連休で東京から我が家に戻り、先ほど読んでいなかった新聞をチェック。
そして、4/29の朝日新聞で福岡真一さんの「明日を探る」福岡伸一 触れてわかる「媒体の実体」という記事を読んだ。
メディアというのは、語源はここで書かれているように媒体だ。
そして、普段我々が意識をしない空気のような存在が本来の姿だと新ためて思った。
それなのに、私はあるいは多くの人は時には「メディアの方」などのように、ある種上の存在・権威の象徴としてみてしまう傾向がある。
それは間違いだということに気がついた。
ちまたでは、ツイッターの伝道師や寵児といわれる有名人が、ツイッターというメディアについてや、クラウドやマスコミや広告媒体などについて上から目線で評論しているけど、違うんじゃないか?
生物学のメディウムや、我々を取り巻く空気のように、意識しない存在となるのが究極だと私は感じた。
それを作り上げる過程で、そのあり方を語る有名人が現れるのはなんなんだろう。
我々は踊らされているのではないの?
私自身は踊らされていないつもり。
ツイッターやブログの文章うまいとか、広告の映像や芸術性、クオリティが高いなどの話は程々にしないと本来の目的から外れてしまう。
しかも、タンジェントといっている接点が非常に大事。
接点のあるべき論理が東京などの大都市中心というのは、全くねじ曲がった状態だと言えるのではないの?。
福岡さんはiPadから、この記事のようなことを思われたようだが、確かにそういう視点でiPadを見ると、いろいろな要求に接する媒体としてiPadはかなりのレベルに来ているような気がする。
使っていないので想像にすぎないですけどね。
面白い記事でした。
福岡伸一 触れてわかる「媒体の実体」 朝日新聞 : なんでも好奇心ところで生物学の世界では、メディア(単数形はメディウム)といえば、それはシヤーレの中で培養細胞を浸す栄養液のことを指す。
細胞たちはおそらく自分たちを取り囲む、この媒体の存在を、ちょうど水の中に棲む魚が水という媒体の存在を知らないように、あるいは、私たちが空気や重力や温度といった媒体の存在を気にしないように、自覚してはいない。しかし、彼らはその媒体と確実に接している。その接点で媒体に支えられている。
その接し方を(より正確にいえば、生命という球体が媒体とある一点で接していることを)科学用語では、タンジェントという。
マカのアレやコレ。。: 福岡伸一 触れてわかる「媒体の実体」 朝日新聞