種のお幡(はた)を家の入口に吊すと、厄病退散、福徳招来するといわれており、保元年間(1156~59)に始まり、800年も続いている伝統行事である。
その6つの地蔵尊とは、
  1.奈良街道-大善寺・・伏見六地蔵          4.周山街道-源光寺・・常盤地蔵 
  2.西国街道-浄禅寺・・鳥羽地蔵            5.鞍馬口街道-上善寺・・鞍馬口地蔵
  3.丹波街道-地蔵寺・・桂地蔵             6.東海道 -徳林庵・・山科地蔵
                                                       である。

京のはしはしにあることからすべては巡れないと、南側半分の「三地蔵めぐり」にして8月23日に廻る。

大善寺・伏見六地蔵
京都駅からJR奈良線で六地蔵駅に下車。道筋は旧奈良街道なのか古い家を多く見かける。
 
6体の地蔵尊は、平安時代の初め小野篁(おののたかむら)が、一度息絶えて冥土に行き、生身の地蔵菩薩を拝した後に蘇り、1本の桜の大木から6体の地蔵菩薩を彫り、大善寺に祀ったといわれる。
小野篁という人物は、嵯峨薬師寺の「送り地蔵盆」にも登場する。
初めはここ大善寺に6体の地蔵尊が安置されていたため、大善寺は現在でも「六地蔵」と呼ばれ、親しまれており、地名の由来にもなっている。
平安時代末期の保元年間になり、平清盛が西光法師に命じ、都を往来する旅人たちの路上安全、庶民の疫病退散、福徳招来を願い、都に通じる主要街道の入口6ヶ所に分けて、地蔵堂を建て祀ったことから「六地蔵めぐり」の風習が生まれたといわれ、大善寺が「六地蔵めぐり」の発端となった。

              南山門                                    表山門

          
                          地蔵堂(六角堂)

         
                                                      お幡

           


  
 南山門の参道脇に地蔵尊を安置している小祠                    地蔵盆が行われている集会場
旧奈良街道を挟んだ集会場に地蔵盆の提灯が下がっていたので見学を申し込んだのだが 今年は六地蔵めぐりと重なって南山門参道脇の地蔵尊を運べず 見せるほどのこともないといわれた 残念!

浄禅寺・鳥羽六地蔵
六地蔵から次の浄禅寺へは、京阪宇治線で中書島に出て、そこから京都駅行の市バスで浄禅寺の近くまで行く予定だったが、時刻表を見ると、1時間に1本の本数きりバスはなく、中書島からの市バスは出たばかりであった。通りががりのタクシーがあったから良かったものの、京都市内で1時間に1本のバスダイヤなんて考えておらず驚きだ。

境内にある袈裟御前(けさごぜん)の首塚(恋塚)から、恋塚浄禅寺とも呼ばれている。
平安末期の北面武士、遠藤盛遠(もりとう)は、渡辺渡(わたる)の妻・袈裟御前(けさごぜん)に恋し、彼と縁を切ることを迫ったところ、袈裟御前は夫を殺してくれと盛遠にもちかけ、操を守るため自分が夫の身代りとなって盛遠に殺されてしまう。自分の罪を恥じた盛遠は出家して文覚上人となり、袈裟御前の菩提を弔うために当寺を建立したとされている。
           

           

  

   
                     鳥羽地蔵                                  お幡
「源平盛衰記」では文覚上人の出家した原因が、袈裟御前に横恋慕して誤って殺してしまったことにあると記されている。
映画では、長谷川一夫が遠藤盛遠に、京マチ子が袈裟御前に扮し、『地獄門』という題名で、カンヌ国際映画祭でグランプリを受賞した。監督は衣笠貞之助。
小説では、菊池寛の「袈裟の良人(映画『地獄門』の原作)」や芥川龍之介の「袈裟と盛遠」がある。上方落語にも「袈裟御前」という噺がある。

