たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

神器の成立

2020-03-16 09:36:11 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.53 *****

『日本書紀』には、持統天皇が即位する際の記述として、

「忌部宿禰色夫知(いんべのすくねしこぶち)

が剣と鏡を捧げた」という内容が載っております。

また、斎部広成が記した『古語拾遺』にも、

「神璽(みしるし)は鏡剣の二種であり、

矛・玉は二種の神器に従属的に従う」

という一文が見られました。

これらのことを踏まえれば、

『日本書紀』が記された8世紀前半までは、

三種の神器ではなく「剣」と「鏡」の

二種の神器だった可能性が出てきますね。

 

ちなみに昨日、「崇神天皇は出雲とも

深く関わる大物主神への祭祀を強化するために、

出雲由来の神宝である勾玉を神器のひとつに

加えたのかもしれない」という内容を記しましたが、

「八尺瓊勾玉」が登場するのは、

文武天皇の即位(697年)以降

との話も聞くことから、「大嘗祭」の形式が

徐々に整えられる中で、「勾玉」を追加する

必要が出てきたとも考えられるのでしょう。

いずれにせよ、「勾玉」をいう神器を語るには、

「出雲」を避けて通るわけにはいかないため、

後の機会にでも改めて考察してみるつもりです。


勾玉の出現

2020-03-15 09:28:34 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.52 *****

先日の記事内で、皇居で起こる

「奇異(神器の鳴動)」に恐れをなした

崇神天皇は、自らの護身具とするため

「忌部氏に鏡と剣(のレプリカ)を作るよう命じた」

という話をご紹介しました。

そこで気になるのが、なぜこのとき崇神天皇は、

三種の神器のひとつである

「勾玉」のレプリカを造らせなかったのか、

ということでして、現在に至るまで

どういうわけか勾玉だけは、

模造品ではなく本物が宮中に祀られております。

 

もしかすると、一度は「祟りの元凶」

として皇居外に出された勾玉が、

ある時期に天皇のそばに戻った

ということなのでしょうか……。

あるいは、崇神天皇の時代にはまだ、

「鏡」と「剣」の二種の神器しか存在せず、

勾玉はのちに神器に加えられたのでしょうか……。

 

ちなみに、「疫病」の一件が落着したのち、

崇神天皇は出雲大社に祀られる

神宝(剣とも勾玉とも言われる)を、

半ば強制的に自らの元へと献上させた

という記述があります。

となると、崇神天皇は出雲とも深く関わる

「大物主神」への祭祀を強化するために、

出雲由来の神宝である勾玉を

神器のひとつに加えた可能性も出てきますね。


倭大国魂神の立場

2020-03-14 09:24:08 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.51 *****

昨日は、「天照太御神」が

三輪山を離れた理由について、

「三輪山との相性の問題だったのではないか?」

との見解を示しましたが、

「倭大国魂神」に関しては、また異なる事情が

隠されているような気がいたします。

 

一般的に、三輪山の「大物主神」も「倭大国魂神」も、

「国津神」として一括りにされ、

崇神天皇の一件に関しても、「神の祟り」

といったざっくりとしたニュアンスで、

私たちの耳には伝わってまいるもの。

 

しかし、厳密には大物主神は

三輪山を支配する「三輪明神」、

倭大国魂神は一帯を所有する「地主神」でして、

これらの詳細が記される『日本書紀』の中でも、

それぞれの神がそれぞれの主張を

している様子が伺えるのです。

 

例えば、大物主神が訴えていたのは、

「自分に対する祭祀のやり方への不満

(および全面的な祭祀者の変更)」でしたが、

倭大国魂神に関しては、巫女を通じて

「二番目の祭祀者への変更」を指示しただけでした。

つまり、倭大国魂神という神は、

大物主神ほど崇神天皇には

干渉していなかった可能性もあるのですね。


天照太御神の立場

2020-03-13 09:18:40 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.50 *****

昨日、三輪山の「大物主神」が

祟りを成した理由について、

あれこれと想像してみましたが、

一方で三輪山から追いやられた

「天照太御神」や「倭大国魂神」は、

当時どういった立場だったのかを

考えてみることにしましょう。

 

まず、崇神天皇が最初に気づいた奇異とは、

「三種の神器」の鳴動だったと言われております。

何でも、夜な夜な「神器」が鳴り出す様子に

恐れをなした天皇が、これを「国難の原因」

と判断したため、天照太御神の御魂が宿る

「鏡(および剣)」を宮中外に出すこととなりました。

 

ただし、その後の経緯を見ても、

「天照太御神」自体が祟りの元凶である

可能性は低く、また豊鍬入姫命の祭祀も

功を奏したようですから、

恐らく「天照太御神」に関しては、

単に地主神(倭大国魂神)や三輪山(大物主神)

