たびたび神社

ライターあかりの神社ブログ

もう一度縄文へ

2019-11-15 09:59:28 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

弥生時代前半を最後に、世の中から

姿を消した「土偶」という偶像ですが、

実はそこに至るまでの過程には、

何度かの「土偶復活」の兆しがあったと聞きます。

例えば、縄文と弥生とが交錯し始めていた時代、

東北を中心に制作されていた亀ヶ岡式の土器や土偶が、

なぜか東日本を飛び越えて西日本一帯に広まったり、

「土偶不毛地帯」であったはずの九州で、

突如として土偶を作り出す地域が出現したりと、

ある意味「揺り戻し」のような動きが見て取れるのだとか……。

 

一説に、西日本一帯を席巻しつつあった

「弥生文化」をけん制するために、

東北の縄文人たちが西日本へと偵察に出向いた、

あるいは縄文人の価値観を脅かすような

「異物」と対峙するために、土偶を復興し

結束を高めたなどといわれているものの、

やはりはっきりした理由はわかっておらず……。

いずれにせよ、一部の人々(縄文人の末裔

および縄文スピリットを重視する弥生人)の間で、

縄文のエッセンスを求める気運が強まり、

「もう一度縄文時代へ」という

ムーブメントが起きた可能性が伺えるのです。


土偶の消滅

2019-11-14 09:54:42 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

「縄文人」と「弥生人」とが隣り合って

生活していたという事実は、

既存の古代史観に大きな影響を及ぼすものでした。

そのことを前提に考えれば、縄文人と弥生人とは

完全なる対立関係にあったわけではなく、

持ちつ持たれつの関係性を保ちながら、

適度な距離感で交流していたとも想像できます。

もしかすると、縄文人は弥生人から最新技術を学び、

弥生人は縄文人から呪術や精神性を学ぶなど、

お互いの文化を認め合っていたのかもしれません。

 

しかしながら気になるのは、

縄文時代が終わりに近づくに従い、

一部の地域を除いて「土偶」が徐々に

姿を消して行ったということです。

同じく縄文の祭祀アイテムである「石棒」が、

弥生時代になっても継続して用いられたのとは逆に、

あれほど多種多様な形象を生みだした

「土偶」に関しては、少なくとも弥生中期の頃には、

ほぼ制作された形跡がなくなったと聞きます。

 

土偶消滅に至るまでには複雑な流れがあるため、

一概に「縄文の終焉と共に土偶が消えた」

とは言い切れないのが難しいところですが、

このあたりの事情を詳しく探るために、

縄文晩期の諸々の動きについて

再確認してみることにしましょう。


不明瞭な様相

2019-11-13 09:48:18 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨日、「縄文晩期頃にはすでに、

日本に稲作が伝来していた」

という内容の記事を書きましたが、

同時に縄文の終焉と共に消滅したとされる

「縄文土器」が、実は形を変えながら弥生土器

として継承されていたという調査があります。

 

一見、複雑なデザインを施した縄文土器と、

合理的でシンプルな造形の弥生土器では、

見た目の印象は異なるものの、

よくよく観察してみれば、

弥生式と呼ばれる土器にも、

縄文を彷彿させる文様が刻まれた

作品が数多く存在しますし、

また北部九州から発掘された弥生土器には、

縄文晩期の亀ヶ岡式土器の影響が

はっきりと見て取れるのだとか……。

 

つまり、弥生時代の始まりを示す根拠となった、

「稲作の伝来」と「弥生土器の使用」

というふたつの事象が、従来ほど意味を

持たなくなってきたというわけなのですね。

また、石棒などの縄文系祭祀具が、

弥生の象徴である銅鐸の分布図と重なる

(つまり弥生時代の祭祀に、

縄文の祭祀具が使用されていた)

との指摘もあることから、

縄文と弥生の境界線は、私たちが思う以上に

不明瞭な様相を呈しているのかもしれません。


縄文人と稲作

2019-11-12 09:41:03 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

縄文と弥生の境目がわからなくなったことで、

まず見直さなければいけないのが

「稲作」という文化かもしれません。

 

これまでは「大陸から大挙して押し寄せた

渡来人たちが、西から東に向かって

短期間のうちに稲作文化を広めて行った」

という説が一般的でしたが、

縄文晩期の遺跡から水田遺構と共に、

木製の鍬や石包丁や炭化したコメが

見つかったりするなど、少なくとも縄文後期には、

陸稲(りくとう ・おかぼ)による稲の栽培が

行われていた形跡が見られると聞きます。

 

さらには、日本全土を席巻する勢いで

伝播したとされる水田稲作が、

中部地方のあたりで一旦ペースを落とし、

その後東日本全体に行き渡るまで、

およそ500年前後の時間を要した

(つまり水田稲作を拒んだ地域が存在した)