徳林庵・・山科地蔵
徳林庵には、市営烏丸線の竹田から京都駅に出て、JR東海道・湖西線で山科に向かった。

四ノ宮河原の地蔵尊として親しまれてきた。
東海道三条通の道筋にある徳林庵は、「山科地蔵」「目の神さん」「ひとやすさん」「さねやすさん」などと呼ばれて親しまれている。この地は盲目の「琵琶法師の聖地」といわれている。
平安時代前期、第54代仁明天皇の第4皇子・人康親王(さねやすしんのう・831~72)は高熱により、両目を失い宮中を追われ、山科御所(山科宮)を造営、隠棲(いんせい)し、出家する。法性と号した。
『伊勢物語』に「山科の禅師親王」として登場する。
ここ「四ノ宮」の地名は親王が第4皇子とされることに由来する。
かつてこの付近に四ノ宮川が流れ、四ノ宮河原と呼ばれ都の境界にあたっていた。平安時代、1184(寿永3・治承8)年、源義経に敗れた木曽義仲(1154~84)が都落ちする際にここを通った。兵士はわずか7騎のみとなっていたという(『平家物語』)。
          
                             六角堂

 
                    (左)一番右の地蔵尊は琵琶を持つといわれるが分りにくい
                           (右)人康親王・蝉丸供養の宝篋塔 南北朝時代の作といわれる


          

 
                                       2日間 秘仏「大閻魔尊天」がご開帳

          

                      

鴨川納涼床
徳林庵から市営東西線で京都市街に出る。

納涼床(のうりょうゆか)は、「鴨川の右岸の二条大橋から五条大橋までの区間において、飲食を提供するために設置される高床形式の仮設の工作物」と京都府鴨川条例に定義している。
川筋には90軒ほどの店が並んでいる。京料理以外にも中華や焼肉など各国の料理があるので、気軽に納涼床を楽しむことができる。
大衆的なチェーン店であるスターバックス京都三条大橋店が納涼床を設営しているので、ここでコーヒーを楽しもう思っていたが、床は満席で店内には待ち客もいるようなので、残念ながら鴨川の涼を味わうことができなかった。
夏の風物詩でもある川床、京都だけではなく大阪北浜でも楽しむことができる。
そして、以外にも今年から都内初の川床が日本橋川に「東京かわてらす」として登場しているという。やがては京都だけの夏の風物詩ではなくなってしまい、全国の河川に広まっていくようだ。
          

          
                       スターバックス京都三条大橋店       

嵯峨薬師寺の送り地蔵盆

2014-08-31 16:23:06 | 京都
阪急嵐山線・嵐山駅から桂川の渡月橋を渡り、JR山陰本線を渡り、府道を何処までも直進して歩くこと20分、清涼寺の二階二重の山門(仁王門)に突き当たる。
        
嵯峨薬師寺はこの清涼寺境内西側に位置する。
お盆も終わった8月24日嵯峨薬師寺で「送り地蔵盆」が行われる。
ここは「生六道(しょうろくどう)」があった福生寺から数百mほどのお寺である。
「生六道」とは、平安時代、小野篁(おののたかむら・802〜853年)という人物が毎夜、東山・六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ・大和王子通り四条下ル)の空井戸から冥土の閻魔様の元へ通っていた。「死の六道」である。そして、この世へ戻ってくる出口としていた空井戸が福生寺にあった。つまりは「生の六道」である。この福生寺は残念ながら明治の初めに廃寺となってしまい、井戸も現存していない。その福生寺の仏事や仏具などは嵯峨・薬師寺が受け継ぎ、それ以降「生の六道」となった。その際、小野篁作と伝わる「生六道地蔵菩薩像」もここに移されている。
小野篁は平安朝廷に仕えていた学者であり、歌人であり、陰陽師である。陰陽師といえば、安倍晴明(921〜1005年)が知られるが、晴明より遡ること約100年前にも陰陽師が存在していた。