との相性の問題があったのかもしれません。

つまり、この時点ではまだ「天津神」は、

「国津神」や「土地の神」の全面的な許可を

得られていなかったとも考えられるのですね。


神祇の何たるか

2020-03-12 09:15:41 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.49 *****

流行り病や農民の離反など、

様々な災厄に苦しむ崇神天皇に対し、

最初にコンタクトを取ってきたのが

「大物主神」とも呼ばれる三輪明神でした。

しかし、「自分を祀れば国の乱れは治まる」

と告げられた崇神天皇が、

神の意思に従って手厚く祀ったにも関わらず、

凶事は治まらなかったと聞きます。

 

恐らく、このときの崇神天皇の祭祀には、

どうしても見過ごすことができない

大きな過ちがあったのでしょう。

その後、崇神天皇は「大物主神」だけでなく、

「天照太御神」や「倭大国魂神」に関しても、

「自分以外の祭祀者」に頼らざるを

得なかったところを見ると、

「神祇が何たるかわかっていなかった」のは

ある意味で事実なのかもしれません。

 

大物主神の立場に立ってみれば、

祟りを成した「張本人」である自分を無視し、

「天照太御神」や「倭大国魂神」ばかり

気をとられている崇神天皇に、

強い憤りを感じていたとも考えられます。

もしかすると、大物主神は自分を軽視する

崇神天皇への報復として、

「天照太御神」や「倭大国魂神」を

外へと追いやるよう促したのでしょうか……。


特殊な経緯

2020-03-11 09:09:55 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.48 *****

大国主神とともに国づくりに励んでいた

少彦名大神が常世に去ったとき、

大国主神の前に現れ「私を倭の青垣の東の

山の上(三輪山)に祀れば、国造りは上手く行く」

と告げたのが「大物主神」でした。

その際、大物主神は「私は大国主神の和魂である」

と名乗ったことから、「大国主神=大物主神」

という説が一般的になっておりますが、

崇神天皇の祟りの経緯などを踏まえると、

両者が「別物」であった可能性も否定できません。

 

恐らくは、「天照太御神」「倭大国魂神」

そして「大物主神」という、超強力な三柱の神が

混然一体となって祀られていたのが、

当時の「三輪山」だったのでしょう。

もともと「倭大国魂神(地主神)」

の所有地だったこの場所に、

大国主神の時代以降「大物主神」が鎮座し、

さらには天孫族ゆかりの「天照太御神」

を皇祖として祀るという、

「特殊な経緯」があったと考えられるのです。

 

「天皇」という立場に就いた者は、

これら毛色の違う神々を

祭祀する能力が必要不可欠であり、

どこかひとつにでも不敬があれば、

すぐにその役を解かれる(短命になる)

運命だったのでしょうか……。


市磯長尾市

2020-03-10 09:02:58 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.47 *****

ちなみにですが、以前ご紹介した

但馬国一の宮・出石神社の宮司家は、

「倭大国魂神」の奉斎者となった

市磯長尾市の子孫と言われております。

出石神社のご祭神は、例の天日槍命

(あめのひぼこのみこと)でして、

市磯長尾市は天日槍命が渡来した際、

播磨国で出迎える(尋問する)役目を

垂仁天皇により命じられたそうです。

 

天日槍命は大国主神と同様に、

「領巾・比礼(ひれ)」と縁ある神様であり、

来日時には「玉津宝(たまつたから)」と称する、

4種の「ひれ」を含む宝物を持参したと聞きます。

諸々の経緯を踏まえれば、市磯長尾市自身も「ひれ」

の呪術を熟知していた人物だったかもしれません。

 

それはさておき、崇神天皇の時代に

都を震撼させた「流行り病」が、

「倭大国魂神」の祟りだと仮定すると、

気になるのは「倭大国魂神」とともに、

怒りの託宣を下ろしたとされる

「大物主神」の立ち位置です。

そこで、再度文献を読み直してみたところ、

実は崇神天皇に直接干渉したのは、

「大物主神」だけだったという

事実が浮かび上がるのでした。


二種の神器

2020-03-09 09:59:20 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.46 *****

一説に、皇居で夜な夜な起こる

「奇異(神器の鳴動)」に恐れをなした

崇神天皇は、忌部氏(斎部氏)を呼び、

石凝姥神(いしこりどめのかみ)の末裔と

天一箇神 (あめひとつのかみ)の末裔を率いて、

鏡と剣を作らせるよう命じたと聞きます。

 

それらの「二種の神器」は、

皇居外に祀らせた「本物の神器」

の模造品でもあり、護身用の御璽として

宮中内にお祀りされたのだとか……。

このときに造られた二つの神器が、

皇室に安置される「神璽の鏡と剣」

の元となったと推測されるのですね。

 

