武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

草ぼうぼうの街(色鉛筆作品743)と 「西遊記」を読んで

2023-08-24 18:55:32 | Weblog

この絵は、スケッチブックの紙に描かれていて、切り取られていました。

「草ぼうぼうの街」とあるのは、宝塚のこと。

明石から宝塚に居住を移した頃、武内は雑草がいたる所にあるのを見て、

「雑草がいいね。」と言っていました。

「宝塚は花の多いところだ。」とも。

次に、「草ぼうぼうの街に住みたい。」という絵も描いていました。

その頃の絵と思われる。

この絵は、“線“がいいなと思い選びました。

太い鉛筆の線が独特のタッチで描かれ、ギシギシとぶつかり合う音が聞こえてきそう。

街と草のせめぎあいだ。

水色と蛍光色が軽いタッチで使われているのもいい。

そう思いながら絵を見ていると、

「こんな絵がいいの?」と横から武内の声が。

わたしは、「分り易いのを選んでいるのよ。」と言い、

「あなたが選ぶのは、難しいから。少しは分り易くないと。」と付け足した。

すると、「この絵は?」と仕事台にのっている一枚を取り出す。

わたしは、「毒蜘蛛みたい。」と一言。

「いつも思うけど、線はいいよね。キュートな感じがあって。」と付け足した。

武内は、「クールな線も描きたいのだが、ひとなつっこい線になってもて・・・。」と笑いながら言う。

「いやぁ、わたしの絵には情がある。って言ってくれるコレクターもいるでしょ。」と続けて言う。

「そうだね。」と相槌を打つが、

わたしは粘着質で、ひつこい性格が出ているのじゃない?と思うのであった。

長所としての“ねばり強さ”につながるから、まあいいか。と、思い直す。

画家の妻というのは、

画家の人格と絵がからまりあって、絵を見る時、純粋に絵を鑑賞するのが難しいのだ。

いろいろ思うところがあって、

「良人の仕事にダメだしをせず、つまり否定せず肯定に重きをおこう。」と、

思い、肯定感のある会話になるよう努力中。

正直に言うのもいいのですが、

ものは言いようという事もあるなと思った次第なのです。

嘘をつこうというものではない。

 

夕方に雨が降る。

その後、気温が下がり、夏も終わりに近づいているのだなと感じ、

少々寂しくもある。

やはり、冬の寒さの方が嫌なのだろう。

冷房を入れている部屋で、中国の古典「西遊記」を読んでいました。

子供の頃に見たアニメ「孫悟空の大冒険」手塚治虫プロのものをいきなり思い出し、

原本に近いものを読もうと。

アニメで見た孫悟空は、乱暴者で、かつ強く、大口を叩く、性格は一直線であった。

その孫悟空が子供の頃、すごく好きだった。

好きな要素を探ろうとYouTubeで観ましたが、

やはり子供でないので少々気恥ずかしく、ついていけない。

そこで、原訳に近いものを図書館で借りてきたのです。

主な登場人物は、孫悟空、三蔵法師、八戒、沙悟浄。

その他に、釈迦如来や観世音菩薩が登場する。

如来や菩薩が登場すると、やや笑いたくなります。

アニメでは、孫悟空が生まれ、石に閉じ込められた経緯は描かれていますが、

三蔵法師や八戒、沙悟浄にも生い立ちから、

何故旅の友をするようになったが事細かく記されています。

三蔵法師の父は、川にいる妖怪が魚に変身した時に漁師に捕まえられているのを助け、

恩を感じた妖怪が、その父が強盗に殺されて川に流されているのを見つけるや、

自分の所につれていって、蘇生できるようにかくまう。

子供だった三蔵法師は、寺で育つことになる。

その間に妖怪やら母親やらが登場して、生き返った父と再会する。

奇想天外なことや、その度に妖怪が出てきます。

妖怪は、変身するのが得意なようで、いろいろな姿のパレード状態な西遊記。

天界という場所が出てきますが、

それがお祝いというと、酒やご馳走が出る。

この描写が出てくるたびに、中国は神でも飲んだり食べたりしないといけないのだと思い、驚いた。

中国社会がこうなんだろうと思いながら読む。

菩薩は、ひたすら優しく慈悲に溢れているようなイメージではなく、

けっこう物言いが厳しく、懲らしめる妖怪には容赦がない。

「いうことを聞かないのなら、苦しい状態のままでいなさい。しらないわよ。」という感じなのです。

孫悟空も、あまりにも言うことを聞かないから、

頭に食い込む輪をはめられた。

きっと、中国はある一面厳しい社会なのだろう。

 

読んでいる途中で、「古事記」の日本武尊(やまとたけるのみこと)が、

死んだあと白鳥になって飛ぶシーンが思い出された。

大和から遠ざけられ、遠征を命じられ、勝利してもまた遠征の命を受け、

その途中で亡くなった。

二度とやまとの地を踏むことなく死に、その魂が白鳥に宿り、やまとの地上を舞う。

物悲しいのですが、大和を愛する気持ちがその情景から清らかさが滲み出ています。

こういう“清々しい”感覚は、西遊記には皆無なのです。

西遊記は、力、能力、思いやり、トンチ、ユーモア、といったものが愉快に並べられている。

文化背景は、日本と随分違うのだろうと思いました。

中国は、力強いものに好感を持つ性向があるのでは?と思いました。

 

わたしは、ヒロクニさんの肩をよく揉むのですが、時々、変な冗談をします。

ヒロクニさんの背中にいて、猿山の猿のようになり、

背中から何かを取る様な仕草をし、それを口に入れる真似をする。

「ちょっとこっち向いて。」と言い、その仕草をしながら

「猿なの。」と言う。

「やめてくれよ。さほり。」と笑いながら言われます。

「猿の親子よ。」

と、また猿の真似。

西遊記で、孫悟空は敵から「このエテ公め!」と言われたりしています。

英雄なのに、猿というだけで・・・。

猿というのもユーモラスな存在だ。

↑三蔵法師の旅の姿。

よく考えると、男ばかりのむさ苦しい一行だ。

今日は、「西遊記」の本を読んでいたせいで、こんな内容になってしまいました。

猿って、人に似ているので、他の動物を見るのとちょっと違う。

単純に可愛いといえない。

だけど、「西遊記」は、お芝居や映画、アニメ、漫画になっています。

けっこう愛されている。

そんなことを確認できました。

今日は、わたしの日常になってしまい、ヒロクニさんのことは少し。

奥様でしゃばりって感じですが、最後まで読まれた方ありがとうございます。

 

 

 

コメント (2)
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