「送り地蔵盆」当日は4本の竹が本堂前に建てられている。
この日だけ、本堂はご開帳である。
   
本堂前には「生の六道・小野篁公遺跡」と刻まれた石柱がたっている。
本堂に上がると、堂内は冷房が利いていて心地よい。「今年の夏はカラッとした暑さではなくムシムシしてますねェ」とタクシーの運転手が話していたが、本当に歩いていると汗で衣服が絡み着いてくる。
「写真 ご自由に」の貼り紙が掛かっている。板の間には椅子が並べられている。法要の準備も済んでいるようだ。
堂内の写真を撮っていると、予想より早い雨が降ってきた。時折強くもなった。1週間前の京都は道路のマンホールから水が吹いていたり、鴨川があと数十センチで溢れる映像が報道されていたが、今日はそれほどまでにはならないだろうが、予定を中断して、心地よい堂内で時を過ごすことにした。
        
ご開帳の堂内は、
中央にご本尊「心経秘鍵薬師如来」が鎮座されている。
嵯峨天皇の勅願による弘法大師・空海の作という。開眼供養を薬師寺で行ったところ、たちまち霊験が顕れ、万民は疫病から救われたといわれる勅封(=勅命によって封印する)の秘仏である。
明治に入るまで薬師寺は、嵯峨天皇勅願所として嵯峨御所(大覚寺)の保護を受け、さらに本尊・薬師如来像の厨子の開閉も大覚寺の手で行われ、薬師寺の住職には開けることすら許されなかったという。
        

本堂の向かって右側は「船上阿弥陀三尊像」
中央が阿弥陀如来像、左が勢至菩薩像、右が観音菩薩像の3体。いずれも平安時代の比叡山の恵心僧都(えしんそうず・源信・942~1017年)の作とされる。
縁起によれば、恵心僧都が、清涼寺に七日間参籠し、満行の日に高貴な尼僧が現れた。その尼僧の導きによって僧都は、紫の雲の中に船に乗った阿弥陀三尊が現れ、西の空へと向かっていくのを拝することができ、その感動を後世に伝えようと、阿弥陀三尊像を彫り、薬師寺に遺したと伝えられている。現在は船はなく、阿弥陀三尊像だけが遺されているとのこと。
           

堂内向かって左側に「生六道地蔵菩薩」或いは「生六道地蔵尊」が安置している。小野篁自身の作と伝えられている。
その左わきが小野篁木像、右わきの合掌している像は聖徳太子木像。
「生六道地蔵菩薩」は、地獄の亡者たちを救うために、亡者たちの代わりに地獄の炎で焼かれる地蔵菩薩の姿に感動した小野篁は、地蔵菩薩の像を創って祀ったと伝えられている。
また、小野篁像は、袖が上の方にまくり上がったような形をしているが、「地獄へ降りていく際にその風圧で袖がまくり上がった」ことを表しているのだとか。
                        

地蔵菩薩の前の供え物は、「生御膳(なまごぜん)」という船。
「湯葉でこさえられた帆の立っている七種(なないろ)の野菜の船(かぼちゃの舟に湯葉の帆)」が供えられている。これはお盆に訪れるお精霊(しょうろう・お盆の時にあの世から来た死者の魂)さんをこの船に乗せて、彼岸へ送りだすという信仰である。
           
                  



本堂の並びにある「日夕門」を潜ると三地蔵尊と数々の地蔵尊が安置されている。
        

        
三地蔵尊は、生六道地蔵尊の分身、夕霧地蔵尊、瑠璃地蔵尊である。
        

生六道地蔵菩薩の法要が檀家の参列で行われた後、本堂前では一年間に回向した経木が焚かれる。
我々、一般者もお焚き上げに参加できる。
 


「京の送り火」といえば五山の送り火であるが、この送り火で彼岸に戻れずこの世の残ってしまったお精霊さんを送る最後の送り火が、この薬師寺の「送り地蔵盆」という。
この火が尽きるて、七種の帆掛舟に乗ったお精霊さんがお帰りになり、京のお盆の行事も幕を閉じようとしている。
そして、暑い京都の夏も過ぎて行く。
 

京の地蔵盆

2014-08-26 15:05:26 | 京都
地蔵盆(じぞうぼん)は関西を中心とした地域で盛んな行事である。
盂蘭盆(うらぼん・お盆)明けの地蔵菩薩の縁日・24日とその前日の宵縁日・23日に行われる地域の辻に祀られている地蔵菩薩の祭で、道祖神信仰ひとつの行事である。
最近では、日にちにこだわらず、近い土・日の2日間、或はどちらかの1日で行われ地蔵会(じぞうえ)、地蔵祭とも呼ばれている。
今年は、23日(土)、24日(日)と日取りも丁度合致しているので右京区を中心に、伏見区と中京区の地蔵盆の町を巡った。
夏の京都は50年ぶりだが、この期間きり味わえない京都であった。
                     