ちなみに、昨年の大嘗祭の中で注目を集めた、

「三種の神器」と呼ばれる皇室由来の宝物ですが、

もともとは「二種の神器」だった

という説が存在するのをご存知でしょうか……。

 

まあ、テーマがずれるので深入りしませんが、

一説に宮殿に祀られていた「剣」は、

天照太御神を宿す「鏡」とともに、

豊鍬入姫命の手で檜原神社に移された

という話もありますし、崇神天皇が

「鏡」と「剣」とを「二つで一組」

とみなしていた可能性も否めないのでしょう。


天皇祭祀の掟

2020-03-08 09:54:01 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.45 *****

もともとは皇居内でお祀りしていた

「倭大国魂神」でしたが、

神の神威を恐れた崇神天皇は、

皇女である渟名城稚姫命に祭祀を一任しました。

 

しかし、渟名城稚姫命が

祭祀を継続できなくなったため、

再度奉斎者を選び出そうと占った結果、

倭大国魂神から「市磯長尾市に祭祀を任せよ」

との神託が降りたのだとか……。

 

実は、これらの内容を記す

『日本書紀(の一書)』には、

倭大国魂神が崇神天皇の子・垂仁天皇に対し、

「父親は神祇の何たるかがわかって

いなかったので短命になった」と告げた

という文章が追記されているのだそうです。

 

何でも、領有地をめぐる「神との契約」を

崇神天皇が破棄したことが、

「倭大国魂神」の怒りを買った原因だと言いますが、

もしそれが本当なら崇神天皇という人物は、

天皇祭祀の「掟」を破るような

ミスを犯したということなのでしょう。

 

そのために「祭祀者」の資格を奪われ、

自身がお祀りしていた「天照太御神」

「倭大国魂神」を、宮殿の外へと

出さざるを得なくなったとも考えられます。


異質な奉斎者

2020-03-07 09:50:59 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.44 *****

現在、大和神社に祀られる「倭大国魂神」は、

崇神天皇から奉斎を命じられた渟名城稚姫命が、

身体を壊してやせ細ってしまうほど

強い神威を有した神です。のちに「倭大国魂神」は

大水口宿禰(おおみなくちのすくね)に神がかり、

「我は地主の神を治める立場にいる。

天孫はこのことを良く考えよ」

と告げたとも言いますから、

恐らくは国津神を取りまとめる

親神のような存在だったのでしょう。

 

疫病の蔓延に苦しんだ崇神天皇は、

「倭大国魂神」の最初の奉斎者を決める際に、

「中臣探湯主」という人物を占者に選んだものの、

結果的に上手くはいきませんでした。

その後、二度目の大水口宿禰の占いによって

告げられた「市磯長尾市」に祭祀を任せたところ、

国難はようやく終息の兆しを見せ始めます。

 

もしかすると、倭国造の祖・椎根津彦(珍彦)

の子孫にあたる市磯長尾市という人物は、

三輪山近辺を治める「地主神」との縁が

深かったため、「倭大国魂神」の信を

得ることができたのかもしれません。

最初の奉斎者として選ばれた「渟名城稚姫命」も、

占術を託された「中臣探湯主」も

言うなれば「天津神」側の人間ですから、

国津神にとっては異質な存在だったとも推測できます。


祟りの大元

2020-03-06 09:45:42 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.43 *****

昨日、崇神天皇の時代に「疫病」が

蔓延した理由を、「天皇祭祀の不備」

にあるのではないと推測しましたが、

その後皇位を引き継いだ

第11代垂仁天皇の「改革」の中に、

それらの事実が透けて見える箇所が多々ございます。

 

しかしながら、こちらのネタを深堀しますと

かなり話が逸れてしまいますので、

興味のある方は「鉄の神々1・2」の

カテゴリーなどをお読みいただくとして、

「大物主神」などのお告げに従い、

宮殿内で奉斎していた神々を

それぞれの祭祀者に託した結果、

世の中はようやく平安を取り戻すことができました。

 

ここでふと疑問に思うのが、

「どの神が崇神天皇に祟りを成したか?」

ということですね。

ちなみに、「天照太御神」に関しては、

祭祀を任された豊鍬入姫命に

異変は起こりませんでしたし、

「天照太御神」を崇神天皇のそばから

離した後も凶事が続きましたから、

「祟り」の大元ではなかった可能性が高めです。

 

恐らく、「天照太御神」が皇居の外へと

出されたのは、災厄を抑えるためというよりも、

三輪山から遠ざけ清浄な地に「隔離する」

という意味合いが強かったのかもしれません。


シビアな采配

2020-03-05 09:43:36 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.42 *****

皇居内で奉じていた「天照太御神」と

「倭大国魂神」を二人の皇女に託し、

自らは三輪山の「大物主神」の祭祀に

全精力を注いだ崇神天皇でしたが、

思うような効果を得られず、

再度「大物主神」にお伺いを

立てることを決意します。

 