……など、既存の説を覆す事実が次々に

明らかになってきたのだとか……。

 

このあたりの事情については、

機会があれば詳しく考察してみたいと思いますが、

とにもかくにも、私たちが弥生時代と認識していた

一部の期間は、縄文的な生活を営む人と

弥生的な生活にシフトした人とが、

混在して暮らしていたことがわかってきたのです。


縄文と弥生の境目

2019-11-11 09:33:35 | 縄文への旅

<国立歴史民俗博物館>

 

昨今、専門家や古代史マニアの間で

話題に上っているのが、

「縄文と弥生の境目はいつか」という問題です。

何でも、最新の調査により、

弥生時代の開始が早まることが判明し、

縄文時代最晩期と弥生時代前期とが

交錯する可能性が出てきたのだとか……。

 

弥生時代の始まりを意味する「稲作」が、

縄文時代にはすでに行われていた形跡が見つかったり、

逆に西日本では稲作が定着していた時期に、

東日本では縄文的な営みを継続していたり……

といった具合に、数百年間(500年くらい?)に渡り、

西日本は弥生時代、東日本は縄文時代という、

カオスな時代が存在したという説が

主流になりつつあるのです。

 

まあ考えてみますと、「時代の境目」という

区切りは現代人が便宜的に作り上げただけで、

「ここからが●●時代」という明確な線引きは困難ですし、

弥生時代が到来したからといって、突如として

縄文式の生活がリセットされるわけでもありません。

これまでは「稲作とともに日本列島に押し寄せた

渡来人たちが、短期間で弥生文化を全国に広めた」

との見解が一般的でしたが、どうやらそれらの話は

根本から見直さなければいけないのでしょう。


間違った縄文観

2019-11-10 09:28:48 | 縄文への旅

<三内丸山遺跡>

 

現在の小中学校で使用される教科書において、

縄文時代がどのような扱いを

受けているのかはわかりませんが、

例えば、昭和時代の歴史の教科書を

思い出してみますと、縄文時代の記述は

ほんのわずかだったと記憶いたします。

 

また、当時の教科書には、

「稲作が伝来したことにより、

人々は非文明的な生活に終止符を打ち、

人間らしい暮らしを営むようになった」……等々、

「弥生人優位」のニュアンスが漂っていたのも事実で、

現代人の「縄文観」に間違ったイメージが

刷り込まれているのも致し方ないことなのでしょう。

 

そんな世間の風潮の中でも、

縄文人の優れた人間性と技術の高さを

目の当たりにした一部の考古学者は、

長年にわたり「縄文人は野蛮な人種ではない」と、

誤った概念を払拭しようと努力されて来ました。

そして近年になり、それらの主張を

後押しするような発見が相次ぎ、

「縄文のイメージ」が大幅に

入れ替わろうとしているのです。


森と人間

2019-11-09 09:22:33 | 縄文への旅

<十二湖の森>

 

今回の旅で、どうしても外せないと考えていたのが、

青森周辺の「森」の散策でした。

まあ、散策と申しましても、

本格的な登山をするわけではなく、

縄文遺跡を取り巻く「森」に足を踏み入れることで、

少しでも「縄文人」の息遣いに

触れたいと思ったのですが、

実際に鳥のさえずりや葉擦れの音だけが聞こえる、

誰もいないブナの原生林で、

静かに深呼吸を繰り返しておりますと、

縄文時代に生きた人々が、

なぜこのような稀有な文化を維持できたのか、

なぜ他人との争いを最小限に抑えることができたのか、

少しだけわかるような気がいたしました。

 

恐らく、縄文の人々は「自分は森(自然)であり、

森(自然)は自分である」ということを、

理屈ではなく直感で気づいていたのでしょう。

そして「自分は他人であり、他人は自分である」

という真実も、同じように理解していたのだと思います。

森の中にひとりでたたずんでいるとき、

まるで自分と森とが一体化したような感覚に陥り、

人間であるはずの自分と、自然であるはずの森との

境界線が不明瞭になりました。

自然を痛めつければ自分が荒れる、

他人を痛めつければ自分が傷つく……、

現代人である私たちはこの「自然の摂理」

を忘れているのかもしれません。


森への思い

2019-11-08 09:10:56 | 縄文への旅

<大湯ストーンサークル>

 

青森の森に接しながら思ったのは、

土器も土偶も「森」からインスピレーションを得て

造られたのではないかということでした。

もちろん、海洋生物を象った様々な土製品を

眺めておりますと、縄文の人々が「海」と

深いつながりを持っていたことは確実ですが、

やはり日常生活のベースとなる「森」への思いは、

私たちが想像する以上に強いものであり、

故郷の「森」を見ながら沸き上がるイメージを、

日々の制作の糧にしていたのではないかと、

個人的には夢想してしまいます。

 

