<国立歴史民俗博物館>
「縄文人」と「弥生人」とが隣り合って
生活していたという事実は、
既存の古代史観に大きな影響を及ぼすものでした。
そのことを前提に考えれば、縄文人と弥生人とは
完全なる対立関係にあったわけではなく、
持ちつ持たれつの関係性を保ちながら、
適度な距離感で交流していたとも想像できます。
もしかすると、縄文人は弥生人から最新技術を学び、
弥生人は縄文人から呪術や精神性を学ぶなど、
お互いの文化を認め合っていたのかもしれません。
しかしながら気になるのは、
縄文時代が終わりに近づくに従い、
一部の地域を除いて「土偶」が徐々に
姿を消して行ったということです。
同じく縄文の祭祀アイテムである「石棒」が、
弥生時代になっても継続して用いられたのとは逆に、
あれほど多種多様な形象を生みだした
「土偶」に関しては、少なくとも弥生中期の頃には、
ほぼ制作された形跡がなくなったと聞きます。
土偶消滅に至るまでには複雑な流れがあるため、
一概に「縄文の終焉と共に土偶が消えた」
とは言い切れないのが難しいところですが、
このあたりの事情を詳しく探るために、
縄文晩期の諸々の動きについて
再確認してみることにしましょう。