すると、その日の夢枕に大物主神が現れ、

「わが子である大田田根子が祭祀をすれば、

たちどころに世の中は平和になるだろう」

と告げたのでした。同じように、

倭迹迹日百襲姫命や他の2人の家臣にも、

「大物主神を大田田根子」へ

「倭大国魂神を市磯長尾市」へと、

それぞれの神から奉斎者を変えるようお告げがあり、

崇神天皇がその通りにしたところ、

ようやく疫病などの災厄が収まったそうです。

 

これらの内容が示唆するのは、

「祭祀」がいかにシビアなものかということで、

天皇の采配ひとつで災厄を呼び込むことも、

災厄を治めることも可能だという意味なのでしょう。

つまり、この時期の崇神天皇の祭祀は、

特に三輪山の神である「大物主神」にとっては、

相容れないものであった可能性が高いのですね。


祭祀の不具合

2020-03-04 09:40:59 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.41 *****

都を襲う「疫病の蔓延」を阻止すべく、

皇居内から「天照太御神」と「倭大国魂神」

を遠ざけた崇神天皇でしたが、

「倭大国魂神」をお祀りする渟名城稚姫命が、

身体を壊すなどしたため、

事態の悪化は食い止められませんでした。

 

一向に改善しない状況を憂いた天皇が、

亀卜(占い)で災いの原因を究明しようとしたところ、

巫女である倭迹迹日百襲姫命に乗り移った

大物主神(三輪明神・三輪山の神)から、

「私を敬えば自然と疫病は平らぐ」

と告げられたと言います。

 

しかしながら、神のお告げ通りに

大物主神を手厚く祀ったにも関わらず、

その後もまったく効果が現れないどころか、

さらに状況が悪くなってしまったのだとか……。

つまり、このときの崇神天皇の「祭祀」が、

上手く機能しなかったということなのでしょう。

 

これ以前の天皇の御代に、

「皇居の神々が奇異を成した」ような

顕著な痕跡は見られませんから、

恐らくは崇神天皇の祭祀そのものに、

何らかの不具合が生じていた

可能性も考えられるのです。


崇神天皇の決断

2020-03-03 09:38:28 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.40 *****

崇神天皇は「疫病」を治めるため、

皇居内で奇異を起こしていた

「天照太御神」と「倭大国魂神」の二神を、

二人の皇女に命じて皇居外へと移動させました。

これは、「政治という穢れ事」を行う皇居内に、

上記の二神をお祀りしていたことが、

「神に対する不敬」に当たると

崇神天皇が解釈したからでして、

それまでは天皇の居室に、

天照太御神(を宿す鏡)を安置するという

「同床共殿」が行われていたと言います。

 

その後、「天照太御神」の御魂を宿す

八咫鏡(および剣も?)は、

豊鍬入姫命と倭姫命の手により、

伊勢の地に安住することができましたが、

「倭大国魂神(ご神体は剣とも勾玉とも言われる)」

を託された渟名城稚姫命は、

神の力を抑えられず身体を壊してしまったのです。

 

恐らく、最初の時点では崇神天皇自身も、

「疫病」をもたらした神が、

どの神であるのかわからなかったのでしょう。

そこでまずは、神々の「祭祀」を

皇女に任せるべきだと決断し、崇神天皇自身は

「祭祀」から距離を置かれたのかもしれません。

そして結果的に、今の世に至るまで三種の神器は、

「バラバラ」に安置される形となったのでした。


疫病退散

2020-03-02 09:33:20 | 一年の展望

 

***** 子年の展望 No.39 *****

第十代崇神天皇の御代に流行した

「疫病」を抑えるため、天皇は皇女である

豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に

「天照太御神」の御魂を、同じく皇女の

渟名城稚姫命(ぬなきわかひめのみこと)に、

「倭大国魂神」の御魂を祀るよう命じました。

 

「天照太御神」を託された豊鍬入姫命は、

現在の檜原神社の地に御魂を移して

神への奉仕を始めましたが、

「倭大国魂神」を託された渟名城稚姫命は、

なぜか次第に身体が痩せ細り、

倭大国魂神を祀ることができなくなったのだとか……。

 

その後、第七代孝霊天皇の皇女、

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)

などの託宣などにより、これらの凶事が

「大物主神の祟り」であることが判明し、

大物主神と倭大国魂神の祭主を、

それぞれ大田田根子(おおたたねこ)と

市磯長尾市(いちしのながおち)に変更したところ、

世の中が平穏になったということです。

 

現在、「天照太御神」は伊勢神宮、

「倭大国魂神」は大和神社、

そして「大物主神」は大神神社の

ご祭神として祀られております。

もしかすると、この古い歴史を持つ

三輪山ゆかりの3社に、

「疫病退散」の秘策が隠されているのでしょうか……。