ちなみに、専門家から聞いた話によれば、

現在、公開されている「縄文ムラ」の多くは、

あまりにも整備されすぎているがゆえに、

古代の様相を反映しているとは

言い難い部分があるのだとか……。

縄文時代の「ムラ」の周囲には、

実に多種多様な植生が広がり、

住居の周辺も「草だらけ」だったと

仮定するほうが自然なのだそうです。

そう考えると、現代人が少しでも

「縄文」に近づきたいと思うなら、

縄文遺跡を巡るだけでなく、その周辺を取り巻く

「森」の中に身を置く必要があるのでしょう。


非凡な世界

2019-11-07 09:07:20 | 縄文への旅

<八甲田・十和田ゴールドライン>

 

「原生林」や「縄文の森」などの言葉を聞きますと、

鬱蒼とした濃い緑の木々が四方八方から迫り、

得体の知れぬ動物たちの気配や鳴き声が充満し、

異世界が常に隣り合わせに共存する……といった具合に、

ある種の暗さを伴うイメージが付きまといます。

ただし、ここ青森周辺の森は、

想像以上に明るい空間が一面に広がり、

サワサワと絶え間なく通り過ぎる風も、

湿った感じはなくとても爽やかで、

「いつまでもここにいたい」と思わせる

不思議な磁力にあふれておりました。

 

まあ、他の季節に訪れたことがないので、

何ともいえない部分はあるのですが、

恐らく縄文時代というのは、

決してアースカラー一色の単調な世界ではなく、

現代人である私たちがイメージするよりも、

「色鮮やか」で「非凡」な世界だったのでしょう。

ブナ林の新緑や是川遺跡の「朱」の世界……等々、

豊かな森と様々な色彩に囲まれた

「桃源郷」だったような気がするのです。


緑の揺りかご

2019-11-06 09:01:14 | 縄文への旅

<奥入瀬渓流>

 

***** 縄文への旅3 *****

今回、青森周辺の縄文遺跡をいくつか巡る中で、

一番印象に残ったのは「森」の豊かさでした。

これまで全国各地の「森」や

「山」を探索してまいりましたが、

ひと口に「森」とはいっても、

受ける印象は実に千差万別でして、

底なし沼のような熊野の森、

人工的でソリッドな剣山の森、

果てしなく天空に近い白山の森、

フラットでクールな出雲の森……等々

(あくまでも個人的な感想です)、

それぞれに違った特色があり、

訪問時の楽しみのひとつとなっております。

 

東北の森という言葉を聞くと、

厳しい冬の環境や野生動物との遭遇など、

ある意味ハードなイメージを

沸き上がらせるかもしれません。

しかし、縄文遺跡を取り巻く東北の森は、

「母なる器」とでも言い表すべき懐の深さで、

「にわか縄文マニア」の来訪を歓迎してくれました。

まるで母体に回帰したかのような

その「緑の揺りかご」は、

古代の人々が暮らしていたであろう

「縄文の森」そのものなのでしょう。


北東北とユダヤ

2019-11-05 09:00:53 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

地元の研究家の調査によりますと、

青森県新郷村のキリスト伝説の元となった話として、

「平安中期ごろ、海で遭難したロシア人の船乗りが、

村の娘と結婚してこの地に住み着いた」

という逸話が残っているのだそうです。

何でもそのロシア人がキリスト信者だったため、

亡くなった後に十字架のあるお墓に埋葬されたことが、

のちの「誤解」につながったのだとか……。

 

個人的には「キリスト伝説」よりも、

この昔話のほうが信憑性が高いようにも感じるのですが、

キリストが誕生する遥か以前の

「モーゼの時代(縄文時代の後期頃?)」には、

秋田や青森などを中心に、「古代イスラエル人」が

多数上陸していたという説もありますし、

仮に、青森県新郷村の「キリスト伝説」が

事実ではなかったとしても、何らかの形でこの地に

「ユダヤ」が関わっていたことは確かなのでしょう。

 

もしかすると、この一帯で誕生したとされる

「遮光器土偶」という謎の造形物の正体も、

古代イスラエル人との関連を調べることで、

いくつかのヒントが得られるかもしれませんね。


ナニャドヤラ

2019-11-04 09:57:58 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

昨日、キリスト終焉地との言い伝えが残る、

青森県新郷村の「意味深な習俗」

についてご紹介しましたが、

中でも事の真相を左右しそうなのが、

「ナニャドヤラ」という青森県南部から

岩手県・秋田県北部にかけて伝わる民俗芸能です。

 

