モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

久しぶりの長崎チャンポン、八丁堀『思案橋』

2009-07-31 14:33:13 | グルメ
長崎チャンポンが大好きだったことを忘れていた。
久しぶりに食べたくなり八丁堀の『思案橋』に行ってみた。

火災により銀座八丁目から人形町に移った『思案橋』の味が大好きだったが、今回は八丁堀にした。
というのは、八丁堀という地は、こじんまりした小料理屋があり一度夜でも来て見ようかなと思っていたので、お店探索をもかねて行ってみた。

(写真)大盛りの長崎チャンポン


この店の大盛りをわからないままで頼んでみたら、普通の1.5倍以上はある見ただけで無理かなというものが来てしまった。
この最初の絶望感が味にも影響を及ぼし、可がなく不可だけが目立ってしまった。

あっさりとしたスープ、もうちょっと海鮮の味が利いていて欲しかった。
煮すぎの野菜、強い火力で短時間に仕上げて欲しい。
柔らかすぎる麺、腰が欲しい。

こんな不可だけ目立ってしまった。

いつもだとスープまで残さないで平らげてしまうが、今回はギブアップしてしまった。
とはいえ、この店は由緒ある長崎チャンポンの店であり、町のチャンポンとは出来が違う。と思う。

昔書いた原稿を読み直したら、『思案橋』という暖簾を引き継ぐ一族の店が東京に3店ある中で、最も相性の悪い店だった。
八丁堀でも斜め前に同じ一族の『思案橋』があるが、この店のほうが好みだった。さらに人形町の『思案橋』の方がもっとおいしかった。

記録に頼らないで、記憶に頼っていくと失敗する格好の事例だった。

よさそうな小料理屋がいくつか目に付いたので、八丁堀にちょっと近寄ってみたくなり調べてみたらこんな歴史の街だった。

八丁堀の歴史のさわり
徳川家康が江戸幕府を作ったころは、日比谷あたりまで海があり浅瀬だったようだ。
運河を作りこの土砂で埋め立て新橋・銀座・日本橋が出来たのが1600年代の初め頃のようで、八丁堀も埋め立てで出来た町だ。

桜田門といえばいまは警視庁がある場所だが、八丁堀は、与力・同心の町だったようだ。
江戸時代の町奉行所は、侍・坊主を除いた町方の治安・衛生・商い・生産・トラブルなどあらゆることを取り扱った総合省庁であり、あまりの激務のために御奉行様は現職での過労死が多かったといわれている。だから家柄に関係なく取り立てられたのだろう。

当然、与力も優秀なものが多く、元禄時代頃には、八丁堀に役宅をもらい50人ほど住んでいたという。役宅の目安が300坪といわれている。又同心は200名が住んでいて100坪の役宅のようで、与力・同心(=八丁堀の旦那)の町といってもよさそうだ。

一方、ご存知「銭形平次」は神田明神下に住んでいたが、彼は岡っ引きだったので、八丁堀には住めない設定になっているので時代考証がきちんと出来ているということだろう。

日本の役人の根性を形づくったのがこの江戸時代の役人とも言われる。
幕末になるに従い、米本位制から貨幣本位制に移行するに従い武士の賄いが苦しくなった。就職できない二男三男は養子縁組があれば良いが、無いと悲惨だったようだ。
そこで、アルバイトをするとか、口利き料をとるとか、賄賂を要求するなど、役得を存分に生かす役人が多くなったという。

戦争が無いと活躍できない武士の職務、死ぬために買われている武士階級は、平和な江戸時代は生きにくかったのだろう。

この状況は、いまの役人にも引き継がれており、歴史で磨かれた巧妙さがプラスされている。外郭団体という出島を作りここで飲めや歌えやの花見酒をやって食いつぶしている。

過労死した初期の頃の江戸町奉行の時代に戻って欲しいな~
と八丁堀で思いました。
過労死はさせませんから、日本のためにということで活躍して欲しいな。自分のためにはそろそろ止めようね。



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