愛宕古街道の八体地蔵尊
         

小祠に祀られている地蔵菩薩を取り出し、洗い清めて新しい前垂れを着せて化粧をするなどして飾り付ける。そして、地蔵盆が行われる会場に運ぶ。そこで、辻の小祠内はこの期間空になる。
地蔵菩薩の据えられる小祠の周囲や運ばれた会場などに、地蔵盆独特の提灯がたくさん飾られる。当地では、子供が生まれると、その子の名前を書いた提灯を奉納する風習があり、女子は赤、男子は白の提灯で、毎年飾られる。

地蔵盆では、地域によって「数珠回し」という、僧侶の読経にあわせて直径2〜3mの大きな数珠を囲んで座り、順々に回す行事もある。
今日では地蔵盆は子供のための祭とも言え、菓子や手料理などを振る舞われ、ゲームを行う子供たちのイベントも行われている。
了解を得て右京区の行事を見させてもらった

鉦を鳴らして開催をふれ回る


地蔵菩薩は公園の一角に建てられた小祠に祀られている


地蔵盆は子供たちのお祭


地蔵盆は2日間行われ市の職員のリサイクルの話もあった


絵を描いてマイエコバックをつくる


近くをまわると











自治会館前の小祠から移された地蔵菩薩を祀る












23日一日開催の自治会もあり片づけをしていた 夜は大人の時間で盛り上がったらしく来たらビールでもてなしたのにといわれた

僧侶による法要が行われている

地蔵菩薩は親より先に亡くなった子供が賽の河原で苦しんでいるのを救ってくれるという。それで地蔵菩薩は中近世以降、子供の守り神として信仰されるようになった。
「延命地蔵」、「とげ抜き地蔵」、「子育て地蔵」、「子安地蔵」、「安産地蔵」、 「田植え地蔵」、「裸地蔵」、「身代わり地蔵」、「縛り地蔵」、「イボ取り地蔵」や 水子の供養をする「水子地蔵」などたくさんの地蔵菩薩があるのは、庶民には、どんな願い事でも頼める身近な菩薩として祀られているからであろう。

京都観光としてはマイナーと思われるが、昨年紅葉期に訪れた際に京都の街にたくさんの地蔵菩薩が大事に祀られていることに驚いた。市街には、ビルの壁をくりぬいて祀られている地域も見かけた。
辻々のお地蔵様を巡るのも面白いことだと思い調べていくうちに地蔵盆なる行事を知った。京都の町内会の8割以上が地蔵盆の行事を行っているそうで、お地蔵様のない自治会では壬生寺に借りに行くと今回見学させていただいた自治会の方が話されていた。


今、注目陶芸家の京都襖絵

2014-01-12 11:10:28 | 京都
京都市東山区大和大路四条下る小松町
臨済宗大本山建仁寺塔頭
鎌倉時代 正平年間建立
織田信長の弟で大名茶人・織田有楽斎と熊本藩主の菩提所






茶室「如庵(じょあん)」


襖絵「知音・秋聲」 2013.3 16面奉納

非公開文化財特別公開
2014.1.8~3.18


2013秋の公開時に撮影

関連 : 秋の京都の紅葉を愛でる2013

京都の紅葉を愛でる2013 東福寺~正伝永源院

2013-12-02 12:42:55 | 京都
東福寺
臨済宗東福寺派大本山。関白九條道家が1236(嘉禎2)年創建。
2000本を超えるカエデがあり、通天橋が架かる洗玉澗辺り一面紅色が支配する景色は日本一と絶賛される。通天橋は京都を舞台にしたドラマによく登場する。








