7年ぶりの第5詩集。109頁に25編を収める。
巻頭の「はじまり」は、秋が訪れたことを感じた日のことを詩っている。玄関には乾いた陽が射し、「うすい足の甲に光が刺さ」るのだ。その日は毎年訪れ、懐かしさもともなう感覚なのだろう。私事になるが、晩年は病に伏せていた私(瀬崎)の父が、決まった時刻の朝食の時に食卓のうえに射す光を見て、今年もここまで朝日が差し込む季節になったか、と言っていたことを思い出す。毎年同じように季節は巡るのだが、話者には一年ごとに移ろうものもあって、若い頃にはなかった思いもともに訪れるのではないだろうか。最終部分は、
光はかならずひとりでやってきたから
はじまりだと よくわかった
拒まれているようで
包まれていた
こうして秋ははじまり、話者の怖れや戸惑いもない交ぜになってその季節の中を生きていくのだ。
「こもれびプール」。水面に射す光は波紋につれて揺れながら水底にその形を映す。そのとどまることのない揺れが話者の中でも波紋を広げていくような感触は美しい。
わたしの中の水がめくれる
生きることを分けあった誰かが幾重にも脱げていく
大きなはめ殺しの窓から射す光は
水底で途切れつながる
はじまりの細胞
この詩集ではいたるところで様々な光がちろちろと揺れ動いている。光は何かの合図のようであり、それが隠れていたものを照らし出すこともあれば、見えるべきものを惑わせることもあるのだろう。
後半の章では、亡くなられたお父さんや、体が衰えてきているお母さんのことも詩われていた。
そして最後におかれた「五月の展望台から」の中に印象的な連があった。何も付け加えずに引用紹介しておく。
わたしたちはいつだって
かなしみに向かって歩いている
罰のように光を抱いて
巻頭の「はじまり」は、秋が訪れたことを感じた日のことを詩っている。玄関には乾いた陽が射し、「うすい足の甲に光が刺さ」るのだ。その日は毎年訪れ、懐かしさもともなう感覚なのだろう。私事になるが、晩年は病に伏せていた私(瀬崎)の父が、決まった時刻の朝食の時に食卓のうえに射す光を見て、今年もここまで朝日が差し込む季節になったか、と言っていたことを思い出す。毎年同じように季節は巡るのだが、話者には一年ごとに移ろうものもあって、若い頃にはなかった思いもともに訪れるのではないだろうか。最終部分は、
光はかならずひとりでやってきたから
はじまりだと よくわかった
拒まれているようで
包まれていた
こうして秋ははじまり、話者の怖れや戸惑いもない交ぜになってその季節の中を生きていくのだ。
「こもれびプール」。水面に射す光は波紋につれて揺れながら水底にその形を映す。そのとどまることのない揺れが話者の中でも波紋を広げていくような感触は美しい。
わたしの中の水がめくれる
生きることを分けあった誰かが幾重にも脱げていく
大きなはめ殺しの窓から射す光は
水底で途切れつながる
はじまりの細胞
この詩集ではいたるところで様々な光がちろちろと揺れ動いている。光は何かの合図のようであり、それが隠れていたものを照らし出すこともあれば、見えるべきものを惑わせることもあるのだろう。
後半の章では、亡くなられたお父さんや、体が衰えてきているお母さんのことも詩われていた。
そして最後におかれた「五月の展望台から」の中に印象的な連があった。何も付け加えずに引用紹介しておく。
わたしたちはいつだって
かなしみに向かって歩いている
罰のように光を抱いて