聞いたところによりますと、

「ナニヤドヤラー、ナニヤドナサレノ……」

というこの祭り唄の歌詞は、

「異性を誘う恋の歌」「道歌(道徳的な短歌)」

「梵語(サンスクリット語)」など、

いくつかの説が取り沙汰されているものの、

あまりにも意味不明であることから、

様々な憶測を呼んでいるのだとか……。

 

まあ、日本とユダヤとのただならぬ関係に、

好奇心を注ぎ続けている身としては、

「ナニャドヤラ」という文字を見た瞬間に、

「やっぱりヘブライ語か」と思ったのも事実でして、

一部の専門家の間ではこの歌詞は、

「汝の聖名を讃えん、汝は賊を討伐したまい、

汝の聖名を讃えん」などの意味に解釈できるといいます。

 

いずれにせよ、青森や秋田で頻繁に遭遇する

「日本人離れした顔立ちの色白美人」の多さを踏まえても、

「ナニャドヤラ・ヘブライ語説」を支持したくなるのは、

あまりにも主観的すぎる考えでしょうか……。


ユダヤの痕跡

2019-11-03 09:54:11 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

「キリストの墓」との伝承が伝わる、

青森県新郷村の小高い丘の上を訪れると、

「キリスト」と弟の「イスキリ」が

眠るという二基の塚がありました。

何でもこの場所には、「イエス・キリストが

21歳の時に来日し、33歳の時にユダヤに戻ったが、

十字架刑に処されそうになり、イエスの弟イスキリが

イエスの身代わりとなった」

という言い伝えが残っているのだそう……。

そして、「ゴルゴダの丘で処刑されたはずの

イエス・キリストは、実は日本に逃れて来ており、

106歳の生涯をこの新郷村で閉じた」のだとか……。

 

まあ、この伝承が事実かどうかを

解明するつもりはありませんが、

近隣の「戸来(へらい)」という地名が、

「ヘブライ」と類似していること。

一帯では、父親をアヤまたはダダ、

母親をアパまたはガガということ

(アダ・アド・アバなどの呼称はヘブライ語で親を指す)。

子供を初めて野外に出すとき、

あるいは足がしびれたときなどは、額に十字を書くこと。

ダビデの星を代々家紋とする家があること……

(新郷村HPより)、などの事象を踏まえても、

この地の人々と古代イスラエル人とが、

密接な交流を持っていたことは事実なのでしょう。


キリストの墓

2019-11-02 09:49:52 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

毎年6月になると、青森県新郷村では

「キリスト祭」という名のイベントが執り行われ、

観光客を含め多くの人々で賑わうそうです。

何でも、人口2,500人ほどの小さなこの村には、

「キリスト終焉の地」という、

にわかには信じがたい伝承が伝わり、

またそれを裏付けるような事実も

たくさん見つかっているのだとか……。

 

事の発端は、『竹内文書』と呼ばれる

神代文字で書かれた歴史書、

およびその著者である宗教家が、

1930年代にこの地を訪れたことが、

諸々のきっかけとなったという話ですが、

以来幾度となくオカルト小説や

ドキュメンタリー映画の題材などに取り上げられ、

今ではすっかり村の観光資源として定着していると聞きます。

 

ちなみに、「キリストの墓」とされる小高い丘の上には、

十字架の建てられた2つの塚があり、

そばには「キリストの里伝承館」と呼ばれる

資料館やお土産屋も併設されていました。

訪れた時間が遅かったため、

資料館には立ち寄れなかったものの、

公園としてきれいに整備された墓地の一帯に、

宗教の垣根を超えた何ともカオスな

空気が漂っていたのが印象的でした。


ミステリースポット

2019-11-01 09:44:01 | 縄文への旅

<新郷村・キリストの墓>

 

先日、ユダヤの聖数とも関わる

「縄文尺」についてお話ししましたが、

大湯のストーンサークルが発生したとされる

その頃(およ4,000年前くらい?)、

エジプトではピラミッドの建造が盛んになり、

また神の啓示を受けたモーゼが、ユダヤ人を

連れてエジプトを脱出したという話があります。

 

実は、大湯ストーンサークルの近くには、

ユダヤ人との深いつながりを持つ遺跡?が存在し、

ちょっとした観光名所として周知されているのですが、

みなさまはご存知でしょうか……。

十和田湖東側に位置するその場所は、

その名もずばり「キリストの墓」でして、

都市伝説好き及びオカルトマニアの間では、

知る人ぞ知るミステリースポットとして有名なのです。

 

実は、こちらも本来は立ち寄らないつもりでいたのですが、

次の目的地に向かうためにナビの設定をしたところ、

たまたまこの近くを通るルートを選択したため、

「ならば」ということで、日没間近のギリギリの

タイミングで訪ねてみることにしました。

果たして、本当にこの場所にキリストは眠っているのか……、

今回の旅の締めとしてこの謎のスポットをご紹介しましょう。