即宗院(そくしゅういん)
東福寺塔頭のひとつで、境内の東端にある。。薩摩藩ゆかりの寺として知られていて、 西郷隆盛と清水寺の勤皇派僧侶・月照が境内の茶亭に隠れ、幕府転覆の策を謀かったが大老・井伊直弼(なおすけ)の大弾圧によりふたりは鹿児島に逃げる。月照は失意の中、錦江湾に身を投じる。西郷は大島に流刑される。維新の大業を成したのは10年余り後のことである。








戊辰戦争の薩摩藩犠牲者を祀る「東征戦亡の碑」が建立されている。
島津藩524名の犠牲者の功を永く讃えるため、西郷自らが筆をとり、建碑の監督をした。

清水寺
778(宝亀9)年、延鎮上人が音羽の滝辺りに草庵を結んだことが始まり。その後坂上田村麻呂が仏殿を寄進し、千手観音を安置した。
4万坪の境内に紅葉したカエデと堂塔が渾然一体と並び立つ風景は抜群である。










知積院(ちしゃくいん)
徳川家康の寄進によって紀州より当地に再興した、真言宗智山派(ちさんは)総本山。成田山新勝寺、川崎大師平間寺や成田山新勝寺が本山に準じた別格本山して系列にある。
参道の右手の鐘楼周辺は紅葉園として整備されている。










正伝永源院(しょうでんえいげんいん)
もとは正伝院と永源院との2寺であり、臨済宗建仁寺の塔頭である。
織田信長の弟・織田有楽斎が大阪冬の陣以降に再興し、境内に「如庵」を建て茶道三昧の悠々自適の生活を送った。
徳川家康が江戸開府の際に現在の数寄屋橋付近に土地を拝領し、有楽斎が数寄屋風の茶室を建てた。それで、数寄屋橋や有楽町と云う地名が出来たと云う。ただし、有楽斎が江戸に住んだという記録はないようだ。
また、肥後細川家の菩提寺ともなっており、十八代当主細川護熙(もりひろ)氏の襖絵や焼き物が飾られている。
期間限定の特別公開で、テレ朝「モーニングバード」の番組で久保田アナが取材して紹介した。




京都駅付近
         


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京都の紅葉を愛でる2013 嵐山~嵯峨野

2013-12-01 16:38:38 | 京都
嵐山・渡月橋
渡月橋は、亀山上皇(1249~1305)が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから名付けられた。
今年の台風18号襲来の際、桂川が氾濫して橋周辺が冠水する被害が出たが現在は公園の川沿いにバリケードが置いてある程度でその被害の名残は一見見当たらない。






嵐山公園




御髪神社(みかみじんじゃ)
日本で唯一頭と髪の神社。


常寂光寺(じょうじゃっこうじ)
小倉山の中腹の地形を利用して慶長年間(1596~1615)に建立された日蓮宗の寺院。








祇王寺(ぎおうじ)
小じんまりとした苔の庭園。
平家物語に登場する白拍子・祇王が母、妹と住んだ尼寺。
ここで云う白拍子とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて発生した歌舞を演ずる舞女を指す。






化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
1200年ほど前、弘法大師が五智山如来寺を開創し、野ざらしの遺骸を埋葬したことが始まり。
境内には8000体の石仏・石塔が祀られている。








愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)
千二百羅漢の天台宗の寺院。羅漢様は昭和製。
奈良時代の末、聖武天皇の娘・称徳天皇(718~770)が建立した。平安時代に入って鴨川の洪水により廃寺となり、それを復興した僧侶がいつも念仏を唱えていることから念仏聖人と呼ばれ、寺名も愛宕念仏寺呼ばれるようになった。
嵯峨野めぐりの出発点。




「あたご」と書いて「おたぎ」とは読めない。この地を愛宕(おたぎ)と云う。

愛宕神社一之鳥居付近の茅葺建物




土佐四天王
右から中岡慎太郎、坂本竜馬、武市瑞山、吉村寅太郎。
彼らは討幕の密議を交わし、薩長同盟を成立させ、無血の大政奉還を実現させた。
下の像は落柿舎と畑を挟んだ南に位置する。

右の写真は、河原町通の坂本竜馬遭難之地碑(近江屋跡)

11月27日に訪れる


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